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【九話】大聖女の殺害
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アーロンからは疑問符が返ってきただけだった。それが見えているのは蘭だけなのか?
黒い影はやがてはっきりと形となり、一人の男の姿になった。
「アーロン!」
蘭はアーロンの名を呼び、立ち上がった。
「おい、立つな」
蘭の腰を掴んで座らせようとしてきたが、このままではあの老婆は刺される。
蘭はアーロンの手を振り切り、前にあるテーブルを乗り越えようとしたところで黒い影だった男と目が合った。
男はニヤリと笑みを浮かべると、黒い刀身を思い切り振り上げると、老婆に突き刺した。
「だめぇぇ!」
蘭の絶叫に何事かとざわめき、そして──。
「くくくく……」
老婆がドサリと音を立てて倒れたのを確認した男は、蘭に視線を向け、笑った。
「その男をつかまえて!」
「男? どこにいる?」
「そこ! そこにいるじゃない! 一番前に!」
「いや、それよりも、大聖女さまが!」
「どうしてっ? 男がそこにいるのに! 大聖女さまを刺したのよ!」
黒い影だった男は、重さを感じさせない動きで、しかも目の前にある障害物もものともしないでスーッと蘭の元にやってきた。
蘭はテーブルに乗り上げたまま男を睨みつけた。
「人殺しっ!」
「くくく、なにを言っているのかな?」
「あなたが、大聖女さまをっ!」
「お、おいっ!」
蘭以外には男が見えていないようで、蘭が宙に向かって叫んでいるようにしか見えない。
「まさか見える者がいるとはね。……あぁ、おまえはあの時の──」
ぞくり、と身体が震えた。
よく聞くと、この声に聞き覚えがあった。
「世界の意志と一緒にいた、女、か」
「っ!」
あの夢の中で追いかけてきた、黒い──。
「──時間か。今日のところはここまでに──する──が。いずれ──おまえ──を」
プツリ。
目の前にいた男は唐突に消えた。
「おいっ!」
ぐいっと腰を引き寄せられ、蘭はテーブルの上から引きずり下ろされた。
アーロンの腕の中に包まれ、安堵とともに恐ろしさに震えが走る。
とにかく今は、安堵できる腕の中に、いる。
蘭は自分にそう言い聞かせて、アーロンにしがみついた。
アーロンは最初、驚いているようだったが、蘭の身体を抱き寄せ、落ち着くようにと背中をポンポンと優しく撫でてくれている。
「大聖女さまはっ!」
その声にハッとして蘭は顔を上げた。
顔を上げると、心配そうなアーロンの碧い瞳が見えて、それから自分が抱きついていることに気がつき、慌てて離れようとしたが、がっしりと抱き込まれていて動けなかった。
「大聖女さまは……お亡くなりに……」
一瞬、音がなくなった後、ざわめきが訪れた。
「れ、連絡を!」
「おい、僧侶をっ!」
「僧侶なら、ここにいますよ」
トマスの声に、蘭は視線を向けた。
「大聖女さまは、男に黒い刃で刺されました」
「あなたはそれを見た?」
「はい、この目でしっかりと。──えっ? みなさんも、見て、ました、よ、ね?」
蘭の言葉に、全員が首を横に振った。
「大聖女さまは突然倒れたように見えた」
「う……そ」
あれは、幻?
いや、男はしっかりと蘭を見て、それから黒い刃で刺した。
そして、男は近づいてきて──。
「私は僧侶としての仕事をしてきます。しばしの間、あなたの側から離れることをお許しください」
「……はい」
トマスが離れていくことに不安はあったけれど、本来の役目も果たしてもらわなければ困るのだろう。だから蘭は許可をした。
トマスは蘭の頬にキスをすると、囲いから出て行った。
「トマス兄さん、どさくさに紛れてキスしていった」
イバンの不満の声に、蘭は真っ赤になった。
「アーロン兄さんも抱きしめてるしさ」
「イバン」
「なんだよ」
「この椅子の犯人、分かっているんだろう?」
「分かってるし、もう報復はしておいたよ」
それは一体、だれだったのだろうか。
「犯人はね、古参の白の君、だよ」
「白の君……?」
「聖女は名前で呼ばれないで、持ち物や、髪の色や、持ち色で呼ばれるんだ」
ちなみに、とイバンは続ける。
「さっき門の前で会った聖女は色狂いの赤、だよ」
「っ!」
色狂いの赤とはひどい呼び名だ。
「どこでも誰とでもやるって話だからね。おれも誘われたことがあるけど、断ったよ」
「せ、聖女は……その、だれとでも……」
「スルバランの血を引いていれば、だれでもいいんだよ」
それを聞いて、蘭は大きく首を振った。
「一人でも、いいんだよ」
「えっ?」
いきなりなんの話を始めたのだろうか。
分からなくて、イバンを見た。
「聖女の周りに複数の男がいるけど、中には一人しかいない聖女もいる」
イバンに言われなくても、蘭も気がついていた。
「一人でも、問題ない。でもね、産まれてくる勇者の能力は、その一人の男のものしか引き継がない」
「ど、どういう……こと?」
「聖女に複数の男を宛がうのはね、勇者にできるだけ多くの能力を持たせるためなんだよ」
「え……。普通はその、複数の男性としても、だれか一人の精子としか結びつかない……もの、よね?」
蘭は顔を赤くしながら自分の知る常識を口にした。
「普通はね」
「え……?」
「スルバラン家が特殊なのか、特異なのか。異世界の女性の体内に複数の男の精子を注ぎ込むと、なぜかそれが合わさってひとつになって、複数の能力を引き継いで産まれてくるんだよ。だから聖女には複数の男が宛がわれ、より強い勇者を『作る』んだよ」
それで、三人もいるのかと分かったのだが。
「最初の儀式でお腹に紋様ができたのは、より混じりやすくなるように、なんだよ」
信じられなくて、蘭はふるふると頭を振った。
「スルバラン家は大異変のためだけに存在する家なんだ。勇者を産ませるために、ね」
自虐的な響きを感じ取って、蘭はイバンを見た。
「優秀な能力を持つ人物と交わって、子どもを作る。そこに好きだとか愛だとかそんなものはなくて、ただ能力のために身体を合わせて子を作る。歪んでるよね」
この話を聞くまでは、蘭や異世界から召喚された女性だけが犠牲者なのだと思っていた。
だけど今の話を聞く限りでは、彼らもまた、大異変とかいうわけの分からないものの犠牲者だと知った。
蘭の一方的な思いかもしれないが、仲間意識を抱いた。
そうなると、それまで怖かった気持ちが少しずつ薄れていくのだから不思議だ。
「あの……」
「うん」
彼らは最初はともかく、蘭のことを一番に考えてくれている。
だけどなんといえばいいのか、蘭には分からない。
「おれの相手が、あなたでよかったと心から思うよ」
そう言って、イバンは笑った。
「怖い思いをさせておいてなんだよって思うかもしれないけど、でも、あなただったから暴走してしまったというか」
「そうだな」
アーロンも同意しているようだった。
「俺も心の底からそう思う」
そう言われてしまえば、悪い気はしない。
それに、最初のことは謝ってくれた。
蘭もなにか言わなければ、と思っていると、トマスが帰ってきた。
「おそばを離れて、申し訳ございません」
トマスは戻ってくるなり、蘭にそう言って頭を下げてきた。
「なにも問題はなかったか?」
「うん、大丈夫」
そして少し和やかになった空気に、トマスはイバンとアーロンに視線を向けた。
「スルバラン家の役目の話と、聖女が彼女で良かったって話をしてたんだ」
「なるほど」
「トマスはどうなんだ?」
「私ですか? もちろん、私もあなたが相手でよかったと心から思っています。暴走してしまうほどに、ね」
三人に暖かな視線を向けられて、蘭は恥ずかしくてうつむいた。
「それで」
「大聖女さまは?」
「詳しい調査をしないと分からないが、──呪いによる死、かと」
「っ!」
「一見すると、心臓発作のようなんだが、かすかに呪いを感じる。それもあなたの助言がなければ分からなかったことだ。ありがとう」
蘭が見たのは、呪いが具現化したもの、だったのだろうか。
「黒髪の──男、でした」
「黒髪」
「その男は……その、あの日、夢の中に出てきた男と一緒で……」
「なにっ?」
「世界の意志と一緒にいた女か、と」
「…………」
男たち三人は視線を交わし、それから蘭を見た。
「他には?」
「今日はここまでにするが、いずれおまえを──と。それだけ残して、消えました」
「分かった、ありがとう。今日は大聖女さまがこんなことになったので、会議は終わりだ。後日、大聖女さまの葬儀が行われる」
「…………」
「とりあえず、帰ろう」
黒い影はやがてはっきりと形となり、一人の男の姿になった。
「アーロン!」
蘭はアーロンの名を呼び、立ち上がった。
「おい、立つな」
蘭の腰を掴んで座らせようとしてきたが、このままではあの老婆は刺される。
蘭はアーロンの手を振り切り、前にあるテーブルを乗り越えようとしたところで黒い影だった男と目が合った。
男はニヤリと笑みを浮かべると、黒い刀身を思い切り振り上げると、老婆に突き刺した。
「だめぇぇ!」
蘭の絶叫に何事かとざわめき、そして──。
「くくくく……」
老婆がドサリと音を立てて倒れたのを確認した男は、蘭に視線を向け、笑った。
「その男をつかまえて!」
「男? どこにいる?」
「そこ! そこにいるじゃない! 一番前に!」
「いや、それよりも、大聖女さまが!」
「どうしてっ? 男がそこにいるのに! 大聖女さまを刺したのよ!」
黒い影だった男は、重さを感じさせない動きで、しかも目の前にある障害物もものともしないでスーッと蘭の元にやってきた。
蘭はテーブルに乗り上げたまま男を睨みつけた。
「人殺しっ!」
「くくく、なにを言っているのかな?」
「あなたが、大聖女さまをっ!」
「お、おいっ!」
蘭以外には男が見えていないようで、蘭が宙に向かって叫んでいるようにしか見えない。
「まさか見える者がいるとはね。……あぁ、おまえはあの時の──」
ぞくり、と身体が震えた。
よく聞くと、この声に聞き覚えがあった。
「世界の意志と一緒にいた、女、か」
「っ!」
あの夢の中で追いかけてきた、黒い──。
「──時間か。今日のところはここまでに──する──が。いずれ──おまえ──を」
プツリ。
目の前にいた男は唐突に消えた。
「おいっ!」
ぐいっと腰を引き寄せられ、蘭はテーブルの上から引きずり下ろされた。
アーロンの腕の中に包まれ、安堵とともに恐ろしさに震えが走る。
とにかく今は、安堵できる腕の中に、いる。
蘭は自分にそう言い聞かせて、アーロンにしがみついた。
アーロンは最初、驚いているようだったが、蘭の身体を抱き寄せ、落ち着くようにと背中をポンポンと優しく撫でてくれている。
「大聖女さまはっ!」
その声にハッとして蘭は顔を上げた。
顔を上げると、心配そうなアーロンの碧い瞳が見えて、それから自分が抱きついていることに気がつき、慌てて離れようとしたが、がっしりと抱き込まれていて動けなかった。
「大聖女さまは……お亡くなりに……」
一瞬、音がなくなった後、ざわめきが訪れた。
「れ、連絡を!」
「おい、僧侶をっ!」
「僧侶なら、ここにいますよ」
トマスの声に、蘭は視線を向けた。
「大聖女さまは、男に黒い刃で刺されました」
「あなたはそれを見た?」
「はい、この目でしっかりと。──えっ? みなさんも、見て、ました、よ、ね?」
蘭の言葉に、全員が首を横に振った。
「大聖女さまは突然倒れたように見えた」
「う……そ」
あれは、幻?
いや、男はしっかりと蘭を見て、それから黒い刃で刺した。
そして、男は近づいてきて──。
「私は僧侶としての仕事をしてきます。しばしの間、あなたの側から離れることをお許しください」
「……はい」
トマスが離れていくことに不安はあったけれど、本来の役目も果たしてもらわなければ困るのだろう。だから蘭は許可をした。
トマスは蘭の頬にキスをすると、囲いから出て行った。
「トマス兄さん、どさくさに紛れてキスしていった」
イバンの不満の声に、蘭は真っ赤になった。
「アーロン兄さんも抱きしめてるしさ」
「イバン」
「なんだよ」
「この椅子の犯人、分かっているんだろう?」
「分かってるし、もう報復はしておいたよ」
それは一体、だれだったのだろうか。
「犯人はね、古参の白の君、だよ」
「白の君……?」
「聖女は名前で呼ばれないで、持ち物や、髪の色や、持ち色で呼ばれるんだ」
ちなみに、とイバンは続ける。
「さっき門の前で会った聖女は色狂いの赤、だよ」
「っ!」
色狂いの赤とはひどい呼び名だ。
「どこでも誰とでもやるって話だからね。おれも誘われたことがあるけど、断ったよ」
「せ、聖女は……その、だれとでも……」
「スルバランの血を引いていれば、だれでもいいんだよ」
それを聞いて、蘭は大きく首を振った。
「一人でも、いいんだよ」
「えっ?」
いきなりなんの話を始めたのだろうか。
分からなくて、イバンを見た。
「聖女の周りに複数の男がいるけど、中には一人しかいない聖女もいる」
イバンに言われなくても、蘭も気がついていた。
「一人でも、問題ない。でもね、産まれてくる勇者の能力は、その一人の男のものしか引き継がない」
「ど、どういう……こと?」
「聖女に複数の男を宛がうのはね、勇者にできるだけ多くの能力を持たせるためなんだよ」
「え……。普通はその、複数の男性としても、だれか一人の精子としか結びつかない……もの、よね?」
蘭は顔を赤くしながら自分の知る常識を口にした。
「普通はね」
「え……?」
「スルバラン家が特殊なのか、特異なのか。異世界の女性の体内に複数の男の精子を注ぎ込むと、なぜかそれが合わさってひとつになって、複数の能力を引き継いで産まれてくるんだよ。だから聖女には複数の男が宛がわれ、より強い勇者を『作る』んだよ」
それで、三人もいるのかと分かったのだが。
「最初の儀式でお腹に紋様ができたのは、より混じりやすくなるように、なんだよ」
信じられなくて、蘭はふるふると頭を振った。
「スルバラン家は大異変のためだけに存在する家なんだ。勇者を産ませるために、ね」
自虐的な響きを感じ取って、蘭はイバンを見た。
「優秀な能力を持つ人物と交わって、子どもを作る。そこに好きだとか愛だとかそんなものはなくて、ただ能力のために身体を合わせて子を作る。歪んでるよね」
この話を聞くまでは、蘭や異世界から召喚された女性だけが犠牲者なのだと思っていた。
だけど今の話を聞く限りでは、彼らもまた、大異変とかいうわけの分からないものの犠牲者だと知った。
蘭の一方的な思いかもしれないが、仲間意識を抱いた。
そうなると、それまで怖かった気持ちが少しずつ薄れていくのだから不思議だ。
「あの……」
「うん」
彼らは最初はともかく、蘭のことを一番に考えてくれている。
だけどなんといえばいいのか、蘭には分からない。
「おれの相手が、あなたでよかったと心から思うよ」
そう言って、イバンは笑った。
「怖い思いをさせておいてなんだよって思うかもしれないけど、でも、あなただったから暴走してしまったというか」
「そうだな」
アーロンも同意しているようだった。
「俺も心の底からそう思う」
そう言われてしまえば、悪い気はしない。
それに、最初のことは謝ってくれた。
蘭もなにか言わなければ、と思っていると、トマスが帰ってきた。
「おそばを離れて、申し訳ございません」
トマスは戻ってくるなり、蘭にそう言って頭を下げてきた。
「なにも問題はなかったか?」
「うん、大丈夫」
そして少し和やかになった空気に、トマスはイバンとアーロンに視線を向けた。
「スルバラン家の役目の話と、聖女が彼女で良かったって話をしてたんだ」
「なるほど」
「トマスはどうなんだ?」
「私ですか? もちろん、私もあなたが相手でよかったと心から思っています。暴走してしまうほどに、ね」
三人に暖かな視線を向けられて、蘭は恥ずかしくてうつむいた。
「それで」
「大聖女さまは?」
「詳しい調査をしないと分からないが、──呪いによる死、かと」
「っ!」
「一見すると、心臓発作のようなんだが、かすかに呪いを感じる。それもあなたの助言がなければ分からなかったことだ。ありがとう」
蘭が見たのは、呪いが具現化したもの、だったのだろうか。
「黒髪の──男、でした」
「黒髪」
「その男は……その、あの日、夢の中に出てきた男と一緒で……」
「なにっ?」
「世界の意志と一緒にいた女か、と」
「…………」
男たち三人は視線を交わし、それから蘭を見た。
「他には?」
「今日はここまでにするが、いずれおまえを──と。それだけ残して、消えました」
「分かった、ありがとう。今日は大聖女さまがこんなことになったので、会議は終わりだ。後日、大聖女さまの葬儀が行われる」
「…………」
「とりあえず、帰ろう」
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