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第1章:ぎこちないふたり
第3話:幼少期の記憶
しおりを挟む「リゼット~~~」
「はいはい、ナタリー様のリゼットはここにいますよ~」
書斎から早足で廊下を歩き自室に戻った私は、中でベッドメイクをしてくれていたリゼットの胸に飛び込んだ。
「どうしたんですか?」
「公爵様に……」
「旦那様に?」
「あのメモを見られちゃった……」
「!」
リゼットはあのメモの存在を知っている。
公爵家の人たちを覚えたいのはリゼットも同じだから、一緒に特徴を挙げて記憶していったのだ。
ディオンは笑い飛ばしてくれたけど、公爵はどう思ったのか……想像すると背筋が凍った。
「それで、旦那様に何か言われたんですか?」
「……『息はしてください』って」
「プフッ……! よ、よかったじゃないですか」
「よかったの……? 怒ってないかな?」
「怒ってませんよ。だいたいナタリー様がそこまで気を遣う必要はないんですよ」
そうは言っても、私の失態が公爵の逆鱗に触れて、家族への支援が打ち切られてしまうことが何よりも怖い。
幼い弟も足が不自由なお母様も、公爵家の支援がなければきっと生きていけない。
公爵夫人という役目をしっかり果たさなければ、私がここにいる意味はなくなってしまうのだ。
「……本当に何もされてないんですよね?」
公爵に対する私の気遣いが尋常じゃないと感じたのか、リゼットが私の目をまっすぐ見て聞いてきた。
リゼットが心配しているようなことは決してない。
でも……何もないというわけではない。
「実は……」
「え!?」
「公爵様とは、小さい頃に一度会ったことがあるの……」
そう、公爵と私は幼い頃に一度出会っていた。
***
私が公爵と初めて会ったのは12歳の頃。
隣国との大きな局地戦が勃発し、お父様が大怪我を負って帰ってきた日だった。
使用人たちはバタバタと忙しく動き回り、いつになく屋敷内は騒然としていた。
普段冷静なお母様の表情も青ざめていて、幼い私でもただ事ではないんだと理解できた。
幸いお父様の怪我は命に関わるものではなかった。
けれど、そうとわかっていても恐怖感は拭えなかった。
家族や使用人たちが私のそばからいなくなってしまったら……という最悪の想像ばかりが、天井の見えない螺旋階段のように頭の中に渦巻いて涙が止まらなかった。
「ぐすっ」
私はみんなに心配をかけないように裏庭でこっそり泣いていた。
「大きくなったら私も伯爵家の一員としてみんなの役に立ちたい」と誇らしげに語っていたくせに、いざ窮地が訪れると恐怖に体を震わせることしかできない……そんな自分が情けなくて嫌でたまらなかった。
「ナタリーお嬢様ー?」
「!」
草陰に膝を抱えて座っていると、私を捜す乳母のマリーの声が聞こえてきた。
私は涙と鼻水でグジュグジュの顔を見られたくなくて、更に遠くへ逃げようと走った。
「あッ……ご、ごめんなさい……!」
生垣のある小道を曲がった時、前方を歩いていた男の子とぶつかってしまった。
私が泣いてるのを見てぎょっとしたその男の子は、尻もちをついた私に手を差し伸べることもなく自分の胸元を見て、一言ぼそりと呟いた。
「……汚い」
その言葉は私に深く突き刺さった。
実際その時の私の顔は涙や鼻水で汚かっただろうし、ぶつかった拍子に服に付いてしまったのならいい気はしないはずだ。
そうとわかってはいてもショックだった。
精神的に弱っていたこともあって、この時言われた「汚い」はずっと私の記憶から消えなかった。
夢に出てきてうなされることもあった。
以来、私は"清潔感"というものを強く意識するようになった。
身だしなみには人一倍気を遣い、自分の部屋も綺麗な状態を保つように心がけた。
そんな私をしっかりしていると家族も使用人たちも褒めてくれたけど、その行動の裏に存在するのは「汚いと思われたくない」という強迫観念だった。
この時の少年がフランジャール公爵であることには、婚約をして初めて彼と対面した時に気が付いた。
何度も夢に見た琥珀色の鋭い眼光に艶のある漆黒の髪……淡々とした表情で私を見下ろす姿が、あの時出会った男の子と一致したのだ。
知りたくなかった事実に気付いてしまい、顔合わせの時は何を話したのかも何を食べたのかも憶えていない。
***
「という感じで……って何でニヤニヤしてるの?」
「幼少期に出会っていたパターンはなかなかアツい展開ですね……」
私のトラウマとも呼べる出来事を話し終えて、ふとリゼットを見てみたら何やら楽しそうに頬を緩めていた。
恋愛小説好きのリゼットが何を考えているのかはなんとなくわかるけど、リゼットの言う「アツい展開」にはなりえない。
「公爵様は憶えてないわよ」
公爵は私のことを憶えていなかった。
彼にとっては取るに足りない出来事だっただろうし、鼻水をつけてきた汚い女なんか記憶から抹消したいはずだから当然だと思う。
むしろ憶えていなくて助かった。
私があの時の鼻水女だとわかったらここを追い出されてしまうかもしれない……この事実は墓場まで持っていくと決めたんだ。
***
――そう改めて決意した矢先に、私は大失態を犯してしまった。
「も、申し訳ございません……!!」
「大丈夫です」
庭園の手入れをしている最中に、公爵にぶつかってしまった。
がっしりとした胸板に鼻をぶつけて尻もちをつく……意図せずあの日と同じシチュエーションになってしまった。
「夫人は大丈夫ですか?」
「だッ大丈夫です!」
万が一にも公爵が手を伸ばしてくれる前に、私は自力で立ち上がった。
「それより公爵様のお召し物を汚してしまったんじゃ……」
あの時みたいに鼻水を垂らしているわけじゃないけど、土を触っていたから顔も汚れていたかもしれない。
そう思うと血の気が引いて、公爵の服が汚れていないかを必死に確認した。
「誤解しているかもしれませんが……俺は汚いのが嫌いなわけじゃなくて、不衛生なことに抵抗があるだけです」
「……?」
汚いのが嫌いなことと不衛生なことに抵抗があること、何がどう違うんだろう。
よくわからなかったけど、そこを突き詰めるような質問はできなかった。
「……幼い頃、モルディアン伯爵邸で特訓を受けたことがあります」
「!!」
「伯爵邸の庭園は居心地が良くて、休憩時間によく足を運んでいました」
公爵が庭園を眺めながらおもむろに話し始めて、心臓がこれでもかという程バクバクと脈打った。
まさか、似たようなシチュエーションを体験して思い出してしまったんだろうか。
確かに騎士の名家であるモルディアン伯爵家に特訓を受けに来る令息は多かった。
11年前に出会った時も、彼は剣の特訓のために伯爵家に滞在していたんだろう。
「今も……息抜きしようと思って、気付いたらここに来ていました」
「……公爵様も植物がお好きですか?」
「植物というより、丁寧に手入れされたものが好きなんだと思います」
「! そ、そうなんですね」
どうやら私との出会いを思い出したわけじゃなさそうだ。
私がパトリスと一緒に手入れをした庭園を褒めてもらえたような気がして、ビクビクしていた気持ちが一転、胸がムズムズするような喜びが込み上げてきた。
もしこの庭園が、公爵にとって息を抜くことのできる場所になれるのなら嬉しいと思う。
「……!」
こっそり公爵の表情を盗み見たつもりだったのに、すぐに視線に気付かれて目が合ってしまった。
締まりのない顔をしていたかもしれないと思い、グッと口元に力を入れた。
「息、してますか?」
「し、してます!」
「……よかったです」
公爵がうっすら笑ったのを見て、からかわれたんだと自覚した。
顔に熱を感じるのは恥ずかしさからではなく、公爵の穏やかな表情が素敵だったらからだ。
公爵家の一員として、少しは気を許してもらえたんだろうか。
この調子で程よい距離感を保ちながら、少しずつ馴染んでいけるように頑張ろう。
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