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第16話 願い、そして奇跡
27 苦闘
しおりを挟む丁寧にお辞儀をしてみせた少女は、さっとドレスを翻して邪神騎に歩み寄った。
「リュード。始めましょう、この世界を滅ぼす為の序章を。仲間も、理解する人も、やっぱりいなかったけどもういいの。私達ふたりだけで……」
砕けた肩を見上げ、彼女はささやいた。
「痛かったでしょう? でも、すぐにその報いを受けさせるわ。さぁ、私を受肉させて」
少女は詩でもつぶやくように小さな声で呪文を唱えた。
するとその身体が崩れ、蝋のようにドロドロと溶け始めた。あたかもその美しかった容姿が仮初めのものでしかなかった、とでもいうように。
檻に囚われたアリスティアは、その様子を見て思わず「ひっ」と声を漏らし、魔物達も息を呑んだ。少女がチート勇者とは全く異質な、闇の眷属として取り込まれた存在であることを目の当たりにしたのだ。
最後に少女はとうとう不気味に蠢く肉塊と化してしまった。邪神騎は鋭い爪の生えた手で、それを愛おしいもののように包み込む。
八八ミリ砲の直撃で砕けた肩に優しく撫で付けると、肉塊は意思を持った存在のように肩の欠けた部位に貼り付き、融合を始めた。それまで千切れ落ちそうに見えた肩が、新しい肉片を与えられてたちまち復元してゆく。
最後に肩に浮き出た血管から不気味な突起が脈を打ち、それが頭部に達すると真っ赤な単眼がぎらりと光った。融合し一体化した少女の意識が邪神騎の頭脳に宿ったのだ。緩慢にのたうっていた邪神騎が一転、蛇のような下半身をくねらせ敏捷に動き始める。
対峙するティーガーは、異様な邪神騎を警戒しながら距離を詰めるべくゆっくりと前進を始めた。少年は這いずるようにして何とか車内へ乗り込み、ハッチが閉じられた。
(よかった。少なくともティーガーの中にいれば……)
アリスティアはほっと胸を撫で下ろしたが、少女のおぞましい変貌と合体を目にして戦慄した後だけに、不安を拭い切れなかった。
今まで出会ったチート勇者と違って、今度の敵は余りにも異質で不気味だった。恐ろしい力を秘めているように思える。
そして、それは杞憂ではなかった。
「お待たせしました勇者様。それでは拙い技ですが、絢爛舞踏を始めさせていただきます……」
意識と化した少女が「浮遊……」とつぶやくと、邪神騎の周囲に転がっていた巨岩が魔力によって次々と地面から引き抜かれ、空中に浮きあがった。
「投擲……」
弾かれたように岩石が飛んで行く。ティーガーは急制動を掛けて回避しようとしたが、少女が「震盪刃……」とつぶやくと、邪神騎がその半身をのけ反らせるようにして大きく振りかぶり、大鎌を横に薙ぎ払った。
弦を弾くような音と共に、衝撃波が岩石を砕く。それらは散弾となってティーガーを襲った。砕けてドラム缶大になった硬い岩石が幾つもティーガーの正面装甲に叩きつけられ、さしもの王虎も重い車体を揺らしてよろめいた。
(ふふ、思った通りだわ……)
魔法攻撃を一切受け付けないティーガーも物理的な影響までは無効に出来まい、と少女は踏んでいたのだ。
ティーガーも反撃の砲火を再び浴びせようと砲身を向けるが、邪神騎はアリスティアのいる檻の後ろへ素早く下がってしまった。
そうすると人質を突き出されたようなもので八八ミリ砲は沈黙するしかない。
砲撃出来ないティーガーは焦れたように全速で走り出した。砲塔を右へ旋回しながら邪神騎の左へ左へと回り込み、王姫の檻を射線から外して邪神騎を捕捉しようと試みる。
だが、邪神騎も檻を軸に左へ動き、攻撃するチャンスを与えない。両者の動きには大きな差があった。重装甲で鈍重なティーガーは不整地では全速でも二〇キロほどのスピードしか出ないのだ。機敏さでは到底及ばない。
こうして、邪神騎はアリスティアや魔物達の囚われた檻を盾にした位置からティーガーへ次々と岩石を叩きつけてゆく。
卑劣にして狡猾な戦い方だった。
射線上から檻が外れたタイミングを見つけてはティーガーの八八ミリ砲も火を吹くが、移動しながら僅かな隙を狙った砲撃ではさすがに正確な照準など望めるはずもない。砲弾は邪神騎から離れた空間を虚しく通き抜けてゆくだけだった。
「ああ……」
檻の中から戦況を見守るアリスティアと魔物達は、苦戦するティーガーを目の前にして泣き出さんばかりだった。
自分達を人質にされているばかりに、鋼鉄の王虎は一方的に嬲られるような戦いを強いられているのである。分厚いティーガーの装甲も幾度も叩きつけられる打撃に傷つき、次第に歪み始めた。
それでも魔物達を救い出す為、鋼鉄の王虎は一歩も後ろへ引かない。
蘇生したばかりの弱り切った身体で、あの少年がティーガーの中でどれほどの苦痛に耐えているのか思うと、胸が張り裂けそうだった。
「撃って! 私達に構わず撃って!」
思わずアリスティアは叫んだ。
だが、ティーガーの八八ミリ砲は邪神騎への射線上に檻がある時は頑なに沈黙を守り、撃とうとしない。それをいいことに、邪神騎の攻撃はますます一方的で熾烈なものになってゆく。
鎧われた装甲の中で痛めつけられ、それでもなお戦い続ける少年を同じように思い浮かべた邪神騎の中の少女は悪魔のような笑みを浮かべ、思わず舌なめずりした。
(足掻け……足掻け……それだけ楽しくなる)
激しい打撃を受けたショックで、ティーガーのエンジンが息を切らせたように止まってしまった。力なくスターターが唸り、しばらくして喘ぐようにエンジンがかかる。
(このままではティーガーが……テツオが……!)
血が滲みそうなくらい鉄格子を握りしめ、アリスティアはくるめく思いに慟哭し、苦悶した。
愛する人が自分達の為に窮地に陥りながら、それでも阿修羅のように戦っている。なのに何の力にもなれないのだ。悔しくてならなかった。
自分はこうして無力なまま泣くことしか出来ないのか、この燃え滾るような心を何か力に変えることが出来たなら!
振り仰いだ空の彼方へ、彼女は訴えずにいられなかった。
(お願い……一度だけ、一度だけでいい。私の願いを……奇跡をここに!)
そう思ったとき、ふいに――アリスティアの様子が変わった。
嘔吐きにも似た震撼が喉元へ込み上げる。
次の瞬間、その叫びは彼女自身も知らない言葉となって迸り出た。
「Hore meine Worte, oh Schopfer dieser Weltordnung!」
(この世界の理を司るものよ、我が言葉を聞け!)
それはアリスティアの中に流れる高貴な血が呼び覚ました、未知の召喚魔法だった。
チート勇者が神話の世界から魔獣や武器を召喚する際のいかなる詠唱とも異なる神秘の言語。炎立つような熱を帯び、その言葉はこの世界の創造者へ訴えかける。
「Sieh den Stolz der Tapferen, die die Schwachen beschutzen. Du musst ihm die Macht geben, das Bose zu vernichten!」
(弱者を守らんとする者の心を見よ。心あらば、邪悪を打ち砕く力を彼の者に与えよ!)
「Ich will keine machtige Kraft. Disziplinieren Sie diejenigen, die die Welt zerstoren und Frieden in dieser Welt suchen!」
(我は力のみの御業を求めず。ただ世界を滅ぼす者を戒め、この世界に平和をもたらす奇跡を欲す!)
「Ich hoffe, diese Welt wird mit Licht, Leben und Liebe erfullt sein」
(我らがこの世界に求むるは、光、生命、そして愛のみなり……)
アリスティアが詠唱を叫び終えたとき、それまで薄雲を一つまみ置いただけの青空が一瞬にして夜のように暗転した。突如として日食が訪れたのだ。
(これは一体……?)
人智を越える超常現象を目の当たりにして、邪神騎を操る少女もさすがに驚愕した。顔色を失い、何が起きたのかと周囲を見回す。
と、この世の終わりのような轟音が空気を震わせた。雷鳴と共に白熱した光が地表を覆い、巨大な落雷に大地が激しく震えた。
何者かが、この異世界へ召喚されたのだ。
衝撃でティーガーのエンジンは再び停止し、邪神騎もその巨体をどうと横ざまに倒した。
「Wir wollen mit Hoffnung in dieser Welt leben」
(生命に光の輝きを信じる世界にぞ、我等は帰依する……)
アリスティアの唇から未知の詠唱を締めくくる言葉が紡がれる。
召喚者となった彼女は、そこでようやく意識を取り戻した。
(私の中から未知の言葉が……今の魔法は一体?)
魔族の王姫は、己の起こした奇跡が一体何だったのか理解出来ないまま、砲身を下げて沈黙しているティーガーを見つめて少年の身を案じた。
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