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第7話  衝撃と栄光と別離 ②

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「第一次選考はこれにて終了します。ご担当の審査員の皆さま、ありがとうございました」

 司会者の挨拶を受けて審査員席に座っていた人々が立ち上がった。選考の公正を期するために別の審査員に交代するのだ。

「お疲れ様でした。応募してきた歌姫達を如何思われますか?」

 司会者にマイクを向けられた一人の審査員が答えた。

「みんな素晴らしかったね。去年とは比べ物にならないくらい歌唱力の高い娘が多くて審査が難航したよ。喜ばしいことだ。名前は出さないが、この三二人の中にアルティメットの名にふさわしい歌姫がいたと個人的には思っている」

 その言葉に観客がどよめいた。

「中盤に出て来たアーニーって娘じゃないか? ヴァイオリンを伴奏にして『スマイル』を歌った……」
「いや、あの娘だろう。三番目に出て来たギターの娘」
「ああ、金髪のあの娘、よかったわね」

 第二次選考が始まるまで僅かな間があった。観客は、優勝しそうな娘の下馬評や感想などそれぞれ楽しそうに語り合いながら次の選考が始まるのを待っている。

「デブの男と踊りながら歌ってたエメルって娘も凄かったな」
「今度はどんな歌を歌うんだろう。楽しみだね」

 第二次選考からは対戦形式のトーナメントとなる。三二人に半減した少女達は一六の組に分けられ、勝ち上がらなければならない。
 それも相手に勝てばいいというだけではないのだ。勝利に値しないと判断された場合は両者共に敗退とされることもある。ここ数年優勝した者がいなかった、と云うのはこの厳しいルールによるものだった。最後まで勝ち抜く実力を持った歌姫が現れなかったのだ。

「皆さん、お待たせしました。それでは第二次選考を始めますので、ご謹聴お願いいたします」

 司会者が再び現れて挨拶すると、人々は拍手で歓迎した。

「まず、審査員の皆様をご紹介します。先ほどTV番組収録から駆けつけて下さいましたマイク・フォアート、明日から海外ツアーがスタートするジュリアン・シモンズ、エディンバラのアカデミーからお越しいただきましたルイス・マウントバルテン卿……」

 紹介された審査員は起立して会釈し、そのたびに拍手が起こる。中には現役の歌手もいてどよめきも起きた。
 紹介もひと通り終わり、かすかなざわめきの中を最初の対戦カードに出場する二人の歌姫がステージに現れると、静まりかかった拍手は大きくなり、歓声が起こった。
 片方の少女が、激唱で観客を沸かせたリアンゼルだったからである。
 リアンゼルは微笑んで応えたが、対戦相手の少女は対抗心も露わに彼女を睨みつけた。
 その様子は、かつてデブオタやエメルを憎んだリアンゼル自身に似ていた。

「では、最初の対戦になります。まずはレイシス・ワークレイルに歌ってもらいましょう。曲名は……」

 ステージに立ったレイシスの顔は真っ青だった。
 対戦相手のリアンゼルが圧倒的なほど高い歌唱力の持ち主で、おそらく自分は敵わないであろうことを知っていたのである。
 だが、この晴れの舞台に選ばれた誇りが、彼女に諦めることを許さなかった。

「Can Emily, you endure it? You stand in the dirty place.Still do you believe him?」
(エミリー、お前はまだこんなゴミ溜めみたいなところにいたいのか? まだアイツのことを信じているのか?)

 リジィー・ボランザの「エミリー」。
 レイシス・ワークレイルは、自分に持てるせいいっぱいの声量を駆使して歌い始めた。
 しゃがれたブルージーな歌声こそ真似出来なかったが、精魂を傾け彼女は歌う。
 本来の自分以上の歌唱力を尽くしたのだろう、歌い終わった時には思わずよろけた程だったが、それでも倒れるような無様な真似など見せず、必死に踏みとどまった。
 その果敢な歌いっぷりに観客は感銘を受け、大きな拍手で彼女を称えた。

「素晴らしい歌でした。そして、これに対する相手はリアンゼル・コールフィールドです。曲名は……」

 入れ違いに進み出たリアンゼルは、さっきとは別のギターと丸椅子を持っている。
 人々が意外な眼で見守る中、彼女はステージの中央に丸椅子を置き、腰かけ、あらかじめチューニングしておいたギターを抱えた。
 つま弾くドレッドノートタイプのアコースティックギターが、切ないメロディーを奏で始める。
 ギターの曲に合わせてリアンは美しい声で歌い始めた。

「Will you remember my name if you meet in heaven?」
(もしも天国で会えるのなら、僕の名前を覚えていておくれ)
「You will look at the old man. Because I get old and will die. But I love you」
(いつか、君に逢える時、僕は年老いた姿でいるだろうから……)

 かのエルウィン・ラプストンが幼くして死んだ愛息を悼んで歌った名曲「トゥ・ユー・オブ・ヘブン」。
 静かに歌うリアンゼルは、さっきとはまるで別人のようだった。染み入る様な歌声は、敬虔な賛美歌とどこか似ていて、観客はあの焔のような歌姫がこんなに優しい慰籍の曲も歌うのかと驚きの眼で聴き入った。
 てっきり最初の選考の時と同じ激唱で挑んでくると思っていた対戦相手の少女レイシスも、唖然となって立ち尽くしていたが、次第に自分の敗北を悟ったらしく、静かに微笑んで謹聴していった。
 彼女が最後のフレーズを弾き終えると、演奏の余韻を壊さないように気を使った温かい拍手がリアンゼルを称える。
 審査はごく短時間で終わった。レイシス・ワークレイルの渾身の歌唱はリアンゼルに迫るほど素晴らしかったが、それでも勝敗は明らかだったのだ。
 ステージ背後に設けられた巨大なスクリーンモニターに勝者であるリアンゼルの名前が表示され、たくさんの拍手に讃えられた彼女は片手にギターを掲げて静かに会釈した。
 そして、そのまま対戦相手に歩み寄った。
 彼女もまた拍手でリアンゼルを讃えくれていたのだ。

「おめでとう、リアンゼル。あなたの勝ちよ」
「ありがとう。でもレイシス・ワークレイル、あなたの渾身の歌は凄かった。お互いプロになれたら一緒に歌ってもらえないかしら?」
「喜んで! 約束よ」

 笑顔で頷いた相手の手を取ったリアンゼルが、観客席へ向かって彼女をアピールすると、ひと際大きな歓声と拍手が敗者の見事な健闘を讃えてくれた。

「おお、最初のカードから素晴らしい対決でした!」

 興奮を抑えきれないように司会者が評したがすぐに冷静さを取り戻し、「では、次の対戦カードに移ります」と、オーディションを進めた。
 新たな少女が名前を呼ばれ、ステージに進み出る。
 そして、歌が終わればその対戦相手が。
 どの歌姫も精一杯歌い、弾き、踊り、ステージは盛り上がったが、観客の眼にはやはり最初の対戦カードが一番鮮烈な印象で心に残っていた。
 終盤、あの少女が再び現れるまでは。

「それでは、最後の対戦カードになります」

 一六組目となる二人の歌姫が進み出る。
 ひとりはハイスクールの学生らしい歌姫で、制服をアレンジしたドレスアップ姿だった。
 そして、対戦相手が現れると観客達に再びワーッと歓声が沸いた。
 最初のステージで客席に爆笑と感嘆を呼んだ少女、エメルだったからである。
 ヴィヴィアンが口惜しがっていた通り、誰もがもうこの小柄なハーフの歌姫を覚えてしまっていた。

「では、まずルルージュ・リグビーに歌ってもらいましょう。曲名は……」

 対戦相手のルルージュは序奏に合わせてタンタンと足踏みすると、軽やかなステップと共に「Oh yeah...Come on!」と陽気な声を上げ、歌い始めた。

「A limousine comes to pick me up every day in my house. But I start running in favorite roller skates to a school」
(毎日リムジンがお迎えに来るけど、私、お気に入りのローラースケートを履いて学校へ走り出すの)

 はち切れそうな若さを武器にTVドラマ「シークレットアイドル アンナ・モッティー」のテーマ曲「エンジョイ・ツーワールド」を元気いっぱい歌うルルージュの姿は明るく陽気で、そして微笑ましかった。
 それもそのはず、ルルージュはアンナ・モッティーになり切って歌っているのである。
 彼女自身が、トップアイドルの世界と愉快な学校生活の二つの世界を精一杯楽しめるような歌手になりたいと、きっと思っているのだろう。
 振り付けも色々試行錯誤して創ったものらしくなかなか凝っている。審査員も感心して見つめていた。
 エメルほど度肝を抜く演出や個性的な歌唱力こそなかったが、その歌い方は人々に好感を抱かせずにいられない。
 曲が終わると人々は大きな拍手でこの可愛らしい歌姫を称賛し、ルルージュは観客席へウィンクすると両手を振って歓呼に応えた。

「聴いていて楽しくなる、いい歌でした。そして、対する相手はエメル・カバシです。曲名は……」

 人々は、最初のステージと似たような楽しいパフォーマンスと歌が始まるだろうと思った。そうなればルルージュとは好勝負になるだろう。もしかしたらデブオタもまた登場するかも知れない、と期待を含んだ目でステージを見つめる。
 だが。
 ステージ中央に進み出たエメルは肩を落とし、虚ろな表情で床を見つめている。楽しそうだったあの笑顔は微塵もない。
 彼女の身に何か起こったのか、と驚いて見守っているとショッキングな序奏が流れ始め、人々の顔に「まさか」という表情が浮かんだ。
 エメルは、まるで錆付いた機械のようなぎこちない動きと共に歌い始める。

「I stand still in clothes of the blood in the deep water of the hell」
(私は血の衣を纏って地獄の淵に佇む)
「Your wing was damaged… cannot fly away anymore to escape from this nightmare」
(貴方の翼は傷ついた。もう、この悪夢から逃れるために飛び立つ術はない……)

「ギユーク、『ダルヴァザ』……」

 観客の一人がつぶやいた。
 驚愕の眼で見守られる中を、エメルはよろめくように踊る。
 デブオタが見つけた動画を基に練習を重ね、苦労の末に身に着けたダンス技能。パントマイムを応用した、エメルオリジナルの変則的なあのステップである。
 まるで踊り方を忘れて乱れかけたような動きに観客はハラハラして目を離せない。
 だが、それは実はそのまま美しいクラシックバレエの動作に続き、人々を自然と見惚れさせてしまうのだ。
 そして、凄惨で幻想的な悪夢をエメルは歌う。
 透き通るような、だが血を吐くような声で。

「Call for the name. Probably I lie hidden in your shadow」
(その名前を呼んで。あなたの影の中にたぶん私は潜んでいる)
「Somebody beckons you from the shore of the blood bath. You cannot leave if you hear his voice」
(血の海の岸から手招きする誰かの声に耳を傾けたら、もうあなたは引き返せない)

 容姿と声質は同じなのに踊る姿と歌はまるで別人のようだった。
 さっきのステージではリズミカルに動き可憐に求愛していた歌姫が、今度は悪夢の中をよろばうように舞い、呪いにも似た闇の哀情を歌い上げている。
 エメルの創る動きと歌の織り成す陰惨な世界に、人々は催眠術のようにたちまち惹き込まれてしまった。

「あの娘、あんな凄い技能まで持ってたなんて……」

 ステージ裏で見ていたヴィヴィアンは呻くように言った。リアンゼルは闘争心を滾らせ、睨むようにひたすらエメルを見つめ続ける。
 やがて曲が終わり、エメルが会釈した時……贈られた拍手はまばらで歓声もほとんど起こらなかった。
 人々は賛辞するのも忘れるほど彼女の歌に酔い、半ば放心状態になっていたのだ。
 エメルは特に気を悪くした風もなかった。批評ひとつもらえずオーディションを落ちたことなど今まで数え切れないほどあったのだから。
 だがステージから下がろうとした時にようやく正気に戻った人々から大歓声と拍手が沸き起こった。中には立ち上がって拍手を贈る者もいた。

「凄い。凄いとしか言いようが……」

 司会者はそう評するので精一杯だった。
 対戦者のルルージュ・リグビーは、ぼう然となって立ち竦んでいる。アイドルになりきった彼女の元気な歌唱もエメルの歌が創りだした闇のような幻想の中に呑み込まれてしまったのだ。
 リアンゼルの時と同様、審査はごく短時間で終わった。
 ステージ背後に設けられた巨大なスクリーンモニターにエメルの名前が表示される。
 拍手に讃えられたエメルはデブオタに背中を押された格好で現われ、「ありがとうございます」というようにペコペコと頭を下げ、恥ずかしそうな笑顔で懸命に手を振った。
 観客はそんなエメルの素顔を見て、ようやくホッとして笑いを取り戻した。
 そして、もう一度拍手を贈ってくれたのだった。

「みんな、白けちゃったのかと思ったけどちゃんと聴いててくれたのね。よかった」
「エメルは心配性だなぁ」

 デブオタに笑われて照れながらステージ裏に戻ろうとしていたエメルは、自分を見つめているリアンゼルに気がついた。

「……」

 彼女の顔は何かを言いたそうだったが、笑いが消えたエメルからは冷ややかな一瞥が向けられただけだった。
 肩をすくめたデブオタと共に、リアンゼルを無視して横を通り過ぎてゆく。
 リアンゼルの肩を抱いたヴィヴィアンの笑顔にだけ、デブオタが頷いて会釈した。
 かつてのいじめっ子だったリアンゼルといじめられっ子だったエメルの間に、交わす言葉などあるはずがなく……。

 唇を噛み締めたリアンゼルは、肩に置かれたヴィヴィアンの手に自分の手を重ね、己に言い聞かせるようにつぶやいた。

「大丈夫よ、負けるものですか」


**  **  **  **  **  **


 ピカデリー・サーカス広場は、ロンドンの中心部に位置するトラファルガー広場のやや西に位置している。イギリスの栄華の中心地と云ってもいいだろう。
 劇場やショッピング街が集まっており多くの人が行き交う為、ここはいつも混雑している。
 この日は特にごった返していた。交通整理の警察官まで出張っている。
 多くの人々が、街角のある一角で立ち止まっていた。それがこの日の混雑の原因だった。
 何故なら……ここから然程離れていないハイドパークでいま開かれている「ブリテッシュ・アルティメット・シンガー」の様子が、巨大な街頭モニターで中継されていたのだ。
 群がっている人々は食い入るようにモニターの画面の中を見つめている。
 画面には、多くの少女が煌びやかなドレスをまとって次々に現れる。光を浴びたひとときの間、彼女たちは栄光への可能性へ手を伸ばすことが出来るのだ。
 歌姫は歌う。自分にこそ……と、その可能性を信じて。
 そして、歌が終わりステージから下がるとまた新たな歌姫が現われ、歌う。
 その繰り返しの中で少女達は一人、また一人とスポットライトの光から外れ、姿を消していった。
 それが、彼女たち自身にとってもうたかたの夢だったように。
 だが、その繰り返しの中で消えることなく現われ、次第に人々の興味を集め始めた二人の歌姫がいた。

「今年は凄いな。見ているこっちも興奮してくる」
「おい見ろ。またあの娘が出るぞ!」

 画面を指さして一人が声を上げる。
 画面の中で自らギターを弾きながらスード・エコーの『ファンキー・タウン』を楽しそうに歌い始める煌びやかな歌姫の姿に人々はどよめき、見入った。

「あの歌いっぷり凄いな。本当はプロの歌手じゃないか?」
「まさか。そんな不正、事前審査でバレて落とされるだろう」

 勝手な憶測も交えながら彼等は、歌う彼女の汗がスポットライトの光を受けて髪と同じ黄金色に輝やいた光景に思わず目を奪われた。
 いかした街へ、楽しい街へ連れて行って……と、歌姫は聴く人の手を引っ張るように愉快な抑揚をギターでつま弾きながら歌う。
 曲が終わると人々は彼女に届かないと知っていても拍手せずにはいられなかった。

「やっぱりこの娘が優勝するんじゃないか?」
「ああ、俺もそう思う」

 画面の中でギターを掲げ、優雅に会釈する金髪の歌姫。彼女を優勝候補だとする声に賛同する人は多かった。
 だが、一方で「いや、俺はこっちの娘だと思うな」と、もう一人の歌姫を推す人々もいる。

「私もそう思うな。いや、甲乙つけ難いと云うべきなんだろうが」
「おお見ろ、始まった」
「ハー・マジェスティーズ・シアター(イギリスで最も格式のあるミュージカル劇場)に出てきてもおかしくない舞姫だな」

 画面の中では、黒髪の小柄な歌姫が糸を引くように踊りながら、透き通るような声でオリビア・ニュートンジョンの「ザナドゥ」を歌い始めている。
 アクティブに踊る中で風に靡く黒髪。その艶はスポットライトの光を受け、まるで天使の輪のように輝いていた。
 未知の楽園を歌う美しい声と共に彼女は天使のように艶やかに舞う。人々は、ひとときの間うっとりとして見入った。
 この少女は、さっきは凄惨な幻想の情景をよろめきながら歌っていたのだ。彼等は眼を疑いそうだった。
 二人の歌姫は、容姿と歌い方もまったく対照的だった。
 それが互いを更に際立たせ、人々に印象付けている。そして他の少女達より歌の実力もパフォーマンスも明らかに抜きん出ていた。
 その二人が、かつてはいじめっ子といじめられっ子だったことも、互いに今も敵対していることも、人々は知る由もない。
 その場にいた一人がため息をついて、つぶやいた。

「凄いな、この二人。出来るならどっちも優勝させたいぐらいだ……」


**  **  **  **  **  **


 第三次選考が終わると、一六人いた歌姫は更に半減し八人になった。
 オーディション開始時点で六四人いたはずの歌姫は三度のふるいに掛けられ、もう数えるほどしか残っていない。
 リアンゼルを慕って出場した三人の少女も、一人また一人と落ちてゆき、最後に残ったアンジェラも八人の中に残ることは出来なかった。彼女は「どうか、私たちの分も……」とリアンゼルの手を握って、ステージから去っていった。
 僅かなインターバルを置いて、新たな選考の開始が告げられる。
 第四次選考。
 新たな審査員達が司会者に紹介され、歓迎の拍手の中で席に着いた。
 人々が見守る中、四組の対戦が始まる。
 だが、八人の中で目立っている歌姫は、誰の眼にももう明らかだった。
 最初の対戦カードに登場したリアンゼルがギターの伴奏と共に歌ったのは、パドル・オブ・グラィムの「オパシティ」だった。

「Tell me whether the day when this pain is healed comes」
(この痛みが消え去る日は来るのだろうか。ああ、誰か教えてくれ)
「You had only these pains and have left somewhere...」
(お前はこの痛みだけを俺の心に残して、どこかへ去ってしまった……)

 リアンゼルは冬の雨に身を晒して歌ったあの日を思い出し、歌った。
 土砂降りに打たれてもっと強くなってやる、と心の中で叫んだあの日の想いは今も彼女の中に燃え盛っているのだ。
 嵐のような歌声と咆えるようなギターの伴奏に人々は沸き経ち、歌い終わると同時に拍手と大歓声が彼女を讃えてくれた。
 次に対戦相手の歌姫が登場し、こちらも懸命に歌ったが、最初の対戦相手だったレイシス同様、リアンゼルの歌にはついに及ばなかった。
 曲が終わって選考が始まったが、間もなくステージ背後に設けられた巨大なスクリーンモニターにリアンゼルの名前が表示された。
 リアンゼルはホッとして会釈すると拍手の中でステージ裏へ戻ろうとした。
 その時だった。

「リアンゼル! リアンゼルさん!」

 観客席の脇から懸命に呼びかける声がする。その必死な声色に彼女は思わず振り向いた。

「誰?」
「私、ディアンナ・フォバートって言います。頑張って下さい。応援してます!」

 眼にいっぱい涙を溜めて叫んでいるのは、まだ青梅の実のような少女だった。

「私もあなたみたいな歌手になりたい。来年はきっとそのステージに……」

 手にはくしゃくしゃになったオーディションの通知書が握られている。きっと事前選考で落とされ、失意に打ちひしがれたまま観客席から見ていたのだろう。
 ここにも自分を道しるべに懸命に夢を追おうとする未来の歌姫がいる。
 思わず胸を打たれたリアンゼルは「ありがとう! あなたも頑張ってね、今度はきっとここに立つのよ。約束よ」と励ました。
 少女はわっと泣き出して両手で顔を覆った。周囲にいた友人らしい少女達が「よかったね!」「凄いよ、あの人に約束されたよ!」と、もらい泣きしながら声を掛けている。
 自分も眼頭が熱くなったリアンゼルは慌ててステージ奥へと引っ込んだ。

「リアン、あの娘と約束を交わしたのね」

 見守っていたヴィヴィアンが微笑みながら迎えてくれた。

「ええ。偉そうに言っちゃったけど……困ったわ。私、まだ優勝した訳でもないしプロ歌手になれた訳でもないのに」

 ため息をついたリアンゼルを見てヴィヴィアンは微笑んだ。

「だったらなおさら優勝しなくちゃね。あの娘は来年きっと今のあなたのようになるわ」
「まさか」

 苦笑したリアンゼルに、ヴィヴィアンは真顔で告げた。

「予言してもいい。あの娘はきっと生命を賭けても必ずこのオーディションを目指してくるわ。去年のあなたのように」

 ヴィヴィアンは、不思議そうな顔をしたリアンゼルの「ヴィヴィ、あの娘のこと知ってるの?」という問い掛けには答えず、逆に尋ねかけた。

「リアン、憶えてる? 去年の冬、ディファイアント・プロダクションをクビになったこと。あなたではなく別の娘がオーディションを受けることになった、と私は言った」
「ええ」

 リアンゼルは頷き、顔から笑みが消えた。
 あの日の鋭い心の痛みが胸に甦ったのだ。

「そういえば出場者の中に見知った顔はなかったわね。その娘は私やエメルと一緒に今ここに残っているの?」

 ヴィヴィアンはかぶりを振って微笑んだ。

「さっきの娘よ」
「えっ?」
「ディアンナ・フォバート。まだ歌唱力も未熟なまま精一杯頑張ったけれど、事前審査で落とされた。あの娘がディファイアント・プロダクションから出場したのよ」
「えっ……あの娘が?」

 解雇された自分が必死に努力を重ねて今ここに残っているのに、自分をクビにしてプロダクションが出場させた少女は、ステージに上がることすら叶わなかったという。
 リアンゼルには、にわかには信じられなかった。

「あの娘、私より見込みがあるはずだったんじゃなかったの? ……だからメイナードは私をクビしたんじゃ……」

 ヴィヴィアンはもう一度かぶりを振った。

「リアン、今だから教えてあげる。ディファイアント・プロダクションには暗黙のルールがあるの。プロダクションに所属する娘はブリテッシュ・アルティメット・シンガーに一度しか出られない。すべての娘に公平をチャンスを与える為に」

 それはリアンゼルが初めて聞く話だった。

「あなたは去年出場した。だからディファイアント・プロダクションにいる限り、本当はもう二度と出られなかったの。だけど、あれほどの努力を見たメイナードも私も、もう一度あなたに出場して欲しかった。だから解雇するしかなかったの」
「……」
「そして後ろ盾を無くしたあなたの傍にいたい、一緒に戦いたい……そう言って私も解雇してもらったの」

 リアンゼルは唖然としてマネージャーの告白を聞いた。

「あなたが自分で立ち上がった時、きっと強く立派になってくれる。そう信じていたわ。だから今までずっと黙っていた」
「……」
「栄光はもう手の届く場所にある。あなたは立派な歌姫よ」

 ヴィヴィアンはぼう然となったリアンゼルの頬に唇を触れると、耳元でささやいた。

「愛してるわ、リアンゼル。私の歌姫……」


**  **  **  **  **  **


 一方。
 人々の注目を集めるもう一人の歌姫は四組目、最後の対戦カードに姿を現した。
 きしるような序奏が流れる。
 エメルがまるで虚無にとらわれたような口調で歌いだし、憎しみに駆り立てられたように踊りだすと、人々はまたしても驚かされた。
 ナードパークの「インセンシブル」。
 この美しい歌姫のどこからと思われるほどの猛々しさに人々は息を呑んだ。
 だが、エメルの内にはこの曲に託した怒り、人々の知らない怒りがあった。
 それは……

 ――光の当たる場所には立ち入るな、いつまでもゴミ溜めではいつくばってろって言うのか、笑われて見下される為に!

 あの冷たい冬の雨に打たれながら叫んだデブオタのやるせない想い。
 エメルは、このステージから人々へ彼の怒りを歌という形で見せつけてやりたかったのだ。
 観客に向かって、叩きつけるように彼女は歌う。

「Somebody took my hope. It is stepped on and will be broken too」
(俺の望むものはまた誰かに奪われ、そして踏みつけられるのだろう)
「But I know it. Somebody also crushes the thing which you hope for and will step」
(だけど俺は知っている、踏みつけたお前が尊ぶものもまたそうなるのだと。いつの日か誰かに砕かれ、踏みにじられるのだと)

 それはリアンゼルと同じ種類の怒り。しかし異なる想いに染まったエメルの怒りだった。
 その怒りの因るところは知らなくとも、その怒りと悲しみの入り混じった想いは歌から人々へ痛いほど伝わってくる。
 曲が終わるや否や、大きな拍手と歓声で人々は彼女の激唱を讃えてくれた。
 頬を紅潮させてエメルが歓呼に応えている様子を見ながら、舞台の袖幕からデブオタは胸が熱くなるのを抑えられなかった。
 彼女が歌に籠めたものが何なのか、本当に知っている者はただ一人、あの日それを叫んだ自分自身だけなのだ。

「凄い歌姫ですね」

 横から話し掛けられたデブオタは、彼女から目を離せないまま自慢せずにはいられなかった。

「おお。あんな立派になりやがって。一年前、人に隠れて蚊の鳴くような声で歌ってたあのエメルが……」
「えっ、そうだったんですか?」
「そうさ。最初は人に聞こえるような声を出す特訓から始めたんだぜ。命懸けだったなぁ」

 思わず目を細める。あの時の苦労が今は何もかも懐かしかった。

「でも、今のあの姿を見てくれよ。オレ様の生命も賭けた甲斐があったってもんだぜ」

 思わずため息をついたデブオタは「文字通り精魂を傾けられたんですねぇ」と感心したような声に「ああ」と嬉しそうに頷いた。

「だとしたらあの娘も凄いが貴方も大したものですよ、春本ヤスキさん」

 呼びかけられた偽名にギョッとなり、そういえば自分に話し掛けているのは一体誰だとデブオタは横を向いた。

「音楽で知られた日本人はセイジ・オザワ(小澤征爾:世界的に有名なオーケストラ指揮者)ぐらいなものだろうと思っていましたが、なかなかどうして」

 ニコニコしながらマイクを向けているのはオーディションの司会者だった。
 しかも彼の後ろには撮影スタッフがいて自分にカメラを向けている。
 つまり、オーディションをテレビやネット中継から見ている世界中の人々は……今、自分を見ているのだ!
 いつも豪胆なはずのデブオタは真っ青になり、肝を宙に飛ばして逃げ出そうとした。

「あ、待って下さいよ。ダンボール箱に隠れるなら後で差し上げますから」

 イギリス流のジョークに観客はどっと笑ったが、デブオタは笑うどころではなかった。
 更にステージから戻ってきたエメルが「そうよ、デイブは凄いのよ!」と、彼の腕を取って自慢を始め、デブオタは逃げることも出来ずオロオロするしかなかった。

「ミスターハルモトは日本からわざわざ来られて彼女をスカウトされたんですか」
「ええ、まぁ……」

 まるで一年前のエメルのように、蚊の鳴くような声でデブオタは答えた。
 出来ればカメラのレンズから姿を隠したいのだが、エメルは誇らしげにその腕を掴んで離そうとしない。

「いろんな歌い方もダンスステップもみんな彼が私に教えてくれたのよ!」
「ほほう、日本流という訳ですか。道理で目新しい訳だ」

 そう言われ本当なら胸を張ってもいいところなのだが、当のデブオタは泣きそうな顔で身を縮こまらせている。

「それにしても素晴らしいものでしたよ」
「あ、ありがとう。それよりほら……エメルの対戦相手を待たせたら悪いんじゃないか?」
「ああ、そうでしたね。これは失礼」

 水を向けられた司会者はもとより一言か二言コメントを求めるぐらいのつもりだったらしく、笑顔で「では」と会釈してステージへ戻っていった。
 デブオタは安堵のため息を漏らすと、思わずその場にヘタヘタとくずおれた。

「デイブったら、一体どうしたのよ」
「いやその、オレ様みたいなデブが映ったらさぞかし嫌な目で見られるだろうって思って怖くてな。それにその、名前を呼ばれるのが……」

 語尾の方は口の中でモゴモゴ言っていて聞き取れなかったが、エメルは厳しい目でデブオタを睨んだ。

「何故嫌な目で見られるというの? デイブはデイブよ」
「エメル」
「この舞台に連れて来てくれた貴方を蔑む奴がいたら私が許さない。目にもの見せてやるわ」
「……」

 デブオタは、驚いたように目の前の歌姫を眺めていたが、それまでの情けない顔が優しく解け、ふっと微笑んだ。

「そうか」
「デイブ」
「その言葉だけでいい。オレ様はそれだけで、もう充分過ぎるくらいだ」
「……」
「ありがとう、エメル。ありがとうな」

 エメルは、そのとき彼が見せた顔と似た表情を以前にも見たことがあった。
 それは歌手志望の少女達と一緒にお茶を飲もうとするエメルに自分は行かないと断ったときの笑顔だった。

 ――オレ様なんていない方がいいからさ

 寂しさの入り混じった笑顔は、エメルだけが知っているデブオタの素顔。
 そして今見た笑顔は、その時よりもずっと嬉しそうだった。心からの笑顔だった。

「デイブ……」

 蔑む人々の世界と相容れないことを知っている男。そんな蔑みを自分に代わって跳ね返してやるという彼女の言葉は、彼の傷ついた心を癒してあげられたのだ。
 エメルは顔を伏せ、思わず自分の胸を手で抑えた。
 そうしないと、彼を想う気持ちが溢れてもう止められないような、そんな気がして。

 背後のステージからは司会者の声がエメルの勝利を告げ、彼女を讃える拍手が遠い潮騒の音のように二人の耳に聞こえてきた。


**  **  **  **  **  **


 わずかなインターバルを置いて、第五次選考が始まった。
 勝ち残った歌姫はもう四人だけである。対戦カードもとうとう二つきりとなった。
 そして、その前者にリアンゼルが、後者にエメルがいた。
 最初の対戦カードに出場したリアンゼルは、序奏と共に丸ブチの大きな青いメガネを掛けてステージに現われた。

「I heard your radio program in old days. The timeworn transistor radio of my house was a magicbox」
(僕は昔、君のラジオ番組に夢中だった。僕の家の古ぼけたトランジスタラジオは魔法の箱だった) 
  「My request tune played from a radio and was very happy. The nostalgic times. As for the street life, every day was fun」
(僕のリクエスト曲がかかったとき、天にも昇る心地がしたものさ。思い出すと胸が痛む。のどかなあの時代の街の中で)

 彼女が歌い始めたのは、リトル・バグの名曲「レディオスターの去った後に」だった。
 素晴らしい選曲に会場は歓声に包まれる。観客の中には「Oh-a,oh」とコーラスする者、合いの手の拍手を打つ者まで現われた。
 メガネはボーカル歌手のトレードマークで、彼に為り切って歌うための彼女なりの演出なのだろう。それはちっとも似合っていなかったが、人々の眼には微笑ましく映った。
 そして、彼女の美しい歌声は古い時代を懐かしむノスタルジックな歌詞を優しく歌い上げる。

「Changed in the times. From a radio to the Internet. I can not hear your voice from an already old radio」
(時代はうつろう。ラジオからインターネットへ。もう魔法の箱から君の声は聴こえてこない)
「The Internet radio cannot return anymore in those days, we can't rewind we've gone to far」
(ネットラジオじゃあの頃には戻れない。ああ、あまりにも遠くまで僕らは来てしまった)

「えらい歓声だ。アイツも凄いな」

 ステージ裏で聞きながらデブオタは、肩をすくめた。もうここに他の少女は誰も残っていない。

「いじめっ子で負け犬だった頃は小物風情ってカンジだったのになぁ。ついにラスボスまで進化しやがって、ううむ……こりゃお見それしましたって奴だな」

 苦笑いしながらデブオタはブツブツ言っているが、エメルは何も言わず静かに微笑んでいる。

「あの綺麗なマネージャーが矯正したのかな。何だか随分オレ様のことを買い被ってたみたいだが」
「……」
「ま、どうでもいいや。そんなの気にしてる余裕なんかこっちにゃねえっつーの、なぁエメル」
「……うん」
「エメル、さっきから黙ってるけど……緊張してるのか?」
「ううん」

 エメルはかぶりを振ってデブオタを真っ直ぐ見つめた。

「デイブを見ていたら私、落ち着いていられるの」
「そ、そうか……」

 むず痒い顔になったデブオタだったが「オレ様の顔なんぞで落ち着くなら幾らでも見てくれ」と笑った。
 エメルも笑ったが、その表情は嬉しそうというより、まるで愛しむような色を浮かべている。
 デブオタは困ったように視線を左右に逸らしてはしきりに鼻を掻いた。
 しばらくすると、リアンゼルの対戦相手の歌が聴こえてきた。この後の審査が終われば、次はエメルの対戦カードが始まることになる。

「もうすぐ出番だな。まぁエメルなら楽勝だろ」
「相手の娘、有名なプロダクション出身だって。歌が凄く上手って審査員に褒められてたわ。負けるかも知れない」
「勝てるさ。エメル、この一年お前がどれだけ頑張ってきたか思い出してみなよ」
「……」
「エメル以上に頑張った奴は誰もいない。だから心配することはないさ」

 さっき、カメラを向けられてオロオロしていた男とは思えない「オレ様を信じろ」というデブオタの力強い言葉にエメルは頷いた。

「そうそう、うっかりするところだったぜ、これを見てくれよ。秘密兵器を用意したんだ」

 デブオタは自慢そうにそう言うと、例の擦り切れかかったリュックサックを引っ張り上げた。

「秘密兵器?」
「この後の出番でエメルが勝ったら次はいよいよアイツとの対決になる。かつてのいじめっ子相手に一筋縄じゃいかねえだろう。そこでだ」

 リュックサックの口を開くと、そこには紙筒らしいものがぎっしり詰まっていた。
 紙筒は太さがバラバラだったが、一見してそれが何なのかエメルには分からなかった。

「デイブ、これって一体……」
「花火」

 ニカッと笑ったデイブの向かい側で目を丸くしたエメルは、その小さな口も丸くしてオーの字を作った。

「は、花火って……」
「オレ様が観客席のあちこちからこれを打ち上げる。それもライブの時に上がるような派手なだけの演出じゃねえ、エメルの歌の要所要所にタイミングを合わせて打ち上げてやるんだ。フヒヒッ」
「そ、そんなこと出来るの? 捕まったら……」
「なぁに、そんなヘマはしねえよ。観客がこれだけいりゃあ紛れ込んで逃げるなんざ楽なもんさ。ま、エメルの為なら別に捕まってもいいけどな」

 肩を揺すってデブオタは吼えるように笑った。

「客と一緒にうおーって盛り上がってハイになれたらさ、アイツが鬼みたいな顔して睨んでいようが怖かねえだろ、ガーハハハ!」
「……」

 リラックスして歌えるように、彼はまた身体を張ろうとしている。
 エメルは涙が出そうになったが必死にこらえた。
 だが涙をこらえても、心から溢れ出してくる目に見えない何かを押しとどめることはもう出来なかった。

「……」

 エメルはその何かに突き動かされるように立ち上がり、デブオタへ向かってふらふらと近づいた。
 ステージからは、リアンゼルの名前を称讃する歓声と拍手が聞こえてくる。

「アイツやっぱり勝ったな。エメル、負けるなよ」
「……」
「ほら、お前の名前が呼ばれてるぜ。さぁ行って来い。思いっきり歌って来い!」

 その声にエメルは張り切って走り出す……てっきりそう思ったのに、彼女は自分の目の前に佇んでいる。
 デブオタは怪訝そうな顔になった。

「どうした、緊張しちゃったか? リラックス、リラックスな」
「……デイブ、私がこれから何を歌うか知ってるわよね」
「お、おお」

 デブオタは、エメルのどこか奇妙な様子に気圧されながら答えた。

「My heart is dyed your eye color(恋は貴方の瞳に染まって)」

 頷いたエメルは、頭ふたつ分は背の高いデブオタの顔を見上げた。潤んだターコイズグリーンの瞳は、まるで宝石のように美しく輝いている。

「デイブ、その歌を上手に歌えるおまじないがあるの」
「おまじない?」
「ええ、それをしたらきっとこのステージも勝てるわ。していい?」
「おお、いいとも。しろしろ。でもそのおまじないってのは一体何……」

 デブオタが言い終わらないうちに、エメルは爪先立ちになって両手で彼の顔を挟んだ。
 そして、何をしようとしているのかまだ理解出来ないでいるデブオタを優しく見つめると瞳を閉じ、その唇に自分の唇をそっと重ねた。

「……」

 恥ずかしさと、そして幸せな気持ちで心がいっぱいになった。
 この気持ちそのままに歌おう……そう思ったエメルは笑顔を浮かべると、ぼう然となったデブオタをその場に残し、駆け出していった。

 眩い光のあふれるステージに向かって……


**  **  **  **  **  **


「皆さま、第四八回ブリティッシュ・アルティメット・シンガー・オーディションは、遂に最終ステージを迎えました」

 会場には「御静聴をお願いします」というアナウンスが再び流れたが、ここに至って観客はざわめきを抑えられることが出来なかった。
 司会者の声も、興奮の色を隠し切れない。
 昨年も、一昨年もこの最終ステージに立った歌姫はいなかった。
 一昨年は残念そうな観客に向かって彼は「皆さん、次回こそ栄冠を手にする素晴らしい歌姫が現われますよ。また来年、ここでお会いしましょう」と慰め顔で締めくくった。
 だが、昨年も結局同じ結果を同じ慰めで繰り返すしかなかったのだ。
 白けた観客の顔を見て、彼自身、どんなに忸怩たる思いをしたことか。
 それが、今年は……

「一昨年も去年も誰も立てなかった最終ステージに、二人が残って競うことになりました。それも優劣つけがたい、素晴らしい歌姫が」

 彼が嬉しそうに手を差し伸べて歌姫達を招くと、それだけで歓声が沸いた。

「最終ステージに残った二人をご紹介いたします。ギターを弾く金色の歌姫、リアンゼル・コールフィールド!」

 マネージャーに手を引かれてステージに進み出たリアンゼルは、金髪をさっと一振りすると右手を左胸にあてて優雅に一礼し、拍手を受けた。

「対するは漆黒の可憐な舞姫です。エメル・カバシ!」

 まるで魂でも抜かれたような表情のデブオタを引き摺るようにして現れたエメルは両手を広げ、風でも起こすようにクルリと舞うとそのまま一礼して喝采を浴びた。
 エメルとリアンゼルの視線が一瞬交錯する。
 かつてのいじめっ子といじめられっ子。二人の歌姫の間に激しい火花が散り、互いに顔を背けた。
 一方、ヴィヴィアンはデブオタへ「どうぞお手柔らかに」と云うように笑いかけたが、そのデブオタはまだ放心状態で気が付かない。
 鉄の心臓を持った男が一体どうしたのだろう、と彼女は怪訝そうな顔をしたが、エメルが「もう一回したら元に戻るかなぁ」とデブオタに近づき、彼が「エメル……ちょっ……おまっ……」と慌てふためいて飛び上がったのを見て「なるほどね」と、笑い出した。

「では、最終ステージの審査に御呼びした先生方をご紹介します」

 クスクス笑うヴィヴィアンの向こうで、司会者にスタッフから審査員リストが手渡された。審査の公平を期する為に、最終審査員が誰なのか司会者にもこの時点まで伏せられていたのだ。
 ステージ背後に設けられた巨大なスクリーンモニターの画面に「Judges of the final review(最終審査員)」という文字が表示され、審査員の数だけ画面が分割される。
 司会者は渡されたリストを読み上げ始めた。

「外国の著名な音楽プロデューサー、音楽事業家の方々です。ご紹介します、アメリカからランディック・ジャックソン、ドイツからアンナリーザ・ラウン、オーストラリアからカイリーラ・ミーグ……」

 分割した画面に審査員が現われて紹介されるたび、拍手が起きる。
 審査員に興味のないリアンゼルはその場でギターの調弦を始めた。手慣れた手つきでペグを弄りながら「ねえ、ヴィヴィ。最後に歌うこの曲って何だか……」と戸惑ったようにマネージャーへ話しかけている。
 デブオタと云えばようやく再起動したらしく「いけねえ、しっかりしろ。仕掛けの準備を……」とかブツブツ言いながらリュックサックの中をゴソゴソ引っ掻き回していた。

 そして……異変が起きたのは司会者が読み上げている言葉の途中からだった。

「フランスからはラファール・アルシエ。そして日本からはハルモト・ヤス……キ……?」

 驚愕と困惑に、声が途切れた。
 ハルモトヤスキ。
 それはエメルと共に今、ステージの上にいるプロデューサーのはずだった。現に司会者は二つ前の選考の折に彼へインタビューしていたのだ。
 だが、公平な立場であるべき審査員が、同時にオーディションに出場する歌姫のプロデューサーでもある、ということは絶対にありえない。

 では、ステージの上にいる男は一体何者なのか?

 司会者や観客達、テレビカメラの視線が一斉にデブオタを向いた
 驚愕と疑惑の視線を一身に浴びたデブオタは恐怖に立ち竦んでいる。傍らのエメルが心配して何度も呼びかけるが狼狽の余り耳にも入らない。
 そして、巨大なスクリーンモニターでは他の分割画面をサムネイル化して端に押しやり、一人の日本人が現われた。

「I am one of the jury to participate in the British Ultimate Singer auditions from Japan . My name is Yasuki - Harumoto.(日本からブリテッシュ・アルティメット・シンガーの最終審査の栄誉を担いました、ヤスキ・ハルモトと申します)」

 画面の中から流暢な英語で名乗ったのは、高級そうなビジネススーツを着た五〇代の日本人だった。
 やや太り気味で黒ブチの眼鏡を掛けた男。外見はさほど目立たないが、その眼光は氷のように冷ややかで強烈な存在感を放っていた。
 見るからに鋭利な頭脳を持ったプロデューサーだが、あまりにも酷薄そうな印象に、人々は息を呑んだ。
 そして、彼は人々が抱いたそんな印象通りの男だった。
 彼は「もう一人のハルモトヤスキ」を冷然と見下ろして呼びかけた。

「ところで君は誰なんだ? ハルモトヤスキ君」
「……」
「誰かと聞いている。口が利けないのか?」
「……」
「では質問を変えよう。僕の名前を騙って、君はここで何をしているんだ?」
「……」
「何をしているのかと聞いている。口が利けないのか?」
「……」
「答えろ!」

 激しい声に、傍観者達でさえ思わず震え上がった。
 あれほど盛り上がっていた会場の雰囲気は、男の声によって一変した。まるで裁判の場のような厳しい空気へと。
 デブオタは……何も答えられなかった。

「おおかた君はイギリスだから僕の眼が届かないとタカをくくっていたんだろう。だから僕に成りすまし、アイドル育成の真似事でひと儲けを企んだ」
「……」
「そして調子に乗り、こともあろうかこのオーディションにまでしゃしゃり出てきた訳だ。君のことはそこにいるリアンゼル・コールフィールドが教えてくれたよ。僕の名前を騙り、英国でもっとも権威あるオーディションへ歌姫を出場させようとしている不届きな男がいますとね」

 本物の春本ヤスキが口にした密告者の名前に、人々はどよめいた。

「ち、違うの……私、そんなつもりじゃ……そんなつもりじゃ……」

 驚愕の視線を浴びたリアンゼルは、顔を蒼白にして首を振った。
 確かにあの日、心に浮かんだ誘惑のまま自分は彼を売ろうとした。
 それでも危ういところで踏みとどまった……彼女自身はそんなつもりでいたのである。
 だが、現実はそうではなかったのだ。
 優勝したいが為にライバルを売った卑劣な歌姫……そんな侮蔑の視線に怯えたリアンゼルをヴィヴィアンが必死に庇う。二人は声もなく抱き合った。
 一方で、春本ヤスキはデブオタへ追及の手を緩めようとはしない。

「君は何の資格があってこのオーディションに参加出来たのか?」
「……」
「君は歌手を育成する資格があるのか? あるならここで証明してくれたまえ」
「……」

 言葉の礫とはこのような糾弾を指すのだろう。デブオタは何一つ答えることが出来ず、ただ身体を震わせているばかり。

「なるほど。何も答えられない、そういうことしたと君はいま自ら証明した訳だ」
「……」
「そこがどれほど高貴な舞台か君は理解しているのか? 光の当たる場所、人々の尊敬と賛辞を受ける場所だ。そんな場所に何の資格もないニセモノが立つとはどういう了見だ? 身の程をわきまえろ!」

 容赦ない罵倒を浴び、日本にいた頃と同じようにデブオタは声もなくうなだれた。

「やめて。お願い、もうやめて……」

 エメルはデブオタの身体にしがみ付き、懸命にモニターの男へ呼びかける。
 自分の小さな身体で出来るなら、非難の言葉も疑惑の視線も彼に代わって受けてあげたかった。

(あなたはクズなの、ゴミなの。日向には出てきちゃいけないの……)

 一年前、ただいじけて悪罵に耐えていたエメルだからこそ、他の誰よりも知っていたのだ。今、デブオタが身を切られるように辛い思いに黙って耐えているのを。
 だが、ヒエラルキーの頂点に立つ男はかつてのいじめっ子より容赦なかった。
 画面の中から指をさし、鞭を振るうように宣告する。

「聞こえないのか? ここは君のような奴が立っていい場所じゃない。ゴミ風情が、とっとと失せろ!」

 目顔で促され、四人の警備員達が近づいた。顔面蒼白になっているデブオタの腕を掴み、しがみ付いたエメルを引き剥がす。

「ま、待ってくれ! せめて最後のステージに立ち会わせてくれ……」

 デブオタは懇願したが、画面の中の春元ヤスキは「つまみ出せ」とばかりに厳然と顎をしゃくった。
 懸命に抗ったが、退職軍人らしい屈強な警備員達が相手ではデブオタが敵うはずもない。荒っぽく身体のあちこちを掴まれ、引き摺るように連れ去られてゆく。

「待って、お願い! デイブを連れていかないで!」

 エメルは必死に取りすがったが、警備員の一人に抱き止められてしまった。

「お願い、デイブを返して!」

 だが、エメルの声に警備員は顔色ひとつ変えない。二人は、冷徹なヒエラルキーの前に無残に引き離されてゆく。

「……」

 デブオタはとうとう諦めたように、もがき暴れるのをやめた。
 心の準備さえ与えられなかったが、どこかで予感していた別離の時が来たのだと……それが突然だったのだと理解するしかなかったのだ。

「あああああああああああー!」

 よろめいて膝をついたエメルは手で顔を覆って泣いた。人目も憚らず、声を放って泣いた。
 デブオタはもうステージから連れ出されようとしている。
 騒然となっていた会場も、一瞬シンとなった。

「こんななりゆきになりましたが……皆様、よろしいでしょうか」

 とてもそんな雰囲気ではないことは重々知っていたが、司会者は役柄上、この場をいつまでもそのままにしておくことも出来なかった。
 気まずそうな声でオーディションの再開を告げる。
 もちろん、白けきった会場から拍手など起きるはずもない。エメルやデブオタに同情する声やリアンゼルを非難するブーイングが幾つも上がった。

「ミス・エメル。あなたのステージですが……歌えますか?」

 おそるおそると云った様子で司会者が尋ねかけた。
 手折られた花のようにうずくまったエメルは、力なくかぶりを振る。
 さっきまで万を超す観客に向かって堂々と歌っていたのに、歌えるかと問われ身体が震えだした。まるで、かかっていた魔法が解けてしまったように。
 デブオタが傍にいない。
 彼がいてくれたからこそ、今までどんなことだって出来たのだ。彼を奪い取られて、今までのようにどうして歌えよう。
 まるで一年前に戻ったように彼女はうなだれ、泣いている。
 司会者は小さなため息をつき、振り返ってエメルの棄権を告げようとした。
 そのときだった。

 従容として連れ出されかけていたデブオタが、突如として警備員の腕を振りほどいてステージへ走り出した。
 そして、あらん限りの声で叫んだ。

「オレはニセモノでもお前は本物だ! 頑張れ、エメル! 歌うんだ!」

 ハッとなって顔を上げたエメルへ、デブオタは声をしぼり出した。
 歌姫を目指して公園で練習を始めた日、彼が彼女に託した願い。

「オレみたいな惨めな奴を歌で抱きしめる、優しい歌姫になってくれ……!」

 追いついた警備員がラグビーのタックルでもかけるように彼に組み付いた。そのままどうと倒れたデブオタに別の警備員が覆いかぶさる。他の警備員も駆け寄り、しばらくの間大捕物のような騒ぎになったが、それも短い間のことだった。
 しばらくすると、警備員は四人がかりで寄ってたかって暴れるデブオタの手足を持ち上げ、そのまま神輿でも担ぐようにして連れ去っていった。

「デイブ……」

 エメルは、涙でもうデブオタの姿が見えなかった。
 それでも「泣くな! 涙はスターになるその日のためにとっておけ!」と叫ぶ声が遠くから聞こえてきた。
 そして、それがエメルが聞いたデブオタの最後の言葉になった。

(デイブ、デイブ……最後まで私のために……)

 ふらふらと立ち上がったエメルの視界の端に、蒼白になって佇むリアンゼルの姿が見えた。まともにエメルと顔を合わせることが出来ず、震えている。
 デブオタの渾身の叫びを聞いた春本ヤスキが、モニターの中で唇の端を歪めて嘲笑った。

「ふん、ニセモノが……」

 そしてその言葉を聞いた瞬間。
 それまで悲しみでいっぱいだったエメルの内に、突然激しいものが迸った。
 言葉で形容しがたい何か、怒りにも似た何かが込み上げる。


 ――ニセモノなものか! 自分を歌姫にしてくれたあの人が!


 エメルは涙をぬぐい、背筋を伸ばした。息を整え、周囲を見渡す。
 引き攣った顔のリアンゼル、気の毒そうにしている司会者、息を呑んで見守っている会場の観客達、向けられたテレビカメラが眼に飛び込んできた。
 ……カメラの向こうにも、多くの人々がいるはずだった。
 彼等は、デブオタが侮辱されたその一部始終を見ている。
 このまま、あの男の言葉を聞いただけで終わってしまったら、世界中の人々はデブオタがニセモノのプロデューサーだと思ってしまうだろう。
 歩き出したエメルは、怯えて思わず身を引いたリアンゼルの肩からすれ違いざまファーストールを剥ぎ取った。
 リアンゼルは小さな悲鳴を上げて尻餅をついたが、エメルは振り向きもしない。
 歩きながらストールで涙の残りを拭き、思い切り鼻をかんでそのまま投げ捨てた。
 立ち止まる。
 顔を上げる。
 そして、巨大なモニターの向こう側で傲然としている男を睨みつけた。


 ――デイブを蔑んだ貴方に見せてやる。あの人がニセモノなんかじゃないってことを!


 その眼の凄まじさ。
 ヒエラルキーの頂点に立つ男は、稲妻にも似た歌姫の激しい視線を受け、思わずたじろいだ。
 エメルの小さな身体いっぱいに力が漲る。
 燃えたぎるような熱い使命感が、いま彼女をかつてないほど奮い立たせていた。
 一年前、蚊の鳴くような声で歌っていた泣き虫のいじめられっ子がどんなに変わったのか、今、見せてやる……この一年間彼と共に培った自分の力、その全てを!
 ステージの中央から観客席の端まで歩み寄ったエメルは、胸についたワイヤレスマイクに目をやると大きな声で観客席へ呼びかけた。

「I prove that the man who was in this place until a while ago is a first-class producer. Please listen to all of venue, my song!(ここにいた彼が本物のプロデューサーであることを私が証明するわ。みんな、聴いてちょうだい!)」

 憤懣やる方ない気持ちで燻っていた会場は、エメルの呼びかけを聞いて一瞬で沸騰したように凄まじい歓声を上げた。
 彼等は、歌姫を栄光のステージに立たせてくれた男が罵倒され追い出された様子を目の当たりにしていた。
 そして、健気にも立ち上がった歌姫は彼の屈辱を自らの歌唱で晴らすと云うのだ。
 空気を震わせるほどの大歓声と嵐のような拍手が彼女を讃える中、エメルはアカペラで歌い始めた。

「If you find your wish in the world that you have not yet looked at. Find your hidden key without giving it up...」

 デブオタが自分の全財産を差し出してイギリスきっての作曲家ピクシー・スコットに依頼した、ブリテッシュ・アルティメット・シンガーのラスト・ソング。
 オリー・ザガリテ「シュアリー・サクセスド・トゥモロー」。
 全身を声帯にする思いで歌姫は歌う。
 演奏を担当するスタッフが気を利かせ、歌声に伴奏がフェイドインして入って来た。
 エメルは目を伏せて俯くようにポーズを取ると一転、軽やかにステップを踏んで踊り始める。
 その鮮やかな身のこなしに、審査員達から思わず嘆声が漏れた。

「If you feel hidden one's power. Your heart surely flares up hot. The talent that God gave somebody is false. The truth that you felt is true power」
(もし隠された己の力を感じたら、心は熱く燃え上がりはじめる。誰かに与えられた才能なんてただの偽り。あなたが今感じた真実こそが本当の力なのよ)
「When you were tired, remember a promise with me, no don’t ever stop.」
(辛いときは思い出して、己の信じる道をひたすらに進むと誓ったあの日を)

 奇しくもと云うべきだろうか。その歌詞はそのまま今のエメルを謳っていた。
 そう、ピクシーが彼女に相応しい歌に思い当たりがある、といっていたのは、まさしくこの曲目だったのだ。
 彼女は意識して歌詞に自分の気持ちを重ね、美しい歌声を響かせる。

「You do not move only by words. The power of the heart moves you. The guidance named the passion」
(薄っぺらい言葉なんかじゃ動けない。情熱という心の力に導かれ、あなたは走り出した)
「Surely you who could do it believed so it and should have begun it. Follow what's in your heart. And reach for the highest star」
(きっと出来る、あなたはそう信じて始めたはずよ。だから諦めないで。夢を追い続けて。あの輝く星に手が届く時が必ずくるわ)

 どんな激しいステップでも軽々と踏めた。
 空だって飛べそうなほど高く跳躍出来た。
 のけぞった背中は竹のようにしなり、透き通るような歌声は聴く人の心を心地よく震わせる。人々は彼女の背中に翼がついているのか、と思わず見入った。
 連れ去られたあの男が彼女に授けた、見えない翼が……

「Take you higher, reaching for the top!」
(さぁ、もっと高く! 輝かしいあの頂きを目指して)
「You have the power that you make an effort and obtained. It has nobody other! It surely leads you to the success」
(必ずあるわ、誰にもないあなただけの力が! それはきっとあなたを栄光へと導く)

 その華奢な身体のどこからと思えるほどの歌声に会場のボルテージは凄まじく高まっていった。
 観客席の人々は、雄叫びにも近い歓声を上げて熱狂し、この小さな歌姫を讃える。
 巨大スクリーンの中からその光景を春本ヤスキは苦々しげに見つめていたが、そんな彼を気にする観客はもう誰もいなかった。
 格式高いはずのラスト・オーディションは、情熱を燃やし心を凝らして歌うエメルによって最高のライブステージと化したのだった。

「You are not afraid even of how steep course. The faith helps you. And I can climb the steep mountain path」
(それがどんなに険しい道でもあなたは恐れない。固く信じる心があれば、その心は力になるのだから)
「You are not afraid of the big river with the whirlpool so much either. The courage helps you. And I am with you to the other side of the river」
(それが渦巻く大河でもあなたは怯まない。その河を渡る力があなたにはあるの。勇気があなたを対岸へと導くはずよ)

 彼女が声を高めるとそれだけで新たな歓声が沸いた。手を差し伸べると観客席から幾千もの手が応え、風に身を任せるようにステップを踏めばどよめきが起きる。
この会場の何もかもが彼女の思いのままだった。
 目に入る誰もが彼女と気持ちを共にし、笑顔で声援を贈ってくれている。
 エメルは涙が出そうなくらい嬉しかった。

「It is the day when you obtain a dream today」
(今日がきっとその日になるわ。あなたが夢を手にする運命の日)
「You made an effort from that day to today. Nobody was able to do it. I believed it」
(あの日から己を鍛え培ってきたのは、誰にも真似出来ないあなただけの力。私はそれを信じていたの)

 デイブ、聴こえる? この歓声が。この拍手の音が。
 みんなみんな貴方がこれを創ったのよ!

 そして、そんな彼女の思いに呼応したように突然花火が上がり、観客を驚かせ、興奮を更に盛り上げた。
 エメルの顔が輝いた。
 デイブだ! デイブが私の歌を聴いている!
 彼が会場の外から歌のタイミングに合わせて花火を上げているのだ。きっと警備員に追われ、必死に逃げ回りながら打ち上げているのに違いない。
 あの人の耳に、もっと綺麗に聴こえて欲しい。
 その想いに、エメルの歌声は更に高みを目指して美しくなった。

「Take you higher, reaching for the top!」
(さぁ、もっと高く! 輝かしいあの頂きを目指して)
「You have the power that you make an effort and obtained. It has nobody other! It surely leads you to the success」
(必ずあるわ、誰にもないあなただけの力が! それはきっとあなたを栄光へと導く)


 今まで辿って来た出来事が思い浮かぶ。
 繰り返した数々のレッスン、受けては落ちたオーディション……振り返ればどれも笑顔で思い出せる。
 苦しいことや悲しいことは数限りなくあったが、辛いと思ったことは一度もなかった。

 ――何故って、彼がいつも励ましてくれたから。彼がいつもそばにいてくれたから。

 彼を想い慕う気持ちが、歌姫に奇跡を起こす力までも授けてくれたのだった。
 エメルの胸に溢れる思いは、そのまま歌声になって会場に響き渡る。

「Take you higher, reaching for the top!」
(さぁ、もっと高く! 輝かしいあの頂きを目指して)
「You have the power that you make an effort and obtained. It has nobody other! It surely leads you to the success」
(必ずあるわ、誰にもないあなただけの力が! それはきっとあなたを栄光へと導く)


 まるで時を得たかのように薄雲に遮られていた陽光が雲間から差し込み、ステージの上でひとつの伝説となった歌姫に、その光を降り注いだ……


**  **  **  **  **  **


 もうプライドも何もなかった。
 地に堕ちたそれは、泥にまみれ、汚れきり、かつての面影すら残していない。
 リアンゼルは、泣きじゃくりながら何度も何度も「違うの……そんなつもりじゃなかったの……」と訴えていた。
 彼方からは割れんばかりの大歓声が聞こえてくる。耳を塞いでしまいたかった。
 がらんとした薄暗いステージ奥で、彼女の訴えを聞く者は誰もいない。
 ただ一人、自分を愛してくれたマネージャーだけを除いて。

「ええ、わかってるわ。あなたがそんな娘じゃないって、私が一番知っているもの」

 縋りつくリアンゼルを抱きしめ、その金髪を撫でながら彼女は優しく答えた。
 その言葉だけで、リアンゼルの心はどれほど救われただろう。
 だが、やがて曲が終わり、彼女のライバルを褒め称えるたくさんの拍手が嵐のように響いて来た。
 リアンゼルは、歌わずして自分の敗北を悟った。
 かつてのいじめられっ子は、もう自分の手が届かないほどの高みに上ってしまった。
 次は、自分が歌う番となる。
 だが、どんな顔をしてステージに上がればいいというのか。
 栄冠の為にライバルを売ろうとした厚顔無恥な歌姫……自分に浴びせられるであろう罵倒や嘲りを思い浮かべ、リアンゼルは身を震わせる。
 彼女の怯えを察してヴィヴィアンは言った。

「棄権してもいいのよ、リアン」

 その言葉に、リアンゼルはハッとなってマネージャーを見た。
 聖母のように慈愛に満ちたその顔は、涙に濡れていたが優しく微笑んでいた。

 あなたを守るためならどんな屈辱にも喜んで耐えられる、自分にだってあの日本人にも負けないほどの気持ちはあるのだと、その顔は告げていた。
 大切な人の表情から言葉にしない思いを読み取る力をリアンゼルは持っていた。

 そして、そんな気持ちに応える強さも。

「いいえ」

 真っ青な顔でリアンゼルは健気に微笑んだ。

「歌いたいの。歌わせて」

 他の誰も聞いてくれなくてもいい、この人の為に歌おう。リアンゼルはそう思った。
 自らプロダクションに捨てられる道を選び、幾度となく傷つきながら、憎しみで歪んだ自分の傍に最後まで寄り添ってくれたこの人のために。
 思いは力になり、リアンゼルは萎えて震える自分の足をそのコブシで思い切り殴りつけた。
 痛みが更なる力を呼び覚ます。生まれて初めて立った小鹿のように、覚束ない力でリアンゼルはよろよろと立ち上がった。

「リアン……」
「ヴィヴィ。あなたのために歌いたいの」

 涙でグシャグシャになった顔を近くにあった汗拭きで乱暴に拭う。震える手でギターを握った。こんな有様でどれほど歌えるというのだろう。
 それでも……
 袖幕の向こうでリアンゼルの名前を呼ぶ司会者の声がした。
 歓声の大半が罵声とブーイングに変わる。それでも、いくらかの拍手と歓声もリアンゼルの耳に聞こえた。確かに聞こえた。

 ――こんな自分の歌を、それでも聴きたいと思ってくれる人がいる。

 ただ純粋に嬉しかった。
 こぼれた涙を手の甲で拭って袖幕からステージへと進み出ると、罵声の入り混じった歓声が彼女を出迎えた。
 ステージ上に、伝説となったさっきの歌姫の姿はもうない。熱気が急速に冷めてゆく様子がその肌に感じられた。
 物こそ投げつけられなかったが「卑怯者!」という痛罵が幾つも飛んでくる。中には厚顔無恥な歌姫の歌など聞きたくもないとばかりに憤然として席を立つ客もいた。
 唇を噛み締めて、リアンゼルは耐えた。
 袖幕から思わず駆け寄ろうとするヴィヴィアンを目顔で止める。
 自分はこの仕打ちに値することをしたのだと、投げかけられる言葉の礫に彼女は黙って耐え続けた。
 罵声はなかなか止まない。
 一方で、観客席からはわずかながら彼女を擁護する声もしていた。
 あのディアンナ・フォバートが観客に向かって「お願い、彼女の歌も聴いてあげて!」と泣きながら呼びかけている。観客席の最前列からは、オーディションから途中で脱落したあの三人の少女たちが懸命にリアンゼルへ何やら叫んでいた。きっと「頑張って!」と声援を送ってくれているのだろう。

 そうだ、自分の気持ちだけで止めることはもう出来ない。あの未来の歌姫達のためにも自分は歌わなければいけないのだ。

 半ば虚ろだったリアンゼルの瞳に次第に強い光が甦る。
自分の背後で一緒に痛みに耐えているマネージャー、泣きながら懸命に自分を庇ってくれる少女、懸命に励ます歌姫たちに、リアンゼルは心の中で微笑みかけた。

 ――ありがとう。大丈夫よ、私はあなた達が思っているよりもずっと強いのよ

 ぼろぼろに崩れていた彼女の心は、彼等の気持ちで温かく満たされてゆく。
 そして、それは彼女の心の片隅にずっとこびりつき残っていた醜い憎悪を遂に消し去ってしまった。

(彼女は自ら答えを見つけ出すだろう。あの瞳は闇に染まりきってなどいない。夜明けが来るように、やがて心に光が差して闇は消え去る)

 彼女のラストソングを担当した作曲家ピクシー・スコットが予言した通りに。
 無言でステージに立ち、耐え続けるリアンゼルの姿に、非難の声や罵声は少しづつ静まってゆく。
 やがて、かすかなざわめきだけを残すだけになった時、リアンゼルは黙って一礼すると愛用のギターを取り上げた。
 これから歌おうとする曲の歌詞を思い浮かべ、彼女はふと思った。
 この曲って、私のことみたい。
 罵倒でいっぱいの歌詞にデブオタからの悪罵が思い浮かぶ。
 だけど、心にもう彼への憎しみは沸いてこない……
 リアンゼルは歌い始めた。


「You say as favorite phrase. I am restless. I am restless and cause a trouble」
(あなたは口癖にみたいに言うわ。私って落ち着きがなくて始末に終えない女だって)
「You say as favorite phrase. I am the whimsical woman who is a showy person by trouble」
(あなたは口癖にみたいに言うわ。私は面倒で見栄っぱりな気まぐれ女だって)
「Because the people of the town look at me and laugh, you do not walk together.You say as favorite phrase. You say as favorite phrase. 」
(町の人々が私を笑いものにするから一緒に出歩けないなんてあなたはボヤくけど。言ってくれるじゃないの)

 リアオリィ・パスナガーラの「アウト・オブ・コントロール」
 歌姫は心を込めて歌う。
 罵声は止んだが歓声もない。観客はシンとなって聴き入った。

「But he says. Because I am incredibly beautiful, all seem to pay attention to me」
(でもね、あの人は言うの。みんなは私が信じられないくらい綺麗だから私に注目しているんだって)
「He says. I am interesting and am attractive and seem to be an ideal woman」
(あの人は言うの。私はそれほど魅力的で理想で最高の女性なんだって)

 声を張り上げたリアンゼルは、手にしたギターを荒々しく掻き鳴らして歌う。

「I do not know it which is true. But I seem to believe his words. It is not your word」
(どっちが真実なの? 私には分からない。だけどあなたではなく彼の言葉を信じてしまいそう)

 ひたすら歌い続けるリアンゼルに、手拍子を打つ人が現われ始めた。

「You say as favorite phrase. Even as for the guy who I talk, and is worthless」
(あなたは口癖にみたいに言うわ。私って話していてつまらない奴だって)
「You say as favorite phrase. I am the woman whom it is hard to talk to. And partner hard to please」
(あなたは口癖にみたいに言うわ。私ってとっつきにくい奴なんだって、素敵な恋人には程遠い奴なんだって)

 人々は、次第に気が付きはじめた。
 一心不乱に歌う汚辱の歌姫。彼女が歌に込めて伝えようとしているものが、後悔と償いだと。
 凛として歌う彼女は泣いてなどいなかったが、強がりな歌詞の裏側で彼女は涙を流し、聴く人々へ乞うていた。

 ――許して

 共鳴した人々から少しづつ手拍子が増えてゆく。歓声が上がり始めた。

「But he says. I am incredibly beautiful and seem to always think only of me」
(でもね、あの人は言うの。私は信じられないくらい魅力的で、いつも私のことばかり考えてしまうって)
「He says.I am a good person to talk to. Even if it is fun and talks with me for a long time, I do not get tired」
(あの人は言うの。付き合っていると楽しくて、つい時間を忘れてしまうって)
「I do not know it which is true.But I seem to believe the words of him. I am glad when said to be a wonderful woman to him than it is told you to be an unmanageable woman」
(どっちが真実なの? 私には分からない。だけどあの人の言葉を信じてしまいそう。手に負えない女だなんて言われるより素敵な女だって言われると嬉しいんだもの)

 歓声と拍手はどんどん増えてゆく。
 涙が出そうだったが、リアンゼルはそれを堪えながら歌った。時折声が震えてしまったが、構わず歌った。
 歌っているのは大好きな人に振り向いて欲しいと呼びかけている恋の歌なのだ。強がって声を震わせているように聴こえてくれる。
 それは、遥かな高みから人を見下して感動させようとした一年前の歌い方ではなかった。
 地に堕ちてさらけ出された己の醜さ。だけど、それを許してくれる人がいて。応援してくれる人がいて。そんな、許される喜びを感じて歌えること。
 それが、これほど嬉しいことなのだと彼女は初めて知ったのだった。
 感動に心を打ち震わせながら歌姫は歌う。
 更に力強く、声を高めて。

「Understand me definitely. It does not want to be avoided by you. oh-no-!」
(私の気持ち、ちゃんと捉まえていてよ。嫌いたくないのに、ああもう!)
「Hey, why do you not look at me with eyes like him? Because I may change my mind」
(ねえ、どうして彼みたいな目であたしを見てくれないの。私、心変わりしちゃうかも知れないんだから!)

 天はその過ちを咎め、陽光は雲に隠れたまま、リアンゼルに光は差し込まなかった。
 だが、ステージのスポットライトが彼女を励ますように力強く照らしてくれた。
 ギターの音と共に彼女は笑顔で観客へ親しく呼びかけるように歌う。

「I seem to come to can not believe you. What would you do if you do so it? Silly billy!」
(私があなたを信じられなくなったら一体どうするつもり? このおバカさん!)

 お前がそれを言うか、と観客席から思わず笑いが起きる。リアンゼルは顔を輝かせ、思い切り悪どそうなウィンクをして見せた。
 どっと歓声が沸き、更に歌が熱を帯びる。
 歌う者と聴く者の心の中に一体感が生まれ、高揚感に身を任せたリアンゼルの歌声は更に深く美しくなってゆく。

「He says. I am the best ideal woman throughout his life」
(あの人は言うの。私こそ生涯で最高の女性だって、ただ一人の女性だって)
「I do not know it waht is true.But I seem to believe the words of him. It is a request. Because once is enough, please say me that it is a wonderful woman」
(何が真実なの? 私はどうしたらいいの? でも、あの人の言葉を信じてしまいそう。お願い、一度でいいから言ってほしいの。私のことを素敵な女性だって)

 彼女の渾身の歌唱はエメルの時にも劣らぬ大歓声を遂に巻き起こし、会場を再びどよもした。

「But he says...But he says...」

 やがて、蘇った拍手の嵐と大歓声が、この歌姫をもうひとつの伝説にしたのだった……


**  **  **  **  **  **


 自分がいつどうやって歌い終えたのか、リアンゼルは覚えていなかった。文字通り、全身全霊を込めてラストステージに臨んだのだ。
 気がつくと、薄暗いステージ裏で、顔中を涙で濡らしたマネージャーに抱きしめられ、何度もキスされていた。

「リアン、リアン……愛してるわ、私の歌姫……」
「ヴィヴィ、私もよ」

 答えたリアンゼルは、自分が恐ろしく疲れているのに気がついた。

「歌、終わったのね。座っていい? すごく疲れたの」
「おお、もちろんよ。気がつかなくてゴメンなさい」

 ヴィヴィアンは慌てて近くの安楽椅子を引き寄せ、リアンゼルを座らせた。
 渡された小さな栄養ドリンクを飲み干したリアンゼルは、されるがまま小さな酸素吸入器を顔に宛がわれた。
 綿のように疲れていた身体に、じんわりと元気が戻ってくる感触が心地よかった。

「私、ちゃんと歌えてた? 無我夢中で覚えてないの」
「ちゃんとどころじゃなかったわ。凄かった。ほら、私の腕を見て。まだ鳥肌が立ってる」
「まあ、本当だわ」

 笑ったリアンゼルは、そこでやっと人心地ついたように周囲を見回した。

「オーディション、終わったのね」
「ええ」

 しばらく黙ったが、リアンゼルが何も聞こうとしないのでヴィヴィアンは静かに告げた。

「おめでとう、リアン。あなたはブリテッシュ・アルティメット・シンガーの栄えある最高の歌姫として選ばれたわ」
「……」

 リアンゼルはその言葉を黙って受け止めた。
 爆発するような歓喜も、勝利感も、感動もなかった。
 一年前、あんなに必死に求めていた栄冠をとうとう手にしたのに。

「あなた、優勝したのよ」
「そう……」

 つぶやくようにぽつんと答えるとリアンゼルは俯いた。

「私、エメルが優勝すると思った」

 ヴィヴィアンは頭を振った。

「残念ながら失格ですって。彼のことで登録内容に虚偽があったからって……」
「エメルはどうしてるの?」
「ここにはもういないわ。歌い終わってそのまま会場を飛び出して行ったそうよ」

 どこへ、と訊くまでもなかった。
 あの歌姫は己が生命にも代え難いほど大切なものを見出したのだ。それに比べたら、自分が手にしたこの栄冠すら彼女には価値などないに等しいのだろう。
 心からエメルが羨ましかった。
 リアンゼルは唇を噛んだ。
 さっきから自分の感じるこの奇妙な敗北感は、きっと彼女にあって自分にないものの差なのだろう。

「私の負けだわ……」

 かつての傲慢だったリアンゼルなら口にするくらいなら死んだほうがマシと思っただろう言葉。
 だが、それは偽りのない本心だった。
 リアンゼルの卑怯な振る舞いにも折れることなく、エメルは自分を育てたデブオタがどれほど立派な男だったのか、果敢にも自らの歌によって見事に証明したのだ。
 リアンゼルは自らを恥じた。
 それでも、傲慢だった頃よりも恥じ入れる今の自分がまだ誇らしかった。
 そして……
 その言葉を聞いたヴィヴィアンは、立ち上がると手を叩き始めた。
リアンゼルはキョトンとした顔で、真剣な顔で拍手するヴィヴィアンを見つめる。

「ヴィヴィ、どうしたの?」
「おめでとう、リアン。あなたは本当の歌姫になったのね。気高い心を持った、立派な歌姫に」

 リアンゼルを見つめるヴィヴィアンの瞳には、それまでの慈しむ色だけではなく敬う光が宿っていた。

「あなたを蔑む観客がまだどれほどいようとリアンゼル・コールフィールド、私だけはあなたの勝利を知っている。あなたはエメルに負けて、それを認めたことでとうとう自分に勝ったのよ」
「自分に……勝った?」
「プロの世界でさえ立派な他の歌や歌手を認めずに自分を磨くことが出来ない歌姫がいる。でも、そんな人にどうして聴く人の心に響く歌が歌えて? いずれ、聴いて貰えなくなって堕ちてゆく。でもあなたはとうとうそれを自分で掴んでくれた。知ってくれた……」

 そこまで言うと、嗚咽を漏らしたヴィヴィアンはそのまま泣き崩れてゆく。安楽椅子から飛び起きたリアンゼルは慌てて彼女を支えた。

「ごめんなさい。マネージャーなのに私、取り乱してばかりで」
「何を言うの。ヴィヴィ、そんなにまで私を……。ありがとう、これからも私のマネージャーでいてね。いつまでもずっとよ……」
「ええ、もちろんよ」

 優勝ももちろん嬉しかった。
だが、この歌姫の中に芽生えたものこそが、彼女のマネージャーが本当に望んだものだった。
 それが心の中にある限り、彼女は光を目指して歌うことが出来るだろう。ヴィヴィアンは、今までの辛苦が何もかも報いられたような気持ちだった。
 涙を拭いた彼女は、晴れがましい気持ちでリアンゼルへ手を差し出した。

「さあリアン、行きましょう。これから授賞式よ。たくさんの人があなたを待ってる」
「……こんな私を歌わせてくれるレコード会社、あるかしら」
「ええ、少なくとも一社は知ってるわ。あなたを狙うパパラッチも追い散らしてくれそうな頼もしい人が社長をしてるところよ」
「ヴィヴィをマネージャーにしてくれるなら、私どこだっていいわ」
「ありがとう」
「……エメルは私を許してくれるかしら」
「やさしい娘だもの、きっと理解してくれるわ」
「ヴィヴィ、泣き過ぎで酷い顔になってるわよ。きっと私もそうね。こんな顔でアルティメットだなんて恥ずかしいわ」
「恥ずかしいなんてあるものですか。リアン、胸を張りなさい」

 熱い涙をわかちあった二人は、微笑みあい、支えあうようにして袖幕からステージへと歩き出した。
 幕の向こうから、スポットライトの光が二人を招くように差し込んでくる。
 立ち止まったヴィヴィアンに差し招かれてステージに踏み出したリアンゼルは、その眩しさに思わず立ち竦んで目の前に手をかざした。
 同時に観客席からたくさんの拍手が彼女を温かく迎えてくれた。

「ありがとう、みなさん。こんな私を……ありがとう……」

 凛として姿勢を正したリアンゼル・コールフィールドは、感謝の言葉と共にゆっくりと歩み出した。

 夢にまで見た、スターの世界へ……
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