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第2章:歩み寄るふたり

第5話:カミーユ皇太子

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 馬のひづめが石畳の道を蹴る音が、静かな空間に響き渡る。馬車のタイヤが大きな石を踏む度に私の体は左右に揺れたけど、目の前に座る公爵は微動だにしなかった。

「……」

 公爵邸を出発して、どのくらいが経っただろうか。
 今まで乗った馬車で一番豪華で乗り心地が良いはずなのに、公爵といつもより近い距離で向かい合うこの密室はなかなか心が休まらず、時間の経過を遅く感じた。

「いろんな人から挨拶を受けると思いますが、適当に流しておけば大丈夫です」
「は、はい」

 私たちが向かっているのは首都にある皇宮。皇太子の誕生日には帝国内の高位貴族のほとんどが参加するはずだ。
 そんな中でも、3年ぶりに顔を出す公爵に注目が集まるのは必至。そしてきっと公爵夫人となった私にも好奇の視線は向けられるだろう。「適当に流していい」と言われても、そうもいかない場面があるかもしれない……そう思うと胃がキリキリと不快感を訴えたが、笑顔で送り出してくれた公爵邸の人たちを思い出せば乗り越えられる気がした。

「ドラクロワ侯爵には、ちゃんと挨拶をしようと思っていますのでよろしくお願いします」
「ジャン……ドラクロワ侯爵ですか」
「ご存知ですか?」
「はい。両親と仲が良かったらしく、よく家に来ていました」
「なるほど」

 ドラクロワ卿はかつて王室騎士団のトップに立つ騎士だった。お父様の旧友らしく、私が小さい頃はよく家に来て遊び相手になってくれた。彼と最後に会ったのはお父様のお葬式……暗い顔ばかり見せてしまっていた気がする。

「ドラクロワ侯爵は俺の剣の師匠なんです」
「そうなんですね」

 ドラクロワ卿のことを語る公爵はいつになく表情が柔らかく見える。きっと彼のことを尊敬しているんだろう。
 
「……着いたようですね」

 公爵の視線を辿ると、速度を落とし始めた馬車の窓越しに豪華絢爛な皇宮が見えた。
 誕生祭は明日の昼に開催される。近隣に住む貴族以外は前泊することになっているため、馬車は本殿を通り過ぎてその奥にある来賓館の前で止まった。
 外の様子を窺うと、既に多くの貴族が集まっていた。今からその視線に晒されると思うと、急に喉の乾きを感じてゴクリと唾を飲む。

「行きましょう」
「は、はい……!!」

 躊躇なく馬車を降りた公爵に慌てて続き、直面したその光景に思わず硬直してしまった。

「ほら見て、フランジャール公爵が手を差し出してるわ」
「彼が女性をエスコートするなんて……」

 そんな声が聞こえてきたけど、一番困惑しているのはこの私だ。初めて見る公爵の掌はとても大きく感じた。常に清潔に保たれているこの手に、果たして私の手を重ねていいものか。
 おずおずと公爵の顔色を窺うと、真っ直ぐと視線を返された。嫌がってる感じはしない。
 契約結婚とはいえ一応夫婦だし、周りの目があるところでは体裁を気にするのかもしれない。私は手袋をしているから素肌で触れるわけじゃないし……

(よし……!)

 私は意を決して、公爵の掌に自分の手を軽く乗せた。そしてなるべく体重をかけないように、足と腹筋の筋肉を駆使して地面に着地した。

「……夫人」
「は、はい」
「ちゃんと食事はとっていますか」
「え? はい。料理長の作るご飯はとても美味しいです」
「……」

 公爵の何か言いたげな視線が突き刺さる。何で今食事のことを聞かれたんだろう。その真意はよくわからないけど、公爵の癇に障るわけにはいかない。
 公爵の腕に手をかけて歩く時も、なるべく体重をかけないように全神経を集中した。


***


「はあ……」

 部屋に案内されてすぐに荷物の整頓を終わらせ、私は「散策をしてきます」と一人で外に出てきた。自然と溢れたため息は白くて、私の心のモヤモヤが具現化して出てきたかのように思えた。
 
(まさか公爵と同じ部屋だなんて……)

 夫婦に同室が用意されるのは当たり前のことなのに。何でもっと早く気づかなかったんだろう。心の準備がまったくできていない。
 私と公爵は普段別室だし、もちろん初夜も経験してない。男性と同じ部屋で寝るだけで緊張してしまうのに、公爵相手となると潔癖に対する気配りもしなくちゃいけない。いくら皇宮のふかふかのベッドに寝転んだとしても、緊張で眠れる気がしない。
 ドギマギする私に対して、公爵は平然と「俺がソファで寝ます」と持参した自分の枕をソファに置いていた。

「あっ……いけません……」
「大丈夫です……今この世界には貴女と私しかいませんよ」
「あら……うふふ」
(いえ、おります……)

 人の多いメインの庭園ではなく隅にあるハーブ園を選んだのに、こっちはこっちで居心地が悪かった。
 逢瀬を楽しんでいる男女を避けてあてもなくフラフラと歩いていたら、いつの間にか本宮への渡り廊下まで追いやられていた。

「何だと!?」

 仕方なく部屋に戻ろうと踵を返した時、ただならぬ怒号が聞こえて足を止めた。声の方に目を向けると渡り廊下に明るい金髪の男性が二人。カミーユ皇太子と、その弟バティスト皇子だった。二人とも眉間に皺を寄せて険悪な表情をしている。
 二人は血の繋がった年子の兄弟で仲が良いと言われている。王位継承権に関しても、弟のバティスト皇子は学問の才能があるようで、特に諍いはなくカミーユ皇太子に決まったはず。

「この……クズが!!」
「ぐッ……!」
(ひええ……)

 柱の影から見守っていると、ついに手が出てしまった瞬間を目撃した。いや、正確には頭だ。バティスト皇子の頭突きがカミーユ皇太子の顔面に直撃して、カミーユ皇太子は鼻を押さえてよろけた。

「国宝級の顔に何をする!!」
「お前が俺のチョコレート食ったのが悪い」
「チョコレートを置いてどこか行ってる方が悪い!」

 兄弟喧嘩の原因は食べ物だった。子どもじみた理由に一気に拍子抜けしてしまった。ちょっと度は過ぎてると思うけど、男兄弟の喧嘩だとこんなものなんだろうか。
 ちなみに言い分を聞く限りカミーユ皇太子が悪いと思う。
 
「二度と俺のチョコレートに手を出すな」
「そういう言葉は女性に対して……おい待て!」

 バティスト皇子は冷たく言い放って本宮の方へ去っていった。何はともあれ、大事件にならなくてよかった。

「ん?」
「ひっ」

 私の足が草を踏む音が聞こえたのか、取り残されたカミーユ皇太子が私の方を向いた。
 驚いて小さく悲鳴をあげてしまったうえに、しっかり目が合ってしまった。私は観念して柱から身を出した。

「カミーユ皇太子殿下にご挨拶申し上げます」
「ああ……見てたのか」
「申し訳ございません。あの……もしよろしければこちらをお使いください」
「……すまない」

 手の甲に血がついているのが見えて、持っていたハンカチを渡した。頭突きのせいで少し鼻血が出てしまったみたいだ。
 カミーユ皇太子は今年で18歳。さすが"帝国一の美男子"と名高いだけあって、整った顔をしている。明るい金髪は太陽光を反射してサラサラと輝き、王族の象徴である紫色の瞳は神秘的な魅力を感じた。

「モルディアン伯爵令嬢か」
「ナタリーと申します。今はフランジャール公爵家に嫁いでおります」
「ああ、知っているとも。結婚おめでとう」
「ありがとうございます」

 ハンカチに施してあった家紋の刺繍で、私がモルディアン伯爵家の者だとわかったみたいだ。

「公爵とは仲良くやっているのか?」
「よくしていただいております」
「つまらん男だろう?」
「そんなことは……私には勿体ないお方です」

 紫色の瞳にジロジロと見つめられる。なんだか値踏みされてるような気分になって居心地が悪い。

「夫人」
「!」

 無意識に後ずさった先に公爵がいたようで、声をかけられると同時に優しく肩に手を置かれた。

「皇太子殿下、お久しぶりです」
「ああ。招待してもなかなか来てくれないから避けられてるかと思ったぞ」
「ははは」

 公爵は私の前に出てカミーユ皇太子に挨拶した。
 おそらく公爵はカミーユ皇太子のことをあまりよく思っていない。さっきの皇太子の「つまらん男」という発言も棘があったし、二人はあまり友好的ではないのかもしれない。お互いに口角を上げてはいても、目は全然笑っていなかった。
 ハラハラして見守っていると、カミーユ皇太子と目が合ってにっこりと笑顔を向けられた。

「ナタリー夫人、そなたの心遣いに感動した!」
「え? いえ、そんな……」

 そして次の瞬間、グッと距離を詰められて手を握られた。

「今度新しいハンカチを贈ろう」
「そこまでしていただかなくても……」
「いや、受け取ってくれ。私の気がおさまらないんだ」
「はあ……」

 お気持ちはありがたいけど、なんだか芝居がかっているのが気になる。そしてそれ以上に、隣に立つ公爵の殺気だった雰囲気が気がかりだ。

「楽しみにしていてくれ!」

 上機嫌で去っていくカミーユ皇太子。その後ろ姿を睨む公爵の眉間には皺が深く刻まれていた。いったいこの二人の間に何があったんだろう。気になったけどとても聞ける雰囲気ではなかった。

「……」
「あの……」

 公爵に詰め寄られて胸がドキドキする。カミーユ皇太子よりも背が高いのに、不思議と威圧感は感じなかった。
 公爵は眉間に皺を寄せたまま、私の手を見つめている。

「その手袋は捨てた方がいいと思います」
「え!? でもこれは買ったばかりの……」
「食事の前に手も洗っておきましょう」
「は、はい」

 カミーユ皇太子に握られただけで特に汚れはついていないのに。触られただけで公爵の"潔癖"という逆鱗に触れてしまったということだろうか。
 そうだとしたら私をエスコートした時、いったい公爵はどんな心境だったんだろう……想像しただけで寒気がした。


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