月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第一章 二つの鍵盤

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 それから彼女は簡単に自己紹介をしてくれた。彼女の声は写真で見た印象よりずっと明るく感じる。
「初めまして冬木紫苑です。このたびはプロジェクトにお誘いいただきありがとうございます」
 冬木さんはそこまで言うと自身の右側の男性の袖を引っ張った。そして「挨拶お願いします」と小声で呟いた。男性は一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた後、「ああ」と小声で答える。
「初めまして……。冬木の身の回りの手伝いをしている茅野です。よろしくお願いします」
 男性は低い声で言うと、緊張したような怒ったような表情を浮かべた。察するにあまり人付き合いが得意なタイプではないようだ。
「えーと、あとは今日付き添ってくれる半井先生です! ってもう話してますよね」
 冬木さんは自分自身にツッコみを入れると「ふふん」と笑った。『可愛い。口説き落としたいくらいだ』と心の中だけで呟く。
 それから私は彼らに今後の予定について説明した。説明といってもやることは西浦さんから預かったレジュメの要約だけだ。酷く簡単なお仕事。これで私の生活費は捻出されるのだからありがたい。
 彼らは私のそんな携帯ショップの店員のような事務的な話し方にも真剣に耳を傾けてくれた。冬木さんは所々分からないところがあれば質問してくれたし、半井さんはそんな冬木さんをサポートするようにメモを取ってくれた。ちなみに茅野さんは特に何もしなかった。おそらく彼は完全に冬木さんの介助要員なのだろう。
 私は説明をしながらも素直に感心していた。真剣に聞いてくれる。理解しようと努力してくれる。それだけでかなりありがたく思えた。普段はこうはいかないのだ。弊社の抱えるアーティスト連中は基本的にイカれている……。まぁ、そんな一筋縄ではいかない連中を相手にするのが私の仕事なのだけれど。
「以上になります。他に気になるところはありますか?」
 一通り説明し終えると私は口元を緩めて冬木さんにそう尋ねた。
「大丈夫です!」
 冬木さんはそう言うと「よろしくお願いします」と笑顔でそう付け加えた――。

「おばあちゃーん。終わったよー」
 私が書類をまとめていると半井さんが店の奥に向かってそう叫んだ。さっき話していたときとは打って変わってかなり子供っぽいしゃべり方だ。
「はーい。んじゃ、イーゼルしまっちゃうね」
 そう言いながら店主の女性が奥から顔を覗かせる。やはり店主は半井さんの祖母のようだ。
「あの、春川さん」
 私が書類をバッグにしまい終えると半井さんに声を掛けられた。
「はい? 何でしょう?」
「もし良かったら昼食いかがですか? メニューにあるものなら用意できますので」
「え?」
 私は思わず変な声を出してしまった。そして「あ、すいません」と謝る。
「今日はわざわざこんなところまで来て貰ったので……。大丈夫です! 御代は結構ですので」
「……分かりました。ではせっかくなのでご馳走になります」
「わぁ! ありがとうございます! おばあちゃーん。春川さんご飯食べてくってー」
 半井さんはまた大きな声を出した。どうやら思っているよりずっと彼女は子供っぽいらしい。 
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