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第1話 蚊の鳴くような歌声と他人の喧嘩を買う男
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「うぉぉートイレ、トイレ、トイレはどこだぁああああ!」
うららかな春の昼下がり。
日本人とおぼしき一人の巨漢がいま、イギリスはロンドン近郊にある小さな公園の中をうめきながら彷徨していた。
身長は一九〇近く、相撲取りと見まごう体格をしている。着ているTシャツには某人気アニメの美少女がプリントされていたが、男のはち切れんばかりの肥満体によって彼女の笑顔は極限まで横に引き伸ばされ、妖怪と化していた。
かわいそうに、通りかかった幼稚園児がその恐ろしい笑顔をまともに見てしまい、わあっと泣き出した。傍らの母親が慌てて連れ去ってゆく。
これだけでも見るに耐えない光景だというのに、男はお腹を壊しているらしい。内股で腹を両手で抑え、まるでチャップリンが踊っているような恰好で公園の中をウロウロしていた。
彼の容姿はどこから見てもマッドサブカルチャーの聖地、日本の秋葉原からそのまま瞬間移動してきたような気持ちの悪い容姿の太ったオタク、俗に言う『デブオタ』だった。
公園の散策を静かに楽しんでいたイギリスの紳士淑女達は、せっかくの雰囲気をブチ壊すこの異国の不審者へ訝しげな眼差しを向けていたが、当の本人はそんなものを今気にしている場合ではなかった。
脳内では嵐のように緊急警報が鳴り響いている。
それは、ありったけの力で阻止している下半身の危機がもはや限界であることを彼に告げていた。
「と、トイレは誰? 私はどこ?」
切羽詰まっているので、尋ねる言葉ももはや支離滅裂な日本語である。
理解出来ない日本語を鬼気迫る顔で問いかけられたのは品の良さそうな老婦人だったが、無論答えられるはずがない。彼女は「ア、アイムソーリー!」と叫ぶや怯えた顔で一目散に逃げ去ってしまった。
「くっそおおお、トイレはどこだって聞いてんのに何が『私は総理』だよ。イギリス流のジョークって奴か? ったく、こっちはそんな余裕なんてねえっつーの」
言った言葉も聞き取った言葉もおかしいのは彼の方なのに、てんで気が付いていない。
「って、そんなこたぁどうでもいいんだ。あうう、お腹が、お腹がもうメルトダウン寸前だ。いかん、このままでは日英間の国際信用に関わる深刻な事件がもうすぐ起きる……」
ブツブツ独り言をつぶやきながら四方を見回したデブオタは、ふいに「おおっ!」と、眼を輝かせた。
やや離れた場所で緑の茂みに隠れるように設置された、煉瓦造りの小さなトイレをついに発見したのだ。
「トイレの神は遥かイギリスの地においても日本のオタを見捨てたまわず! 急げ、オレ様よ。下半身滅亡まであと一分と三十八秒、あと一分と三十八秒しかないのだ」
地球滅亡へのカウントダウンを訴える某宇宙戦艦アニメのナレーションみたいな独り言と共に、デブオタは一目散にトイレへと突き進んでいった。
トイレへ続く小道の両脇には花壇が置かれ、ひとつひとつ花が丁寧に植えられている。
スミレ、デイジー……きっと公園の管理人や心あるボランティアが手入れしたものだろう。
彼女たちは可憐な花々をさやさやと風に揺らし、崩壊寸前の下半身を抱えてトイレへ急ぐデブオタを道の脇から優しく応援していた。
** ** ** ** ** **
「ふう、助かったぜ」
間一髪で破滅の危機を脱したデブオタは、腰掛けた便座の上でホッと息をついた。
レバーを回して轟々と流れる水の音が耳に心地よく響いてくる。
「イギリスまで来てお腹を壊すとは参ったぜ。さてはさっきの屋台の親父が黒幕か。日本人のオレ様を毒殺するつもりでフィッシュアンドチップスに一服盛りやがったんだな、ちくしょうめ」
ブツブツ言うと、彼はふっとキザな仕草で前髪をかき上げた。
「だが甘かったな。この程度のトラップでオレ様を倒すなど笑止千万よ」
さっきまで漏れそうなお尻を抱えて公園中を徘徊していた醜態などどこへやら、アニメの見過ぎとしか思えない憎まれ口で独り格好つけたが、トイレの個室は彼一人なので突っ込む者は誰もいない。
緊張の解けた彼は「あーやれやれ」と、大きく伸びをした。
トイレは少し古びてはいたが、まめに掃除されているのか臭気もほとんどなく清潔だった。内装は綺麗で便器も汚れていない。使う人もモラルを守って利用しているのだろう。トイレットペーパーも十分な量がホルダーに残されていた。
「へえ、日本の公衆トイレと変わらないぐらいちゃんとしてんな」
ちょっと感心したようにトイレの中を見回した彼の耳に、その時、ごく微かに音楽が聞こえてきたような気がした。
「うん?」
耳をそばだてるとそれは確かに幻聴などではなかった。
トイレの傍の植え込みから、誰かがごく小さな声量でハミングしていたのである。
ハスキーでささやくようなハミングは、デブオタの耳にはまるで蚊が鳴いているように思えたが、しばらくすると誰も気づかないことに安心したのか小さな英語の歌声に変わった。
何の歌かはすぐにわかった。
グリーンスリーブス。世界中の人が知っているイギリスの古い歌である。切ない愛の歌を透き通るような少女の声が優しく歌い上げている。
(だけどえらく遠慮しいしい歌っていんな。聴いててかわいそうなぐらいだ)
デブオタは、自分の気配を悟られないように音を立てずに気をつけながら耳を傾けた。
どんな少女なのだろうか。声からして十代の半ばくらいのようだった。
誰かに聴かれるのを恐れているような小さな歌。
美しい歌だとデブオタは思った。
下手に音でも立てようものなら彼女は歌い止めてしまうだろう。怯えて逃げてしまうかも知れない。
彼女に気づかせず、歌い飽きるまでここで聴いていようと彼は思った。
だが、そんなささやかな思いやりを台無しにして、歌声を断ち切ったのは別の少女の声だった。
「うわ、またこんなところで歌ってるの。さっさとどこかに消えなさいよ」
それは美しいイントネーションの英語だったが邪悪なくらいの悪意が籠もっていて、歌い手が怯えて竦む気配が彼に伝わってきた。
「あのね、エメル。さっきのはもしかして歌のつもり? 歌を何だと思ってるの? バカにしてるの? アンタはそんな歌モドキなんて歌っちゃいけないの。歌う資格なんかないの。日陰でイジけてなさい。と、言うよりここから消えて。日本に帰って」
いきなり酷いこと言ってやがる。それより日本に帰れって言うことはさっき英語で歌っていたのは俺と同じ日本人ってことか? と、デブオタは壁に耳を寄せた。
「そもそもここは歌を歌う場所なんかじゃないの。ハーフのアンタがイギリスにいるのも不愉快だし、歌っているのも不愉快だから。私が言ってること理解出来る? だったら私の視界からどっかに失せてちょうだい。いっそドーバーから海にでも飛び込んで死んでくれたらいいのに」
おいおい、ちょっと言いすぎだろ。こりゃもしかしなくてもイギリス流のイジメって奴か? と、彼は顔をしかめたが、非難を浴びている方はただ黙っていた。
それをいいことに、非難する声はますます毒を孕んでゆく。
「聞こえてないの? とにかく歌わないで。歌って云うのはね、歌うのにふさわしい資格がある人に許された特権なの、私のようにね。ブリテッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションで……まぁ落選しちゃったけど、もう少しで優勝出来たはずの私みたいな人しか歌っちゃ駄目なの、わかる? ヒバリやツグミは歌っていいの。ガマガエルとか毛虫とかは歌っちゃ駄目なの。生きているだけで迷惑なの」
おい、人として言っていいことと悪いことがあるだろう
この世の常識だと言うようにヒエラルキーを説く言葉に、デブオタの顔から苦笑じみたものが消えた。次第に、怒りがこみ上げる。
「あなたはクズなの、ゴミなの。日向には出てきちゃいけないの。この世には光を浴びるべき存在と、日陰にいるべき存在があるのよ」
やめろ、いい加減にしろ
鼻を啜り上げる音が聞こえる。いじめというにしても、とうに度を越していた。
容赦のない追い討ちの言葉に、握り締めたデブオタの拳が怒りで震える。
蚊の鳴くような声で歌っていた少女は言い返すことも出来ず、泣いているようだった。
「私は光に当たるべき存在なの。あなたみたいに日陰の存在は光を浴びるべき存在の邪魔になっちゃいけないの。私の視線に入らないで。今すぐどこかに消えて」
(日陰者のファンごときがアイドルに意見するんじゃねえ! イヤなら今すぐどこかに消えろ!)
ふいに――
彼の脳裏に日本で浴びせられた言葉が蘇った。
(恋人がいたのが許せねえだと? 今まで応援してあげたのに酷いだと?)
(お前ら自分の立場わかってんのか? ああ? キモオタどもが上から目線で物を言うんじゃねえ!)
(貴様らはな、あの娘がステージやアニメで輝くための養分なんだよ! 身分を弁えろ、クズどもが!)
(養分が意見なんかするんじゃねえ、ましてやキモいオタ芸なんか見せるんじゃねえ。手前らは黙って金出して応援してりゃいいんだよ! 文句があるならファンなんかやめて今すぐ消え失せろ。手前らの代わりなんざ幾らでもいるんだよ!)
それは、彼が日本で応援していた声優アイドルのステージでの出来事だった。
恋人の発覚を知ったファン達が口々に抗議したとき、彼女の所属するプロダクションのスタッフが彼等へ怒鳴りつけた言葉。
自分を応援する者を罵る言葉をカーテンの向こうにいる憧れの人は聞いていたはずなのに、そこから現れて庇うことはなく……。
うなだれて聞いた屈辱の言葉。それをこんな遠いイギリスで、英語で身近に聞かされて。
「ふ……ざけんな……」
握り締めた手のひらに血が出そうなほど爪を喰い込ませて、デブオタは呻いた。
「日陰にいる奴は一生、踏みつけられていろっていうのか、搾り取られて死ねっていうのか……」
そして、まるでそれを肯定するような言葉が彼の耳に入ってきた。
「だから私の視界に入ってきちゃいけないの、陽光の差す場所なんかに出て来ちゃいけないの。さっさと日陰で枯れて腐って、せいぜい私のような存在の肥やしになってちょうだい」
その瞬間、煮えたぎったデブオタの怒りはついに頂点に達した。
――もう我慢ならん!
憤怒に燃える彼の中で心のゴングが打ち鳴らされた。
「その喧嘩、オレ様が買った!」
** ** ** ** ** **
年に一度開催されるイギリス最大のスター・オーディション「ブリテッシュ・アルティメット・シンガー」の開催日。
その日、イギリス中から畏敬と賛辞を受けてデビューする歌姫にふさわしいのは私しかいない。
……そのはず、だったのに。
プロの歌手を目指す一六歳の少女リアンゼル・コールフィールドの、「イギリス最大の歌手オーディションで優勝を惜しくも逃した」というのは、実はほとんど脚色だった。
プロダクションの期待を一身に担って出場したはずの彼女は、本当は最初の選考ステージで落選していたのだった。
ステージを降り、付き添いのマネージャーに会わせる顔もなく会場から飛び出した彼女は、やり場のない怒りをぶつける為にこの公園に辿り着いたのだった。
そこに、知り合いの少女がよく憩っていることをリアンゼルは知っていた。
知り合い、といっても友達ではない。日英のハーフであることを理由に学校でリアンたちがいじめの標的にしていたスケープゴートだった。
今では学校に顔を出さなくなった彼女は公園でひとりで草花を眺めたり、人目から隠れるようにして歌を歌っていた。
そしてリアンゼルは、時折公園に訪れてはそんな彼女にストレス解消の悪罵を浴びせる。そのたびに彼女は何も言い返さず泣きべそをかくだけだった。
スターへの第一歩になるはずだったオーディションのその日、惨めな結末に憤るリアンゼルにとって、彼女はやり場のない怒りをぶつける格好の対象だった。
しかし……
怒りの赴くまま罵詈雑言の限りを浴びせていたリアンゼルにとって、いじけて泣く彼女の代わりに突如喧嘩を買って出る相手が飛び出してきたのは、まさに青天の霹靂だった。
「おいそこのお前、勝手に息をしてんじゃねえ。誰の許可を得て地球の酸素を浪費してるんだ? 人様に消えろという前にお前が消えろ。人をゴミ呼ばわりするお前自身が消え失せろ。口を開くな、呼吸をするな」
ジャパニーズイングリッシュで咆えながらレンガ造りのトイレから現れたのは、ボサボサ髪の頭にバンダナを巻き、背中にはリュックサック、肥え太った体にアニメのTシャツをまとった日本人の大男だった。
彼の容姿はリアンゼルに見覚えがあった。海外のサブカルチャーを特集したテレビ番組で、アニメやゲームのメッカ、日本の秋葉原で多数徘徊している気持ちの悪い「オタク」という人種。
彼女が間近で目にするのは、これが初めてだった。
「ホワット、誰あんた? 汚いなりしてどこの不審者よ」
サファイアのような青い瞳を丸くしたリアンゼルは、こんな気味の悪い変質者など相手にもしたくないとばかりに顔をしかめて「しっしっ」と手を振った。
ところが、その男から叩きつけられる日本流の罵倒は、リアンゼルの悪罵を凌駕するほど辛辣で容赦なかった。
「おい、口を開くなって言ってるのが聞こえなかったのか? 人には偉そうなことをホザいておいて人の話す言葉は理解出来ないほど知能が低いのか? それとも人を虐めるその根性と同じくらい耳も腐ってて言葉も聞こえないのか? フヒヒッ、こりゃ呆れたイギリス人だな」
リアンゼル・コールフィールドは、輝くような美しい金髪に目鼻立ちの整った顔立ちの美少女だった。すらりとしたスタイルは歌手だけではなくモデルとしても通用すると彼女自身が一番自惚れていた。
その容姿と歌声に対してお世辞を含めた賛美を今まで数限りなく受けてきたが、これほどあからさまに侮蔑されたことは今まで一度とてない。
当然、彼女は激怒した。
「何よ、アンタ。頭おかしいの?」
「おかしいのは手前だろ。人に歌うなとかホザいておいてオーディションに落ちた自分のザマは棚に上げる。オレ様が勝手に口を開くなと言ってるのに聞いてねえ。人に誰かと尋ねておいて自分の名前を名乗る常識も知らねえ。おいおいイギリスは礼節の国って本当なのかよ。それとも手前だけが例外か? こりゃオーディションにも落ちて当然だなフヒヒッ、消えろ消えろ、とっとと失せろ」
オーディションに落ちて当然だな……心の傷にナイフを突き立てるような嘲りの言葉にリアンゼルの顔は見る見るうちに真っ赤になった。
「アンタみたいな奴に名乗る名前なんかないわ! 消えなさいよ、デブデブ、百貫デブ! イギリスが沈むから迷惑よ! 日本人の癖に偉そうに英語なんか話すんじゃないわよ! さっさとハラキリでもして死んじゃえ!」
「おー、オレ様の主張にまともに反論出来ないから的外れな悪口で来たよ! 同じ女の子を虐めて偉そうにしてたのに。オーディションに落ちた惨めな立場で八つ当たりしてたのがそんなに悔しかったのかい? フヒヒッ情けないねぇ」
「アンタに言われる筋合いなんかない! さっさとイギリスから出てゆきなさい!」
とうとう大声で喚きだしたリアンゼルに対し、母音を引き伸ばすデブオタのジャパニーズイングリッシュは、如何にも呆れ果てたと言わんばかりのイントネーションで嘲り返す。
まるで戦争でも始まったような罵倒の応酬に、近くを通りかかる人々の足が止まり、デブオタとリアンゼルと虐められていた少女の三人を取り囲むように見物人の輪が出来上がっていった。
「恥ずかしいってアンタの格好からおかしいじゃない! そんな格好でイギリスになんて来ないで! さっさと消えなさい、ゴミ風情が!」
「おお、こりゃますますおかしいや。オレ様の格好が手前がこの娘を虐めていたことと今何の関係がある? オレ様の格好より手前の頭の中の方がおかしくねえか? ああそうか、頭がおかしいなら気が付くはずないよな、それでオーディションに落ちたのか。うわあみっともねえ。フヒヒッ哀れ哀れ、顔は綺麗なのに頭の中がこうも腐ってちゃなあ」
周囲からの人々からヒソヒソ声が聞こえてくる。中にはデジカメで撮影を始める輩まで現れ始めた。
好奇と軽蔑の視線に晒されても日本人のデブオタは平然としていたが、リアンゼルはもう耐えられなかった。
「どいて!」と見物人の輪を押しのけるようにして抜け出すと、憎悪の眼差しをデブオタへ向けて「ゴミ風情が! 絶対許さないから、覚えてらっしゃい!」と言い捨てて逃げ出した。
「おーっと、イギリス人のいじめっ子少女、羞恥心に耐えかねて試合放棄だー!」
まるで、格闘試合を実況中継するアナウンサーのようにデブオタが叫ぶと、観衆の何人かが思わず吹き出した。
「お帰りはどちらかな? ティペラリーへの道は遠いぞ!」
笑い始めた人々を見てニヤリとしたデブオタは調子に乗って「遥かなるティペラリー」を大声で歌いだした。ロンドンへやってきたアイルランド人の御のぼりさんが悔し紛れにピカデリーがなんだと負け惜しみを叫んだ歌である。
慎ましくクスクス笑いしていたイギリス人達は、とうとう大きな口を開けて笑い出してしまった。
「覚えてなさい! 絶対にこのままじゃすまさないから!」
高歌放吟するデブオタと観衆の爆笑を背後に、半泣きのリアンゼルは逃げ去っていった。
「ふん、弱い者イジメしか出来ねえ高慢ちきが。インターネットの中傷合戦で鍛えた日本のオタクをナメてんじゃねえぞ」
罵倒合戦に圧勝し自慢気にフフンと鼻息を吹いたデブオタは、思わず拍手する周囲に「みなさん、どうもつまらぬ物をお見せしました」と一礼すると「さて……」と、振り返った。
振り返った先にはポカンとなって立ち竦んでいる件の少女がいる。
ちょっと小太りの小さな体つきにショートカットの黒い髪とトルコ石のような青緑の大きな瞳。確かに日本とイギリス両方の血を受けたハーフだと頷ける顔立ちは、かわいいと言えなくもなかったが、幾度となく苛められ怯えた表情がすべてを台無しにしていた。
顔を合わせただけで彼女は次は自分が標的になると思ったらしく、身体を震わせて思わず後ずさった。
「なぁ」
声をかけただけで彼女はビクッとなって泣き始めたので、デブオタは驚いてしまった。
「お、おいおい泣かないでくれよ。オレ様はアンタの代わりにアイツの喧嘩を買っただけだって。別にアンタに怒ってなんかないからさ」
デブオタは困ったように話しかけたが、さっきまでずっと泣いていたせいか少女の涙はなかなか止まらない。
「参ったな、これじゃまるで迷子の子猫と犬のお巡りさんだ……」
彼は途方に暮れたが放っておく訳にもいかず「オレ様の顔を見ろ、いや見てくれ」と言いながら背をかがめて両手の人差し指で口の両端を吊り上げて笑顔を作った。
少女は、最初はシクシク泣いてばかりで見ようともしなかった。
しかし、「ほら、ほら」と、おかしな仕草で子供でもあやすように懸命に笑いかけるデブオタにようやく視線を向け、泣き止んだ。
「ほーら怖くない怖くない。オレ様はキモいけど別に悪い奴じゃないよー」
少女の涙が止まったのを見て、デブオタは宣誓するように右手を上げた。
「もしかして日本語の方がわかりやすいか? 大丈夫。オレ様はアンタに怒らない。ドゥーユーアンダースタン?」
英語から日本語に切り替え……というより日本語と英語のチャンポンでデブオタは尋ねかけた。
「イエス。ありがとう……」
少女はデブオタの顔を見上げ、ホッと息をついたデブオタと初めて目を合わせた。
脂ぎった大きな顔。お世辞にもハンサムとは云えなかったが、四角い眼鏡の奥の瞳は、意地悪なリアンゼルを辛辣な悪罵で叩きのめしたさっきとは違う、穏やかで優しい色を湛えている。
少女は感謝の気持ちを伝えようと懸命に笑顔を作ったが、ずっと怯えて強張った顔は引き攣ったような表情にしかならなかった。
「おし。じゃあ、とりあえずここじゃ人目が煩いし、場所を変えて詳しい話を聞かせてもらおうか。乗りかかった船だし相談に乗れるようなら乗ってやらぁ」
「……」
返事がないので、デブオタは少女の顔を覗き込んでゆっくり繰り返した。
「ここから移動する。お茶を飲む。アンタの話をオレ様にして欲しい。助けてあげられるなら力になる。そう言ったんだけど……オレ様の日本語、わかるかい?」
うなずいた少女の唇が動いていたので、「ああん?」と、デブオタは耳を近づけた。
「聞こえなかった。もう一度言ってくれ。せーのッ」
「……はい」
本当に蚊の鳴くような、小さな声だった。
「落ち着いてお茶を飲めるところって、どこか知ってるかな?」
「……」
答えがないので見ると、少女は慌てて「知ってます」というように頷いた。
また、デブオタの耳には聞こえないほどの声だったらしい。
どうやら小さな声でしか喋れないほど気の弱い少女らしい、とようやく悟ったデブオタは「こりゃ話を聞くだけでも手間がかかりそうだな」と首を振ったが、肩をすくめると少女を促して歩き出した。
「お腹に優しい店ならどこでもいいんだけどさ。いやあ、さっきはフィッシュアンドチップスに一服盛られてなぁ。あやうく毒殺されるところだったんだ、参ったぜ」
半ば独り言のように言いながら、デブオタは大きな足取りで悠然と歩いてゆく。
少女は、おどおどしながらそんな彼の前でちょこちょこと歩いた。
(何でこんなことになっちゃったんだろう)
歩きながら彼女は困惑するばかりだった。
少女の名は架橋エメル。
彼女は、クラスメートからは目の敵のようにいじめられ、学校にも行けなくなって、もうずっと公園で誰にも見つからないように過ごしていたのだった。
しかし、誰にも迷惑をかけないように独りで歌っているところもリアンゼルに見つけられ、また苛められて。
それからは彼女の気が済むまで苛められるしかないと、ずっと諦めていたのだった。
ところが今日、見ず知らずの男が目の前で大喧嘩を始め、リアンゼルを追い払って力になると言い出したのだ。
いじけているだけの自分の目の前に、まるで嵐のように現れて。
(何でこんなことに……)
しかし当惑するだけのこの十六歳の少女には、この時まだ知る由もなかった。
突然目の前に現れて勝手に喧嘩を始めた日本人のデブオタ。
彼によって、今までとはまるで違う日々が始まったことを……
** ** ** ** ** **
「まずは名前を教えてもらえるかな?」
「エメル……です」
「エメ……なんだって? 悪いけど聞こえない。頼むから声のボリュームを上げてくれ。ハイ、もう一度ッ」
「エメルです。架橋エメル……」
蚊の鳴くような声に首を振ったデブオタはいきなり後ろを向くと「レモンティーとレモネード! 毒薬抜きのフィッシュアンドチップス二人前ッ!」と怒鳴り、向かい側に座っていたエメルと手持ち無沙汰にしていた店員を飛び上がらせた。
「これくらいのボリュームで頼むよ」
「む、無理です……」
エメルがまた涙目になったので、デブオタは慌てて妥協した。
「わかったわかった、泣くんじゃねえってば。じゃあその半分でいいからもう一度」
「架橋エメルです……!」
それは、ささやき声をちょっと大きくした程度でしかなかったが、エメルには精一杯だった。
「しょうがねえなあ。じゃあそのボリュームでオレ様のクエスチョンに答えてもらうか。ドゥーユーアンダースタン?」
「はい……」
「年齢は?」
「一六歳です」
「お父さんが日本人なの?」
「いいえ、お母さんが」
「ふうん、じゃあその黒髪はお母さん譲りか」
デブオタが何気なく「艶があって綺麗だね」とつぶやくとエメルは嬉しそうに自分の黒髪を撫でたが、すぐ悲しそうに顔を伏せてしまった。
「エメルはイギリスで生まれも育ちもイギリスなのかい?」
「日本で生まれました。二年前にイギリスに引っ越してきて、しばらくしてお母さんが病気になって……」
「いま入院してるの?」
エメルは、また蚊の鳴くような声に戻って「去年亡くなりました」と俯いた。
泣きそうなのを懸命に堪えている。デブオタは慌てて謝った。
「すまん! 辛いことを聞いちまったな。知らなかったんだけどよ……ごめんな」
「気にしないで下さい」
「いや、親御さんが亡くなって悲しいのは当然だろ。ごめんなごめんな」
ペコペコと頭を下げるデブオタは、リアンゼルを罵倒していた時とは別人のようだった。
滑稽だが懸命なその様子からは、母親を亡くした悲しみを心から思いやってくれている誠実さが伝わってくる。傷ついていたエメルの心は、優しくくすぐられた。
ちょうどそんな時に、怒鳴られた件の店員が仏頂面でテーブルにフィッシュアンドチップスの盛られた皿とティーカップをドンと置いて去っていった。
「なんでえ、愛想のない店員だな。まあ、とりあえずお茶をどうぞ」
エメルが頷いてレモンティのカップに口をつけると、デブオタは皿のチップスをガツガツ頬張り、ストローからチュゴーと音を立ててレモネードを啜った。
「ところで、さっきエメルを虐めていた歌の女王気取りは一体何者なんだ?」
「リアンですか? 私のクラスメートです。リアンゼル・コールフィールド」
「ふうん、イギリスの学校も日本とあんまり変わんないな。イジメって奴は世界共通の文化なのかねえ」
デブオタは呆れたように首を傾げ「先生には相談したのかい?」と尋ねるとエメルは小さく首を横に振った。
「先生が言ってもクラスの皆がそんなの知らないって……それっきり」
「へっ、クラス中がゲスの太鼓持ちとご機嫌取りか。腐りきってんな」
「お母さんが、それで無理に学校に行かなくていいって止めてくれて。いっそ日本に帰ろうかって言ってくれたけど、ちょうどそのときに敗血病にかかっていたのが検査で分かって、お母さんそのまま入院して……」
「そうか」
もしかしたらこの少女はイギリスに来てからこのかた、辛いことばかり続いて今のような泣き虫になってしまったのかも知れない。
デブオタはしばらくの間、黙ってエメルを見つめた。
「そういやリアンゼル、だったっけ。アイツ、何とかってオーディションに落ちたって言ってたよな」
「『ブリテッシュ・アルティメット・シンガー』のことですか?」
「そうそう、それだ。それってどういうオーディションなんだ?」
「ご存じないですか。ロンドンで年に一回開催されるアマチュア歌手のオーディションです。日本でもそういうはあっていませんでした?」
「ああ、年一回どころかしょっちゅうやってるよ。テレビの歌番組は昔ほど人気はないけどね。アイドルなら声優アイドルからご当地アイドル、地下アイドルまでジャンルが多々あって選り取り見取り。多すぎてもう何がなんだか。今や生き残りを賭けた戦国時代だなぁ」
「へえ、そうなんだ……」
それは多少デブオタのホラも混じっていたが、エメルは眼を丸くした。
「でもイギリスでは『ブリテッシュ・アルティメット・シンガー』は特別です。アルティメットって名前がつくくらい凄く権威のあるオーディションなんです。事前選考が通ったら公開審査に出られるんですが、そこからテレビ番組で中継されるんです。視聴率が高いから出場しただけでちょっとした有名人になります」
「へえ、そりゃ凄えや。アイツはそこで落ちたのか」
「勝ち抜きのステージ形式で、優勝したらデビュー出来て、そのまま一流スターに仲間入り出来るんですけど……」
「あんな腐った奴がもう少しで一流スターになれるところだったっていうのか。日本じゃとてもあり得んな」
ブタのようにフゴッと鼻を鳴らしたデブオタだったが、自分の横で「出場出来たって凄いなあ……」と感心しているエメルに気が付き、ちょっと呆れてしまった。
「おい、自分をいじめた奴に感心してる場合かよ」
「す、すいません」
「じゃあアイツはプロの歌手を目指していたから……」
デブオタは「そうか」と、気が付いたように指でこめかみを叩いた。
「だからアイツはわざわざエメルの歌に八つ当たりしに来たのか」
「……」
デブオタは、困ったように下を向いたエメルに気が付いた。
リアンゼルの嘲りぶりを思い出して嫌悪に歪んでいた彼の顔が、ふっと優しく解ける。
「エメルは、歌は好きかい?」
「……」
恥ずかしかったのだろう。また耳に届かなかったが、俯いた彼女の小さな唇は「はい」と答えていた。
デブオタは特製ギョーザのような大きな耳を近づけて更に尋ねた。
「何で好きなの?」
「歌っている間は……嫌なことも忘れていられるから。それに……」
「それに?」
促されて答えるエメルの声は小さく震えていた。
「お母さんが一番嬉しそうにしてたの……私が歌っているとき。だから、入院している時もよく歌ってあげていたの。お父さんはお母さんに冷たくて一度もお見舞いに来てくれなかった。ずっと海外の仕事ばかり。だから私がお母さんが寂しくないようにって思って……」
「……」
俯いたエメルの頬から流れ落ちて手のひらで弾けたのは、紛れもなく涙の粒だった。デブオタは息を呑んで、何も言わなかった。
しばらくして顔を背けると、かすれたような声で「そうか」とだけつぶやいた。
遠い異国の地でいじめに遭い、友達はなく、ただ一人の寄る辺だった母親を病床で思いやっていた少女。
エメルに対する哀れみにデブオタは思わず心を突き動かされたのだった。
「お母さんは、エメルは歌が上手だから、きっと歌があなたを幸せにしてくれるって言ったけど。でも、今は歌うと時々お母さんのことを思い出して……今でもちょっと辛いです」
エメルは歌が上手だから。
言葉の端々から彼女の悲しい身の上を想像する力がデブオタにはあった。
病床にいた彼女の母親は、この少女をどんなに心配し、心を残してこの世を去ったのだろう。
彼はトイレの中で聴いたグリーンスリーブスを思い出した。どこか切なくて悲しい歌声。
「エメル」
「はい」
「お前さ、歌手になれよ」
「えっ」
驚いてエメルがデブオタを見ると、彼は大きな口を開けて欠伸している。
欠伸の涙をTシャツの袖で拭った彼の目許は赤くなっていた。
「あんな奴に虐められて泣いてばっかりじゃ天国のお母さんが悲しむぞ」
「そ、それは……」
「いっそプロのアイドル歌手にでもなってアイツを見返してやれ」
「ええっ!?」
プロの歌手になろうなんて、今までこれっぽっちも考えたことはなかったエメルは真っ青になった。まるで見えない手で往復ビンタでも喰らったように顔を左右に振る。
「そ、そんな……とても無理です」
「無理ってやってみなきゃわからないだろ? あんなゲス女がもう少しでなれるところだったって威張ってたくらいだぜ」
「リアンはあんなに美人だし、歌も上手だから」
エメルは下を向いた。
「それに比べたら私なんて……」
デブオタは思わず声を荒げた。
「あのなぁ、そうやって自分の可能性を自分で否定してどうするんだ。その若さで人生の消化試合に入るつもりか? 賭けてもいいけどアイツ、今日の仕返しに明日また来るぜ」
そう言っても、エメルは悲しそうに首を横に振るばかり。
それは自分には何の可能性もない、と諦めきった姿で、デブオタはため息をつくしかなかった。
(どうする。彼女が諦めているならこのままお節介も終わりにするか)
そう思ってみたが、デブオタはどうしてもそんな気になれなかった。
目の前の少女が、何だか他人のように思えなかったのである。
言われるがままの姿は、日本で搾取されるだけのアイドルファンとして罵倒されたあの日の自分と同じだった。
歌うな、黙って日陰で枯れてろと彼女が云われた嘲罵は、黙って金だけ貢いでいろと浴びせられた自分への罵倒と同じに思えた。
腕組みをして彼は考え込んだ。彼女が諦めているのにこれ以上余計なお節介を焼いて何になるというのか。
そもそもお節介を焼いて、彼女に何をしてやれるというのだろう。
そう思っても、心の中から何かが叫ぶように彼に問いかけてくるのだ。
――この娘はお前と同じだ。このままにしていいのか?
――このまま踏みつけにさせていいのか? それで後悔しないのか?
** ** ** ** ** **
「あ、こんなところにいた」
リアンゼルの冷たい声にエメルがビクッと竦んだのは、昨日見つかったトイレから離れた、大きなオークの木の影だった。
仕返しが怖かったが、エメルの憩える場所はこの公園しかなかった。冷たい父親しかいない家庭、虐められるだけの学校。どこにもエメルの居場所はなかった。
せめて見つからないようにと場所を変えたのだが、意地悪な眼で探し回るリアンゼルから所詮逃れられるはずがなかった。
「昨日言ったのが聞こえなかった? 不愉快だからさっさとここから消えて。イギリスから出て行って。ゴミ風情が」
黙ってうつむいたエメルに、昨日の分も併せてたっぷり痛めつけてやろうとリアンゼルが罵倒を始めたとき。
「よう、弱い者いじめしか出来ない歌手のなりそこない。昨日の惨めな敗戦の仕返しにやって来たか。思った通りだな」
キッとなったリアンゼルが金髪を風に靡かせて振り返ると、そこには顎を上げたデブオタが彼女以上の傲慢な態度で腕組みしていた。
「まだ国外追放されてなかったの? デブで日本人のゴミ風情が……」
「へっ、オーディションに落ちた負け犬にしては威勢がいいな。よく咆えやがる」
ニヤニヤしながら肩をすくめたデブオタへリアンゼルは肩を怒らせて向き合う。その背後でエメルはオロオロするしかなかった。
そして、公園の中を行き交う人々がまた三々五々と足を止めて遠巻きに見だした。
「……昨日私に言ったわね。オーディションにも落ちて当然って」
「そんなに悔しかったか? 不服の申し立てならオレ様ではなくオーディション会場にでもどうぞ」
邪悪な笑みを浮かべたデブオタは胸に手を当て、まるで執事のように丁寧なお辞儀をして見せた。
リアンゼルはもう言い返さなかった。この男が今日もここに現れ、エメルを庇って噛み付いてくることは予想していたのである。
そして、そのときどうやって思い知らせてやるか……彼女は既に心積もりをしていた。
彼女は黙って肩に担いでいたギターケースを降ろすと中からドレッドノートタイプのアコースティックギターを取り出した。
周囲の人々が見守る中で落ち着いた手つきで弦を掻き鳴らし、音程を耳で確かめ、ペグをいじってチューニングを終える。
怒らせた肩を下ろし、心を落ち着けるように背筋を伸ばして眼を閉じ、すぅ、と大きく息を吸った。
ギターが切ないメロディーを奏で始める。それはエメルもデブオタも聴いたことのある有名な曲だった。
ペインの「Form of the heart」
ニューヨークの孤独な殺し屋と突然家族を殺され孤児となった少女。その純愛と悲しい結末を描いた映画のラストシーンを飾った名曲である。
ギターの曲に合わせてリアンゼルは美しい声で歌い始めた。
「The man distributes a card. To find an answer. Along holy sequence named the fate...」
(男はカードを配る。答えを見つけるために。運命という名の神聖な配列に沿って……)
人生をトランプのゲームに例え、配られたカードで勝負する様子を偶然に翻弄される人の運命のように皮肉った歌。
しかし、名声や愛を賭けてゲームに挑む者の虚ろな気持ちを表現するものは皮肉ではない、先の見えぬ人の儚さなのだと、彼女の唇は静かに語る。
それまで意地悪な言葉、毒を孕んだ罵倒しか聞かされていなかったのに、そのリアンゼルが別人のように人の儚さ、偶然という運命の悲しみを歌っている。
まるで、いじめられて傷ついたエメルの心の悲しみさえも知っているように。
ギターを爪弾く手つきも巧みで、聴く人の心を掻き立てずにはいられなかった。
エメルは自分が恥ずかしくなって下を向いた。
(リアン、こんな上手に歌えるんだ)
(こんなに上手だから私に歌うな、なんて言えるんだ)
(それに比べたら、私の歌なんて……)
だけど、歌も歌えず、ここからも追い出されて、それから自分はどうしたらいいのだろう……
エメルはそっと手の甲で涙を拭った。
歌が終わり、続いて演奏が終わると、取り巻いていた人々から拍手が沸き起こった。
しかし、拍手してくれた人を無視してギターをケースの上に置いたリアンゼルは、斜めにデブオタを見つめた。
歌うのにふさわしい資格ということはこういうことだ、という無言の圧力。
戸惑ったように拍手は止み、人々はリアンゼルが睨みつける先に眼を向けた。
「これでも私がオーディションにも落ちて当然だなんて言えるの?」
あきれたような声でリアンゼルは問いかけた。
これで、当然だなんてもう言わせない。言外に彼女はそう言っていた。
だが。
リアンゼルの冷たく細めた眼の向こうで、デブオタは腕組みしたまま不敵な笑顔を少しも崩していなかった。
「ほう、その程度の歌でオーディションに落ちるはずがないなんて思っていやがったのか」
「な……!」
「人に聞かせる価値のない歌って、こういう歌なんだなぁ」
自分の歌唱力の前に怖じ気づくだろうと踏んでいたリアンゼルは、ヤレヤレと言うように両手を持ち上げて呆れたデブオタへ、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「どこが! どこが価値がない歌っていうのよ!」
デブオタは片目を細めると唇を歪めてフフンと笑った。
「そんなみみっちぃ歌で偉そうに何を言ってんだ、あ? 名曲だから歌っている奴まで一流のように聴いてる奴を騙せたつもりなんだろうが。その程度でプロになれるようじゃイギリスの歌謡界って日本より十年は遅れてるなあ」
「バカにするんじゃないわよ!」
「断る。オレ様はどこまでもお前をバカにしてやる。そしてお前をバカにするのには正当な理由がある」
足を踏み鳴らして叫んだリアンゼルに真顔で言い返すと、デブオタはエメルを指差した。
そして、彼女の歌に感心していた周囲の人々の耳に聞こえるようにはっきりした声で、だが静かに言い放った。
「違うって言うなら……昨日手前がエメルに言った言葉をここで言ってみろよ。ここにいる人たちに聞こえるようにもう一度言ってみろ」
「え?」
思いがけないことを言われ、リアンゼルは狼狽した。
「言えないならオレ様が言ってやろうか。『歌わないで。歌って云うのはふさわしい資格がある人に許された特権なの。私のような人しか歌っちゃ駄目なの。ヒバリやツグミは歌っていいけどガマガエルとか毛虫とかは歌っちゃ駄目なの。生きているだけで迷惑なの』昨日確かにエメルにそう言ったな。違ったか?」
「そ、それは……」
リアンゼルが返事に窮して何も言い返せないのを見て、さっきまで彼女を感心して見ていた人々は思わず鼻白んだ。
ツンとすましたリアンゼルを高慢そうぐらいには見ていたが、まさかそこまで酷い罵倒を浴びせているとは思っていなかったのである。
「それからこう罵っていたな。『今すぐ消えろ、ここから出てゆけ、死ね』」
「違……」
「さっきも同じことをエメルに言ってたな」
顔面を蒼白にしたリアンゼルに向かってデブオタは問い掛けた。
「そんな気持ちで手前は誰のために歌うっていうんだ? そんな歌を誰が喜んで聴いてくれるんだ? それともイギリスでは人をけなして踏みつける奴こそ歌手になる資格があるのか?」
「……」
「案外そんな腐った心根を見透かされたからオーディションに落とされたんだろうがな」
「あ、アンタにそんな偉そうなことを言う資格でもあるっていうの?」
真っ青な顔でリアンゼルは必死に言い返した。
もう、そういう反撥しか出来なかったのだ。周囲の人々から向けられる視線から既に好意や賞賛の色は消えていた。
それでも、プロの歌手を目指すリアンゼルには自分のプライドに懸けて自分の非を認めることは断じて出来なかった。
「おい、いい加減にしろ。資格の問題じゃねえだろ!」
どこまでも自分の非を認めようとしないリアンゼルの傲岸さに、冷ややかに見下していたデブオタもとうとう呆れて怒りだした。
「エメルは病気のお母さんを慰めるために歌っていたんだぞ、亡くなるまでな。それをガマガエルだ毛虫呼ばわりして歌うな、消えろだと? 手前こそ何様だ!」
「質問をすり替えないで! ふん、ゴミ風情が同じ日本人のゴミを庇って歌だなんだって偉そうに言わないでちょうだい」
足を踏み鳴らし、半ば逆ギレしたようにリアンゼルは叫んだ。
デブオタはそんな彼女に怒鳴り返そうとして、ふとリアンゼルの向こう側に気が付いた。
そこにはエメルがいた。彼女は胸の前で手を合わせ、涙を溜めた目に胸が張り裂けそうな悲しい表情を浮かべて立ち竦んでいる。
それを見たとき、昨日からどうしようかと悩んでいたデブオタの心は固まった。
――エメルは歌が上手だから
そう言ってくれた病床の母親を慰める優しい歌でさえ、光の当たらぬ者には許さない。
勢いに任せて、しかしリアンゼルはハッキリそう言ったのだ。
「資格があるのかと抜かしやがった。自分のことは棚に上げて」
デブオタはゆっくりと歩き出してすれ違いざまにリアンゼルへ唾を吐きかけると、エメルの傍へそのまま行き、背をかがめて話しかけた。
「なあ、エメル。やっぱりお前歌手になれ」
「えっ?」
エメルが見上げたデブオタの顔。
そこにはリアンゼルに向けた蔑みの冷笑ではなく、温かな笑みが浮かんでいた。
力強い自信に溢れた手がエメルの背中をやさしく叩く。
「お母さんが言ってたんだよな、歌がお前を幸せにしてくれるって」
「う、うん」
「よし、じゃあオレについて来い。約束する」
「約、束?」
「ああ、お前を必ずプロの歌手にしてやる。天国のお母さんが喜んでくれるような歌を歌わせてやる」
そう言うとデブオタはゆっくりとリアンゼルへ振り返った。大きく胸を張る。
「オレは日本の音楽プロデューサーだ」
「何ですって?」
眼を丸くしたリアンゼルに向かって、デブオタはまるで決闘を申し込むように指を突きつけた。
「手前がなれなかったプロの歌手に、オレ様がエメルをしてやる。それが俺達の勝利、そして手前の敗北だ。覚えとけ!」
それは、まさしくデブオタからの宣戦布告だった。
思いがけない言葉にリアンゼルは「は、バカじゃないの? 何言ってるのアンタ」を乾いた笑い声をたてた。
「何言ってるのかも聞こえない、こんな小娘が?」
「少なくとも人をいじめて薄汚い自尊心を満足させてる手前より見込みはあるな」
「見込みってどこによ! アンタの節穴みたいな眼でどっかに才能でも見えたの? そんな身なりでプロデューサーなんて笑わせるわね。どうせハッタリでしょ! 何も出来ないくせに! 何の力もないくせに!」
「ほざけ、オーディション落っこちてデビュー出来なかった負け犬風情が! 咆える以外に貴様に何が出来る?」
小馬鹿にしたはずの罵倒に対し、傷口に塩を塗るような痛烈な皮肉が返ってくる。
わなわなと震えたリアンゼルは咆えるように叫んだ。
これ以上の屈辱に耐えられなかったのだ。
「来年よ! こ、今年は運がなくて落ちてしまったけど、来年のブリティッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションには必ず優勝してスターになって見せるわ!」
「へえ、落ちたばかりなのにねえ」
キッとなって睨んだリアンゼルの瞳には涙が滲んでいる。さすがにデブオタもたじろいだ。
「誓うわ。エリザベス女王陛下の御名に懸けて!」
捨て身の決意に満ちた彼女の誓約に周囲の人々はどよめき、意味が分からずに訝しげな眼を向けたデブオタへエメルが小さな声で解説した。
「リアンゼルはこう言ったんです。“イギリスの名誉に懸けて自分はプロ歌手になる”と」
「そういうことか」
腑に落ちた顔をしたデブオタに背を向けるとリアンゼルはギターをケースにしまって歩き出した。
だがエメルは気が付いていた。
足早に去ってゆくリアンゼルの肩が小さく震えていたことに。
「リアン……」
小さく呼びかけた声は無論彼女の耳に届くことはなかった。仮に届いても彼女は足を止めることも、振り返ることもしなかっただろう。
――そんな歌を誰が喜んで聴いてくれるんだ?
――腐った心根を見透かされたからオーディションに落とされたんだろ
「そんなことあるもんですか。優勝してスターになるんだ。今度こそ……今度こそ……」
リアンゼルはデブオタとエメルに後姿しか見せないように背中を向け、凛とした姿勢で歩きながら泣いていた。
拭っても拭っても、煮え湯のような悔し涙が溢れてくる。
それまでエメルをいじめて浅ましい優越感を満足させていたリアンゼルは、デブオタの反撃に初めて自分の心の醜さを人前に晒され、痛めつけられたのである。
「絶対許さない! 必ずプロ歌手になってあのデブオタとエメルを叩き潰してやる」
彼女は泣きながら、何度も自分に誓った。
いじけて泣いてばかりのエメルに自分が負けるなどと露ほどにも思えなかったが、それでも断じて負けるわけにはゆかない。
スターを目指す彼女のプライドに賭けて。
「負けるもんか、絶対に負けるもんか!」
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「凄いことになっちゃった……」
日が暮れようとしていた。
すでに、集まった野次馬達も三々五々と散っていたが、閑散となった公園にエメルはいまだ立ち尽くし、ぼう然としていた。
昨日は売り言葉に買い言葉が飛び交う激しい罵倒の応酬だったが、今日はとうとう引き返せない戦いが始まってしまった。
当事者の一方なのに、エメルはずっとオロオロするばかりで何も出来ず、何も言えないままだった。
それなのに、自分を支えてくれた母親の言葉が切っ掛けで彼女はプロの歌手を目指すことになってしまったのである。
考えただけでも眼がくらみそうな、途方もない目標だった。
(どうしよう……どうしよう……)
押しつぶされそうな不安にただただ震えていると、彼女をスターにすると宣言した張本人が横で大きく伸びをした。
「それにしてもイギリス人っていうのは言うことが大袈裟だな。ああいえば自分がスターになれるとでも思ってんのかな? なあ、エメル」
「え? いや、そのどうなんでしょう……」
こともなげに話しかけるデブオタを見て、エメルは混乱した。
途方もないことを言ったのに、言った本人はそれが大した問題でもないようにノンキに欠伸なんかしているのである。
まるで、自分にはエメルをプロ歌手のスターにする算段がちゃんと出来ている、とでもいうように。
エメルには到底信じられなかった。
あれほどの美貌に恵まれ、あれほど歌の上手なリアンゼルでさえ落選してしまったというのに、何のとりえもないこんな自分がどうしてスターになれるだろう。
「何だ、心配なのか? あんな大袈裟に宣誓されたことが」
思わず下を向いたエメルを見たデブオタは問い掛けた。
「怖いかい?」
「……はい」
「じゃあ、エメルも誓うといい」
「え?」
エメルがデブオタを見ると、彼は彼女を見返して確かめるように話しかけた。
「お前を一番愛してくれた人がいたよな。……お前のお母さんだ」
エメルが黙ってうなずくと、デブオタは彼女のターコイズグリーンの瞳をまっすぐ見つめた。
「じゃあエメル、お前は天国のお母さんに誓え。歌手になって幸せになってみせるって」
「……」
「大丈夫だ、心配すんな。オレ様がついてる。お前を絶対プロの歌手にしてやる。天国のお母さんが喜んでくれるような歌を歌わせてやる」
――天国のお母さんが喜んでくれるような……
エメルの脳裏に、自分の歌を聴かせていた母親の姿が浮かんだ。
最後はかけている布団も平らになるほどすっかり痩せてしまって、話す元気もなくなって、それでも黙って自分の歌を聴いてくれた姿。
やつれた顔に、幸せそうな笑みを浮かべて……
しばらく間があった。
デブオタがじっと待っていると「……はい」と確かないらえがあって、すすり泣く声が聞こえてきた。
「……お母さん……お母さん」
「泣くなッ! 涙はスターになるその日の為にとっておけ!」
「……はい」
気丈に返事したエメルの頭をデブオタはそっと撫でた。
「大丈夫だ。オレ様に任せておけ! 大船に乗った気でいろ」
「……はい」
引いた手の先には必ず光が、幸せが待っていると……まるで自信の固まりのような力強い言葉。
エメルの頭に乗せたその手は、実はちょっとだけ震えていた。
しかし、涙をこらえていたエメルは気が付かなかった。
(これから何をしたらいいんだろう。どうなるんだろう。何も分からないけど。だけど……)
(ついていこう。この人に)
暮れてゆこうとしていた陽光が一瞬、雲の隙間から残照となってエメルを優しく包み込んだ。
その時、エメルの中で何かが芽吹いたような気がした。
小さな小さな、夢に向かって生きようとする心の芽が……
うららかな春の昼下がり。
日本人とおぼしき一人の巨漢がいま、イギリスはロンドン近郊にある小さな公園の中をうめきながら彷徨していた。
身長は一九〇近く、相撲取りと見まごう体格をしている。着ているTシャツには某人気アニメの美少女がプリントされていたが、男のはち切れんばかりの肥満体によって彼女の笑顔は極限まで横に引き伸ばされ、妖怪と化していた。
かわいそうに、通りかかった幼稚園児がその恐ろしい笑顔をまともに見てしまい、わあっと泣き出した。傍らの母親が慌てて連れ去ってゆく。
これだけでも見るに耐えない光景だというのに、男はお腹を壊しているらしい。内股で腹を両手で抑え、まるでチャップリンが踊っているような恰好で公園の中をウロウロしていた。
彼の容姿はどこから見てもマッドサブカルチャーの聖地、日本の秋葉原からそのまま瞬間移動してきたような気持ちの悪い容姿の太ったオタク、俗に言う『デブオタ』だった。
公園の散策を静かに楽しんでいたイギリスの紳士淑女達は、せっかくの雰囲気をブチ壊すこの異国の不審者へ訝しげな眼差しを向けていたが、当の本人はそんなものを今気にしている場合ではなかった。
脳内では嵐のように緊急警報が鳴り響いている。
それは、ありったけの力で阻止している下半身の危機がもはや限界であることを彼に告げていた。
「と、トイレは誰? 私はどこ?」
切羽詰まっているので、尋ねる言葉ももはや支離滅裂な日本語である。
理解出来ない日本語を鬼気迫る顔で問いかけられたのは品の良さそうな老婦人だったが、無論答えられるはずがない。彼女は「ア、アイムソーリー!」と叫ぶや怯えた顔で一目散に逃げ去ってしまった。
「くっそおおお、トイレはどこだって聞いてんのに何が『私は総理』だよ。イギリス流のジョークって奴か? ったく、こっちはそんな余裕なんてねえっつーの」
言った言葉も聞き取った言葉もおかしいのは彼の方なのに、てんで気が付いていない。
「って、そんなこたぁどうでもいいんだ。あうう、お腹が、お腹がもうメルトダウン寸前だ。いかん、このままでは日英間の国際信用に関わる深刻な事件がもうすぐ起きる……」
ブツブツ独り言をつぶやきながら四方を見回したデブオタは、ふいに「おおっ!」と、眼を輝かせた。
やや離れた場所で緑の茂みに隠れるように設置された、煉瓦造りの小さなトイレをついに発見したのだ。
「トイレの神は遥かイギリスの地においても日本のオタを見捨てたまわず! 急げ、オレ様よ。下半身滅亡まであと一分と三十八秒、あと一分と三十八秒しかないのだ」
地球滅亡へのカウントダウンを訴える某宇宙戦艦アニメのナレーションみたいな独り言と共に、デブオタは一目散にトイレへと突き進んでいった。
トイレへ続く小道の両脇には花壇が置かれ、ひとつひとつ花が丁寧に植えられている。
スミレ、デイジー……きっと公園の管理人や心あるボランティアが手入れしたものだろう。
彼女たちは可憐な花々をさやさやと風に揺らし、崩壊寸前の下半身を抱えてトイレへ急ぐデブオタを道の脇から優しく応援していた。
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「ふう、助かったぜ」
間一髪で破滅の危機を脱したデブオタは、腰掛けた便座の上でホッと息をついた。
レバーを回して轟々と流れる水の音が耳に心地よく響いてくる。
「イギリスまで来てお腹を壊すとは参ったぜ。さてはさっきの屋台の親父が黒幕か。日本人のオレ様を毒殺するつもりでフィッシュアンドチップスに一服盛りやがったんだな、ちくしょうめ」
ブツブツ言うと、彼はふっとキザな仕草で前髪をかき上げた。
「だが甘かったな。この程度のトラップでオレ様を倒すなど笑止千万よ」
さっきまで漏れそうなお尻を抱えて公園中を徘徊していた醜態などどこへやら、アニメの見過ぎとしか思えない憎まれ口で独り格好つけたが、トイレの個室は彼一人なので突っ込む者は誰もいない。
緊張の解けた彼は「あーやれやれ」と、大きく伸びをした。
トイレは少し古びてはいたが、まめに掃除されているのか臭気もほとんどなく清潔だった。内装は綺麗で便器も汚れていない。使う人もモラルを守って利用しているのだろう。トイレットペーパーも十分な量がホルダーに残されていた。
「へえ、日本の公衆トイレと変わらないぐらいちゃんとしてんな」
ちょっと感心したようにトイレの中を見回した彼の耳に、その時、ごく微かに音楽が聞こえてきたような気がした。
「うん?」
耳をそばだてるとそれは確かに幻聴などではなかった。
トイレの傍の植え込みから、誰かがごく小さな声量でハミングしていたのである。
ハスキーでささやくようなハミングは、デブオタの耳にはまるで蚊が鳴いているように思えたが、しばらくすると誰も気づかないことに安心したのか小さな英語の歌声に変わった。
何の歌かはすぐにわかった。
グリーンスリーブス。世界中の人が知っているイギリスの古い歌である。切ない愛の歌を透き通るような少女の声が優しく歌い上げている。
(だけどえらく遠慮しいしい歌っていんな。聴いててかわいそうなぐらいだ)
デブオタは、自分の気配を悟られないように音を立てずに気をつけながら耳を傾けた。
どんな少女なのだろうか。声からして十代の半ばくらいのようだった。
誰かに聴かれるのを恐れているような小さな歌。
美しい歌だとデブオタは思った。
下手に音でも立てようものなら彼女は歌い止めてしまうだろう。怯えて逃げてしまうかも知れない。
彼女に気づかせず、歌い飽きるまでここで聴いていようと彼は思った。
だが、そんなささやかな思いやりを台無しにして、歌声を断ち切ったのは別の少女の声だった。
「うわ、またこんなところで歌ってるの。さっさとどこかに消えなさいよ」
それは美しいイントネーションの英語だったが邪悪なくらいの悪意が籠もっていて、歌い手が怯えて竦む気配が彼に伝わってきた。
「あのね、エメル。さっきのはもしかして歌のつもり? 歌を何だと思ってるの? バカにしてるの? アンタはそんな歌モドキなんて歌っちゃいけないの。歌う資格なんかないの。日陰でイジけてなさい。と、言うよりここから消えて。日本に帰って」
いきなり酷いこと言ってやがる。それより日本に帰れって言うことはさっき英語で歌っていたのは俺と同じ日本人ってことか? と、デブオタは壁に耳を寄せた。
「そもそもここは歌を歌う場所なんかじゃないの。ハーフのアンタがイギリスにいるのも不愉快だし、歌っているのも不愉快だから。私が言ってること理解出来る? だったら私の視界からどっかに失せてちょうだい。いっそドーバーから海にでも飛び込んで死んでくれたらいいのに」
おいおい、ちょっと言いすぎだろ。こりゃもしかしなくてもイギリス流のイジメって奴か? と、彼は顔をしかめたが、非難を浴びている方はただ黙っていた。
それをいいことに、非難する声はますます毒を孕んでゆく。
「聞こえてないの? とにかく歌わないで。歌って云うのはね、歌うのにふさわしい資格がある人に許された特権なの、私のようにね。ブリテッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションで……まぁ落選しちゃったけど、もう少しで優勝出来たはずの私みたいな人しか歌っちゃ駄目なの、わかる? ヒバリやツグミは歌っていいの。ガマガエルとか毛虫とかは歌っちゃ駄目なの。生きているだけで迷惑なの」
おい、人として言っていいことと悪いことがあるだろう
この世の常識だと言うようにヒエラルキーを説く言葉に、デブオタの顔から苦笑じみたものが消えた。次第に、怒りがこみ上げる。
「あなたはクズなの、ゴミなの。日向には出てきちゃいけないの。この世には光を浴びるべき存在と、日陰にいるべき存在があるのよ」
やめろ、いい加減にしろ
鼻を啜り上げる音が聞こえる。いじめというにしても、とうに度を越していた。
容赦のない追い討ちの言葉に、握り締めたデブオタの拳が怒りで震える。
蚊の鳴くような声で歌っていた少女は言い返すことも出来ず、泣いているようだった。
「私は光に当たるべき存在なの。あなたみたいに日陰の存在は光を浴びるべき存在の邪魔になっちゃいけないの。私の視線に入らないで。今すぐどこかに消えて」
(日陰者のファンごときがアイドルに意見するんじゃねえ! イヤなら今すぐどこかに消えろ!)
ふいに――
彼の脳裏に日本で浴びせられた言葉が蘇った。
(恋人がいたのが許せねえだと? 今まで応援してあげたのに酷いだと?)
(お前ら自分の立場わかってんのか? ああ? キモオタどもが上から目線で物を言うんじゃねえ!)
(貴様らはな、あの娘がステージやアニメで輝くための養分なんだよ! 身分を弁えろ、クズどもが!)
(養分が意見なんかするんじゃねえ、ましてやキモいオタ芸なんか見せるんじゃねえ。手前らは黙って金出して応援してりゃいいんだよ! 文句があるならファンなんかやめて今すぐ消え失せろ。手前らの代わりなんざ幾らでもいるんだよ!)
それは、彼が日本で応援していた声優アイドルのステージでの出来事だった。
恋人の発覚を知ったファン達が口々に抗議したとき、彼女の所属するプロダクションのスタッフが彼等へ怒鳴りつけた言葉。
自分を応援する者を罵る言葉をカーテンの向こうにいる憧れの人は聞いていたはずなのに、そこから現れて庇うことはなく……。
うなだれて聞いた屈辱の言葉。それをこんな遠いイギリスで、英語で身近に聞かされて。
「ふ……ざけんな……」
握り締めた手のひらに血が出そうなほど爪を喰い込ませて、デブオタは呻いた。
「日陰にいる奴は一生、踏みつけられていろっていうのか、搾り取られて死ねっていうのか……」
そして、まるでそれを肯定するような言葉が彼の耳に入ってきた。
「だから私の視界に入ってきちゃいけないの、陽光の差す場所なんかに出て来ちゃいけないの。さっさと日陰で枯れて腐って、せいぜい私のような存在の肥やしになってちょうだい」
その瞬間、煮えたぎったデブオタの怒りはついに頂点に達した。
――もう我慢ならん!
憤怒に燃える彼の中で心のゴングが打ち鳴らされた。
「その喧嘩、オレ様が買った!」
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年に一度開催されるイギリス最大のスター・オーディション「ブリテッシュ・アルティメット・シンガー」の開催日。
その日、イギリス中から畏敬と賛辞を受けてデビューする歌姫にふさわしいのは私しかいない。
……そのはず、だったのに。
プロの歌手を目指す一六歳の少女リアンゼル・コールフィールドの、「イギリス最大の歌手オーディションで優勝を惜しくも逃した」というのは、実はほとんど脚色だった。
プロダクションの期待を一身に担って出場したはずの彼女は、本当は最初の選考ステージで落選していたのだった。
ステージを降り、付き添いのマネージャーに会わせる顔もなく会場から飛び出した彼女は、やり場のない怒りをぶつける為にこの公園に辿り着いたのだった。
そこに、知り合いの少女がよく憩っていることをリアンゼルは知っていた。
知り合い、といっても友達ではない。日英のハーフであることを理由に学校でリアンたちがいじめの標的にしていたスケープゴートだった。
今では学校に顔を出さなくなった彼女は公園でひとりで草花を眺めたり、人目から隠れるようにして歌を歌っていた。
そしてリアンゼルは、時折公園に訪れてはそんな彼女にストレス解消の悪罵を浴びせる。そのたびに彼女は何も言い返さず泣きべそをかくだけだった。
スターへの第一歩になるはずだったオーディションのその日、惨めな結末に憤るリアンゼルにとって、彼女はやり場のない怒りをぶつける格好の対象だった。
しかし……
怒りの赴くまま罵詈雑言の限りを浴びせていたリアンゼルにとって、いじけて泣く彼女の代わりに突如喧嘩を買って出る相手が飛び出してきたのは、まさに青天の霹靂だった。
「おいそこのお前、勝手に息をしてんじゃねえ。誰の許可を得て地球の酸素を浪費してるんだ? 人様に消えろという前にお前が消えろ。人をゴミ呼ばわりするお前自身が消え失せろ。口を開くな、呼吸をするな」
ジャパニーズイングリッシュで咆えながらレンガ造りのトイレから現れたのは、ボサボサ髪の頭にバンダナを巻き、背中にはリュックサック、肥え太った体にアニメのTシャツをまとった日本人の大男だった。
彼の容姿はリアンゼルに見覚えがあった。海外のサブカルチャーを特集したテレビ番組で、アニメやゲームのメッカ、日本の秋葉原で多数徘徊している気持ちの悪い「オタク」という人種。
彼女が間近で目にするのは、これが初めてだった。
「ホワット、誰あんた? 汚いなりしてどこの不審者よ」
サファイアのような青い瞳を丸くしたリアンゼルは、こんな気味の悪い変質者など相手にもしたくないとばかりに顔をしかめて「しっしっ」と手を振った。
ところが、その男から叩きつけられる日本流の罵倒は、リアンゼルの悪罵を凌駕するほど辛辣で容赦なかった。
「おい、口を開くなって言ってるのが聞こえなかったのか? 人には偉そうなことをホザいておいて人の話す言葉は理解出来ないほど知能が低いのか? それとも人を虐めるその根性と同じくらい耳も腐ってて言葉も聞こえないのか? フヒヒッ、こりゃ呆れたイギリス人だな」
リアンゼル・コールフィールドは、輝くような美しい金髪に目鼻立ちの整った顔立ちの美少女だった。すらりとしたスタイルは歌手だけではなくモデルとしても通用すると彼女自身が一番自惚れていた。
その容姿と歌声に対してお世辞を含めた賛美を今まで数限りなく受けてきたが、これほどあからさまに侮蔑されたことは今まで一度とてない。
当然、彼女は激怒した。
「何よ、アンタ。頭おかしいの?」
「おかしいのは手前だろ。人に歌うなとかホザいておいてオーディションに落ちた自分のザマは棚に上げる。オレ様が勝手に口を開くなと言ってるのに聞いてねえ。人に誰かと尋ねておいて自分の名前を名乗る常識も知らねえ。おいおいイギリスは礼節の国って本当なのかよ。それとも手前だけが例外か? こりゃオーディションにも落ちて当然だなフヒヒッ、消えろ消えろ、とっとと失せろ」
オーディションに落ちて当然だな……心の傷にナイフを突き立てるような嘲りの言葉にリアンゼルの顔は見る見るうちに真っ赤になった。
「アンタみたいな奴に名乗る名前なんかないわ! 消えなさいよ、デブデブ、百貫デブ! イギリスが沈むから迷惑よ! 日本人の癖に偉そうに英語なんか話すんじゃないわよ! さっさとハラキリでもして死んじゃえ!」
「おー、オレ様の主張にまともに反論出来ないから的外れな悪口で来たよ! 同じ女の子を虐めて偉そうにしてたのに。オーディションに落ちた惨めな立場で八つ当たりしてたのがそんなに悔しかったのかい? フヒヒッ情けないねぇ」
「アンタに言われる筋合いなんかない! さっさとイギリスから出てゆきなさい!」
とうとう大声で喚きだしたリアンゼルに対し、母音を引き伸ばすデブオタのジャパニーズイングリッシュは、如何にも呆れ果てたと言わんばかりのイントネーションで嘲り返す。
まるで戦争でも始まったような罵倒の応酬に、近くを通りかかる人々の足が止まり、デブオタとリアンゼルと虐められていた少女の三人を取り囲むように見物人の輪が出来上がっていった。
「恥ずかしいってアンタの格好からおかしいじゃない! そんな格好でイギリスになんて来ないで! さっさと消えなさい、ゴミ風情が!」
「おお、こりゃますますおかしいや。オレ様の格好が手前がこの娘を虐めていたことと今何の関係がある? オレ様の格好より手前の頭の中の方がおかしくねえか? ああそうか、頭がおかしいなら気が付くはずないよな、それでオーディションに落ちたのか。うわあみっともねえ。フヒヒッ哀れ哀れ、顔は綺麗なのに頭の中がこうも腐ってちゃなあ」
周囲からの人々からヒソヒソ声が聞こえてくる。中にはデジカメで撮影を始める輩まで現れ始めた。
好奇と軽蔑の視線に晒されても日本人のデブオタは平然としていたが、リアンゼルはもう耐えられなかった。
「どいて!」と見物人の輪を押しのけるようにして抜け出すと、憎悪の眼差しをデブオタへ向けて「ゴミ風情が! 絶対許さないから、覚えてらっしゃい!」と言い捨てて逃げ出した。
「おーっと、イギリス人のいじめっ子少女、羞恥心に耐えかねて試合放棄だー!」
まるで、格闘試合を実況中継するアナウンサーのようにデブオタが叫ぶと、観衆の何人かが思わず吹き出した。
「お帰りはどちらかな? ティペラリーへの道は遠いぞ!」
笑い始めた人々を見てニヤリとしたデブオタは調子に乗って「遥かなるティペラリー」を大声で歌いだした。ロンドンへやってきたアイルランド人の御のぼりさんが悔し紛れにピカデリーがなんだと負け惜しみを叫んだ歌である。
慎ましくクスクス笑いしていたイギリス人達は、とうとう大きな口を開けて笑い出してしまった。
「覚えてなさい! 絶対にこのままじゃすまさないから!」
高歌放吟するデブオタと観衆の爆笑を背後に、半泣きのリアンゼルは逃げ去っていった。
「ふん、弱い者イジメしか出来ねえ高慢ちきが。インターネットの中傷合戦で鍛えた日本のオタクをナメてんじゃねえぞ」
罵倒合戦に圧勝し自慢気にフフンと鼻息を吹いたデブオタは、思わず拍手する周囲に「みなさん、どうもつまらぬ物をお見せしました」と一礼すると「さて……」と、振り返った。
振り返った先にはポカンとなって立ち竦んでいる件の少女がいる。
ちょっと小太りの小さな体つきにショートカットの黒い髪とトルコ石のような青緑の大きな瞳。確かに日本とイギリス両方の血を受けたハーフだと頷ける顔立ちは、かわいいと言えなくもなかったが、幾度となく苛められ怯えた表情がすべてを台無しにしていた。
顔を合わせただけで彼女は次は自分が標的になると思ったらしく、身体を震わせて思わず後ずさった。
「なぁ」
声をかけただけで彼女はビクッとなって泣き始めたので、デブオタは驚いてしまった。
「お、おいおい泣かないでくれよ。オレ様はアンタの代わりにアイツの喧嘩を買っただけだって。別にアンタに怒ってなんかないからさ」
デブオタは困ったように話しかけたが、さっきまでずっと泣いていたせいか少女の涙はなかなか止まらない。
「参ったな、これじゃまるで迷子の子猫と犬のお巡りさんだ……」
彼は途方に暮れたが放っておく訳にもいかず「オレ様の顔を見ろ、いや見てくれ」と言いながら背をかがめて両手の人差し指で口の両端を吊り上げて笑顔を作った。
少女は、最初はシクシク泣いてばかりで見ようともしなかった。
しかし、「ほら、ほら」と、おかしな仕草で子供でもあやすように懸命に笑いかけるデブオタにようやく視線を向け、泣き止んだ。
「ほーら怖くない怖くない。オレ様はキモいけど別に悪い奴じゃないよー」
少女の涙が止まったのを見て、デブオタは宣誓するように右手を上げた。
「もしかして日本語の方がわかりやすいか? 大丈夫。オレ様はアンタに怒らない。ドゥーユーアンダースタン?」
英語から日本語に切り替え……というより日本語と英語のチャンポンでデブオタは尋ねかけた。
「イエス。ありがとう……」
少女はデブオタの顔を見上げ、ホッと息をついたデブオタと初めて目を合わせた。
脂ぎった大きな顔。お世辞にもハンサムとは云えなかったが、四角い眼鏡の奥の瞳は、意地悪なリアンゼルを辛辣な悪罵で叩きのめしたさっきとは違う、穏やかで優しい色を湛えている。
少女は感謝の気持ちを伝えようと懸命に笑顔を作ったが、ずっと怯えて強張った顔は引き攣ったような表情にしかならなかった。
「おし。じゃあ、とりあえずここじゃ人目が煩いし、場所を変えて詳しい話を聞かせてもらおうか。乗りかかった船だし相談に乗れるようなら乗ってやらぁ」
「……」
返事がないので、デブオタは少女の顔を覗き込んでゆっくり繰り返した。
「ここから移動する。お茶を飲む。アンタの話をオレ様にして欲しい。助けてあげられるなら力になる。そう言ったんだけど……オレ様の日本語、わかるかい?」
うなずいた少女の唇が動いていたので、「ああん?」と、デブオタは耳を近づけた。
「聞こえなかった。もう一度言ってくれ。せーのッ」
「……はい」
本当に蚊の鳴くような、小さな声だった。
「落ち着いてお茶を飲めるところって、どこか知ってるかな?」
「……」
答えがないので見ると、少女は慌てて「知ってます」というように頷いた。
また、デブオタの耳には聞こえないほどの声だったらしい。
どうやら小さな声でしか喋れないほど気の弱い少女らしい、とようやく悟ったデブオタは「こりゃ話を聞くだけでも手間がかかりそうだな」と首を振ったが、肩をすくめると少女を促して歩き出した。
「お腹に優しい店ならどこでもいいんだけどさ。いやあ、さっきはフィッシュアンドチップスに一服盛られてなぁ。あやうく毒殺されるところだったんだ、参ったぜ」
半ば独り言のように言いながら、デブオタは大きな足取りで悠然と歩いてゆく。
少女は、おどおどしながらそんな彼の前でちょこちょこと歩いた。
(何でこんなことになっちゃったんだろう)
歩きながら彼女は困惑するばかりだった。
少女の名は架橋エメル。
彼女は、クラスメートからは目の敵のようにいじめられ、学校にも行けなくなって、もうずっと公園で誰にも見つからないように過ごしていたのだった。
しかし、誰にも迷惑をかけないように独りで歌っているところもリアンゼルに見つけられ、また苛められて。
それからは彼女の気が済むまで苛められるしかないと、ずっと諦めていたのだった。
ところが今日、見ず知らずの男が目の前で大喧嘩を始め、リアンゼルを追い払って力になると言い出したのだ。
いじけているだけの自分の目の前に、まるで嵐のように現れて。
(何でこんなことに……)
しかし当惑するだけのこの十六歳の少女には、この時まだ知る由もなかった。
突然目の前に現れて勝手に喧嘩を始めた日本人のデブオタ。
彼によって、今までとはまるで違う日々が始まったことを……
** ** ** ** ** **
「まずは名前を教えてもらえるかな?」
「エメル……です」
「エメ……なんだって? 悪いけど聞こえない。頼むから声のボリュームを上げてくれ。ハイ、もう一度ッ」
「エメルです。架橋エメル……」
蚊の鳴くような声に首を振ったデブオタはいきなり後ろを向くと「レモンティーとレモネード! 毒薬抜きのフィッシュアンドチップス二人前ッ!」と怒鳴り、向かい側に座っていたエメルと手持ち無沙汰にしていた店員を飛び上がらせた。
「これくらいのボリュームで頼むよ」
「む、無理です……」
エメルがまた涙目になったので、デブオタは慌てて妥協した。
「わかったわかった、泣くんじゃねえってば。じゃあその半分でいいからもう一度」
「架橋エメルです……!」
それは、ささやき声をちょっと大きくした程度でしかなかったが、エメルには精一杯だった。
「しょうがねえなあ。じゃあそのボリュームでオレ様のクエスチョンに答えてもらうか。ドゥーユーアンダースタン?」
「はい……」
「年齢は?」
「一六歳です」
「お父さんが日本人なの?」
「いいえ、お母さんが」
「ふうん、じゃあその黒髪はお母さん譲りか」
デブオタが何気なく「艶があって綺麗だね」とつぶやくとエメルは嬉しそうに自分の黒髪を撫でたが、すぐ悲しそうに顔を伏せてしまった。
「エメルはイギリスで生まれも育ちもイギリスなのかい?」
「日本で生まれました。二年前にイギリスに引っ越してきて、しばらくしてお母さんが病気になって……」
「いま入院してるの?」
エメルは、また蚊の鳴くような声に戻って「去年亡くなりました」と俯いた。
泣きそうなのを懸命に堪えている。デブオタは慌てて謝った。
「すまん! 辛いことを聞いちまったな。知らなかったんだけどよ……ごめんな」
「気にしないで下さい」
「いや、親御さんが亡くなって悲しいのは当然だろ。ごめんなごめんな」
ペコペコと頭を下げるデブオタは、リアンゼルを罵倒していた時とは別人のようだった。
滑稽だが懸命なその様子からは、母親を亡くした悲しみを心から思いやってくれている誠実さが伝わってくる。傷ついていたエメルの心は、優しくくすぐられた。
ちょうどそんな時に、怒鳴られた件の店員が仏頂面でテーブルにフィッシュアンドチップスの盛られた皿とティーカップをドンと置いて去っていった。
「なんでえ、愛想のない店員だな。まあ、とりあえずお茶をどうぞ」
エメルが頷いてレモンティのカップに口をつけると、デブオタは皿のチップスをガツガツ頬張り、ストローからチュゴーと音を立ててレモネードを啜った。
「ところで、さっきエメルを虐めていた歌の女王気取りは一体何者なんだ?」
「リアンですか? 私のクラスメートです。リアンゼル・コールフィールド」
「ふうん、イギリスの学校も日本とあんまり変わんないな。イジメって奴は世界共通の文化なのかねえ」
デブオタは呆れたように首を傾げ「先生には相談したのかい?」と尋ねるとエメルは小さく首を横に振った。
「先生が言ってもクラスの皆がそんなの知らないって……それっきり」
「へっ、クラス中がゲスの太鼓持ちとご機嫌取りか。腐りきってんな」
「お母さんが、それで無理に学校に行かなくていいって止めてくれて。いっそ日本に帰ろうかって言ってくれたけど、ちょうどそのときに敗血病にかかっていたのが検査で分かって、お母さんそのまま入院して……」
「そうか」
もしかしたらこの少女はイギリスに来てからこのかた、辛いことばかり続いて今のような泣き虫になってしまったのかも知れない。
デブオタはしばらくの間、黙ってエメルを見つめた。
「そういやリアンゼル、だったっけ。アイツ、何とかってオーディションに落ちたって言ってたよな」
「『ブリテッシュ・アルティメット・シンガー』のことですか?」
「そうそう、それだ。それってどういうオーディションなんだ?」
「ご存じないですか。ロンドンで年に一回開催されるアマチュア歌手のオーディションです。日本でもそういうはあっていませんでした?」
「ああ、年一回どころかしょっちゅうやってるよ。テレビの歌番組は昔ほど人気はないけどね。アイドルなら声優アイドルからご当地アイドル、地下アイドルまでジャンルが多々あって選り取り見取り。多すぎてもう何がなんだか。今や生き残りを賭けた戦国時代だなぁ」
「へえ、そうなんだ……」
それは多少デブオタのホラも混じっていたが、エメルは眼を丸くした。
「でもイギリスでは『ブリテッシュ・アルティメット・シンガー』は特別です。アルティメットって名前がつくくらい凄く権威のあるオーディションなんです。事前選考が通ったら公開審査に出られるんですが、そこからテレビ番組で中継されるんです。視聴率が高いから出場しただけでちょっとした有名人になります」
「へえ、そりゃ凄えや。アイツはそこで落ちたのか」
「勝ち抜きのステージ形式で、優勝したらデビュー出来て、そのまま一流スターに仲間入り出来るんですけど……」
「あんな腐った奴がもう少しで一流スターになれるところだったっていうのか。日本じゃとてもあり得んな」
ブタのようにフゴッと鼻を鳴らしたデブオタだったが、自分の横で「出場出来たって凄いなあ……」と感心しているエメルに気が付き、ちょっと呆れてしまった。
「おい、自分をいじめた奴に感心してる場合かよ」
「す、すいません」
「じゃあアイツはプロの歌手を目指していたから……」
デブオタは「そうか」と、気が付いたように指でこめかみを叩いた。
「だからアイツはわざわざエメルの歌に八つ当たりしに来たのか」
「……」
デブオタは、困ったように下を向いたエメルに気が付いた。
リアンゼルの嘲りぶりを思い出して嫌悪に歪んでいた彼の顔が、ふっと優しく解ける。
「エメルは、歌は好きかい?」
「……」
恥ずかしかったのだろう。また耳に届かなかったが、俯いた彼女の小さな唇は「はい」と答えていた。
デブオタは特製ギョーザのような大きな耳を近づけて更に尋ねた。
「何で好きなの?」
「歌っている間は……嫌なことも忘れていられるから。それに……」
「それに?」
促されて答えるエメルの声は小さく震えていた。
「お母さんが一番嬉しそうにしてたの……私が歌っているとき。だから、入院している時もよく歌ってあげていたの。お父さんはお母さんに冷たくて一度もお見舞いに来てくれなかった。ずっと海外の仕事ばかり。だから私がお母さんが寂しくないようにって思って……」
「……」
俯いたエメルの頬から流れ落ちて手のひらで弾けたのは、紛れもなく涙の粒だった。デブオタは息を呑んで、何も言わなかった。
しばらくして顔を背けると、かすれたような声で「そうか」とだけつぶやいた。
遠い異国の地でいじめに遭い、友達はなく、ただ一人の寄る辺だった母親を病床で思いやっていた少女。
エメルに対する哀れみにデブオタは思わず心を突き動かされたのだった。
「お母さんは、エメルは歌が上手だから、きっと歌があなたを幸せにしてくれるって言ったけど。でも、今は歌うと時々お母さんのことを思い出して……今でもちょっと辛いです」
エメルは歌が上手だから。
言葉の端々から彼女の悲しい身の上を想像する力がデブオタにはあった。
病床にいた彼女の母親は、この少女をどんなに心配し、心を残してこの世を去ったのだろう。
彼はトイレの中で聴いたグリーンスリーブスを思い出した。どこか切なくて悲しい歌声。
「エメル」
「はい」
「お前さ、歌手になれよ」
「えっ」
驚いてエメルがデブオタを見ると、彼は大きな口を開けて欠伸している。
欠伸の涙をTシャツの袖で拭った彼の目許は赤くなっていた。
「あんな奴に虐められて泣いてばっかりじゃ天国のお母さんが悲しむぞ」
「そ、それは……」
「いっそプロのアイドル歌手にでもなってアイツを見返してやれ」
「ええっ!?」
プロの歌手になろうなんて、今までこれっぽっちも考えたことはなかったエメルは真っ青になった。まるで見えない手で往復ビンタでも喰らったように顔を左右に振る。
「そ、そんな……とても無理です」
「無理ってやってみなきゃわからないだろ? あんなゲス女がもう少しでなれるところだったって威張ってたくらいだぜ」
「リアンはあんなに美人だし、歌も上手だから」
エメルは下を向いた。
「それに比べたら私なんて……」
デブオタは思わず声を荒げた。
「あのなぁ、そうやって自分の可能性を自分で否定してどうするんだ。その若さで人生の消化試合に入るつもりか? 賭けてもいいけどアイツ、今日の仕返しに明日また来るぜ」
そう言っても、エメルは悲しそうに首を横に振るばかり。
それは自分には何の可能性もない、と諦めきった姿で、デブオタはため息をつくしかなかった。
(どうする。彼女が諦めているならこのままお節介も終わりにするか)
そう思ってみたが、デブオタはどうしてもそんな気になれなかった。
目の前の少女が、何だか他人のように思えなかったのである。
言われるがままの姿は、日本で搾取されるだけのアイドルファンとして罵倒されたあの日の自分と同じだった。
歌うな、黙って日陰で枯れてろと彼女が云われた嘲罵は、黙って金だけ貢いでいろと浴びせられた自分への罵倒と同じに思えた。
腕組みをして彼は考え込んだ。彼女が諦めているのにこれ以上余計なお節介を焼いて何になるというのか。
そもそもお節介を焼いて、彼女に何をしてやれるというのだろう。
そう思っても、心の中から何かが叫ぶように彼に問いかけてくるのだ。
――この娘はお前と同じだ。このままにしていいのか?
――このまま踏みつけにさせていいのか? それで後悔しないのか?
** ** ** ** ** **
「あ、こんなところにいた」
リアンゼルの冷たい声にエメルがビクッと竦んだのは、昨日見つかったトイレから離れた、大きなオークの木の影だった。
仕返しが怖かったが、エメルの憩える場所はこの公園しかなかった。冷たい父親しかいない家庭、虐められるだけの学校。どこにもエメルの居場所はなかった。
せめて見つからないようにと場所を変えたのだが、意地悪な眼で探し回るリアンゼルから所詮逃れられるはずがなかった。
「昨日言ったのが聞こえなかった? 不愉快だからさっさとここから消えて。イギリスから出て行って。ゴミ風情が」
黙ってうつむいたエメルに、昨日の分も併せてたっぷり痛めつけてやろうとリアンゼルが罵倒を始めたとき。
「よう、弱い者いじめしか出来ない歌手のなりそこない。昨日の惨めな敗戦の仕返しにやって来たか。思った通りだな」
キッとなったリアンゼルが金髪を風に靡かせて振り返ると、そこには顎を上げたデブオタが彼女以上の傲慢な態度で腕組みしていた。
「まだ国外追放されてなかったの? デブで日本人のゴミ風情が……」
「へっ、オーディションに落ちた負け犬にしては威勢がいいな。よく咆えやがる」
ニヤニヤしながら肩をすくめたデブオタへリアンゼルは肩を怒らせて向き合う。その背後でエメルはオロオロするしかなかった。
そして、公園の中を行き交う人々がまた三々五々と足を止めて遠巻きに見だした。
「……昨日私に言ったわね。オーディションにも落ちて当然って」
「そんなに悔しかったか? 不服の申し立てならオレ様ではなくオーディション会場にでもどうぞ」
邪悪な笑みを浮かべたデブオタは胸に手を当て、まるで執事のように丁寧なお辞儀をして見せた。
リアンゼルはもう言い返さなかった。この男が今日もここに現れ、エメルを庇って噛み付いてくることは予想していたのである。
そして、そのときどうやって思い知らせてやるか……彼女は既に心積もりをしていた。
彼女は黙って肩に担いでいたギターケースを降ろすと中からドレッドノートタイプのアコースティックギターを取り出した。
周囲の人々が見守る中で落ち着いた手つきで弦を掻き鳴らし、音程を耳で確かめ、ペグをいじってチューニングを終える。
怒らせた肩を下ろし、心を落ち着けるように背筋を伸ばして眼を閉じ、すぅ、と大きく息を吸った。
ギターが切ないメロディーを奏で始める。それはエメルもデブオタも聴いたことのある有名な曲だった。
ペインの「Form of the heart」
ニューヨークの孤独な殺し屋と突然家族を殺され孤児となった少女。その純愛と悲しい結末を描いた映画のラストシーンを飾った名曲である。
ギターの曲に合わせてリアンゼルは美しい声で歌い始めた。
「The man distributes a card. To find an answer. Along holy sequence named the fate...」
(男はカードを配る。答えを見つけるために。運命という名の神聖な配列に沿って……)
人生をトランプのゲームに例え、配られたカードで勝負する様子を偶然に翻弄される人の運命のように皮肉った歌。
しかし、名声や愛を賭けてゲームに挑む者の虚ろな気持ちを表現するものは皮肉ではない、先の見えぬ人の儚さなのだと、彼女の唇は静かに語る。
それまで意地悪な言葉、毒を孕んだ罵倒しか聞かされていなかったのに、そのリアンゼルが別人のように人の儚さ、偶然という運命の悲しみを歌っている。
まるで、いじめられて傷ついたエメルの心の悲しみさえも知っているように。
ギターを爪弾く手つきも巧みで、聴く人の心を掻き立てずにはいられなかった。
エメルは自分が恥ずかしくなって下を向いた。
(リアン、こんな上手に歌えるんだ)
(こんなに上手だから私に歌うな、なんて言えるんだ)
(それに比べたら、私の歌なんて……)
だけど、歌も歌えず、ここからも追い出されて、それから自分はどうしたらいいのだろう……
エメルはそっと手の甲で涙を拭った。
歌が終わり、続いて演奏が終わると、取り巻いていた人々から拍手が沸き起こった。
しかし、拍手してくれた人を無視してギターをケースの上に置いたリアンゼルは、斜めにデブオタを見つめた。
歌うのにふさわしい資格ということはこういうことだ、という無言の圧力。
戸惑ったように拍手は止み、人々はリアンゼルが睨みつける先に眼を向けた。
「これでも私がオーディションにも落ちて当然だなんて言えるの?」
あきれたような声でリアンゼルは問いかけた。
これで、当然だなんてもう言わせない。言外に彼女はそう言っていた。
だが。
リアンゼルの冷たく細めた眼の向こうで、デブオタは腕組みしたまま不敵な笑顔を少しも崩していなかった。
「ほう、その程度の歌でオーディションに落ちるはずがないなんて思っていやがったのか」
「な……!」
「人に聞かせる価値のない歌って、こういう歌なんだなぁ」
自分の歌唱力の前に怖じ気づくだろうと踏んでいたリアンゼルは、ヤレヤレと言うように両手を持ち上げて呆れたデブオタへ、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「どこが! どこが価値がない歌っていうのよ!」
デブオタは片目を細めると唇を歪めてフフンと笑った。
「そんなみみっちぃ歌で偉そうに何を言ってんだ、あ? 名曲だから歌っている奴まで一流のように聴いてる奴を騙せたつもりなんだろうが。その程度でプロになれるようじゃイギリスの歌謡界って日本より十年は遅れてるなあ」
「バカにするんじゃないわよ!」
「断る。オレ様はどこまでもお前をバカにしてやる。そしてお前をバカにするのには正当な理由がある」
足を踏み鳴らして叫んだリアンゼルに真顔で言い返すと、デブオタはエメルを指差した。
そして、彼女の歌に感心していた周囲の人々の耳に聞こえるようにはっきりした声で、だが静かに言い放った。
「違うって言うなら……昨日手前がエメルに言った言葉をここで言ってみろよ。ここにいる人たちに聞こえるようにもう一度言ってみろ」
「え?」
思いがけないことを言われ、リアンゼルは狼狽した。
「言えないならオレ様が言ってやろうか。『歌わないで。歌って云うのはふさわしい資格がある人に許された特権なの。私のような人しか歌っちゃ駄目なの。ヒバリやツグミは歌っていいけどガマガエルとか毛虫とかは歌っちゃ駄目なの。生きているだけで迷惑なの』昨日確かにエメルにそう言ったな。違ったか?」
「そ、それは……」
リアンゼルが返事に窮して何も言い返せないのを見て、さっきまで彼女を感心して見ていた人々は思わず鼻白んだ。
ツンとすましたリアンゼルを高慢そうぐらいには見ていたが、まさかそこまで酷い罵倒を浴びせているとは思っていなかったのである。
「それからこう罵っていたな。『今すぐ消えろ、ここから出てゆけ、死ね』」
「違……」
「さっきも同じことをエメルに言ってたな」
顔面を蒼白にしたリアンゼルに向かってデブオタは問い掛けた。
「そんな気持ちで手前は誰のために歌うっていうんだ? そんな歌を誰が喜んで聴いてくれるんだ? それともイギリスでは人をけなして踏みつける奴こそ歌手になる資格があるのか?」
「……」
「案外そんな腐った心根を見透かされたからオーディションに落とされたんだろうがな」
「あ、アンタにそんな偉そうなことを言う資格でもあるっていうの?」
真っ青な顔でリアンゼルは必死に言い返した。
もう、そういう反撥しか出来なかったのだ。周囲の人々から向けられる視線から既に好意や賞賛の色は消えていた。
それでも、プロの歌手を目指すリアンゼルには自分のプライドに懸けて自分の非を認めることは断じて出来なかった。
「おい、いい加減にしろ。資格の問題じゃねえだろ!」
どこまでも自分の非を認めようとしないリアンゼルの傲岸さに、冷ややかに見下していたデブオタもとうとう呆れて怒りだした。
「エメルは病気のお母さんを慰めるために歌っていたんだぞ、亡くなるまでな。それをガマガエルだ毛虫呼ばわりして歌うな、消えろだと? 手前こそ何様だ!」
「質問をすり替えないで! ふん、ゴミ風情が同じ日本人のゴミを庇って歌だなんだって偉そうに言わないでちょうだい」
足を踏み鳴らし、半ば逆ギレしたようにリアンゼルは叫んだ。
デブオタはそんな彼女に怒鳴り返そうとして、ふとリアンゼルの向こう側に気が付いた。
そこにはエメルがいた。彼女は胸の前で手を合わせ、涙を溜めた目に胸が張り裂けそうな悲しい表情を浮かべて立ち竦んでいる。
それを見たとき、昨日からどうしようかと悩んでいたデブオタの心は固まった。
――エメルは歌が上手だから
そう言ってくれた病床の母親を慰める優しい歌でさえ、光の当たらぬ者には許さない。
勢いに任せて、しかしリアンゼルはハッキリそう言ったのだ。
「資格があるのかと抜かしやがった。自分のことは棚に上げて」
デブオタはゆっくりと歩き出してすれ違いざまにリアンゼルへ唾を吐きかけると、エメルの傍へそのまま行き、背をかがめて話しかけた。
「なあ、エメル。やっぱりお前歌手になれ」
「えっ?」
エメルが見上げたデブオタの顔。
そこにはリアンゼルに向けた蔑みの冷笑ではなく、温かな笑みが浮かんでいた。
力強い自信に溢れた手がエメルの背中をやさしく叩く。
「お母さんが言ってたんだよな、歌がお前を幸せにしてくれるって」
「う、うん」
「よし、じゃあオレについて来い。約束する」
「約、束?」
「ああ、お前を必ずプロの歌手にしてやる。天国のお母さんが喜んでくれるような歌を歌わせてやる」
そう言うとデブオタはゆっくりとリアンゼルへ振り返った。大きく胸を張る。
「オレは日本の音楽プロデューサーだ」
「何ですって?」
眼を丸くしたリアンゼルに向かって、デブオタはまるで決闘を申し込むように指を突きつけた。
「手前がなれなかったプロの歌手に、オレ様がエメルをしてやる。それが俺達の勝利、そして手前の敗北だ。覚えとけ!」
それは、まさしくデブオタからの宣戦布告だった。
思いがけない言葉にリアンゼルは「は、バカじゃないの? 何言ってるのアンタ」を乾いた笑い声をたてた。
「何言ってるのかも聞こえない、こんな小娘が?」
「少なくとも人をいじめて薄汚い自尊心を満足させてる手前より見込みはあるな」
「見込みってどこによ! アンタの節穴みたいな眼でどっかに才能でも見えたの? そんな身なりでプロデューサーなんて笑わせるわね。どうせハッタリでしょ! 何も出来ないくせに! 何の力もないくせに!」
「ほざけ、オーディション落っこちてデビュー出来なかった負け犬風情が! 咆える以外に貴様に何が出来る?」
小馬鹿にしたはずの罵倒に対し、傷口に塩を塗るような痛烈な皮肉が返ってくる。
わなわなと震えたリアンゼルは咆えるように叫んだ。
これ以上の屈辱に耐えられなかったのだ。
「来年よ! こ、今年は運がなくて落ちてしまったけど、来年のブリティッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションには必ず優勝してスターになって見せるわ!」
「へえ、落ちたばかりなのにねえ」
キッとなって睨んだリアンゼルの瞳には涙が滲んでいる。さすがにデブオタもたじろいだ。
「誓うわ。エリザベス女王陛下の御名に懸けて!」
捨て身の決意に満ちた彼女の誓約に周囲の人々はどよめき、意味が分からずに訝しげな眼を向けたデブオタへエメルが小さな声で解説した。
「リアンゼルはこう言ったんです。“イギリスの名誉に懸けて自分はプロ歌手になる”と」
「そういうことか」
腑に落ちた顔をしたデブオタに背を向けるとリアンゼルはギターをケースにしまって歩き出した。
だがエメルは気が付いていた。
足早に去ってゆくリアンゼルの肩が小さく震えていたことに。
「リアン……」
小さく呼びかけた声は無論彼女の耳に届くことはなかった。仮に届いても彼女は足を止めることも、振り返ることもしなかっただろう。
――そんな歌を誰が喜んで聴いてくれるんだ?
――腐った心根を見透かされたからオーディションに落とされたんだろ
「そんなことあるもんですか。優勝してスターになるんだ。今度こそ……今度こそ……」
リアンゼルはデブオタとエメルに後姿しか見せないように背中を向け、凛とした姿勢で歩きながら泣いていた。
拭っても拭っても、煮え湯のような悔し涙が溢れてくる。
それまでエメルをいじめて浅ましい優越感を満足させていたリアンゼルは、デブオタの反撃に初めて自分の心の醜さを人前に晒され、痛めつけられたのである。
「絶対許さない! 必ずプロ歌手になってあのデブオタとエメルを叩き潰してやる」
彼女は泣きながら、何度も自分に誓った。
いじけて泣いてばかりのエメルに自分が負けるなどと露ほどにも思えなかったが、それでも断じて負けるわけにはゆかない。
スターを目指す彼女のプライドに賭けて。
「負けるもんか、絶対に負けるもんか!」
** ** ** ** ** **
「凄いことになっちゃった……」
日が暮れようとしていた。
すでに、集まった野次馬達も三々五々と散っていたが、閑散となった公園にエメルはいまだ立ち尽くし、ぼう然としていた。
昨日は売り言葉に買い言葉が飛び交う激しい罵倒の応酬だったが、今日はとうとう引き返せない戦いが始まってしまった。
当事者の一方なのに、エメルはずっとオロオロするばかりで何も出来ず、何も言えないままだった。
それなのに、自分を支えてくれた母親の言葉が切っ掛けで彼女はプロの歌手を目指すことになってしまったのである。
考えただけでも眼がくらみそうな、途方もない目標だった。
(どうしよう……どうしよう……)
押しつぶされそうな不安にただただ震えていると、彼女をスターにすると宣言した張本人が横で大きく伸びをした。
「それにしてもイギリス人っていうのは言うことが大袈裟だな。ああいえば自分がスターになれるとでも思ってんのかな? なあ、エメル」
「え? いや、そのどうなんでしょう……」
こともなげに話しかけるデブオタを見て、エメルは混乱した。
途方もないことを言ったのに、言った本人はそれが大した問題でもないようにノンキに欠伸なんかしているのである。
まるで、自分にはエメルをプロ歌手のスターにする算段がちゃんと出来ている、とでもいうように。
エメルには到底信じられなかった。
あれほどの美貌に恵まれ、あれほど歌の上手なリアンゼルでさえ落選してしまったというのに、何のとりえもないこんな自分がどうしてスターになれるだろう。
「何だ、心配なのか? あんな大袈裟に宣誓されたことが」
思わず下を向いたエメルを見たデブオタは問い掛けた。
「怖いかい?」
「……はい」
「じゃあ、エメルも誓うといい」
「え?」
エメルがデブオタを見ると、彼は彼女を見返して確かめるように話しかけた。
「お前を一番愛してくれた人がいたよな。……お前のお母さんだ」
エメルが黙ってうなずくと、デブオタは彼女のターコイズグリーンの瞳をまっすぐ見つめた。
「じゃあエメル、お前は天国のお母さんに誓え。歌手になって幸せになってみせるって」
「……」
「大丈夫だ、心配すんな。オレ様がついてる。お前を絶対プロの歌手にしてやる。天国のお母さんが喜んでくれるような歌を歌わせてやる」
――天国のお母さんが喜んでくれるような……
エメルの脳裏に、自分の歌を聴かせていた母親の姿が浮かんだ。
最後はかけている布団も平らになるほどすっかり痩せてしまって、話す元気もなくなって、それでも黙って自分の歌を聴いてくれた姿。
やつれた顔に、幸せそうな笑みを浮かべて……
しばらく間があった。
デブオタがじっと待っていると「……はい」と確かないらえがあって、すすり泣く声が聞こえてきた。
「……お母さん……お母さん」
「泣くなッ! 涙はスターになるその日の為にとっておけ!」
「……はい」
気丈に返事したエメルの頭をデブオタはそっと撫でた。
「大丈夫だ。オレ様に任せておけ! 大船に乗った気でいろ」
「……はい」
引いた手の先には必ず光が、幸せが待っていると……まるで自信の固まりのような力強い言葉。
エメルの頭に乗せたその手は、実はちょっとだけ震えていた。
しかし、涙をこらえていたエメルは気が付かなかった。
(これから何をしたらいいんだろう。どうなるんだろう。何も分からないけど。だけど……)
(ついていこう。この人に)
暮れてゆこうとしていた陽光が一瞬、雲の隙間から残照となってエメルを優しく包み込んだ。
その時、エメルの中で何かが芽吹いたような気がした。
小さな小さな、夢に向かって生きようとする心の芽が……
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