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第6話 夜明けに向かって
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朝もやの中、いつものように色褪せた赤いジャージ姿で彼女は走った。
今朝は後ろから追い立てる陽気なドラ声はなかった。地面を叩く竹刀の音、古びた自転車をキィキィと漕ぐ音も。
それでもエメルは、毎朝欠かさず続けている八キロのロードワークを終えた。
今やホームグラウンドとなった例の公園に辿り着く。
もしかしたらと淡い期待を抱いたが、デブオタの姿はそこにもなかった。
エメルの顔は悲しげに曇ったが、それでも独りで発声練習を始めた。
きっと来てくれる、そう信じて。
彼の住居もメールアドレスも携帯の電話番号も彼女は知らなかった。いつもここで待ち合わせていたのだ。
だから、ここで待つ以外に彼女の選択肢はなかった。
ベンチの上に置いた籐かごには、いつものように紅茶の水筒とサンドウィッチが入っている。
デブオタがいつも使っているタブレットPCがないので、発声練習を終えたエメルは自分でメロディーを口ずさみながらクラシックバレエの練習に移った。
そうして練習の合間にタオルで汗を拭いては、しきりと周囲を見回すのだった。
(よう、昨日はみっともないところを見せたな)
懸命に練習していれば、彼のことだから照れくさそうにそう言いながら現われそうな気がしてエメルは待った。
もしかしたらバツが悪くて離れた場所から見ているかも知れないと、いつもより大きな声を出して歌を練習した。
それでもデブオタは現われなかった。
『もう、おしまいだ』
彼がこぼした失意の言葉が思い浮かぶ。
雨の向こうに消えたデブオタは、エメルを歌姫にする道半ばで諦め、本当にどこかへ去ってしまったのだろうか。
お昼になった。彼はやはり現われない。
「午後には来てくれるかな。……来てくれるよね」
エメルは独り言をつぶやきながら泣きそうな顔で籐かごのサンドウィッチを食べた。デブオタが傍にいないランチは、美味しいか不味いかのも分からないほど味気なかった。半分はきっと来てくれるであろうデブオタの為に残しておく。
昼過ぎからは、休憩を挟んでストレッチや筋トレ、発声、ダンス、歌唱、ウォーキングといった練習メニューを小刻みにこなしていった。
始めた頃はすぐバテて根を上げてばかりの練習メニューも、毎日繰り返した今ではすっかり慣れたものだった。
様々な種類のステップ、よく響く声の出し方、観客へインパクトを与えるポージングも身に付き、今ではオーディションで当意即妙にアレンジを加えるほど余裕が出来ていた。
しかし、今日はそんな余裕などまるでなかった。
すぐそばで、いつも自分を煽てたり、脅したり、励ましたり、おちょくったり、時には厳しく叱ってくれるあの人がいない。
エメルは涙が出そうなくらい、さみしかった。
それでも、デイブは必ず来てくれると自分に言い聞かせ、練習を続けた。
しかしそれも、次第に陽が傾き出した頃には、限界だった。
陽光が雲に遮られ、公園の侘しい冬景色から更に色彩を奪うと、エメルの心に張り詰めた糸がぷつんと切れた。
「デイブ、お願い。一人にしないで……」
ベンチに座り込むと、エメルはとうとう泣き出した。
その時「あれえ、こんなところで何泣いてるのぉ?」と、下卑た声がした。
顔を上げると、片方はナポレオンジャケットを羽織った赤い髪の男、もう片方はモヒカン頭でライダーズジャケットを着た男、如何にもガラの悪そうな二人組がニヤニヤしながら覗き込んでいる。
エメルは、怯えたような表情を浮かべて立ち上がった。
「何でもないの」
「何でもないのに泣いてる訳ないじゃん」
「心配してくれてありがとう。でも私に構わないで。一人にして欲しいの」
「いや、俺らが一人にしたくないの。一緒に遊びに行こうぜ。泣いてるよりずっとイイじゃん」
「ありがとう。でも私、待ってる人がいるの」
「いないじゃん。待ってても来ないよ。だから行こうぜ」
「来るわ! デイブはきっと来る!」
「来ない来ない。来ても俺らはお呼びじゃない。お呼びなのはアンタだけだよ」
断っても、しつこく絡むような会話と共に二人は近づいてくる。
エメルは慌てて周囲を見回したが、木枯らしの吹く公園に、救いを求める彼女の視線に応える人影はあいにくどこにも見当たらなかった。
「誘拐じゃないよ。ナンパしてるだけなんだからさ」
「そんな怖がらなくていいじゃん」
後ずさりするエメルへ彼等が手をかけようとした、そのときだった。
「おやめなさい!」
ジャパニーズイングリッシュのドラ声に、ならず者二人がぎょっとして振り返ると離れた場所に立っていたオークの太い木の影からぬっと巨体が現われた。
「デイブ!」
エメルが顔を輝かせて叫ぶと、デブオタは慌てて「あ、ちょっとタンマな」と言いながらもろ肌脱ぎになるとマジックペンで自分の額にハートマークを描いた。それで何かのアニメキャラになりきったつもりらしい。
もっとも鏡も見ずに描いたので、額のそれはくちゃくちゃのバッテンマークにしかならなかったが。
「パンクファッションのなりをして、まったく情けない奴等だ。セックスピストルズも草葉の陰でさぞやお嘆きだろうて」
「なんだ手前は。男はお呼びじゃねえんだ、すっこんでろ」
モヒカンの頭を斜めに傾けて片方の男が凄んだが、デブオタは意にも介さない。
エメルに向かってにっこり笑うと手を振って促した。
「さ、こんなのに構わず練習を続けなさい。君は未来のスターとなるべき歌姫なんだから」
「聞こえなかったのか? それとも死にてえのか?」
「フヒヒッ、そこは『汚物は消毒だー!』って言わなくちゃ」
ベルトが間に合わないのでサスペンダーで吊ったズボンからはみ出たお腹をたっぷんたっぷん揺らしながら、デブオタはモヒカン男へ向かってずんずん進んでくる。
「第一トゲ付きの肩パッドもしてねえなんて何の為のモヒカンだよ?」
「何、訳のわかんねえこと言ってんだ手前は。あ? 消えろっつってんだ、よっ!」
モヒカン男は、鋲を打ったベルトを拳に巻き付けてナックルにすると「よっ!」のところでトドのようなデブオタの腹に思い切りきつい一発をお見舞いした……はずだった。
デブオタは衝撃を堪えると、ノーダメージといった不気味な笑顔で顎を上げた。
モヒカン男は信じられないと云った顔で見上げる。
「クックックッ、残念だったな。オレ様の身体は分厚い脂肪に鎧われていてな。エセアナーキストのへなちょこパンチなんぞ、蚊に刺されたほども感じねえんだよ」
そう言うとエメルにウィンクして見せた。
「そういやエメルにオレ様の脂肪遊戯をまだ見せてなかったな。よーく見ておきな」
言うがはやいか、デブオタは両手を掲げた。そのまま「ほいやぁあああ~!」と言う掛け声と共に、万歳の格好でモヒカン男へ覆い被さってゆく。三桁の体重をそのまま武器にしたデブオタの必殺技、人間プレスである。
エメルがポカンとして見ている間に、断末魔にも似た「グヘアアアァ~!」というモヒカン男の絶叫が公園内に響き渡った。
** ** ** ** ** **
悶絶したモヒカン男は、赤髪の男に引きずられ去っていった。
デブオタは何をトチ狂ったのか、公園から退場してゆく二人を「ま、待ってくれよ。覚えてろとか今度会ったときはブッ殺すとか、負け犬の遠吠えを聞かせてくれよ。頼むよ、この通りだから」と土下座せんばかりに引き留めようとしている。
エメルは「そんなのいいから!」と、彼の袖を懸命に引っ張ってベンチに無理やり座らせた。
「無茶して……でもナイスファイト」
半べそをかきながらエメルが笑うとデブオタも照れくさそうに笑った。
だが、その笑いは今までの豪快なものではなかった。どこか淋しそうな翳りが混じっている。エメルの胸に何か不吉な予感がきざした。
それでも気が付かない振りをしてポーチから捻挫用の湿布を取り出すとデブオタのお腹に貼った。
そして「お昼食べてないでしょ?」と籐かごのサンドウィッチを取り出して勧めたが、デブオタは黙って手を振った。
例のリュックサックをゴソゴソ漁った彼は、クリアファイルに入った書類やDVDケースを取り出して並べ始める。
「遅くなってすまねえな。色々準備してたもんでよ」
「準備?」
「これにはこの間のプロモーデョン用の映像が入っている。こっちはエメル自身を売り込む為に作った紹介DVDだ」
これを作るために遅くなったのだ、とデブオタは説明を始めた。
しばらくの間、エメルはキョトンと見ていたが「これは今後三ヶ月間に予定されているオーディションと応募用の連絡先だ」と広げられたリスト表を見たあたりで、ようやく気が付いた。
彼は、これからエメルが自分なしでもオーディションを受けたりプロダクションへ売り込めるようにと準備をしていたのだ。
これらは餞別だ、とエメルは気づいて真っ青になった。今後の売り込みに必要なものを出来るだけ用意して、彼は日本に帰国しようとしている!
このままデブオタがいなくなってしまったら……考えただけで彼女は真っ暗な底無し穴へ落ちてゆくような気持ちになった。
「それとこれ……」
彼が最後に広げたのは、一枚のオーディションの応募申し込み用紙だった。オーディションの名前を見てエメルは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ブリテッシュ・アルティメット・シンガー……」
あのリアンゼルでさえ蹴落とされたほど厳しい、だが未来への成功が約束された、イギリスでもっとも権威あるオーディション。
デブオタは頭を掻きながらエメルへ妙なことを告げた。
「実は昨日オレ様にこのオーディションを受けろと薦めた人がいてな」
「デイブの知り合い?」
「いや、全然面識のない人だった。『ぜひエメル・カバシにこれを受けさせて下さい、きっと出場出来るはずです』って、この申し込み用紙を渡されたんだ」
「この公園で私たちを見てた人かしら」
「いや、そんな風には見えなかったな。メガネを掛けてスーツを着た女性だった。どこかの企業の社長秘書ってカンジの綺麗な人だったよ」
心当たりはないか? と訊かれてエメルは頭を振った。
「そうか。泥だらけのオレ様に『ミス・エメルのプロデューサーですね?』って、丁寧に話しかけてきたんだが……ううむ、一体何者だったんだろう」
しばらくの間デブオタは右に左に首を傾げたが「ま、いいか」と、小さく笑った。
「今までいっぱいオーディション受けてきたからなぁ。顔が売れたのかも知れん」
エメルは、自分を推薦してくれた人のことなど今はどうでもよかった。
そんなことよりこのままだと日本に帰ってしまう彼を何とか引き留める何か良い手立てはないか……それだけを必死に考えていたのである。
「きっと出場出来るって言われたんだ。正直とても嬉しかったよ」
「そうね」
半ば上の空で答えた彼女の目がそのとき捉えたのは、申し込み用紙のある記入欄だった。
見るなり彼女はこれだ! と、内心快哉を叫んだ。
(……これなら彼をイギリスに引き留められる!)
そう思った瞬間、彼女の心は決まった。
「デイブ。私、アルティメット・シンガーに出場するわ」
デブオタは「そ、そうか」と、驚いたようにエメルを見た。彼女はきっと躊躇うか尻込みくらいするだろうと思っていたのだ。
「でもきっとアイツもいるぜ」
「リアンゼル? ふん、もう怖くもなんともないわ。昨日のストリートファイトを見た? 私、彼女に鼻血を噴かせてやったのよ」
エメルは鼻で笑うと顎をつんと上げた。
以前は凄まれただけで恐ろしくて震えていたいじめっ子だったのに、デブオタを懸命に引き留めようとしている今ではリアンゼルのことなど気に留めるほどの価値すら感じない。
出場申込書が置かれたテーブルの前に座るや、挑みかかるように自分のフルネームを記入した。
デブオタは、積極的なエメルの様子を驚いたような眼で見守るばかりだ。
エメルは顔を上げてにっこり笑った。
「デイブ、忘れたの? 最初のオーディションで何も出来なかった私に言ったじゃないの。いっぱい受けていっぱい落ちてるうちに慣れて、いつか認められる日が来る。そうやってプロになってゆくんだって」
「お、おお」
「今までたくさんのオーディションを受けて落ちてきた。今度はブリテッシュ・アルティメット・シンガーだから何だっていうの? 私、怖くなんかないわ。怖いのは……」
――怖いのは、貴方がいなくなってしまうこと
その言葉は胸に秘めたまま、エメルは「さぁ、デイブも名前をここに書いて」と、素知らぬ顔で申し込み用紙をデブオタに向けた。
「えっ、オレ様が何で?」
「何言ってるの? ここ見てよ。身元を保証する人かプロダクションを記入しなくちゃいけないの」
「それは……エメルの親御さんじゃダメかな」
「ダメ。ダメというよりイヤ」
エメルはわざとデブオタの顔を見ないようにして、きっぱりと言った。
「ここに書いていいのはデイブの名前だけよ。……私に、それ以外の名前はない」
その言葉の重さをデブオタがどれほど理解したことか。
「オーディションにも出る必要あるのかな……」
「当たり前じゃない」
「そうか。いや、あのな。実はオレ様……」
モゴモゴと言い辛そうに話そうとしたデブオタへ、エメルは押し被せるように言葉を重ねた。
「デイブ。アルティメット・シンガーに出場するんだもの、観客や審査員を圧倒するような曲を作りましょう。私、その道のプロの作曲家に依頼しようと思うの」
「そ、そうか」
「大丈夫、私にアポイントは任せて。実はちょっと心当たりがあるのよ。デイブは私にさせてきた演出やアイディアを彼に話せばいい。そしたらきっと優勝にふさわしい歌が出来ると思うわ」
「お、おう」
心当たりなど本当は何もなかった。この場で思いついた出まかせである。友達すらおらず独りぼっちだったエメルに作曲家のツテなど無論ない。それどころか、どうやって探し出し、どんなやり方でアポイントを取ればいいのかも知らなかった。
だけど、エメルは体当たりでどんなことでもやるつもりだった。何も怖くなかった。デブオタがここにいてくれる為なら……
「曲が出来たらまた『ドリームアイドル・ライブステージ』のエディットモードで振り付けを考えてね。どんなハードなダンスだって難しい歌だって、私やってみせる。ね、今度は歌でリアンゼルをコテンパンにしてやろうよ!」
必死に言い募るエメルの熱気に押されたのか、リアンゼルをコテンパンにしてやろうという口吻がおかしかったのか、デブオタの頬が緩み、その口元に思わず苦笑じみた微笑が浮かぶ。
エメルの眼が輝いた。
「デイブ。昨日雨の中で言ったわね。“こんな惨めな一部始終を見ても、今までのように歌えるのか?”って」
「……ああ」
「歌えるよ。ううん、歌えるとか歌えないとかじゃない。私、惨めなものや醜いものだってちゃんと見て歌いたい。雨の中のデイブのあの姿……あれを惨めだって言うならあれを知らないままで私には歌う資格なんてない」
「エメル」
「だってデイブは私にこう言ったのよ。“悲しい人や傷ついた人を歌で抱きしめてあげる、そんな優しい歌手になってくれ”って」
「……」
「私、そんな歌手になりたい。いいえ、きっとなってみせるわ」
デブオタは、まるで見知らぬ人にでもなったようにエメルを見つめ、思わずため息を漏らした。
いじけるたびに叱り、萎れては励まし、下を向けば背中を押し続けてきた泣き虫の少女が姿を消し、思慮深さをたたえ、凛とした眼差しを持ち、炎のような情熱を秘めた歌姫が突然現われたのだ。
「デイブ、いままでたくさんオーディション受けて落ちちゃったよね」
「おお」
「私、思うの。もしかしたらそれはこのブリテッシュ・アルティメット・シンガーへ続く為のステップだったんじゃないかって。きっとそうよ!」
「……」
「デイブと出会ったのも、最初に何も歌えなかったのも、デイブと一緒に踊ったのも、いろんな練習をしてきたのも、雨の中でリアンと戦ったのも、みんなみんな……」
デブオタは、もう何も言わなかった。胸がいっぱいになってしまったのだ。
黙って用紙を受け取ると、何やらしばらく考え込んで躊躇った後に名前と住所、連絡先の携帯番号を書き込んだ。
(名前は『春本ヤスキ』、電話番号は……)
エメルは素早く眼を走らせた。もちろん後で控えるのだ。
デブオタはペンを置いた。彼の動揺を表したように文字はヨレヨレに震えてかろうじて読めそうなくらいだった。
ゲームの中で架空のアイドルを育ててきた経験と向こう見ずな度胸、思いつく知恵の限りを尽くしてここまできたが、本当はいつもどこか不安で後ろめたい思いに囚われながらエメルを導いていたのだ。
何故なら彼がリアンゼルに対して切った啖呵「自分は日本の音楽プロデューサー」は……
――実は、真っ赤な嘘だった。
後ろめたさは今も消えない。だから彼がいま書いたのも他人の名前だった。
「春本ヤスキ」とは日本で有名なアイドルプロデューサーである。世間にあまり顔を出さないが、日本でヒットしたアイドル歌手の約半数は彼がプロデュースしたとまで言われていた。
ファンとの距離感を感じさせないライブコンサートなどで人気を演出する一方、CD購入を利用した人気投票制度で応援に多額の費用を掛けさせる仕組みを作り上げ、世間では「搾取系アイドル商法」と呼ばれる悪評も買った辣腕のプロデューサーだった。
デブオタがさんざんプレイしたアイドル育成ゲーム「ドリームアイドル・ライブステージ」も春本ヤスキが監修したと云われている。
架空のアイドルまで作り、デブオタのようなアイドルオタクを手のひらの上で踊らせてきた、芸能界のヒエラルキーの頂点に立つ男。
デブオタは、いわば彼の真似をして今までアイドルの育成ごっこをしていたようなものだった。
だが、エメルはデブオタの知るどんなアイドルよりも最初はみすぼらしかったのに、今では誰よりも美しく、そして逞しく成長していたのだ。
デブオタは身体が震えだしそうだった。
彼女を育てたのは……紛れもなく自分なのだ。
好きな歌手を応援しては搾取されるばかりで最後は裏切られてきた自分が。罵られても黙ってうなだれるしかなかったみじめな自分が。しまいには架空のアイドルを育てて満足するしかなかった底辺オタの自分が……
生まれて初めて感じる誇らしさが、デブオタの心をいっぱいに満たしてゆく。
このままおめおめと帰国など出来ない、と彼は思った。ここまで頼られ、これほどまでに信じられて……この少女をイギリスで最高の歌姫に出来るのは、お前しかいないのだと云う声が聞こえてくる。
力強く彼の背中を押す声。
エメルと初めて出会ったときにも聞こえた、あの心の声が。
(オレは……オレは……)
デブオタはスックと立ち上がった。
その瞳には、エメルを必ず歌手にしてやると豪語した時よりも強靭な光が宿っている。
「ラスボスは強大だ。今まで以上に厳しい戦いになるぞ。だけど、お前ならきっと出来る」
彼は申し込み用紙をエメルに渡しながら、厳かに告げた。
「ロードワークも増やすぞ」
「ロンドンマラソンに出場してもいいくらい走ってみせるわ」
「オペラ歌手も逃げ出すような発声をマスターさせるからな」
「任せて。そのうちロイヤルオペラハウスにだって立ってみせるから」
「よし、オーディションでイギリス中をあっと言わせてやろう!」
「もちろんよ。リアンゼルなんかに負けるもんですか!」
「うむ」
厳しいレッスンの通告ひとつひとつに、頼もしい返事が戻って来る。
デブオタは莞爾と微笑んだ。
「また二人で頑張ろう」
二人で頑張る……それこそ彼女が渇望していた約束の言葉だった。
デイブがこれからもここにいてくれる! エメルの顔は歓喜に輝いたが、そのまま涙ぐんでしまった。
強くなっても、彼女の根っこはやっぱりあの日と同じ泣き虫エメルだった。
「泣くな! 涙はスターになるその日のためにとっておけ!」
「はい!」
以前のように、元気いっぱいエメルを叱り飛ばしたデブオタだったが……
** ** ** ** ** **
「駄目だね、話にならない。帰らせていただく!」
一週間後。
エメルが「ツテがある」と称して呼び出したプロの作曲家は、話を始めて三〇分も経たないうちに、怒鳴り声を叩きつけて席を立ち上がった。
ロンドンの高級ホテル、クラリッジスのラウンジに居合わせた客が一斉に振り返る。
かつてはシンガーソングライターとしても鳴らした有名な作曲家ピクシー・スコットは、呆れたように首を振ると厳しい声で言い放った。
「そもそもアポイントから失礼だと思っていたが、どんな仕事の依頼かと思って足を運べばビジネスの話にすらなっていない。時間の無駄だ」
吐き捨てるような言葉の向こう側では、さっきまでたどたどしく自分の構想を説明していたデブオタが狼狽し、言葉を失っていた。
いつもエメルを相手に強引かつ頼もしく話す彼だったが、プロの作曲家を相手ではさすがに勝手が違うだろうと緊張の余り、自分が何を話しているのかも解っていないトークになってしまった。
そして、イライラしたスコットはとうとう痺れを切らせてしまったのである。
エメルの顔も青ざめていた。
もっとも、これが以前の彼女なら怒鳴られただけで縮み上がってもう涙目になっていたことだろう。
「そもそも君は本当に音楽プロデューサーなのか? 契約書もない、企画書もない、これで一体何のビジネスだというんだ。説明も支離滅裂でさっぱりわからない」
五十代にしては若く精悍な風貌のベテラン作曲家は、厳しい面持ちで矢継ぎ早に畳みかける。
立ちあがったスコットは、思わず下を向いたデブオタへ憐れむように言葉を掛けた。
「ボーイ、契約の内容と説明の言葉くらい事前に準備したまえ。その前に社会の一般的な礼節の何たるかを勉強してから出直せ。正直、私じゃなくて二流や三流の作曲家くらいが君には似合うだろう」
(何ですって?)
それはリアンゼルと同じようにデブオタを見下すような物言いで、それを聞いたエメルの様子がふいに変わった。
しかし、リアンゼルの時のように思わず我を忘れるような怒りには駆られなかった。
大切な人を見下す冷ややかな作曲家の態度が、彼女を逆に冷静にさせたのだ。
エメルは、呼吸を整えながら目の前の男を観察した。まるで彼の正体を見極めようとするように。
高価そうなスーツ、ビジネスマンとしての優雅な身の振舞い、隙のない言葉遣い。きっと立派な仕事が出来る男なのだろう。
だが、エメルは思った。
どんなに仕事が出来る立派な男でも、土砂降りの冷たい雨の中で必死に営業してくれたデブオタのあの姿に到底及ぶはずがない。
彼と同じことがこの男には出来るだろうか? エメルは心の中でかぶりを振った。
おそらく出来ないだろう。あんな勇気を持っているデイブに二流や三流の作曲家など似合うものか!
エメルは決然として、席を立ちかけた彼へ言葉を返した。
「デイブが緊張して上手に説明出来ないから話を理解しようとせずに侮辱する。貴方はそれで本当に一流の作曲家のつもりなの?」
「何?」
一流を自負する作曲家が鋭く睨むと、エメルはターコイズグリーンの瞳に冷たい怒りを漲らせて睨み返した。
「確かにアポイントは下手でした。ここには契約書もなく企画書も用意していない。貴方が不快な思いをして当然かも知れない。それはごめんなさい。でも、作曲で大切なこととそれは関係ない。大事なことは歌う人が気持ちよく歌える、聴いた人が感動する、そんな曲を作ることじゃないの?」
「それは私に対する侮辱の言葉として受け取っていいのか」
「違います。貴方が私達を侮辱している。不器用だけど真剣な私達を」
声こそ震えていたがエメルは怯まなかった。隣のデブオタは驚いたように見ている。
しばらくの間、スコットとエメルは睨み合っていたが、スコットの灰色の瞳がふっと和んだ。無礼な物言いを激怒しても良かったのだが、一流の作曲家として、彼女の真剣な言葉に思わず好感を抱いたのだ。
社交辞令ではなくそんな切り出し方で話をされたことはずっとなかったな、と彼は思い出した。もしかしたら作曲の仕事を始めて今までなかったのかも知れない。
「君たちがいい加減でないことだけは理解した」
そう言うと、立ち上がっていたスコットはもう一度座り直した。
「子供扱いしたことは詫びよう。私も大人気なかった。では改めて、どんな曲を私に作って欲しいのか、その事情を聞かせてもらえるかな」
「はい。それは、あの、その……」
ピクシー・スコットの物腰は柔らかかったが、それだけにいい加減な受け答えは許さないという態度が見て取れる。デブオタはすっかり上がってしまって、またしどろもどろで話を始めそうになった。目が落ち着きなく泳いでいる。
「君、名前は?」
「デブ……いや、は、春……本ヤス、キ、です」
「ヤスキ、まずはそこの水を飲みたまえ。両手で持って、むせない様にゆっくりとだ」
デブオタは言われたとおり、素直にコップの水を両手で飲んだ。
「そう、それでいい。それから深呼吸しなさい。君の話は最後まで聞くと約束する。だから気持ちを楽にして話すといい」
「ありがとうございます」
エメルはテーブルの上で震えているデブオタの腕に自分の手を乗せて励ました。
「デイブ。この人に何もかも話して。曲の話より先に私たちのこと。ほら、公園のトイレで出会った日のことから」
「ああ……」
煌びやかなシャンデリアや大理石の床、高級そうなテーブルなど豪華なホテルの中にいる場違いさですっかり怖じ気づいて緊張していたデブオタは、ようやく人心地のついたような顔で頭を下げた。
「すみません。緊張していて。その、こんな場合の礼儀も知らないもので」
「いや、今のそれでいい。自分の至らなさを正直に謝罪するのも礼儀のひとつだ。ゆっくりとした口調で話すといい。その方が落ち着いて話せるよ」
黙って頷くとデブオタは静かに話し始めた。言葉が舌足らずな部分はエメルが横から懸命に補足する。
デブオタは時折、上目遣いに彼の顔色を伺ったが、無表情のスコットは何も口を挟もうとしない。
公園の中でエメルと出会い、リアンゼルと対峙したくだりは、さすがに苦笑じみた顔で彼は耳を傾けていたが、横断歩道を目隠しで渡り大声を上げさせる特訓など様々な練習を聞いているうちにその笑いは消えた。
体当たりで受けた幾つものオーディション、練習の数々。先日の大手のレコード会社に飛び込み営業をかけて放り出されたこともデブオタは恥ずかしそうに、だが包み隠さず語った。スコットは唇を横に結んだまま、ただ黙って聞いている。
最後にブリテッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションに挑戦するために曲を作ろうと考えて今回アポイントを取ったのだと聞いた時、わずかに頷いた。
エメルもデブオタのことを彼に理解して欲しいと思い、最後にもう一言だけ付け加えた。
「彼は私に言ったの。“悲しい人や傷ついた人を歌で抱きしめてあげる優しい歌手になってくれ”って。……私、そんな歌手になりたいの。だからこそ貴方に作曲をお願いしました」
それを聞いた時、スコットの顔にようやく感情の色が動いた。
「……そんな曲を私に作って欲しいというのだね」
デブオタとエメルは揃って頷いた。
しばらくの間、沈黙が流れた。スコットは何やら考え込んでいるようだったが、おもむろにデブオタへ向かって口を開いた。
「最近では彼女にどんなプロモーションをさせていた?」
「ああ、それならこれを」
デブオタは例の汚らしいリュックサックからタブレットPCを取り出すと電源を入れ、動画を再生させた。仮想空間のステージに合成されたエメルがバーチャルアイドルのシャドーエメルと共に華麗に踊り、歌う、プロモーション動画の「恋は貴方の瞳に染まって」。
さすがのスコットも「これは珍しいな」と、眼を見張った。
「このプロモーションビデオはどこの制作会社に作らせたんだ?」
「オレ様が……」
「君が一人でこれを作ったのか?」
「はい」
スコットはちょっと感心したようにデブオタを見直した。
だが、プロモーション動画を見終わった彼をもっと驚ろかせたのは「報酬はどれくらいを用意しているのかね」と尋ねた時のデブオタの返答だった。
デブオタが「ここに入っているだけ……」と一枚のカードをおずおず差し出すと、スコットは怪訝そうに受け取ったが、ふと気が付いたように彼を眺め回した。
まるで、このカードが彼にとってどれほどの価値があるのかを伺うように。
さすがにデブオタの破れた靴とペラペラのポリエステルジャケットはエメルがプレゼントしたものに代わっていた。
だがボサボサの髪、ヨレヨレのズボン、擦り切れかかったシャツ、薄汚いリュックサック……と、彼の身なりをひとつひとつ確かめるスコットの瞳に、次第に驚嘆の色が浮かんだ。彼は腕組みをしてしばらく思いを巡らすとうなずいて、突然こう言った。
「君はビジネスマンとしては失格だ」
思いがけない言葉にデブオタとエメルはビックリしたが、「だが」と続けるスコットの顔には、言葉とは裏腹に賞賛するような表情が浮かんでいた。
「君はイギリスでも滅多にいないユニークなプロデューサーだな。しかも信念を持った男だ。彼女が何故私に怒ったのか、その理由も腑に落ちた」
今回のオファーがどういうものか私なりに理解した、と言うとスコットは宙を睨んで何事か考えだした。厳しく眉を寄せた額の奥で猛烈な勢いで頭脳を回転させ、作曲家としての構想を素早くまとめているのを感じさせる。
ややあって、彼は落ち着いた口調で話し始めた。
「引き受けよう。ブリテッシュ・アルティメット・シンガーでこの歌姫が歌うのに相応しい曲は必ず用意する」
「あ、ありがとうございます!」
最初は激怒していたスコットを前に青ざめていただけに、半ば信じられないといった様子でデブオタが頭を下げると、彼は事務的な口調で契約や作曲の内容を話し始めた。
「今回の依頼に関連した費用は全て君がくれたこのカードに含まれるものとする、いいね。」
「はい」
「まず作曲だが、オリジナルで曲を一から作るには余り時間がない。君らには歌をマスターして振り付けを身につける時間も必要だろう。そこで今回は過去のヒット曲をアレンジする。新しい曲より短期間で作れるし、聴いた覚えがある人の耳には新鮮さに欠けるリスクこそあるが興味も惹きやすいんだ」
デブオタは「なるほど」と感嘆し、エメルもうなずいた。
「彼女、エメル・カバシのイメージに合った曲にはこれぞという心当たりがある。著作権、使用料の交渉も私に任せてくれ。今回の報酬にその費用も全て含めておくから心配はいらない」
「ありがとうございます」
「原曲はアップテンポな曲だが、アレンジにしたバージョンの他に数パターン用意する。そのデジタルデータ、音源、楽譜を引き渡して納品とさせてもらう」
「わかりました」
「明日にでも今の内容を契約書で用意する。制作スケジュールを考えて納品予定日もそれに書いておくから、それで了承出来たらサインしてくれ」
そこまで話すとスコットは「では、また後で連絡する」と立ち上がったが「ありがとうございました」と頭を下げたデブオタを見て静かに声を掛けた。
「ヤスキ、ビジネスマナーくらいは身につけろ。あと、スーツとネクタイだ。日本ではどうか知らないが、ここイギリスではそれなしだと足元を見られるぞ。だが……」
思わず顔を上げたデブオタへ、スコットは握手を求めて右手を差し出した。
「次に私と会うときは、どちらももう不要だ」
** ** ** ** ** **
「エメル。お前、すごいなぁ……」
スコットを見送った後、デブオタはエメルを眺めてしみじみとつぶやいた。
エメルは静かに微笑んでいる。
「あんな作曲家と堂々と渡り合いやがって」
「堂々とじゃないよ。必死だったんだよ。それに……」
怪しい歌手と蔑まれた冷たい雨の中、這いつくばった土の上から「エメルは絶対に違う!」と叫んだデイブの姿がエメルの脳裏に思い浮かぶ。
貴方のあの姿が私をこんなに強くさせてくれたのよ、と心の中でエメルはささやいた。
そんな声にならない言葉にこそ気が付かなかったが、デブオタは明るい声でハッパをかけた。
「さあ、彼から連絡が来るまで練習ガンガンいくぞ!」
「はい!」
既に年は改まっていた。
木枯らしの吹く中、凍てつきそうな冬の寒さを吹き飛ばすように、レッスンが再び始まった。イギリスでも最高に位置するオーディションが目標である。特訓は俄然、熱を帯びたものになった。
雨や雪の降る日は屋根のある公園の東屋に場所を変え、練習は一日も欠かすことなく続く。
デブオタはアイドル育成ゲーム『ドリームアイドル・ライブステージ』から様々なダンステクニックや歌い方をピックアップしてエメルに教え込んだ。
また、インターネットの検索からも役立ちそうな歌唱技術や練習方法を漁ったが、かなり上達したエメルへデブオタから教えられそうなことは、もうあまりなかった。
それでも何かエメルのレベルアップに役立ちそうなものを、とデブオタは有名歌手のレッスンを撮影した動画を見たり芸能プロダクションのサイトから練習カリキュラムをダウンロードしたりして彼女の知らないところで必死に勉強した。
そして翌日には、さも知っているような顔で指導した。
目標は余りにも高い場所にあるのだ。大見得を切った裏側で、夢に向かって少しでも可能性を探ろうとデブオタも懸命だった。
練習の合間には、彼女の喉を枯らさないようにと買い込んだハーブキャンディーを二人で嘗めたり紅茶を飲んで休憩を取る。
座学も行った。デブオタは、これも前日にネットで必死に調べた音楽用語や楽譜の読み方を分かりやすく纏めておき、受け売りの知識をいかにも知っている風に装ってエメルに講義した。
昼になると、テーブルベンチにエメルが用意したランチを広げ、一緒に食べる。
「おお、うまそうだな!」と、デブオタは相変わらずの健啖ぶりを発揮してガツガツ食べていたが、エメルははちきれんばかりの彼のお腹とみすぼらしい身なりをしきりと心配そうに見やって、ようやくおずおずと声を掛けた。
「ねえデイブ。スコットに頼んだ作曲のギャラはどれくらいだったの?」
「はした金さ、心配すんな」
振り返りもせずにデブオタは答える。エメルは彼に気が付かれないようにこっそりため息をついた。
彼と出会って、もう一一ヶ月が経っていた。
「デイブ、ホテル代とかバカにならないんじゃない? よかったら私のアパートメントに下宿するのはどうかしら。パパはほとんど出張でいないし、私にも無関心だから気兼ねすることないのよ」
思い切ってそう申し出たこともあったが、デブオタは「トンでもない!」と、まるで恐ろしいことでも聞いたように首を振った。
「日本じゃアイドル歌手のスキャンダルは一番のご法度だぜ。男のお泊まりが発覚してクビになったってことも珍しくもないんだ」
「そ、そうなんだ……」
驚いてデブオタを見ると、彼はエメルが理解してくれたものと思って大仰に頷いた。
「そうなんだよ。だから、デビュー前のエメルにヘンな噂が立つような真似なんてとても出来ねえよ。まぁ、気持ちだけ受け取っておくぜ。ありがとう」
「うん……」
デブオタが「リッツロンドンみたいなところに毎日泊まってる。心配すんな、フヒヒッ」と笑って話を終わらせてしまったので、エメルももうそれ以上無理に薦められなかった。
なので、出来ることと言ったらせいぜい晩御飯の足しにと毎日サンドウィッチを持たせるぐらいだった。
それでも温かいスープを詰めた水筒も一緒に持たせたり、サンドウィッチに彼の好物の白身魚のフライやコールドビーフを挟んだりサラダを添えたり、精一杯彼を気遣った。
作曲家に高額な報酬を支払ったのだ。もう所持金だって幾らも残っていないだろう。どこかで寝泊り出来ているのか、食事や睡眠をちゃんととれているのか、エメルは心配でたまらなかった。
「さぁ、練習始めようか。いつまでもゴロゴロしてると身体が鈍っちまうしな」
見ると、デブオタが立ち上がり、笑いかけている。
その屈託のない笑顔を見たエメルは、思わずジャージの袖口で目元を押さえて俯いた。
「どうした、エメル」
「何でもない。目にゴミが入ったの」
「ああ、木枯らし吹いてるもんな」
心配して寄り添ったデブオタからは日本のオタク特有の埃っぽい匂いがして、その匂いを嗅いだエメルは思わず彼に抱きついてしまいそうになった。
こんなにも温かく支えられている。胸がいっぱいで苦しくて、だけど嬉しくて……
デブオタがその巨体で風上に立って「どうだ、少しは風よけになるだろ」と豪快に笑ったので、ようやくエメルは我に返った。
「もう大丈夫よ。さぁ、始めましょう!」
踊り子のように身体をクルリと身軽に回転させ、彼女は微笑んだ。
「よし、じゃあ今度はこの曲をやってみよう」
「はい!」
デブオタは自ら手拍子を打ち、メロディーをハミングし、さながら舞台演劇の振り付け係のように指導を始めた。
時にはその短い足を不恰好に曲げてポーズをとり、魅力的な姿勢を解説する。エメルは真剣な眼差しで彼の一挙手一投足から目を離さない。彼の言葉ひとつひとつも大切に反芻しては懸命に学ぶのだった。そんな小さな成長の積み重ねが、歌姫の力を着実に磨き上げてゆく。
そうして昨日より歌が少しでも上手になったり、ダンスが華麗になるとデブオタの眼は輝いた。
「いいぞ、その調子だ!」
デイブの嬉しそうな声と笑顔は、エメルにとって何よりのご褒美だった。
疲れなどどこかへ吹き飛び、新しい力が湧きあがってくる。彼が喜んでくれるなら何だって出来る、何だってやってみせる、と彼女は思うのだった。
今まで自分をいじめ抜いたリアンゼルに負けてなるものかという対抗心もあったが、何よりデブオタの為に頑張りたい、彼の願いに応えたい、という想いがエメルをどこまでも果敢にさせていた。
「エメル、こんな動画があったぞ。ダンスのバリエーションに生かせるかも知れん。試してみよう」
「はい!」
ある日、彼が探し出してきたのはギクシャクしたロボットの動きやのろのろとしたゾンビの動き、道化師の滑稽な動きのパントマイムだった。
「これ、とっても面白いわ! 観た人はきっとビックリするわね」
「だろ? これをダンスステップの合間にアクセント風に付けてみれば、観客の眼をもっと惹きつけられるぜ。フヒヒッ」
「審査員も驚くでしょうね、ふふっ……。見てて、今度はこれをマスターしてみせるから!」
動画を観ながらエメルは、その動きを真似しようと懸命に練習を始めた。さすがに最初は不慣れな動きに戸惑って何度もよろけたり、倒れたり。
だが、もうそれで落ち込むようなかつてのエメルではなかった。失敗は、がむしゃらに挑む今の彼女の闘志に、却って火をつけるようなものだった。
そして、そんな様子を見ていてデブオタも黙っていられるはずがなかった。
彼はその晩、徹夜して例のシャドーエメルで振り付けを作ってくれた。
バーチャルアイドルの機能でどんな角度からでもその動きを見ることが出来、スローモーションで動かすことも出来る。
「どうだ、オレ様って凄いだろ!」と、目の下にクマを作ったデブオタのサムズアップを見てエメルはどんなに感激し、奮い立ったことか。解りやすい見本のおかげでレッスンの成果は飛躍的に向上した。
今度はそれをダンスのバリエーションへと活かそうと試み始める。
やがて、二人の熱意と努力は見事に実を結んだ。
その日、デブオタが「では、オーディションを始める」と、わざと尊大にアゴをしゃくって合図すると、エメルは、これもすました顔でスカートの両端をつまんで会釈した。
ラジカセからマイク・レノの「チェイシング・ジ・エンジェル」の序奏が流れ始める。彼女は歌い始めた。
歌いながら、エメルは戦闘機の空中機動を思わせるような流麗な動きで踊る。だがそれは突然カクカクとした不恰好な動きやノロノロとしたスローな動きに転じた。
勝手知ったデブオタですら思わずハッとさせるや、今度は小刻みなステップやターンを多用して激しく踊り始める。
そんなトリッキーな動きにも、エメルは簡単には息を切らせない。透き通るような歌声は川のせせらぎのように耳に心地よく、それでいて力強さも矛盾なく感じさせる。目を閉じていると激しく動き回りながら歌っているようには聴こえなかった。
それはこの一年近く毎日のようにロードワークで体力を培い、クラシックバレエで俊敏な動作を身に着け、開口や発声で腹式呼吸を鍛え続けた賜物だった。
デブオタは、自分のアイディアを取り込んで煌くように舞い、華やかに歌うエメルを惚れ惚れとした眼で見つめる。
曲が終わって「どう?」と彼女が振り返ると、自分の頭上に大きく「ごうかーく!」と両腕で輪を作った。
「ダンスはもう満点をオーバーランだ。『ドリームアイドル・ライブステージ』のメンバーの誰もがエメルには降参だ」
「本当?」
「ああ、ゲームキャラならもうぶっちぎりでSSランクってところかな。フヒヒッ」
そう言うとデブオタはエメルの髪を手でクシャクシャにして「エメル、お前がナンバーワンだ!」と褒めてくれた。エメルは嬉しくて、また涙が出そうになった。
「泣くな! 涙はスターになるその日のためにとっておけ!」
「はい!」
怒っているはずなのに、デブオタのカミナリは嬉しさを隠し切れない。
エメルも、今では彼に怒られるのが褒められるのと同じくらい嬉しくてたまらなかった。
「よし、次は歌唱力をいろんな角度からもう一度見直そう。チェックリストを作ってきたんだ。勢いで上達した時って、意外と基礎や基本を忘れて疎かにしがちなんだ。ダンスだけ上手くなっても肝心の歌が駄目だったら本末転倒だからな」
「はいっ!」
だが、一方で……
そんな熱意溢れるレッスンの成果が試される「ブリテッシュ・アルティメット・シンガー」について調べ始めたデブオタは、それがとてつもなく厳しいオーディションであることを知って戦慄することになった。
エメルに歌の基礎をお浚いさせている横で「敵を知り己を知れば百戦危うからず。傾向を調べて対策を練れば優勝はいただきだぜ!」と嘯いてネット検索を始めたデブオタだったが、その全貌を目の当たりにするや、その荒かった鼻息も次第に病人の呼吸のように弱々しくなっていった。
応募資格はさほど厳しくもなく、門戸は広い。
だが、その門に入れるのは僅か六四人。事前審査から恐ろしく厳しいのだ。
そんな事前審査に合格した者は、テレビ中継のオーディション番組に出場出来るのだが、ここから更に厳しい関門が幾重にも待っている。何しろ高名な歌手や音楽事業のプロデューサーが綺羅星のごとく審査員に名を連ねているのだ。
公平を期するために選考のたびにその審査員も毎回変わってゆく。それも次第に高名でより厳しい顔ぶれへと。
実力以外のいかなるコネも策略も、この厳正なオーディションには一切通用しない。ここ二、三年は優勝の栄冠を手にした者すらいなかった。
昨年のオーディションでは、とある審査員が「何の情熱もないのに憧れだけプロになれるとでも思ったのか。帰りたまえ!」とオーディション中のアマチュア歌手を叱り飛ばしたエピソードまで生まれていた。
彼女が泣きながらオーディション会場から逃げ去ってゆく様子を映したアーカイブ動画を見て、さすがのデブオタも言葉を失った。
それでも毎年、多くの少女達がイギリス最高の歌姫を目指してこのオーディションへ応募してくる。
それも半端な人数ではない。イギリス中のどこからと思えるほど夥しい数の少女達が「アルティメット」の名を冠する歌姫を夢見て毎年集まってくるのだ。
「凄え。これに比べたら日本のアイドルオーディションなんて子供だましだ……」
デブオタはぼう然となって独りごちた。ある程度予想はしていたがまさかこれほどとは。
希望の光はあまりにも遠く、儚い。デブオタは唇を噛みしめた。
だが、どんなに怯んでも彼はもう後に引くつもりはなかった。
傍らではエメルが自分を見上げ「デイブ、次のレッスンは?」と、眼を輝かせている。
「よし、次はこれだ」
こわばった表情を振り払うようにデブオタは大声を出し、笑顔を作ってみせた。
歌う時の姿勢をチェックする動画を再生して「頑張れよ! でもリラックスな、リラックス」と、エメルの背中をたたく。
エメルは頬を紅潮させてうなずいた。
いまだ一つのオーディションにすら採用された訳ではなく、誰から認められた訳でもない。確かなものは、まだ何ひとつないのだ。
それでも、ひたすら自分を信じてついて来るこの少女の為に、彼は持てる知識、思いつく知恵の限りを尽くして戦おう、と決意していた。
だが、このときデブオタは知る由もなかった。
これから挑もうとしているオーディションに対して彼が偽った名前。侵していた小さな瑕疵。
それが、彼の知らないところで奇禍を及ぼそうとしていることを……
** ** ** ** ** **
「オーケーです。収録は完了しました。お疲れ様」
チープ・トリックの「マイティウィング」がフェイドアウトしてゆく。リアンゼルは訝しげに防音ガラスの向こうへ眼を向けた。
頷いて扉を指さされている。彼女は怒らせていた肩を落とすと耳からヘッドフォンを外した。
どこか虚脱したような表情で録音ブースから出るとヴィヴィアンが肩に抱きついてきた。
「上手よ。やっぱり凄いじゃない。ね、リアン、元気を出して……」
「ありがとう。大丈夫よ。私、大丈夫だから」
言葉とは裏腹に、青いサファイアのような瞳はどこかくすんで見える。今はプロダクションの後ろ盾もなくなったマネージャーは辛そうな顔で俯いた。
スタジオの調整室から顔を出した若いスタッフは、そんな二人を気にした様子もなく「お疲れ様でした。こちらはこのまま編集に入りますので、レコーディング曲のデータと収録CDを明日お引渡しします」と声を掛けた。
ロンドン郊外のワトフォードにある小さなビル。
そこは、演奏機材を揃えた防音室や子ども向けの音楽教室、小さなホール等、音楽関連の設備を備えた多目的ビルだった。
年季の入ったビルは壁面に蔦が絡まり独特の風格を感じさせたが、子供を連れた母親の一団や市民コンサートを聴きに来た老夫婦、パンクファッションのロックバンドなど様々な人々が出入りしているので、音楽を愛好する者が集まるインフォーマルな場所となっていた。
リアンゼルとヴィヴィアンはそんなビルの一室にあるレコーディングスタジオへ、その日ブリテッシュ・アルティメット・シンガーで歌う曲の収録に訪れていたのだった。
「去年のあなたとは違うもの。リアン、自信を持って。きっと優勝出来るわ」
「ええ。でもそれだけじゃ駄目なの」
「リアン」
「あのブタ野郎とウジ虫エメル……アイツらを地獄に落としてやらなきゃいけないの、絶対に」
「……」
休憩室のソファに座り込んだリアンゼルは、愛用のソリッドギターを引き寄せて手すさびにチューニングを始めた。
調整した音は正確だが、夢遊病のような手つきは覚束なげだった。表情も半ば夢でも見ているように眼の焦点がどことなく合っていない。
だが、見ているのは決して楽しい夢ではないのだ。彼女は陰惨な夢で疲れているように見えた。
それでもリアンゼルは憎むことをやめようとはしない。
時折何かを思い出したように手を止める。そして激しい憎悪に顔を歪めては「殺してやる……殺してやる……」とつぶやくのだった。
彼女の傍らに寄り添うヴィヴィアンは、そのたびに唇を震わせた。
だが、何度も何か言葉を掛けようとしては躊躇い、結局は何も言えないまま俯くばかり。もうずっとリアンゼルを諫めることも慰めることも出来ないままでいる。
心を痛めるマネージャーもまた、疲れ切っていた。
と、そんな二人の目の前に二つの紙コップが差し出された。
紙コップの紅茶に似つかわしくない、気品ある芳香が漂ってくる。それは、とっておきのお茶を飲む時にだけ嗅いだ覚えがあった。
黙って紙コップを差し出した男を見返したヴィヴィアンは弱々しく微笑んで、香りの正体を答えた。
「フォートナム・アンド・メイソン」
「ご名答。もっともイギリス王室御用達のお茶にふさわしいティーカップはあいにくここになかったものでね」
笑いながら気障に片目をつぶった男の手から、ヴィヴィアンは片方の紙コップを受け取った。
もう片方の紙コップを差し出しながら男は笑いを含んだ声でリアンゼルに言った。
「憎しみに燃えてる」
リアンゼルは、ゆっくりと顔を上げて男を見た。
髪に白髪が混じった五〇代ほどの年齢らしい男。面識はなかった。
笑顔だが、その灰色の瞳には明らかに軽薄さと異なる何かが見て取れる。
音楽を気軽な趣味にしているようには見えなかった。何か厳しい信念を持って音楽に携わっている男だと、彼女の直感が告げていた。
「ええ。おかげで暖かいわよ」
「まだ寒いからね。でも無理に暖を取らなくても、もう冬は終わる。今度君が歌う舞台は早春に開かれるはずだ」
リアンゼルの皮肉に暗示めいた言葉を返して、男は対面のソファにどさりと身を投げた。
「その頃には暖かくなっているといいわね」
「君の歌次第だろう。黒歌鳥(ツグミ)は美声で春を呼ぶというからな」
「お上手ね、ありがとう」
少しだけ頬を緩ませてリアンゼルは微笑んだ。
だが、警戒している彼女の瞳は決して笑っていない。
「あなた、ここのスタッフとかアマチュアミュージシャンじゃないでしょ」
リアンゼルの詮索を受けても男の含み笑いは消えなかった。
「マネージャー共々推理が冴えてるね。隣のスタジオで依頼された曲の収録をしていたよ。さっき終わったばかりさ、ホームズ君」
すると、この男の正体は作曲家かディレクターなのだ。
興味なさげに脇を向いたリアンゼルの瞳の奥が一瞬、鋭い光を放った。
「お疲れ様、モリアーティ教授(※シャーロックホームズの小説に登場する好敵手の犯罪王)。私の憎しみとやらに共感してくれたら今度何か曲を作ってちょうだい。人を呪い殺せる歌を作ってくれたらお礼は弾むわ」
「リアン」
リアンゼルの言葉にヴィヴィアンが慌てて割って入ったが、男は面白そうに笑った。
「僕は作曲にはいささか自信があるが、あいにく呪術には腕に覚えがないものでね。傷心の歌姫に同情出来ないこともないが、残念だがご要望にはお応えできないな」
思わせぶりな口振りに、リアンゼルは首を傾げた。
傷心の歌姫などと呼ぶからには自分について何か知っているのだろうか。それとも興味があるだけで当て推量に話しかけてきたのだろうか。
黙ったままのリアンゼルと彼女を見つめる男の間をとりなすように、ヴィヴィアンが男へ話しかけた。
「美味しいお茶をありがとう。私たち、今日はレコーディングに来たんです。もうすぐブリテッシュ・アルティメット・シンガーが開催されるから、オーディション用の曲を……」
「ええ、さっき発声テストの歌を聴かせてもらいましたよ」
疲れた様子のヴィヴィアンを労わるように優しく微笑みかけると、男はこっそり一人ごちた。
「いい声をしている。なるほど、あの雷親父が黙って見守ってなどいられない訳だ」
リアンゼルの訝しげな視線など気にも留めず、男はヴィヴィアンへ気さくに話しかけた。
「オーディションの受付はもう始まったようですね。早くも沢山の娘が応募してきたと、事前審査をしている友人から聞きました」
「そうなんですか」
「冷やかしも多いが、今年は誰かが優勝する気がします。まだそんな娘は応募していないようだが」
「これから応募してくるのでしょうね」
オーディションの事前審査くらいなら間違いなく通るだろう。
だが、その先を憎悪に染まった今のこの歌姫は勝ち抜けてゆけるのだろうか……
待ち受けるオーディションの見通しを思い、ヴィヴィアンの顔は曇ってゆく。
その顔を見て男は何か言いかけ、口をつぐんだ。
そして、しばらく考え込むと何か思いついたらしく、話題を変えた。
いかにも、何気なさそうな口調で。
「そういえば、今日の仕事とは別にオーディション用の楽曲を頼まれていましたが、昨日ようやく納品しましたよ」
「それもブリテッシュ・アルティメット・シンガーに向けた依頼でしたの?」
「ええ。歌い手の経歴が面白かったな。ハーフの少女で、何でも売られた喧嘩を買ったのがそもそも歌手を目指す切っ掛けだったらしいが」
おや、どこかで聞いたことのある話だとヴィヴィアンは思った。
だが、どこでだったろう……と思い出す前に、男の言葉で気が付かされた。
「自称プロデューサーの日本人がついていましたが、ずいぶん変わった男でした」
「日本人?」
間違いない、あの男だ!
ヴィヴィアンはハッとして振り向いた。
リアンゼルは興味なさげにさっきからそっぽを向いている。男とヴィヴィアンから、その表情は伺い知れなかった。
男は知らぬ気に続ける。
「有名なプロデューサーの名を騙っていたが、本当は音楽の仕事に携わったことなどない男でした」
ヴィヴィアンは「まさか……そんな人だったんですか」と、目を丸くした。
「だが驚いたことに素人と思いきや、玄人はだしの熱血漢でした。驚かされましたよ」
「……」
「ガルシアへの書簡を託せる男(※己の叡智と努力だけで仕事を成し遂げる男という意味)というのはいるものですね。なるほど、いい眼をした歌姫が育つ訳だ。どんな歌を聴かせてくれるのか、今から楽しみです」
「期待されているんですね」
「ええ。情熱なしに人の心を震わせる歌などあり得ない。嘆かわしいことに今のイギリスは、プロの癖にそんなことも知らない歌手や作曲家が多くなってしまったが」
ヴィヴィアンは思い返した。
クリスマスを間近に控えたあの日、雨の中泥だらけで失意に打ちひしがれていた男。みすぼらしい身なりで、話しかけた自分をうろんげに見つめていた。
だが、やはりただの男ではなかった。
あの歌姫を育て上げた強靭な意思で立ち直り、イギリス最大のオーディションへ挑戦してきたのだ。
申込書を手渡した自分の思惑どおりに……
そう思った彼女は、男の次の言葉に更に驚かされることになった。
「先月、呼び出した私に自分の全財産を差し出して、子飼いの歌姫にふさわしい歌を作ってくれと言ってきました。生まれて初めてでしたよ、そんな依頼を受けたのは」
ヴィヴィアンは息を呑んだ。何という鉄の心臓を持った男か!
思惑通りどころか、全てを賭けるほどの自信と情熱を持って彼は挑んできたのだ。
「凄いですね……」
つぶやくのがやっとだった。
そんな彼に比べて自分はどうだろう。愛する歌姫を正しく導くことすら出来ずにいる。
「私なんて……」と、思わずうなだれたヴィヴィアンの声は震えていた。男は慰め顔で口を開く。
だが、彼が何か言う前に、リアンゼルが彼女の肩に手をまわしてそっと抱き寄せた。
柔らかい吐息を漏らすと、耳元に唇を寄せる。
「大丈夫よ、ヴィヴィ。あなたは負けてなんかいない」
「リアン」
「あなたはずっと私を支えてくれた。プロダクションに捨てられたこんな私を信じてくれた」
「……」
「私が絶対負けさせない……心配しないでいいの。大丈夫」
ささやくと、リアンゼルはヴィヴィアンの頬にそっと唇をつけた。
天使のように優しく慰さめる様子は、憎悪に顔を歪めていたさっきとは別人のようだった。
そのまま彼女はふらりと立ち上がった。
「外の空気を吸ってくるわ」
そう言うと、リアンゼルは男へ「私がいない間にヴィヴィに手を出したらこうよ」と親指で首を掻き切る仕草をして見せた。
男はわざとらしく怯えた声を上げてのけぞってみせた。ヴィヴィアンは「リアンったら!」と、目を白黒させている。
「リアン、切り裂きジャックみたいな真似をしないでちょうだい」
「神に誓って君の愛するマネージャーへ不埒な真似などしないよ」
泣き笑いのマネージャーと苦笑いの男を見て、リアンゼルはクスッと笑った。
「だったら、さっきのモリアーティ教授の汚名は謹んで撤回させていただくわ」
思わず顔を見合わせた男とヴィヴィアンは声を合わせて笑った。
「じゃあ、行ってくるわね」
お茶目にウィンクしたリアンゼルが扉の向こうへ姿を消すと、男はつぶやいた。
「不思議な娘だ。怨讐と童心、憎悪と慈愛が混淆した歌姫か」
「リアンゼルのこと、ご存じなんですか?」
ヴィヴィアンはおずおず尋ねた。テーブルに置いたコップは空になっている。
男は婉曲的に答えた。
「あの男に作曲を依頼された席で言いました。今までの経緯を全て教えろと。彼は話してくれましたよ、何もかも。一年前の発端、公園でハーフのクラスメイトをいじめていた、自称天才歌手のこともね」
穏やかな声だった。そこに非難するような響きはなかった。
それでも、ヴィヴィアンは声を詰まらせ、軋るような声で告白した。
「生意気な敵を潰してやるんだとリアンが努力を始めた時は、そんな動機でも嬉しかった。自惚れてばかりで何もしていなかったあの娘が見違えるほど変わってゆくのが、自分のことのように嬉しかった」
膝の上に置かれた手は、きつく握りしめられている。
「子供じみた意地や憎悪なんて本物の歌手へ近づけば自然と消えてしまう、そう思ってた。なのに……なのに……」
自分が話す言葉に気が付いて、ヴィヴィアンは怯えたように男の目を見た。
男は分かっているというように小さくうなずいて、無言で促している。
「こんなに歪んだ怒りで染まってしまうくらいなら、早くデビューさせてあげればよかった。あの娘は、今ではライバルを殺したいほどの憎しみを糧にして歌っている。私、どうしたら……」
「どうもしなくていい」
僅かな間をおいた返答は、拍子抜けしそうなくらい、こともなげだった。
「彼女は自ら答えを見つけ出すだろう。あの瞳は闇に染まりきってなどいない。夜明けが来るように、やがて心に光が差して闇は消え去る」
まるで予言でも告げるように男は言う。
「あなたはただ、傍にいてあげればいい。余計と分かっていてお節介を焼く人もいることだし」
「え?」
男は脇に置いた革のカバンから、小さな事典ほどの大きさをした包みをテーブルに乗せた。
「これは?」
「さっきまでそこで作っていた、あの娘の為の曲ですよ。ヴィヴィアン・ラーズリーの好敵手がピクシー・スコットへ作曲を依頼した、という話を聞きつけたとある男が依頼主です」
依頼主を尋ねるヴィヴィアンの視線に、その男……ピクシー・スコットは「名前は絶対明かすな、と言われました」と苦笑した。
「リアンゼル・コールフィールドの熱心なファンだそうですよ。ライバルに負けない素晴らしい曲を作ってプレゼントしてくれ、と」
無名のリアンにファンなんているはずが……そう言いかけたヴィヴィアンは、思わず叫び出しそうになった口を両手で覆った。
一人だけ、思い当たる人物がいたのだ。
「エメル・カバシの為に依頼された仕事を私がブログなんかで書いたものだから、居ても立ってもいられなかったらしい。聞いてもいないのに、これは自分のポケットマネーのすべてだ、と顔を真っ赤にして何度も言い訳していました」
泣きそうになった顔を背けたヴィヴィアンへ、スコットは優しく語りかけた。
「あなたはこう言ったそうですね。“あの娘はもっと大きく成長する、立派な歌姫へ変身する”と」
肩を震わせたまま、ヴィヴィアンはうなずいた。
「きっと信じているようになりますよ。今の憎悪が瘡蓋のように剥がれ落ちて歌いだす時が来るはずです」
「……」
「この歌がそうなればいいんだが。カバーアレンジの許諾や権利料の交渉で時間を喰ったが、今日に間に合ってよかった。オーディションの舞台で歌わせてあげて下さい」
「ありがとうございます……ありがとう、メイナード……」
スコットは、泣いているヴィヴィアンを励まそうと彼女の肩に手を伸ばしたが、寸前で慌てて引っこめた。
「おっと失礼。あなたに下手に触ったらあの娘が歌姫どころか殺人鬼に変身してしまうんだった。あぶないあぶない……」
** ** ** ** ** **
「へぷしゅっ」
可愛らしいくしゃみをしたリアンゼルは「あら、風邪でもひいたかしら」と、つぶやいた。
ビルの隣にある小さなスペースは猫の額ほどだった。公園と呼ぶのが憚られるくらいのささやかな広さしかない。
造園されて間もないらしく、ペンキ塗りたての小さなベンチがひとつあるきりだった。その傍に、幼児の背丈ほどのモミの木が一本植えられている。
彼女はコートの襟を立ててベンチの傍に佇み、小さなモミの枝が冬の風に身を震わせる侘しい様をしばらく見つめていた。
だが、冷たい風に身を晒しても虚無にとらわれた気持ちは一向に晴れない。
自分のプライドが粉微塵に砕け散ったあの日から、ずっとだった。
……だが、憎悪を杖にして歌い続けてきた自分が、今さら憎しみ以外の何にすがる?
リアンゼルは黙って首を振ると踵を返し、ビルの中へと戻った。
もう日も暮れかかっているので、エントランスの人影はまばらになっていた。彼女はそこから離れた一角にあるレコーディング用のスタジオへと歩いてゆく。細長い廊下に沿って部屋が四つ並んでいて、その一番端の部屋を借りているのだ。
リアンゼルは、ふと、その隣のスタジオを借りた誰かが無人のまま放置していることに気が付いた。部屋の灯りが付きっぱなしなのだ。
目をやると、ドアのプレートに利用者の名前がマジックペンで手書きされている。
「ピクシー・スコット?」
聞き覚えがある名前だった。ディファイアント・プロダクションでAクラスの歌手にのみ依頼が許された作曲家。
クビになるまでの間、リアンゼルには作曲を依頼する資格がなかった。無論、会う機会も。
口惜しさと羨望からリアンゼルはその名前を憶えていた。
さっき自分たちに紅茶を振る舞い、思わせぶりに話しかけてきた男の顔をリアンゼルは思い浮かべた。
(憎しみに燃えてる)
憎悪を友に必死に歌い続けてきた彼女の行き着く先を知っているような、静かな微笑み。
それが、ずっと彼女の心の中に引っかかっていた。
もしかすると彼自身が同じような憎しみに囚われたことがあるのかも知れない。そうやって歌う先に今の自分を見い出したとでもいうような……では、あの男がピクシー・スコットだったのか。
彼はどんな曲を作っていたのだろう。
リアンゼルは分厚い防音ガラスの向こうへ視線を向け、ドアにそっと手を掛けた。
鍵はかかっていなかった。
そのまま中に入るとミキシングコンソールの卓上に音響の設定らしいパターンを書き殴ったメモが散らばっているのが目に付いた。
スコットがここで自分の為に作曲していたことを、リアンゼルは知る由もなかった。
周囲を見回すが、手掛かりらしいものは結局見当たらない。
脇に電源が入ったままのノートパソコンが置いてあった。スクリーンセーバーも設定されていない画面はデスクトップ剥き出し。その画面をリアンゼルは覗き込んだ。何気なく。
そう、彼女は何気なく覗いただけだった。
だが、そのときリアンゼルは、そこで偶然見つけた「あるもの」に眼を惹き付けられた。
たくさん置かれたフォルダ。そのひとつに、こんなフォルダ名が付けられていたのだ。
“エメル・カバシ、ヤスキ・ハルモト依頼分”
スコットはエメルとデブオタに作曲を依頼された、と先ほど話していた。今更驚くようなことではない。
彼女の注意を惹いたのは、因縁深いあのデブオタの名前を初めて見たからだった。
そして、リアンゼルはすぐにスコットが話していたことを思い出した。
『有名なプロデューサーの名を騙っていたが、本当は音楽の仕事に携わったことなどない男でした』
偽りの名前であることを思い出した、そのときだった。
ふいに、まるで悪魔がささやきかけたとしか思えないような企みが、リアンゼルの心の中に浮かんだのである。
――もし、本物のハルモトヤスキへ奴が名前を偽っていることを密告し公にさせれば、歌で戦うことなく二人を潰すことが出来る――
リアンゼルは、思わず怖気をふるった。
「な、何をバカなことを……!」
思わず、吐き捨てるようにつぶやくと、その言葉を誰かに聞かれたような気がして慌てて周囲を見回した。
人の気配はない。
もし、いたとしても防音壁で仕切られた部屋の中のつぶやきなど聞かれるはずなどなかった。
なのに何か目に見えないものに聞かれた気がしてリアンゼルは恐ろしくなり、スタジオから飛び出した。
エリザベス女王陛下の御名にかけて正々堂々と歌で勝ち、歌手になると宣誓したはずの自分が、そんなこと出来るものか。すべてのイギリス人が敬愛する御方の名を汚すような卑劣な真似を!
そう思って、ようやく乱れた息を整えると隣のレコーディングスタジオへ戻っていった。
だが、笑顔のヴィヴィアンに迎えられても、彼女の心に憑りついた悪魔の誘惑は離れようとしなかった。
「リアン、どうかしたの? 顔色が良くないわ」
「何でもない。外がね、ちょっと寒かったの」
自分の心の内を見透かされそうな気がして、リアンゼルはヴィヴィアンとスコットの顔をまともに見ることが出来なかった。
だが、部屋を離れる前からずっとソッポを向いていた彼女を二人とも別段不審に思わなかった。
「そう。じゃあ、そろそろお暇して早めに帰りましょう」
「え、ええ……」
そしてその晩。
自宅の部屋で、リアンゼルは何度も躊躇しながら愛用のスマホを取り出した。
「ハルモトヤスキ」をキーワードに検索を掛ける。
恐ろしいことを始めた自覚に手は震えている。なのに、目は画面から離れようとしない。
「ハルモトヤスキ」は、日本では有名な音楽プロデューサーだった。百万近い検索件数がヒットし、リアンゼルを驚かせた。
検索順位のトップは事務所のコーポレートサイトだった。アクセスすると綺麗なガラス張りのビルと本人の上半身像が表示されたトップページが目に飛び込んできた。
春本ヤスキ。
太い黒ブチ眼鏡をしたやや太り気味の男だった。五〇代半ばらしい風貌だが冷ややかな視線は、超一流のプロデューサーというより冷徹な事業家を思わせた。
そして、デブオタとはまったくの別人だった。
ホームページの言語を日本語から英語に切り替えると彼の自己紹介を読むことが出来た。
仕事のオファーや相談を受け付けるメールフォームの下には電話番号が記載されている。
その電話番号を見たとき、悪魔がささやいた。
“ほら、これよ。あなたが探しているものは……”
彼女の心臓がビクンと跳ね上がり、そのまま鼓動を早鐘のように打ち始めた。
リアンゼルは自分が自分でない誰かに操られている気がした。
私、今何をしようとしているの……
だが、震える手で何度も番号を押し間違いながら……彼女はとうとう電話を掛けてしまった。
『……! ……!』
秘書らしい女性の声が日本語で応答する。言葉の意味は皆目分からない。リアンゼルは日本語を知らないのだ。彼女は英語で話しかけた。
「I...I am British Reanzul Caulfield. Can you speak English? (私は……イギリス人のリアンゼル・コールフィールドといいます。あなたは英語を話すことが出来ますか?)」
英語が通じなかったら話など出来ないのだ。そのまま電話を切ろう……そう思っていたのに、女性はすぐに流暢な英語で『Yes. I can speak English. What kind of business did you call by?(はい、話せます。どういったご用件ですか?)』と応じた。
「用件は……まもなくイギリスで開催されるブリテッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションについてです」
『はい。それで?』
「ある人物がいるのです。春本ヤスキという名前を騙って、オーディションに歌手を出場させようとしているプロデューサーが……日本人が……それで、その、私は……」
熱に浮かされているようだった。自分が何を言おうとしているのか自分でも分からない。
電話の向こうはしばらく沈黙すると、いきなり男性の声が女性に取って代わった。
『ハロー、ミズ・コールフィールド。聞こえますか? 私はヤスキ・ハルモトです』
外国人とも頻繁に話す機会が多いのだろう。撥音の分かりやすい英語で春本ヤスキ本人が話し掛けてきた。
「イエス、聞こえます……」
『お電話ありがとう。今、あなたが話してくれたことは私にとって非常に重大です』
「はい」
『何故なら私の名前を偽ってビジネスをすることは不正行為で、詐欺によって収入を得ているなら、それは明らかな犯罪だからです」
犯罪という言葉を聞いて、それまで逆上せていたようなリアンゼルは、今度は凍り付いた。
「イギリスでも日本でもそれは同じです。だからあなたの告発は非常に重大なのです』
「……」
密告しようとしている話と男の話す内容に、リアンゼルはあきらかな違和感を感じた。
詐欺、という言葉に彼女が思い浮かべたのは、デブオタのみすぼらしい身なりだった。
今にも擦り切れそうな服やテープを巻いて補修した靴、汚れきったペラペラのジャケット……詐欺によって収入を得ているなら、そんな身なりなどしているはずがないのに。
エメルを虐める自分を虐め返し、コケにした男。
天才であるはずの自分をあざ笑った許せない男。
だけど……
(あの男は詐欺など働いていない)
それだけは間違いなかった。リアンゼルは、何か目の前に掛かっていたベールが取れたような気がした。
『ミズ・コールフィールド、詳しい話を聞かせていただけませんか?』
『……』
『ミズ・コールフィールド』
詰め寄る声の厳しさが、浅ましい行為へ足を踏み出しかけたリアンゼルを正気に返らせ、踏み留まらせた。
「ノー、ごめんなさい! わた……私の勘違いでした!」
叫ぶように言うとリアンゼルは電話を切った。
紛れもなくいま、自分は人を売ろうとしていた。気がついたリアンゼルはガタガタを震えだした。
――何故、躊躇ったの? 殺したいと、それほど憎んでいる相手だったのでしょうに? どんな卑劣な手段でも使ってでも……
あの悪魔のささやきがまた聞こえたような気がした。
「嫌よ! 私、卑怯者になんてなりたくない。なるものですか!」
我知らずリアンゼルは叫び返した。
僅かな間をおいてリダイヤルで電話が掛かってきた。聞きなれたはずの着信音なのに、怯えてきったリアンゼルは思わず飛び上がった。
掛かってきた番号はさっき自分が掛けた電話番号である。日本から春本ヤスキが電話してきたのだ。
蒼白な顔のまま、リアンゼルは慌ててスマホの電源を切った。
「違うの。憎いけど、殺したいけど、私は……私は……」
正々堂々と歌いたいの、歌の力で勝ちたいの。
つぶやくと、リアンゼルはそのまま崩れるように膝をつき、両手で顔を覆った。
怯え、惑う中で憎しみが薄れ、消えていきそうな気がする。
だけど、そうしたら自分は何にすがって歌えばいいのだろう。
夜明け前の闇の中で、彼女の不安に答えてくれる声はまだどこからも聞こえてこなかった……
今朝は後ろから追い立てる陽気なドラ声はなかった。地面を叩く竹刀の音、古びた自転車をキィキィと漕ぐ音も。
それでもエメルは、毎朝欠かさず続けている八キロのロードワークを終えた。
今やホームグラウンドとなった例の公園に辿り着く。
もしかしたらと淡い期待を抱いたが、デブオタの姿はそこにもなかった。
エメルの顔は悲しげに曇ったが、それでも独りで発声練習を始めた。
きっと来てくれる、そう信じて。
彼の住居もメールアドレスも携帯の電話番号も彼女は知らなかった。いつもここで待ち合わせていたのだ。
だから、ここで待つ以外に彼女の選択肢はなかった。
ベンチの上に置いた籐かごには、いつものように紅茶の水筒とサンドウィッチが入っている。
デブオタがいつも使っているタブレットPCがないので、発声練習を終えたエメルは自分でメロディーを口ずさみながらクラシックバレエの練習に移った。
そうして練習の合間にタオルで汗を拭いては、しきりと周囲を見回すのだった。
(よう、昨日はみっともないところを見せたな)
懸命に練習していれば、彼のことだから照れくさそうにそう言いながら現われそうな気がしてエメルは待った。
もしかしたらバツが悪くて離れた場所から見ているかも知れないと、いつもより大きな声を出して歌を練習した。
それでもデブオタは現われなかった。
『もう、おしまいだ』
彼がこぼした失意の言葉が思い浮かぶ。
雨の向こうに消えたデブオタは、エメルを歌姫にする道半ばで諦め、本当にどこかへ去ってしまったのだろうか。
お昼になった。彼はやはり現われない。
「午後には来てくれるかな。……来てくれるよね」
エメルは独り言をつぶやきながら泣きそうな顔で籐かごのサンドウィッチを食べた。デブオタが傍にいないランチは、美味しいか不味いかのも分からないほど味気なかった。半分はきっと来てくれるであろうデブオタの為に残しておく。
昼過ぎからは、休憩を挟んでストレッチや筋トレ、発声、ダンス、歌唱、ウォーキングといった練習メニューを小刻みにこなしていった。
始めた頃はすぐバテて根を上げてばかりの練習メニューも、毎日繰り返した今ではすっかり慣れたものだった。
様々な種類のステップ、よく響く声の出し方、観客へインパクトを与えるポージングも身に付き、今ではオーディションで当意即妙にアレンジを加えるほど余裕が出来ていた。
しかし、今日はそんな余裕などまるでなかった。
すぐそばで、いつも自分を煽てたり、脅したり、励ましたり、おちょくったり、時には厳しく叱ってくれるあの人がいない。
エメルは涙が出そうなくらい、さみしかった。
それでも、デイブは必ず来てくれると自分に言い聞かせ、練習を続けた。
しかしそれも、次第に陽が傾き出した頃には、限界だった。
陽光が雲に遮られ、公園の侘しい冬景色から更に色彩を奪うと、エメルの心に張り詰めた糸がぷつんと切れた。
「デイブ、お願い。一人にしないで……」
ベンチに座り込むと、エメルはとうとう泣き出した。
その時「あれえ、こんなところで何泣いてるのぉ?」と、下卑た声がした。
顔を上げると、片方はナポレオンジャケットを羽織った赤い髪の男、もう片方はモヒカン頭でライダーズジャケットを着た男、如何にもガラの悪そうな二人組がニヤニヤしながら覗き込んでいる。
エメルは、怯えたような表情を浮かべて立ち上がった。
「何でもないの」
「何でもないのに泣いてる訳ないじゃん」
「心配してくれてありがとう。でも私に構わないで。一人にして欲しいの」
「いや、俺らが一人にしたくないの。一緒に遊びに行こうぜ。泣いてるよりずっとイイじゃん」
「ありがとう。でも私、待ってる人がいるの」
「いないじゃん。待ってても来ないよ。だから行こうぜ」
「来るわ! デイブはきっと来る!」
「来ない来ない。来ても俺らはお呼びじゃない。お呼びなのはアンタだけだよ」
断っても、しつこく絡むような会話と共に二人は近づいてくる。
エメルは慌てて周囲を見回したが、木枯らしの吹く公園に、救いを求める彼女の視線に応える人影はあいにくどこにも見当たらなかった。
「誘拐じゃないよ。ナンパしてるだけなんだからさ」
「そんな怖がらなくていいじゃん」
後ずさりするエメルへ彼等が手をかけようとした、そのときだった。
「おやめなさい!」
ジャパニーズイングリッシュのドラ声に、ならず者二人がぎょっとして振り返ると離れた場所に立っていたオークの太い木の影からぬっと巨体が現われた。
「デイブ!」
エメルが顔を輝かせて叫ぶと、デブオタは慌てて「あ、ちょっとタンマな」と言いながらもろ肌脱ぎになるとマジックペンで自分の額にハートマークを描いた。それで何かのアニメキャラになりきったつもりらしい。
もっとも鏡も見ずに描いたので、額のそれはくちゃくちゃのバッテンマークにしかならなかったが。
「パンクファッションのなりをして、まったく情けない奴等だ。セックスピストルズも草葉の陰でさぞやお嘆きだろうて」
「なんだ手前は。男はお呼びじゃねえんだ、すっこんでろ」
モヒカンの頭を斜めに傾けて片方の男が凄んだが、デブオタは意にも介さない。
エメルに向かってにっこり笑うと手を振って促した。
「さ、こんなのに構わず練習を続けなさい。君は未来のスターとなるべき歌姫なんだから」
「聞こえなかったのか? それとも死にてえのか?」
「フヒヒッ、そこは『汚物は消毒だー!』って言わなくちゃ」
ベルトが間に合わないのでサスペンダーで吊ったズボンからはみ出たお腹をたっぷんたっぷん揺らしながら、デブオタはモヒカン男へ向かってずんずん進んでくる。
「第一トゲ付きの肩パッドもしてねえなんて何の為のモヒカンだよ?」
「何、訳のわかんねえこと言ってんだ手前は。あ? 消えろっつってんだ、よっ!」
モヒカン男は、鋲を打ったベルトを拳に巻き付けてナックルにすると「よっ!」のところでトドのようなデブオタの腹に思い切りきつい一発をお見舞いした……はずだった。
デブオタは衝撃を堪えると、ノーダメージといった不気味な笑顔で顎を上げた。
モヒカン男は信じられないと云った顔で見上げる。
「クックックッ、残念だったな。オレ様の身体は分厚い脂肪に鎧われていてな。エセアナーキストのへなちょこパンチなんぞ、蚊に刺されたほども感じねえんだよ」
そう言うとエメルにウィンクして見せた。
「そういやエメルにオレ様の脂肪遊戯をまだ見せてなかったな。よーく見ておきな」
言うがはやいか、デブオタは両手を掲げた。そのまま「ほいやぁあああ~!」と言う掛け声と共に、万歳の格好でモヒカン男へ覆い被さってゆく。三桁の体重をそのまま武器にしたデブオタの必殺技、人間プレスである。
エメルがポカンとして見ている間に、断末魔にも似た「グヘアアアァ~!」というモヒカン男の絶叫が公園内に響き渡った。
** ** ** ** ** **
悶絶したモヒカン男は、赤髪の男に引きずられ去っていった。
デブオタは何をトチ狂ったのか、公園から退場してゆく二人を「ま、待ってくれよ。覚えてろとか今度会ったときはブッ殺すとか、負け犬の遠吠えを聞かせてくれよ。頼むよ、この通りだから」と土下座せんばかりに引き留めようとしている。
エメルは「そんなのいいから!」と、彼の袖を懸命に引っ張ってベンチに無理やり座らせた。
「無茶して……でもナイスファイト」
半べそをかきながらエメルが笑うとデブオタも照れくさそうに笑った。
だが、その笑いは今までの豪快なものではなかった。どこか淋しそうな翳りが混じっている。エメルの胸に何か不吉な予感がきざした。
それでも気が付かない振りをしてポーチから捻挫用の湿布を取り出すとデブオタのお腹に貼った。
そして「お昼食べてないでしょ?」と籐かごのサンドウィッチを取り出して勧めたが、デブオタは黙って手を振った。
例のリュックサックをゴソゴソ漁った彼は、クリアファイルに入った書類やDVDケースを取り出して並べ始める。
「遅くなってすまねえな。色々準備してたもんでよ」
「準備?」
「これにはこの間のプロモーデョン用の映像が入っている。こっちはエメル自身を売り込む為に作った紹介DVDだ」
これを作るために遅くなったのだ、とデブオタは説明を始めた。
しばらくの間、エメルはキョトンと見ていたが「これは今後三ヶ月間に予定されているオーディションと応募用の連絡先だ」と広げられたリスト表を見たあたりで、ようやく気が付いた。
彼は、これからエメルが自分なしでもオーディションを受けたりプロダクションへ売り込めるようにと準備をしていたのだ。
これらは餞別だ、とエメルは気づいて真っ青になった。今後の売り込みに必要なものを出来るだけ用意して、彼は日本に帰国しようとしている!
このままデブオタがいなくなってしまったら……考えただけで彼女は真っ暗な底無し穴へ落ちてゆくような気持ちになった。
「それとこれ……」
彼が最後に広げたのは、一枚のオーディションの応募申し込み用紙だった。オーディションの名前を見てエメルは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ブリテッシュ・アルティメット・シンガー……」
あのリアンゼルでさえ蹴落とされたほど厳しい、だが未来への成功が約束された、イギリスでもっとも権威あるオーディション。
デブオタは頭を掻きながらエメルへ妙なことを告げた。
「実は昨日オレ様にこのオーディションを受けろと薦めた人がいてな」
「デイブの知り合い?」
「いや、全然面識のない人だった。『ぜひエメル・カバシにこれを受けさせて下さい、きっと出場出来るはずです』って、この申し込み用紙を渡されたんだ」
「この公園で私たちを見てた人かしら」
「いや、そんな風には見えなかったな。メガネを掛けてスーツを着た女性だった。どこかの企業の社長秘書ってカンジの綺麗な人だったよ」
心当たりはないか? と訊かれてエメルは頭を振った。
「そうか。泥だらけのオレ様に『ミス・エメルのプロデューサーですね?』って、丁寧に話しかけてきたんだが……ううむ、一体何者だったんだろう」
しばらくの間デブオタは右に左に首を傾げたが「ま、いいか」と、小さく笑った。
「今までいっぱいオーディション受けてきたからなぁ。顔が売れたのかも知れん」
エメルは、自分を推薦してくれた人のことなど今はどうでもよかった。
そんなことよりこのままだと日本に帰ってしまう彼を何とか引き留める何か良い手立てはないか……それだけを必死に考えていたのである。
「きっと出場出来るって言われたんだ。正直とても嬉しかったよ」
「そうね」
半ば上の空で答えた彼女の目がそのとき捉えたのは、申し込み用紙のある記入欄だった。
見るなり彼女はこれだ! と、内心快哉を叫んだ。
(……これなら彼をイギリスに引き留められる!)
そう思った瞬間、彼女の心は決まった。
「デイブ。私、アルティメット・シンガーに出場するわ」
デブオタは「そ、そうか」と、驚いたようにエメルを見た。彼女はきっと躊躇うか尻込みくらいするだろうと思っていたのだ。
「でもきっとアイツもいるぜ」
「リアンゼル? ふん、もう怖くもなんともないわ。昨日のストリートファイトを見た? 私、彼女に鼻血を噴かせてやったのよ」
エメルは鼻で笑うと顎をつんと上げた。
以前は凄まれただけで恐ろしくて震えていたいじめっ子だったのに、デブオタを懸命に引き留めようとしている今ではリアンゼルのことなど気に留めるほどの価値すら感じない。
出場申込書が置かれたテーブルの前に座るや、挑みかかるように自分のフルネームを記入した。
デブオタは、積極的なエメルの様子を驚いたような眼で見守るばかりだ。
エメルは顔を上げてにっこり笑った。
「デイブ、忘れたの? 最初のオーディションで何も出来なかった私に言ったじゃないの。いっぱい受けていっぱい落ちてるうちに慣れて、いつか認められる日が来る。そうやってプロになってゆくんだって」
「お、おお」
「今までたくさんのオーディションを受けて落ちてきた。今度はブリテッシュ・アルティメット・シンガーだから何だっていうの? 私、怖くなんかないわ。怖いのは……」
――怖いのは、貴方がいなくなってしまうこと
その言葉は胸に秘めたまま、エメルは「さぁ、デイブも名前をここに書いて」と、素知らぬ顔で申し込み用紙をデブオタに向けた。
「えっ、オレ様が何で?」
「何言ってるの? ここ見てよ。身元を保証する人かプロダクションを記入しなくちゃいけないの」
「それは……エメルの親御さんじゃダメかな」
「ダメ。ダメというよりイヤ」
エメルはわざとデブオタの顔を見ないようにして、きっぱりと言った。
「ここに書いていいのはデイブの名前だけよ。……私に、それ以外の名前はない」
その言葉の重さをデブオタがどれほど理解したことか。
「オーディションにも出る必要あるのかな……」
「当たり前じゃない」
「そうか。いや、あのな。実はオレ様……」
モゴモゴと言い辛そうに話そうとしたデブオタへ、エメルは押し被せるように言葉を重ねた。
「デイブ。アルティメット・シンガーに出場するんだもの、観客や審査員を圧倒するような曲を作りましょう。私、その道のプロの作曲家に依頼しようと思うの」
「そ、そうか」
「大丈夫、私にアポイントは任せて。実はちょっと心当たりがあるのよ。デイブは私にさせてきた演出やアイディアを彼に話せばいい。そしたらきっと優勝にふさわしい歌が出来ると思うわ」
「お、おう」
心当たりなど本当は何もなかった。この場で思いついた出まかせである。友達すらおらず独りぼっちだったエメルに作曲家のツテなど無論ない。それどころか、どうやって探し出し、どんなやり方でアポイントを取ればいいのかも知らなかった。
だけど、エメルは体当たりでどんなことでもやるつもりだった。何も怖くなかった。デブオタがここにいてくれる為なら……
「曲が出来たらまた『ドリームアイドル・ライブステージ』のエディットモードで振り付けを考えてね。どんなハードなダンスだって難しい歌だって、私やってみせる。ね、今度は歌でリアンゼルをコテンパンにしてやろうよ!」
必死に言い募るエメルの熱気に押されたのか、リアンゼルをコテンパンにしてやろうという口吻がおかしかったのか、デブオタの頬が緩み、その口元に思わず苦笑じみた微笑が浮かぶ。
エメルの眼が輝いた。
「デイブ。昨日雨の中で言ったわね。“こんな惨めな一部始終を見ても、今までのように歌えるのか?”って」
「……ああ」
「歌えるよ。ううん、歌えるとか歌えないとかじゃない。私、惨めなものや醜いものだってちゃんと見て歌いたい。雨の中のデイブのあの姿……あれを惨めだって言うならあれを知らないままで私には歌う資格なんてない」
「エメル」
「だってデイブは私にこう言ったのよ。“悲しい人や傷ついた人を歌で抱きしめてあげる、そんな優しい歌手になってくれ”って」
「……」
「私、そんな歌手になりたい。いいえ、きっとなってみせるわ」
デブオタは、まるで見知らぬ人にでもなったようにエメルを見つめ、思わずため息を漏らした。
いじけるたびに叱り、萎れては励まし、下を向けば背中を押し続けてきた泣き虫の少女が姿を消し、思慮深さをたたえ、凛とした眼差しを持ち、炎のような情熱を秘めた歌姫が突然現われたのだ。
「デイブ、いままでたくさんオーディション受けて落ちちゃったよね」
「おお」
「私、思うの。もしかしたらそれはこのブリテッシュ・アルティメット・シンガーへ続く為のステップだったんじゃないかって。きっとそうよ!」
「……」
「デイブと出会ったのも、最初に何も歌えなかったのも、デイブと一緒に踊ったのも、いろんな練習をしてきたのも、雨の中でリアンと戦ったのも、みんなみんな……」
デブオタは、もう何も言わなかった。胸がいっぱいになってしまったのだ。
黙って用紙を受け取ると、何やらしばらく考え込んで躊躇った後に名前と住所、連絡先の携帯番号を書き込んだ。
(名前は『春本ヤスキ』、電話番号は……)
エメルは素早く眼を走らせた。もちろん後で控えるのだ。
デブオタはペンを置いた。彼の動揺を表したように文字はヨレヨレに震えてかろうじて読めそうなくらいだった。
ゲームの中で架空のアイドルを育ててきた経験と向こう見ずな度胸、思いつく知恵の限りを尽くしてここまできたが、本当はいつもどこか不安で後ろめたい思いに囚われながらエメルを導いていたのだ。
何故なら彼がリアンゼルに対して切った啖呵「自分は日本の音楽プロデューサー」は……
――実は、真っ赤な嘘だった。
後ろめたさは今も消えない。だから彼がいま書いたのも他人の名前だった。
「春本ヤスキ」とは日本で有名なアイドルプロデューサーである。世間にあまり顔を出さないが、日本でヒットしたアイドル歌手の約半数は彼がプロデュースしたとまで言われていた。
ファンとの距離感を感じさせないライブコンサートなどで人気を演出する一方、CD購入を利用した人気投票制度で応援に多額の費用を掛けさせる仕組みを作り上げ、世間では「搾取系アイドル商法」と呼ばれる悪評も買った辣腕のプロデューサーだった。
デブオタがさんざんプレイしたアイドル育成ゲーム「ドリームアイドル・ライブステージ」も春本ヤスキが監修したと云われている。
架空のアイドルまで作り、デブオタのようなアイドルオタクを手のひらの上で踊らせてきた、芸能界のヒエラルキーの頂点に立つ男。
デブオタは、いわば彼の真似をして今までアイドルの育成ごっこをしていたようなものだった。
だが、エメルはデブオタの知るどんなアイドルよりも最初はみすぼらしかったのに、今では誰よりも美しく、そして逞しく成長していたのだ。
デブオタは身体が震えだしそうだった。
彼女を育てたのは……紛れもなく自分なのだ。
好きな歌手を応援しては搾取されるばかりで最後は裏切られてきた自分が。罵られても黙ってうなだれるしかなかったみじめな自分が。しまいには架空のアイドルを育てて満足するしかなかった底辺オタの自分が……
生まれて初めて感じる誇らしさが、デブオタの心をいっぱいに満たしてゆく。
このままおめおめと帰国など出来ない、と彼は思った。ここまで頼られ、これほどまでに信じられて……この少女をイギリスで最高の歌姫に出来るのは、お前しかいないのだと云う声が聞こえてくる。
力強く彼の背中を押す声。
エメルと初めて出会ったときにも聞こえた、あの心の声が。
(オレは……オレは……)
デブオタはスックと立ち上がった。
その瞳には、エメルを必ず歌手にしてやると豪語した時よりも強靭な光が宿っている。
「ラスボスは強大だ。今まで以上に厳しい戦いになるぞ。だけど、お前ならきっと出来る」
彼は申し込み用紙をエメルに渡しながら、厳かに告げた。
「ロードワークも増やすぞ」
「ロンドンマラソンに出場してもいいくらい走ってみせるわ」
「オペラ歌手も逃げ出すような発声をマスターさせるからな」
「任せて。そのうちロイヤルオペラハウスにだって立ってみせるから」
「よし、オーディションでイギリス中をあっと言わせてやろう!」
「もちろんよ。リアンゼルなんかに負けるもんですか!」
「うむ」
厳しいレッスンの通告ひとつひとつに、頼もしい返事が戻って来る。
デブオタは莞爾と微笑んだ。
「また二人で頑張ろう」
二人で頑張る……それこそ彼女が渇望していた約束の言葉だった。
デイブがこれからもここにいてくれる! エメルの顔は歓喜に輝いたが、そのまま涙ぐんでしまった。
強くなっても、彼女の根っこはやっぱりあの日と同じ泣き虫エメルだった。
「泣くな! 涙はスターになるその日のためにとっておけ!」
「はい!」
以前のように、元気いっぱいエメルを叱り飛ばしたデブオタだったが……
** ** ** ** ** **
「駄目だね、話にならない。帰らせていただく!」
一週間後。
エメルが「ツテがある」と称して呼び出したプロの作曲家は、話を始めて三〇分も経たないうちに、怒鳴り声を叩きつけて席を立ち上がった。
ロンドンの高級ホテル、クラリッジスのラウンジに居合わせた客が一斉に振り返る。
かつてはシンガーソングライターとしても鳴らした有名な作曲家ピクシー・スコットは、呆れたように首を振ると厳しい声で言い放った。
「そもそもアポイントから失礼だと思っていたが、どんな仕事の依頼かと思って足を運べばビジネスの話にすらなっていない。時間の無駄だ」
吐き捨てるような言葉の向こう側では、さっきまでたどたどしく自分の構想を説明していたデブオタが狼狽し、言葉を失っていた。
いつもエメルを相手に強引かつ頼もしく話す彼だったが、プロの作曲家を相手ではさすがに勝手が違うだろうと緊張の余り、自分が何を話しているのかも解っていないトークになってしまった。
そして、イライラしたスコットはとうとう痺れを切らせてしまったのである。
エメルの顔も青ざめていた。
もっとも、これが以前の彼女なら怒鳴られただけで縮み上がってもう涙目になっていたことだろう。
「そもそも君は本当に音楽プロデューサーなのか? 契約書もない、企画書もない、これで一体何のビジネスだというんだ。説明も支離滅裂でさっぱりわからない」
五十代にしては若く精悍な風貌のベテラン作曲家は、厳しい面持ちで矢継ぎ早に畳みかける。
立ちあがったスコットは、思わず下を向いたデブオタへ憐れむように言葉を掛けた。
「ボーイ、契約の内容と説明の言葉くらい事前に準備したまえ。その前に社会の一般的な礼節の何たるかを勉強してから出直せ。正直、私じゃなくて二流や三流の作曲家くらいが君には似合うだろう」
(何ですって?)
それはリアンゼルと同じようにデブオタを見下すような物言いで、それを聞いたエメルの様子がふいに変わった。
しかし、リアンゼルの時のように思わず我を忘れるような怒りには駆られなかった。
大切な人を見下す冷ややかな作曲家の態度が、彼女を逆に冷静にさせたのだ。
エメルは、呼吸を整えながら目の前の男を観察した。まるで彼の正体を見極めようとするように。
高価そうなスーツ、ビジネスマンとしての優雅な身の振舞い、隙のない言葉遣い。きっと立派な仕事が出来る男なのだろう。
だが、エメルは思った。
どんなに仕事が出来る立派な男でも、土砂降りの冷たい雨の中で必死に営業してくれたデブオタのあの姿に到底及ぶはずがない。
彼と同じことがこの男には出来るだろうか? エメルは心の中でかぶりを振った。
おそらく出来ないだろう。あんな勇気を持っているデイブに二流や三流の作曲家など似合うものか!
エメルは決然として、席を立ちかけた彼へ言葉を返した。
「デイブが緊張して上手に説明出来ないから話を理解しようとせずに侮辱する。貴方はそれで本当に一流の作曲家のつもりなの?」
「何?」
一流を自負する作曲家が鋭く睨むと、エメルはターコイズグリーンの瞳に冷たい怒りを漲らせて睨み返した。
「確かにアポイントは下手でした。ここには契約書もなく企画書も用意していない。貴方が不快な思いをして当然かも知れない。それはごめんなさい。でも、作曲で大切なこととそれは関係ない。大事なことは歌う人が気持ちよく歌える、聴いた人が感動する、そんな曲を作ることじゃないの?」
「それは私に対する侮辱の言葉として受け取っていいのか」
「違います。貴方が私達を侮辱している。不器用だけど真剣な私達を」
声こそ震えていたがエメルは怯まなかった。隣のデブオタは驚いたように見ている。
しばらくの間、スコットとエメルは睨み合っていたが、スコットの灰色の瞳がふっと和んだ。無礼な物言いを激怒しても良かったのだが、一流の作曲家として、彼女の真剣な言葉に思わず好感を抱いたのだ。
社交辞令ではなくそんな切り出し方で話をされたことはずっとなかったな、と彼は思い出した。もしかしたら作曲の仕事を始めて今までなかったのかも知れない。
「君たちがいい加減でないことだけは理解した」
そう言うと、立ち上がっていたスコットはもう一度座り直した。
「子供扱いしたことは詫びよう。私も大人気なかった。では改めて、どんな曲を私に作って欲しいのか、その事情を聞かせてもらえるかな」
「はい。それは、あの、その……」
ピクシー・スコットの物腰は柔らかかったが、それだけにいい加減な受け答えは許さないという態度が見て取れる。デブオタはすっかり上がってしまって、またしどろもどろで話を始めそうになった。目が落ち着きなく泳いでいる。
「君、名前は?」
「デブ……いや、は、春……本ヤス、キ、です」
「ヤスキ、まずはそこの水を飲みたまえ。両手で持って、むせない様にゆっくりとだ」
デブオタは言われたとおり、素直にコップの水を両手で飲んだ。
「そう、それでいい。それから深呼吸しなさい。君の話は最後まで聞くと約束する。だから気持ちを楽にして話すといい」
「ありがとうございます」
エメルはテーブルの上で震えているデブオタの腕に自分の手を乗せて励ました。
「デイブ。この人に何もかも話して。曲の話より先に私たちのこと。ほら、公園のトイレで出会った日のことから」
「ああ……」
煌びやかなシャンデリアや大理石の床、高級そうなテーブルなど豪華なホテルの中にいる場違いさですっかり怖じ気づいて緊張していたデブオタは、ようやく人心地のついたような顔で頭を下げた。
「すみません。緊張していて。その、こんな場合の礼儀も知らないもので」
「いや、今のそれでいい。自分の至らなさを正直に謝罪するのも礼儀のひとつだ。ゆっくりとした口調で話すといい。その方が落ち着いて話せるよ」
黙って頷くとデブオタは静かに話し始めた。言葉が舌足らずな部分はエメルが横から懸命に補足する。
デブオタは時折、上目遣いに彼の顔色を伺ったが、無表情のスコットは何も口を挟もうとしない。
公園の中でエメルと出会い、リアンゼルと対峙したくだりは、さすがに苦笑じみた顔で彼は耳を傾けていたが、横断歩道を目隠しで渡り大声を上げさせる特訓など様々な練習を聞いているうちにその笑いは消えた。
体当たりで受けた幾つものオーディション、練習の数々。先日の大手のレコード会社に飛び込み営業をかけて放り出されたこともデブオタは恥ずかしそうに、だが包み隠さず語った。スコットは唇を横に結んだまま、ただ黙って聞いている。
最後にブリテッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションに挑戦するために曲を作ろうと考えて今回アポイントを取ったのだと聞いた時、わずかに頷いた。
エメルもデブオタのことを彼に理解して欲しいと思い、最後にもう一言だけ付け加えた。
「彼は私に言ったの。“悲しい人や傷ついた人を歌で抱きしめてあげる優しい歌手になってくれ”って。……私、そんな歌手になりたいの。だからこそ貴方に作曲をお願いしました」
それを聞いた時、スコットの顔にようやく感情の色が動いた。
「……そんな曲を私に作って欲しいというのだね」
デブオタとエメルは揃って頷いた。
しばらくの間、沈黙が流れた。スコットは何やら考え込んでいるようだったが、おもむろにデブオタへ向かって口を開いた。
「最近では彼女にどんなプロモーションをさせていた?」
「ああ、それならこれを」
デブオタは例の汚らしいリュックサックからタブレットPCを取り出すと電源を入れ、動画を再生させた。仮想空間のステージに合成されたエメルがバーチャルアイドルのシャドーエメルと共に華麗に踊り、歌う、プロモーション動画の「恋は貴方の瞳に染まって」。
さすがのスコットも「これは珍しいな」と、眼を見張った。
「このプロモーションビデオはどこの制作会社に作らせたんだ?」
「オレ様が……」
「君が一人でこれを作ったのか?」
「はい」
スコットはちょっと感心したようにデブオタを見直した。
だが、プロモーション動画を見終わった彼をもっと驚ろかせたのは「報酬はどれくらいを用意しているのかね」と尋ねた時のデブオタの返答だった。
デブオタが「ここに入っているだけ……」と一枚のカードをおずおず差し出すと、スコットは怪訝そうに受け取ったが、ふと気が付いたように彼を眺め回した。
まるで、このカードが彼にとってどれほどの価値があるのかを伺うように。
さすがにデブオタの破れた靴とペラペラのポリエステルジャケットはエメルがプレゼントしたものに代わっていた。
だがボサボサの髪、ヨレヨレのズボン、擦り切れかかったシャツ、薄汚いリュックサック……と、彼の身なりをひとつひとつ確かめるスコットの瞳に、次第に驚嘆の色が浮かんだ。彼は腕組みをしてしばらく思いを巡らすとうなずいて、突然こう言った。
「君はビジネスマンとしては失格だ」
思いがけない言葉にデブオタとエメルはビックリしたが、「だが」と続けるスコットの顔には、言葉とは裏腹に賞賛するような表情が浮かんでいた。
「君はイギリスでも滅多にいないユニークなプロデューサーだな。しかも信念を持った男だ。彼女が何故私に怒ったのか、その理由も腑に落ちた」
今回のオファーがどういうものか私なりに理解した、と言うとスコットは宙を睨んで何事か考えだした。厳しく眉を寄せた額の奥で猛烈な勢いで頭脳を回転させ、作曲家としての構想を素早くまとめているのを感じさせる。
ややあって、彼は落ち着いた口調で話し始めた。
「引き受けよう。ブリテッシュ・アルティメット・シンガーでこの歌姫が歌うのに相応しい曲は必ず用意する」
「あ、ありがとうございます!」
最初は激怒していたスコットを前に青ざめていただけに、半ば信じられないといった様子でデブオタが頭を下げると、彼は事務的な口調で契約や作曲の内容を話し始めた。
「今回の依頼に関連した費用は全て君がくれたこのカードに含まれるものとする、いいね。」
「はい」
「まず作曲だが、オリジナルで曲を一から作るには余り時間がない。君らには歌をマスターして振り付けを身につける時間も必要だろう。そこで今回は過去のヒット曲をアレンジする。新しい曲より短期間で作れるし、聴いた覚えがある人の耳には新鮮さに欠けるリスクこそあるが興味も惹きやすいんだ」
デブオタは「なるほど」と感嘆し、エメルもうなずいた。
「彼女、エメル・カバシのイメージに合った曲にはこれぞという心当たりがある。著作権、使用料の交渉も私に任せてくれ。今回の報酬にその費用も全て含めておくから心配はいらない」
「ありがとうございます」
「原曲はアップテンポな曲だが、アレンジにしたバージョンの他に数パターン用意する。そのデジタルデータ、音源、楽譜を引き渡して納品とさせてもらう」
「わかりました」
「明日にでも今の内容を契約書で用意する。制作スケジュールを考えて納品予定日もそれに書いておくから、それで了承出来たらサインしてくれ」
そこまで話すとスコットは「では、また後で連絡する」と立ち上がったが「ありがとうございました」と頭を下げたデブオタを見て静かに声を掛けた。
「ヤスキ、ビジネスマナーくらいは身につけろ。あと、スーツとネクタイだ。日本ではどうか知らないが、ここイギリスではそれなしだと足元を見られるぞ。だが……」
思わず顔を上げたデブオタへ、スコットは握手を求めて右手を差し出した。
「次に私と会うときは、どちらももう不要だ」
** ** ** ** ** **
「エメル。お前、すごいなぁ……」
スコットを見送った後、デブオタはエメルを眺めてしみじみとつぶやいた。
エメルは静かに微笑んでいる。
「あんな作曲家と堂々と渡り合いやがって」
「堂々とじゃないよ。必死だったんだよ。それに……」
怪しい歌手と蔑まれた冷たい雨の中、這いつくばった土の上から「エメルは絶対に違う!」と叫んだデイブの姿がエメルの脳裏に思い浮かぶ。
貴方のあの姿が私をこんなに強くさせてくれたのよ、と心の中でエメルはささやいた。
そんな声にならない言葉にこそ気が付かなかったが、デブオタは明るい声でハッパをかけた。
「さあ、彼から連絡が来るまで練習ガンガンいくぞ!」
「はい!」
既に年は改まっていた。
木枯らしの吹く中、凍てつきそうな冬の寒さを吹き飛ばすように、レッスンが再び始まった。イギリスでも最高に位置するオーディションが目標である。特訓は俄然、熱を帯びたものになった。
雨や雪の降る日は屋根のある公園の東屋に場所を変え、練習は一日も欠かすことなく続く。
デブオタはアイドル育成ゲーム『ドリームアイドル・ライブステージ』から様々なダンステクニックや歌い方をピックアップしてエメルに教え込んだ。
また、インターネットの検索からも役立ちそうな歌唱技術や練習方法を漁ったが、かなり上達したエメルへデブオタから教えられそうなことは、もうあまりなかった。
それでも何かエメルのレベルアップに役立ちそうなものを、とデブオタは有名歌手のレッスンを撮影した動画を見たり芸能プロダクションのサイトから練習カリキュラムをダウンロードしたりして彼女の知らないところで必死に勉強した。
そして翌日には、さも知っているような顔で指導した。
目標は余りにも高い場所にあるのだ。大見得を切った裏側で、夢に向かって少しでも可能性を探ろうとデブオタも懸命だった。
練習の合間には、彼女の喉を枯らさないようにと買い込んだハーブキャンディーを二人で嘗めたり紅茶を飲んで休憩を取る。
座学も行った。デブオタは、これも前日にネットで必死に調べた音楽用語や楽譜の読み方を分かりやすく纏めておき、受け売りの知識をいかにも知っている風に装ってエメルに講義した。
昼になると、テーブルベンチにエメルが用意したランチを広げ、一緒に食べる。
「おお、うまそうだな!」と、デブオタは相変わらずの健啖ぶりを発揮してガツガツ食べていたが、エメルははちきれんばかりの彼のお腹とみすぼらしい身なりをしきりと心配そうに見やって、ようやくおずおずと声を掛けた。
「ねえデイブ。スコットに頼んだ作曲のギャラはどれくらいだったの?」
「はした金さ、心配すんな」
振り返りもせずにデブオタは答える。エメルは彼に気が付かれないようにこっそりため息をついた。
彼と出会って、もう一一ヶ月が経っていた。
「デイブ、ホテル代とかバカにならないんじゃない? よかったら私のアパートメントに下宿するのはどうかしら。パパはほとんど出張でいないし、私にも無関心だから気兼ねすることないのよ」
思い切ってそう申し出たこともあったが、デブオタは「トンでもない!」と、まるで恐ろしいことでも聞いたように首を振った。
「日本じゃアイドル歌手のスキャンダルは一番のご法度だぜ。男のお泊まりが発覚してクビになったってことも珍しくもないんだ」
「そ、そうなんだ……」
驚いてデブオタを見ると、彼はエメルが理解してくれたものと思って大仰に頷いた。
「そうなんだよ。だから、デビュー前のエメルにヘンな噂が立つような真似なんてとても出来ねえよ。まぁ、気持ちだけ受け取っておくぜ。ありがとう」
「うん……」
デブオタが「リッツロンドンみたいなところに毎日泊まってる。心配すんな、フヒヒッ」と笑って話を終わらせてしまったので、エメルももうそれ以上無理に薦められなかった。
なので、出来ることと言ったらせいぜい晩御飯の足しにと毎日サンドウィッチを持たせるぐらいだった。
それでも温かいスープを詰めた水筒も一緒に持たせたり、サンドウィッチに彼の好物の白身魚のフライやコールドビーフを挟んだりサラダを添えたり、精一杯彼を気遣った。
作曲家に高額な報酬を支払ったのだ。もう所持金だって幾らも残っていないだろう。どこかで寝泊り出来ているのか、食事や睡眠をちゃんととれているのか、エメルは心配でたまらなかった。
「さぁ、練習始めようか。いつまでもゴロゴロしてると身体が鈍っちまうしな」
見ると、デブオタが立ち上がり、笑いかけている。
その屈託のない笑顔を見たエメルは、思わずジャージの袖口で目元を押さえて俯いた。
「どうした、エメル」
「何でもない。目にゴミが入ったの」
「ああ、木枯らし吹いてるもんな」
心配して寄り添ったデブオタからは日本のオタク特有の埃っぽい匂いがして、その匂いを嗅いだエメルは思わず彼に抱きついてしまいそうになった。
こんなにも温かく支えられている。胸がいっぱいで苦しくて、だけど嬉しくて……
デブオタがその巨体で風上に立って「どうだ、少しは風よけになるだろ」と豪快に笑ったので、ようやくエメルは我に返った。
「もう大丈夫よ。さぁ、始めましょう!」
踊り子のように身体をクルリと身軽に回転させ、彼女は微笑んだ。
「よし、じゃあ今度はこの曲をやってみよう」
「はい!」
デブオタは自ら手拍子を打ち、メロディーをハミングし、さながら舞台演劇の振り付け係のように指導を始めた。
時にはその短い足を不恰好に曲げてポーズをとり、魅力的な姿勢を解説する。エメルは真剣な眼差しで彼の一挙手一投足から目を離さない。彼の言葉ひとつひとつも大切に反芻しては懸命に学ぶのだった。そんな小さな成長の積み重ねが、歌姫の力を着実に磨き上げてゆく。
そうして昨日より歌が少しでも上手になったり、ダンスが華麗になるとデブオタの眼は輝いた。
「いいぞ、その調子だ!」
デイブの嬉しそうな声と笑顔は、エメルにとって何よりのご褒美だった。
疲れなどどこかへ吹き飛び、新しい力が湧きあがってくる。彼が喜んでくれるなら何だって出来る、何だってやってみせる、と彼女は思うのだった。
今まで自分をいじめ抜いたリアンゼルに負けてなるものかという対抗心もあったが、何よりデブオタの為に頑張りたい、彼の願いに応えたい、という想いがエメルをどこまでも果敢にさせていた。
「エメル、こんな動画があったぞ。ダンスのバリエーションに生かせるかも知れん。試してみよう」
「はい!」
ある日、彼が探し出してきたのはギクシャクしたロボットの動きやのろのろとしたゾンビの動き、道化師の滑稽な動きのパントマイムだった。
「これ、とっても面白いわ! 観た人はきっとビックリするわね」
「だろ? これをダンスステップの合間にアクセント風に付けてみれば、観客の眼をもっと惹きつけられるぜ。フヒヒッ」
「審査員も驚くでしょうね、ふふっ……。見てて、今度はこれをマスターしてみせるから!」
動画を観ながらエメルは、その動きを真似しようと懸命に練習を始めた。さすがに最初は不慣れな動きに戸惑って何度もよろけたり、倒れたり。
だが、もうそれで落ち込むようなかつてのエメルではなかった。失敗は、がむしゃらに挑む今の彼女の闘志に、却って火をつけるようなものだった。
そして、そんな様子を見ていてデブオタも黙っていられるはずがなかった。
彼はその晩、徹夜して例のシャドーエメルで振り付けを作ってくれた。
バーチャルアイドルの機能でどんな角度からでもその動きを見ることが出来、スローモーションで動かすことも出来る。
「どうだ、オレ様って凄いだろ!」と、目の下にクマを作ったデブオタのサムズアップを見てエメルはどんなに感激し、奮い立ったことか。解りやすい見本のおかげでレッスンの成果は飛躍的に向上した。
今度はそれをダンスのバリエーションへと活かそうと試み始める。
やがて、二人の熱意と努力は見事に実を結んだ。
その日、デブオタが「では、オーディションを始める」と、わざと尊大にアゴをしゃくって合図すると、エメルは、これもすました顔でスカートの両端をつまんで会釈した。
ラジカセからマイク・レノの「チェイシング・ジ・エンジェル」の序奏が流れ始める。彼女は歌い始めた。
歌いながら、エメルは戦闘機の空中機動を思わせるような流麗な動きで踊る。だがそれは突然カクカクとした不恰好な動きやノロノロとしたスローな動きに転じた。
勝手知ったデブオタですら思わずハッとさせるや、今度は小刻みなステップやターンを多用して激しく踊り始める。
そんなトリッキーな動きにも、エメルは簡単には息を切らせない。透き通るような歌声は川のせせらぎのように耳に心地よく、それでいて力強さも矛盾なく感じさせる。目を閉じていると激しく動き回りながら歌っているようには聴こえなかった。
それはこの一年近く毎日のようにロードワークで体力を培い、クラシックバレエで俊敏な動作を身に着け、開口や発声で腹式呼吸を鍛え続けた賜物だった。
デブオタは、自分のアイディアを取り込んで煌くように舞い、華やかに歌うエメルを惚れ惚れとした眼で見つめる。
曲が終わって「どう?」と彼女が振り返ると、自分の頭上に大きく「ごうかーく!」と両腕で輪を作った。
「ダンスはもう満点をオーバーランだ。『ドリームアイドル・ライブステージ』のメンバーの誰もがエメルには降参だ」
「本当?」
「ああ、ゲームキャラならもうぶっちぎりでSSランクってところかな。フヒヒッ」
そう言うとデブオタはエメルの髪を手でクシャクシャにして「エメル、お前がナンバーワンだ!」と褒めてくれた。エメルは嬉しくて、また涙が出そうになった。
「泣くな! 涙はスターになるその日のためにとっておけ!」
「はい!」
怒っているはずなのに、デブオタのカミナリは嬉しさを隠し切れない。
エメルも、今では彼に怒られるのが褒められるのと同じくらい嬉しくてたまらなかった。
「よし、次は歌唱力をいろんな角度からもう一度見直そう。チェックリストを作ってきたんだ。勢いで上達した時って、意外と基礎や基本を忘れて疎かにしがちなんだ。ダンスだけ上手くなっても肝心の歌が駄目だったら本末転倒だからな」
「はいっ!」
だが、一方で……
そんな熱意溢れるレッスンの成果が試される「ブリテッシュ・アルティメット・シンガー」について調べ始めたデブオタは、それがとてつもなく厳しいオーディションであることを知って戦慄することになった。
エメルに歌の基礎をお浚いさせている横で「敵を知り己を知れば百戦危うからず。傾向を調べて対策を練れば優勝はいただきだぜ!」と嘯いてネット検索を始めたデブオタだったが、その全貌を目の当たりにするや、その荒かった鼻息も次第に病人の呼吸のように弱々しくなっていった。
応募資格はさほど厳しくもなく、門戸は広い。
だが、その門に入れるのは僅か六四人。事前審査から恐ろしく厳しいのだ。
そんな事前審査に合格した者は、テレビ中継のオーディション番組に出場出来るのだが、ここから更に厳しい関門が幾重にも待っている。何しろ高名な歌手や音楽事業のプロデューサーが綺羅星のごとく審査員に名を連ねているのだ。
公平を期するために選考のたびにその審査員も毎回変わってゆく。それも次第に高名でより厳しい顔ぶれへと。
実力以外のいかなるコネも策略も、この厳正なオーディションには一切通用しない。ここ二、三年は優勝の栄冠を手にした者すらいなかった。
昨年のオーディションでは、とある審査員が「何の情熱もないのに憧れだけプロになれるとでも思ったのか。帰りたまえ!」とオーディション中のアマチュア歌手を叱り飛ばしたエピソードまで生まれていた。
彼女が泣きながらオーディション会場から逃げ去ってゆく様子を映したアーカイブ動画を見て、さすがのデブオタも言葉を失った。
それでも毎年、多くの少女達がイギリス最高の歌姫を目指してこのオーディションへ応募してくる。
それも半端な人数ではない。イギリス中のどこからと思えるほど夥しい数の少女達が「アルティメット」の名を冠する歌姫を夢見て毎年集まってくるのだ。
「凄え。これに比べたら日本のアイドルオーディションなんて子供だましだ……」
デブオタはぼう然となって独りごちた。ある程度予想はしていたがまさかこれほどとは。
希望の光はあまりにも遠く、儚い。デブオタは唇を噛みしめた。
だが、どんなに怯んでも彼はもう後に引くつもりはなかった。
傍らではエメルが自分を見上げ「デイブ、次のレッスンは?」と、眼を輝かせている。
「よし、次はこれだ」
こわばった表情を振り払うようにデブオタは大声を出し、笑顔を作ってみせた。
歌う時の姿勢をチェックする動画を再生して「頑張れよ! でもリラックスな、リラックス」と、エメルの背中をたたく。
エメルは頬を紅潮させてうなずいた。
いまだ一つのオーディションにすら採用された訳ではなく、誰から認められた訳でもない。確かなものは、まだ何ひとつないのだ。
それでも、ひたすら自分を信じてついて来るこの少女の為に、彼は持てる知識、思いつく知恵の限りを尽くして戦おう、と決意していた。
だが、このときデブオタは知る由もなかった。
これから挑もうとしているオーディションに対して彼が偽った名前。侵していた小さな瑕疵。
それが、彼の知らないところで奇禍を及ぼそうとしていることを……
** ** ** ** ** **
「オーケーです。収録は完了しました。お疲れ様」
チープ・トリックの「マイティウィング」がフェイドアウトしてゆく。リアンゼルは訝しげに防音ガラスの向こうへ眼を向けた。
頷いて扉を指さされている。彼女は怒らせていた肩を落とすと耳からヘッドフォンを外した。
どこか虚脱したような表情で録音ブースから出るとヴィヴィアンが肩に抱きついてきた。
「上手よ。やっぱり凄いじゃない。ね、リアン、元気を出して……」
「ありがとう。大丈夫よ。私、大丈夫だから」
言葉とは裏腹に、青いサファイアのような瞳はどこかくすんで見える。今はプロダクションの後ろ盾もなくなったマネージャーは辛そうな顔で俯いた。
スタジオの調整室から顔を出した若いスタッフは、そんな二人を気にした様子もなく「お疲れ様でした。こちらはこのまま編集に入りますので、レコーディング曲のデータと収録CDを明日お引渡しします」と声を掛けた。
ロンドン郊外のワトフォードにある小さなビル。
そこは、演奏機材を揃えた防音室や子ども向けの音楽教室、小さなホール等、音楽関連の設備を備えた多目的ビルだった。
年季の入ったビルは壁面に蔦が絡まり独特の風格を感じさせたが、子供を連れた母親の一団や市民コンサートを聴きに来た老夫婦、パンクファッションのロックバンドなど様々な人々が出入りしているので、音楽を愛好する者が集まるインフォーマルな場所となっていた。
リアンゼルとヴィヴィアンはそんなビルの一室にあるレコーディングスタジオへ、その日ブリテッシュ・アルティメット・シンガーで歌う曲の収録に訪れていたのだった。
「去年のあなたとは違うもの。リアン、自信を持って。きっと優勝出来るわ」
「ええ。でもそれだけじゃ駄目なの」
「リアン」
「あのブタ野郎とウジ虫エメル……アイツらを地獄に落としてやらなきゃいけないの、絶対に」
「……」
休憩室のソファに座り込んだリアンゼルは、愛用のソリッドギターを引き寄せて手すさびにチューニングを始めた。
調整した音は正確だが、夢遊病のような手つきは覚束なげだった。表情も半ば夢でも見ているように眼の焦点がどことなく合っていない。
だが、見ているのは決して楽しい夢ではないのだ。彼女は陰惨な夢で疲れているように見えた。
それでもリアンゼルは憎むことをやめようとはしない。
時折何かを思い出したように手を止める。そして激しい憎悪に顔を歪めては「殺してやる……殺してやる……」とつぶやくのだった。
彼女の傍らに寄り添うヴィヴィアンは、そのたびに唇を震わせた。
だが、何度も何か言葉を掛けようとしては躊躇い、結局は何も言えないまま俯くばかり。もうずっとリアンゼルを諫めることも慰めることも出来ないままでいる。
心を痛めるマネージャーもまた、疲れ切っていた。
と、そんな二人の目の前に二つの紙コップが差し出された。
紙コップの紅茶に似つかわしくない、気品ある芳香が漂ってくる。それは、とっておきのお茶を飲む時にだけ嗅いだ覚えがあった。
黙って紙コップを差し出した男を見返したヴィヴィアンは弱々しく微笑んで、香りの正体を答えた。
「フォートナム・アンド・メイソン」
「ご名答。もっともイギリス王室御用達のお茶にふさわしいティーカップはあいにくここになかったものでね」
笑いながら気障に片目をつぶった男の手から、ヴィヴィアンは片方の紙コップを受け取った。
もう片方の紙コップを差し出しながら男は笑いを含んだ声でリアンゼルに言った。
「憎しみに燃えてる」
リアンゼルは、ゆっくりと顔を上げて男を見た。
髪に白髪が混じった五〇代ほどの年齢らしい男。面識はなかった。
笑顔だが、その灰色の瞳には明らかに軽薄さと異なる何かが見て取れる。
音楽を気軽な趣味にしているようには見えなかった。何か厳しい信念を持って音楽に携わっている男だと、彼女の直感が告げていた。
「ええ。おかげで暖かいわよ」
「まだ寒いからね。でも無理に暖を取らなくても、もう冬は終わる。今度君が歌う舞台は早春に開かれるはずだ」
リアンゼルの皮肉に暗示めいた言葉を返して、男は対面のソファにどさりと身を投げた。
「その頃には暖かくなっているといいわね」
「君の歌次第だろう。黒歌鳥(ツグミ)は美声で春を呼ぶというからな」
「お上手ね、ありがとう」
少しだけ頬を緩ませてリアンゼルは微笑んだ。
だが、警戒している彼女の瞳は決して笑っていない。
「あなた、ここのスタッフとかアマチュアミュージシャンじゃないでしょ」
リアンゼルの詮索を受けても男の含み笑いは消えなかった。
「マネージャー共々推理が冴えてるね。隣のスタジオで依頼された曲の収録をしていたよ。さっき終わったばかりさ、ホームズ君」
すると、この男の正体は作曲家かディレクターなのだ。
興味なさげに脇を向いたリアンゼルの瞳の奥が一瞬、鋭い光を放った。
「お疲れ様、モリアーティ教授(※シャーロックホームズの小説に登場する好敵手の犯罪王)。私の憎しみとやらに共感してくれたら今度何か曲を作ってちょうだい。人を呪い殺せる歌を作ってくれたらお礼は弾むわ」
「リアン」
リアンゼルの言葉にヴィヴィアンが慌てて割って入ったが、男は面白そうに笑った。
「僕は作曲にはいささか自信があるが、あいにく呪術には腕に覚えがないものでね。傷心の歌姫に同情出来ないこともないが、残念だがご要望にはお応えできないな」
思わせぶりな口振りに、リアンゼルは首を傾げた。
傷心の歌姫などと呼ぶからには自分について何か知っているのだろうか。それとも興味があるだけで当て推量に話しかけてきたのだろうか。
黙ったままのリアンゼルと彼女を見つめる男の間をとりなすように、ヴィヴィアンが男へ話しかけた。
「美味しいお茶をありがとう。私たち、今日はレコーディングに来たんです。もうすぐブリテッシュ・アルティメット・シンガーが開催されるから、オーディション用の曲を……」
「ええ、さっき発声テストの歌を聴かせてもらいましたよ」
疲れた様子のヴィヴィアンを労わるように優しく微笑みかけると、男はこっそり一人ごちた。
「いい声をしている。なるほど、あの雷親父が黙って見守ってなどいられない訳だ」
リアンゼルの訝しげな視線など気にも留めず、男はヴィヴィアンへ気さくに話しかけた。
「オーディションの受付はもう始まったようですね。早くも沢山の娘が応募してきたと、事前審査をしている友人から聞きました」
「そうなんですか」
「冷やかしも多いが、今年は誰かが優勝する気がします。まだそんな娘は応募していないようだが」
「これから応募してくるのでしょうね」
オーディションの事前審査くらいなら間違いなく通るだろう。
だが、その先を憎悪に染まった今のこの歌姫は勝ち抜けてゆけるのだろうか……
待ち受けるオーディションの見通しを思い、ヴィヴィアンの顔は曇ってゆく。
その顔を見て男は何か言いかけ、口をつぐんだ。
そして、しばらく考え込むと何か思いついたらしく、話題を変えた。
いかにも、何気なさそうな口調で。
「そういえば、今日の仕事とは別にオーディション用の楽曲を頼まれていましたが、昨日ようやく納品しましたよ」
「それもブリテッシュ・アルティメット・シンガーに向けた依頼でしたの?」
「ええ。歌い手の経歴が面白かったな。ハーフの少女で、何でも売られた喧嘩を買ったのがそもそも歌手を目指す切っ掛けだったらしいが」
おや、どこかで聞いたことのある話だとヴィヴィアンは思った。
だが、どこでだったろう……と思い出す前に、男の言葉で気が付かされた。
「自称プロデューサーの日本人がついていましたが、ずいぶん変わった男でした」
「日本人?」
間違いない、あの男だ!
ヴィヴィアンはハッとして振り向いた。
リアンゼルは興味なさげにさっきからそっぽを向いている。男とヴィヴィアンから、その表情は伺い知れなかった。
男は知らぬ気に続ける。
「有名なプロデューサーの名を騙っていたが、本当は音楽の仕事に携わったことなどない男でした」
ヴィヴィアンは「まさか……そんな人だったんですか」と、目を丸くした。
「だが驚いたことに素人と思いきや、玄人はだしの熱血漢でした。驚かされましたよ」
「……」
「ガルシアへの書簡を託せる男(※己の叡智と努力だけで仕事を成し遂げる男という意味)というのはいるものですね。なるほど、いい眼をした歌姫が育つ訳だ。どんな歌を聴かせてくれるのか、今から楽しみです」
「期待されているんですね」
「ええ。情熱なしに人の心を震わせる歌などあり得ない。嘆かわしいことに今のイギリスは、プロの癖にそんなことも知らない歌手や作曲家が多くなってしまったが」
ヴィヴィアンは思い返した。
クリスマスを間近に控えたあの日、雨の中泥だらけで失意に打ちひしがれていた男。みすぼらしい身なりで、話しかけた自分をうろんげに見つめていた。
だが、やはりただの男ではなかった。
あの歌姫を育て上げた強靭な意思で立ち直り、イギリス最大のオーディションへ挑戦してきたのだ。
申込書を手渡した自分の思惑どおりに……
そう思った彼女は、男の次の言葉に更に驚かされることになった。
「先月、呼び出した私に自分の全財産を差し出して、子飼いの歌姫にふさわしい歌を作ってくれと言ってきました。生まれて初めてでしたよ、そんな依頼を受けたのは」
ヴィヴィアンは息を呑んだ。何という鉄の心臓を持った男か!
思惑通りどころか、全てを賭けるほどの自信と情熱を持って彼は挑んできたのだ。
「凄いですね……」
つぶやくのがやっとだった。
そんな彼に比べて自分はどうだろう。愛する歌姫を正しく導くことすら出来ずにいる。
「私なんて……」と、思わずうなだれたヴィヴィアンの声は震えていた。男は慰め顔で口を開く。
だが、彼が何か言う前に、リアンゼルが彼女の肩に手をまわしてそっと抱き寄せた。
柔らかい吐息を漏らすと、耳元に唇を寄せる。
「大丈夫よ、ヴィヴィ。あなたは負けてなんかいない」
「リアン」
「あなたはずっと私を支えてくれた。プロダクションに捨てられたこんな私を信じてくれた」
「……」
「私が絶対負けさせない……心配しないでいいの。大丈夫」
ささやくと、リアンゼルはヴィヴィアンの頬にそっと唇をつけた。
天使のように優しく慰さめる様子は、憎悪に顔を歪めていたさっきとは別人のようだった。
そのまま彼女はふらりと立ち上がった。
「外の空気を吸ってくるわ」
そう言うと、リアンゼルは男へ「私がいない間にヴィヴィに手を出したらこうよ」と親指で首を掻き切る仕草をして見せた。
男はわざとらしく怯えた声を上げてのけぞってみせた。ヴィヴィアンは「リアンったら!」と、目を白黒させている。
「リアン、切り裂きジャックみたいな真似をしないでちょうだい」
「神に誓って君の愛するマネージャーへ不埒な真似などしないよ」
泣き笑いのマネージャーと苦笑いの男を見て、リアンゼルはクスッと笑った。
「だったら、さっきのモリアーティ教授の汚名は謹んで撤回させていただくわ」
思わず顔を見合わせた男とヴィヴィアンは声を合わせて笑った。
「じゃあ、行ってくるわね」
お茶目にウィンクしたリアンゼルが扉の向こうへ姿を消すと、男はつぶやいた。
「不思議な娘だ。怨讐と童心、憎悪と慈愛が混淆した歌姫か」
「リアンゼルのこと、ご存じなんですか?」
ヴィヴィアンはおずおず尋ねた。テーブルに置いたコップは空になっている。
男は婉曲的に答えた。
「あの男に作曲を依頼された席で言いました。今までの経緯を全て教えろと。彼は話してくれましたよ、何もかも。一年前の発端、公園でハーフのクラスメイトをいじめていた、自称天才歌手のこともね」
穏やかな声だった。そこに非難するような響きはなかった。
それでも、ヴィヴィアンは声を詰まらせ、軋るような声で告白した。
「生意気な敵を潰してやるんだとリアンが努力を始めた時は、そんな動機でも嬉しかった。自惚れてばかりで何もしていなかったあの娘が見違えるほど変わってゆくのが、自分のことのように嬉しかった」
膝の上に置かれた手は、きつく握りしめられている。
「子供じみた意地や憎悪なんて本物の歌手へ近づけば自然と消えてしまう、そう思ってた。なのに……なのに……」
自分が話す言葉に気が付いて、ヴィヴィアンは怯えたように男の目を見た。
男は分かっているというように小さくうなずいて、無言で促している。
「こんなに歪んだ怒りで染まってしまうくらいなら、早くデビューさせてあげればよかった。あの娘は、今ではライバルを殺したいほどの憎しみを糧にして歌っている。私、どうしたら……」
「どうもしなくていい」
僅かな間をおいた返答は、拍子抜けしそうなくらい、こともなげだった。
「彼女は自ら答えを見つけ出すだろう。あの瞳は闇に染まりきってなどいない。夜明けが来るように、やがて心に光が差して闇は消え去る」
まるで予言でも告げるように男は言う。
「あなたはただ、傍にいてあげればいい。余計と分かっていてお節介を焼く人もいることだし」
「え?」
男は脇に置いた革のカバンから、小さな事典ほどの大きさをした包みをテーブルに乗せた。
「これは?」
「さっきまでそこで作っていた、あの娘の為の曲ですよ。ヴィヴィアン・ラーズリーの好敵手がピクシー・スコットへ作曲を依頼した、という話を聞きつけたとある男が依頼主です」
依頼主を尋ねるヴィヴィアンの視線に、その男……ピクシー・スコットは「名前は絶対明かすな、と言われました」と苦笑した。
「リアンゼル・コールフィールドの熱心なファンだそうですよ。ライバルに負けない素晴らしい曲を作ってプレゼントしてくれ、と」
無名のリアンにファンなんているはずが……そう言いかけたヴィヴィアンは、思わず叫び出しそうになった口を両手で覆った。
一人だけ、思い当たる人物がいたのだ。
「エメル・カバシの為に依頼された仕事を私がブログなんかで書いたものだから、居ても立ってもいられなかったらしい。聞いてもいないのに、これは自分のポケットマネーのすべてだ、と顔を真っ赤にして何度も言い訳していました」
泣きそうになった顔を背けたヴィヴィアンへ、スコットは優しく語りかけた。
「あなたはこう言ったそうですね。“あの娘はもっと大きく成長する、立派な歌姫へ変身する”と」
肩を震わせたまま、ヴィヴィアンはうなずいた。
「きっと信じているようになりますよ。今の憎悪が瘡蓋のように剥がれ落ちて歌いだす時が来るはずです」
「……」
「この歌がそうなればいいんだが。カバーアレンジの許諾や権利料の交渉で時間を喰ったが、今日に間に合ってよかった。オーディションの舞台で歌わせてあげて下さい」
「ありがとうございます……ありがとう、メイナード……」
スコットは、泣いているヴィヴィアンを励まそうと彼女の肩に手を伸ばしたが、寸前で慌てて引っこめた。
「おっと失礼。あなたに下手に触ったらあの娘が歌姫どころか殺人鬼に変身してしまうんだった。あぶないあぶない……」
** ** ** ** ** **
「へぷしゅっ」
可愛らしいくしゃみをしたリアンゼルは「あら、風邪でもひいたかしら」と、つぶやいた。
ビルの隣にある小さなスペースは猫の額ほどだった。公園と呼ぶのが憚られるくらいのささやかな広さしかない。
造園されて間もないらしく、ペンキ塗りたての小さなベンチがひとつあるきりだった。その傍に、幼児の背丈ほどのモミの木が一本植えられている。
彼女はコートの襟を立ててベンチの傍に佇み、小さなモミの枝が冬の風に身を震わせる侘しい様をしばらく見つめていた。
だが、冷たい風に身を晒しても虚無にとらわれた気持ちは一向に晴れない。
自分のプライドが粉微塵に砕け散ったあの日から、ずっとだった。
……だが、憎悪を杖にして歌い続けてきた自分が、今さら憎しみ以外の何にすがる?
リアンゼルは黙って首を振ると踵を返し、ビルの中へと戻った。
もう日も暮れかかっているので、エントランスの人影はまばらになっていた。彼女はそこから離れた一角にあるレコーディング用のスタジオへと歩いてゆく。細長い廊下に沿って部屋が四つ並んでいて、その一番端の部屋を借りているのだ。
リアンゼルは、ふと、その隣のスタジオを借りた誰かが無人のまま放置していることに気が付いた。部屋の灯りが付きっぱなしなのだ。
目をやると、ドアのプレートに利用者の名前がマジックペンで手書きされている。
「ピクシー・スコット?」
聞き覚えがある名前だった。ディファイアント・プロダクションでAクラスの歌手にのみ依頼が許された作曲家。
クビになるまでの間、リアンゼルには作曲を依頼する資格がなかった。無論、会う機会も。
口惜しさと羨望からリアンゼルはその名前を憶えていた。
さっき自分たちに紅茶を振る舞い、思わせぶりに話しかけてきた男の顔をリアンゼルは思い浮かべた。
(憎しみに燃えてる)
憎悪を友に必死に歌い続けてきた彼女の行き着く先を知っているような、静かな微笑み。
それが、ずっと彼女の心の中に引っかかっていた。
もしかすると彼自身が同じような憎しみに囚われたことがあるのかも知れない。そうやって歌う先に今の自分を見い出したとでもいうような……では、あの男がピクシー・スコットだったのか。
彼はどんな曲を作っていたのだろう。
リアンゼルは分厚い防音ガラスの向こうへ視線を向け、ドアにそっと手を掛けた。
鍵はかかっていなかった。
そのまま中に入るとミキシングコンソールの卓上に音響の設定らしいパターンを書き殴ったメモが散らばっているのが目に付いた。
スコットがここで自分の為に作曲していたことを、リアンゼルは知る由もなかった。
周囲を見回すが、手掛かりらしいものは結局見当たらない。
脇に電源が入ったままのノートパソコンが置いてあった。スクリーンセーバーも設定されていない画面はデスクトップ剥き出し。その画面をリアンゼルは覗き込んだ。何気なく。
そう、彼女は何気なく覗いただけだった。
だが、そのときリアンゼルは、そこで偶然見つけた「あるもの」に眼を惹き付けられた。
たくさん置かれたフォルダ。そのひとつに、こんなフォルダ名が付けられていたのだ。
“エメル・カバシ、ヤスキ・ハルモト依頼分”
スコットはエメルとデブオタに作曲を依頼された、と先ほど話していた。今更驚くようなことではない。
彼女の注意を惹いたのは、因縁深いあのデブオタの名前を初めて見たからだった。
そして、リアンゼルはすぐにスコットが話していたことを思い出した。
『有名なプロデューサーの名を騙っていたが、本当は音楽の仕事に携わったことなどない男でした』
偽りの名前であることを思い出した、そのときだった。
ふいに、まるで悪魔がささやきかけたとしか思えないような企みが、リアンゼルの心の中に浮かんだのである。
――もし、本物のハルモトヤスキへ奴が名前を偽っていることを密告し公にさせれば、歌で戦うことなく二人を潰すことが出来る――
リアンゼルは、思わず怖気をふるった。
「な、何をバカなことを……!」
思わず、吐き捨てるようにつぶやくと、その言葉を誰かに聞かれたような気がして慌てて周囲を見回した。
人の気配はない。
もし、いたとしても防音壁で仕切られた部屋の中のつぶやきなど聞かれるはずなどなかった。
なのに何か目に見えないものに聞かれた気がしてリアンゼルは恐ろしくなり、スタジオから飛び出した。
エリザベス女王陛下の御名にかけて正々堂々と歌で勝ち、歌手になると宣誓したはずの自分が、そんなこと出来るものか。すべてのイギリス人が敬愛する御方の名を汚すような卑劣な真似を!
そう思って、ようやく乱れた息を整えると隣のレコーディングスタジオへ戻っていった。
だが、笑顔のヴィヴィアンに迎えられても、彼女の心に憑りついた悪魔の誘惑は離れようとしなかった。
「リアン、どうかしたの? 顔色が良くないわ」
「何でもない。外がね、ちょっと寒かったの」
自分の心の内を見透かされそうな気がして、リアンゼルはヴィヴィアンとスコットの顔をまともに見ることが出来なかった。
だが、部屋を離れる前からずっとソッポを向いていた彼女を二人とも別段不審に思わなかった。
「そう。じゃあ、そろそろお暇して早めに帰りましょう」
「え、ええ……」
そしてその晩。
自宅の部屋で、リアンゼルは何度も躊躇しながら愛用のスマホを取り出した。
「ハルモトヤスキ」をキーワードに検索を掛ける。
恐ろしいことを始めた自覚に手は震えている。なのに、目は画面から離れようとしない。
「ハルモトヤスキ」は、日本では有名な音楽プロデューサーだった。百万近い検索件数がヒットし、リアンゼルを驚かせた。
検索順位のトップは事務所のコーポレートサイトだった。アクセスすると綺麗なガラス張りのビルと本人の上半身像が表示されたトップページが目に飛び込んできた。
春本ヤスキ。
太い黒ブチ眼鏡をしたやや太り気味の男だった。五〇代半ばらしい風貌だが冷ややかな視線は、超一流のプロデューサーというより冷徹な事業家を思わせた。
そして、デブオタとはまったくの別人だった。
ホームページの言語を日本語から英語に切り替えると彼の自己紹介を読むことが出来た。
仕事のオファーや相談を受け付けるメールフォームの下には電話番号が記載されている。
その電話番号を見たとき、悪魔がささやいた。
“ほら、これよ。あなたが探しているものは……”
彼女の心臓がビクンと跳ね上がり、そのまま鼓動を早鐘のように打ち始めた。
リアンゼルは自分が自分でない誰かに操られている気がした。
私、今何をしようとしているの……
だが、震える手で何度も番号を押し間違いながら……彼女はとうとう電話を掛けてしまった。
『……! ……!』
秘書らしい女性の声が日本語で応答する。言葉の意味は皆目分からない。リアンゼルは日本語を知らないのだ。彼女は英語で話しかけた。
「I...I am British Reanzul Caulfield. Can you speak English? (私は……イギリス人のリアンゼル・コールフィールドといいます。あなたは英語を話すことが出来ますか?)」
英語が通じなかったら話など出来ないのだ。そのまま電話を切ろう……そう思っていたのに、女性はすぐに流暢な英語で『Yes. I can speak English. What kind of business did you call by?(はい、話せます。どういったご用件ですか?)』と応じた。
「用件は……まもなくイギリスで開催されるブリテッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションについてです」
『はい。それで?』
「ある人物がいるのです。春本ヤスキという名前を騙って、オーディションに歌手を出場させようとしているプロデューサーが……日本人が……それで、その、私は……」
熱に浮かされているようだった。自分が何を言おうとしているのか自分でも分からない。
電話の向こうはしばらく沈黙すると、いきなり男性の声が女性に取って代わった。
『ハロー、ミズ・コールフィールド。聞こえますか? 私はヤスキ・ハルモトです』
外国人とも頻繁に話す機会が多いのだろう。撥音の分かりやすい英語で春本ヤスキ本人が話し掛けてきた。
「イエス、聞こえます……」
『お電話ありがとう。今、あなたが話してくれたことは私にとって非常に重大です』
「はい」
『何故なら私の名前を偽ってビジネスをすることは不正行為で、詐欺によって収入を得ているなら、それは明らかな犯罪だからです」
犯罪という言葉を聞いて、それまで逆上せていたようなリアンゼルは、今度は凍り付いた。
「イギリスでも日本でもそれは同じです。だからあなたの告発は非常に重大なのです』
「……」
密告しようとしている話と男の話す内容に、リアンゼルはあきらかな違和感を感じた。
詐欺、という言葉に彼女が思い浮かべたのは、デブオタのみすぼらしい身なりだった。
今にも擦り切れそうな服やテープを巻いて補修した靴、汚れきったペラペラのジャケット……詐欺によって収入を得ているなら、そんな身なりなどしているはずがないのに。
エメルを虐める自分を虐め返し、コケにした男。
天才であるはずの自分をあざ笑った許せない男。
だけど……
(あの男は詐欺など働いていない)
それだけは間違いなかった。リアンゼルは、何か目の前に掛かっていたベールが取れたような気がした。
『ミズ・コールフィールド、詳しい話を聞かせていただけませんか?』
『……』
『ミズ・コールフィールド』
詰め寄る声の厳しさが、浅ましい行為へ足を踏み出しかけたリアンゼルを正気に返らせ、踏み留まらせた。
「ノー、ごめんなさい! わた……私の勘違いでした!」
叫ぶように言うとリアンゼルは電話を切った。
紛れもなくいま、自分は人を売ろうとしていた。気がついたリアンゼルはガタガタを震えだした。
――何故、躊躇ったの? 殺したいと、それほど憎んでいる相手だったのでしょうに? どんな卑劣な手段でも使ってでも……
あの悪魔のささやきがまた聞こえたような気がした。
「嫌よ! 私、卑怯者になんてなりたくない。なるものですか!」
我知らずリアンゼルは叫び返した。
僅かな間をおいてリダイヤルで電話が掛かってきた。聞きなれたはずの着信音なのに、怯えてきったリアンゼルは思わず飛び上がった。
掛かってきた番号はさっき自分が掛けた電話番号である。日本から春本ヤスキが電話してきたのだ。
蒼白な顔のまま、リアンゼルは慌ててスマホの電源を切った。
「違うの。憎いけど、殺したいけど、私は……私は……」
正々堂々と歌いたいの、歌の力で勝ちたいの。
つぶやくと、リアンゼルはそのまま崩れるように膝をつき、両手で顔を覆った。
怯え、惑う中で憎しみが薄れ、消えていきそうな気がする。
だけど、そうしたら自分は何にすがって歌えばいいのだろう。
夜明け前の闇の中で、彼女の不安に答えてくれる声はまだどこからも聞こえてこなかった……
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