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第2章:歩み寄るふたり
第9話:名前
しおりを挟む「誰も入れないように」
「かしこまりました」
公爵に腰を支えられてやっとの思いでテラス席まで来た。
外気が入らないように囲い窓があり、小さめのソファが一つ置かれている。
テラスというよりは個室のような雰囲気だ。
窓を閉めれば会場の喧騒はほとんど聞こえなくなったし、カーテンのおかげで好奇な視線も遮ることができた。
「こちらにどうぞ」
「はい……」
促されてソファに座り、全体重を預ける。
震えは治まったものの、まだ思うように力が入らない。
凹んだ座面を見て、きっと重たかっただろうなと公爵に対して申し訳なく思った。
「寒くないですか?」
「はい」
「水を飲んだ方が良さそうですね。貰ってきます」
「ありがとうございます……」
テラス席は本来、男女が二人きりの時間を楽しむために利用することが多い。
ソファが小さめなのも、照明が薄暗いのも、男女の逢瀬をロマンチックに演出するためだろう。
「飲めますか?」
「は、はい」
公爵から受け取ったグラスに口をつけ、少しずつ流し込んでいく。
常温の水が喉を通っていくのが心地良い。
気づけばグラスの半分ほどあった水を全て飲み干していた。
空になったグラスは公爵がすぐに引き取って、隅にあったガーデンテーブルの上に置いてくれた。
グラスの縁に口紅が付いているのを見つけて、急に化粧崩れが気になってきた。
公爵に見られたくなくて俯いたけど、彼はそのまま外窓に寄りかかった。
私の視界にギリギリ入るくらいの位置だ。
「……」
公爵はレイモンお兄様について何も聞いてこなかった。
彼の優しさが、今日は特に身に沁みる。
今はまだ……優しさに甘えていいだろうか。
過去のことを打ち明けるにはもう少し心の準備が必要だ。
「あの……年末に、ロザリーとティトルス卿の結婚式があるそうなんです」
「わかりました。参列しましょう」
「え……一緒に行ってくれるんですか?」
「夫婦で参列するものなのでは?」
「そうですけど……少し意外で……」
まさか二つ返事で承諾してくれるとは思わなくて聞き返してしまった。
「意外……ですか?」
「思っていたより社交的だなと……」
「……」
「ご、ごめんなさい。失礼でしたね」
「いえ。社交性がないのは事実ですよ」
口にしてから失言だったと反省した。
でも彼が社交界を疎んでいるのは事実だ。
だから、どうしてティトルス卿とロザリーに対しては丁寧に接してくれるんだろうと不思議に思う。
「……あなたの大切な人だからだと思います」
「!」
「あなたが大切にしている人は、俺も丁重に扱いたいと思っています。迷惑でしたか?」
「いえ!!」
力強く首を横に振る。
ロザリーと公爵が挨拶を交わしている時に感じた不思議な感覚は、喜びだったんだ。
私の大切な人を大切にしてもらえることに対する、喜び。
目頭がじんわりと熱くなってきた。少し気を緩めたら泣いてしまいそうだ。
契約結婚で嫁いできただけの私に、何でここまでよくしてくれるんだろう。
私も……彼を尊重していきたい。
彼の潔癖という性格も……もちろん、「子供をつくらない」という選択も。
「隣いいですか?」
「あ……ごめんなさい、気がつかなくて……」
私は慌ててソファの隅に寄った。
公爵が隣に腰を下ろすと、ソファの小ささが余計に際立った。
少し身じろいだら腕同士が触れてしまいそうで、グッと肩に力を入れた。
「……俺のことが嫌いですか?」
「……え!?」
ぼそりと投げ掛けられた公爵の言葉が、一瞬理解できなかった。
「昨日とても嫌がっていたので……」
もしかして、足を挫いた時に公爵の手当てを遠慮したことを言っているんだろうか。
「あ、あれは公爵様に私なんかの汚い足を触らせるのが申し訳なくて……!」
あれは嫌がるというより、とにかく申し訳ないという気持ちが強かった。
他人の足なんて、普通の人でさえ触るのに抵抗があるのに、潔癖である公爵が気にしないわけがない。
「あなたの肌は白くて綺麗だと思います」
「へッ!? あ……その……ありがとうございます」
歯の浮くようなセリフだけど勘違いしてはいけない。
公爵は客観的に見た事実を淡々と述べているだけ。
彼の眉一つ動かさないいつも通りの表情を見れば明らかだ。
「あの……公爵様こそ、嫌じゃないですか?」
「何がですか?」
「エスコートとか、私に触られるの……」
「嫌じゃないです」
エスコートだって、私に触られる嫌悪感を堪えているに違いない……そう思っていたのに、あっさりと否定された。
手袋越しなら気にしないということだろうか。
でも、昨日は私が皇太子に手を握られたのをすごく嫌がっているように見えた。
公爵にしかわからない基準があるのかな……。
「契約結婚ではありますが、あなたとは良い関係を築いていきたいです」
「わ、私も……そう思います」
男女の仲でなくても、公爵が相手なら夫婦としてやっていける気がする。
公爵夫人として彼の支えになりたいと、心から思う。
「そこで一つ提案があるのですが……」
「何でしょう?」
「お互いに名前で呼び合うようにしませんか」
「!」
「仲睦まじい夫婦はそうすると聞きました」
名前で呼ばないと取り決めがあったわけじゃない。
ごく自然に私は「公爵様」と呼んでいるし、公爵は私のことを「夫人」と呼んでいる。
そのことについて特に疑問も持たなかった。
"人と信頼関係を築く第一歩は名前を呼ぶこと"……公爵の提案は、母から教わった信条に背いていない。
「そうですね……公爵様がよければ」
「ではそうしましょう……ナタリー」
「!」
彼の低い声で呼ばれると、不思議と安心感を感じた。
そういえばさっき私のところに来てくれた時、大きな声で名前を呼ばれた。
今思えばあれは夫婦関係の良さを示すことで、私を守ろうとしてくれたのかもしれない。
「……」
「えっと……」
隣に座る公爵がじいっと私を見つめてくる。
その琥珀色の瞳から、どことなく期待感が伝わってきた。
私も彼の名前を呼びたいと思っている。
思ってはいるけど……いざ口に出そうとすると、なかなか勇気が湧いてこなかった。
「……俺の名前知ってますか?」
「あ、当たり前です!」
このままでは夫の名前も知らない不躾な妻になってしまう。
私は覚悟を決めて、ゆっくり深呼吸した。
「シ……シルヴァン様」
「様はいりません」
「でも……」
頑張って絞り出したのに文句を言われてしまった。
いきなり呼び捨てだなんてハードルが高すぎる。
口ごもる私を、公爵は変わらず期待感に満ちた瞳で見つめてきた。
「シ……シルヴァン……」
「はい。これからはそれでお願いします」
観念して言う通りにすると、公爵は口角を上げた。満足げな表情だ。
こんな笑い方もするんだと、初めて見る笑顔に少し見惚れてしまった。
「……私からも提案していいですか?」
「はい」
「こ……シルヴァンは、私に敬語を使わないでください」
ついでに、私もずっと気になっていたことを伝えた。
公爵は出会った時から丁寧な言葉遣いで私に接してくれていた。
でも本来、公爵である彼が私に敬語を使う必要はないはずだ。
「……」
しかし公爵はなかなか首を縦に振ってはくれなかった。
「俺の方が年下ですし」
「えっ」
「俺は今年で21です」
「そうだったんですね……」
公爵が私よりも2つ年下だったのは知らなかった。
というか、年齢を気にしたことがなかった。
とはいえ、公爵が私に敬語を使う理由にはならない。
カミーユ皇太子は18歳だけど私に敬語なんて使わない。
「できればこのままがいいんですが……どうしてもというなら、ナタリーにも敬語をやめてもらいます」
「なっ……じゃあ、このままで……」
「はい」
なんだかうまく言いくるめられたような気もするけど、そんな条件を出されたら私が折れるしかない。
「……準備ができたみたいですね」
「え……あ!」
公爵の視線を辿って窓の外を見てみると、門前に公爵家の馬車が停まっていた。
そしてこちらに向かって大きくマルのジェスチャーをしているのはおそらくディオンで、隣で手を振っているのはリゼットだ。
「帰りましょう」
「ほ、本当にいいんでしょうか……?」
「ナタリーはまだここに残りたいですか?」
「いえ……帰りたい、です」
二人の姿を見たら余計に帰りたくなった。
そして口にしてから少し自分でも驚いた。
公爵邸は、私にとって"帰る場所"になっているんだ。
「では行きましょう」
「はい」
彼の手を取ることに対してもう迷いはない。
ぴったりと自分の手を重ねると、彼の大きな手が優しく包んでくれた。
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