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47話「どうしようもない」

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「……緑さんの部屋に、沢山の雑誌があったんです」

 水の中に潜ったみたいに、カイの声が遠くで聞こえる。

「全部彼方さんの雑誌でした。雑誌だけじゃない。彼方さんが出てるドラマや配信も全部見てるって言ってました。

 緑さんは『復讐のために情報を集めてるんだ』って言ってましたけど、でも、そう言う緑さんの表情、嬉しそうだった。

 緑さんもたぶん、本当は素直に彼方さんのことを応援したかったんだと思います」

 応援してくれたなら、会いにきてくれれば良かったんだ。俺はどれだけ緑に殴られたって構わなかった。

「緑さん、こうも言ってました。『俺の真似しようとすんのは嫌だけど、その努力は本物だ。赤槻彼方が人気者だとしたら、それは彼方自身の努力によって得たものだ』って。僕も彼方さんの活動を隣でずっと見てきたから、彼方さんが頑張ってきたこと、知ってます」

 頑張っても、どれだけファンがいても、緑に認められなかったらダメなんだよ。緑がそばにいてくれなきゃ嫌なんだ。

「ねぇ、彼方さん。僕、思うんです。好きな人だからってその人の全てを肯定する必要はないんじゃないですか。嫌いなところがあっても、不満に思うことがあっても、だからってその人を嫌いになるわけじゃないと思うんです。僕も、そんな風に思えるようになったのはつい最近ですけど」

「……でも、緑は俺の全てだったんだ」

 緑、俺を見てよ。俺を怒ってよ。俺の名前を呼んでよ。俺をひとりにしないで。

「お母さんに心配はかけたくなかった。父さんなんて、いないようなものだった。緑だけが俺の気持ちを分かってくれた。心配してくれた。助けてくれた。俺には緑しかいなかったんだ」

「……たぶん、緑さんも同じことを思ってましたよ」

「え?」

「彼方さんがそう思ってたなら、緑さんも同じこと思ってたはずだよ。頼れる人なんていなかったから、緑さんには彼方しかいなかったから、彼方の前では精一杯『完璧』な自分を演じようとしてたんじゃない?」

 カイの言葉に、体に強い衝撃が走った。

 緑も同じことを思ってた、だって?

「緑さんは1人で何でも背負い込むような人だって、彼方も言ってただろ」

 確かに言った。緑は強くて優しくてカッコよくて責任感が強いから、何でも抱え込もうとしてしまう。完璧な緑だからこそできることなんだって俺は思ってたし、尊敬していた。

 でも、そうじゃないとしたら?

 緑も本当はお母さんみたいに、俺には気づかれないところで泣いたり、悲しんだりしてたとしたら?
 
「……俺は、緑を苦しめてたの?」

「それは僕には分からない……でも、苦しかったとしても、緑さんは彼方にそういう部分を見せたくなかったと思う。あの人、強がりだから」

「……緑はいつも俺を助けてくれた。じゃあ、緑が困ってた時、誰が緑を助けてたの?」

「友達、とか。身近な人にほど話せないことはあるかもしれない」

 友達。俺は緑から友達を奪った。

 あのことがあって以来、緑はずっと俺のそばにいるようになった。友達の話をしなくなった。不機嫌な顔をしながら、俺を無視しながら、でも俺の隣にいてくれた。

 俺は緑が一緒にいてくれることが嬉しくて、緑のことなんて考えてなかった。

 緑は俺を助けてくれた。俺にとって緑は世界の全てだった。

 じゃあ、緑にとっての俺は?

 俺はいったい何なんだ。

「俺、は……」

 拳が痛い。目の奥が熱い。喉の奥がひきつって、上手く息ができない。

「ねぇ、彼方。緑さんは彼方のお父さんでもお母さんでもないし、彼方さんでもないんだよ。憧れる気持ちも分かるし、憧れの人が自分の理想から外れていくのがつらい気持ちも分かる。

 でも、本当に緑さんのことが好きなら、もうあの人のことを許してあげてくれないかな。じゃないと、ずっと苦しいままだ。緑さんだけじゃない。彼方さんだって、つらくなるんだよ」

「……俺が?」

 どうして俺が、つらくなるんだ。俺はつらくなんてない。

「彼方さん。彼方さんが昔の緑さんを目指しているとしたら、今の彼方さんを助けてくれる人は、どこにいるの」

 ハッとした。それは、ついさっき俺が言ったことと全く同じだったからだ。

 完璧を、理想を追い求めてきた。不満や嫌なことは全て飲み込んで、なかったことにしてきた。俺の知る緑は、弱音を絶対に吐かない人だったから。

 でも俺はそんな自分に虚しさを抱えていた。どんなに周りに人が増えても孤独は拭い切れなかった。

 俺はずっと、ひとりぼっちだった。

「……そうか」

 真っ暗な闇。深海へと沈んでいくみたいに、いつしか自分がどこにいるのかも分からなくなるような孤独。誰の声も聞こえないし、届かない。ひたすら沈んでいく自分を引き上げてくれる人はいない。

 これが、緑が今まで見てきた景色なのか。

「……俺が欲しかったのは、友達だったんだな」

 カイが俺に手を伸ばした。ぎゅう、と強く抱きしめられる。

「彼方さん。僕を信じてください。辛いことは辛いって、嫌なことがあったら嫌だって言ってください。他の人には言えないことでも、僕には言ってください。解決なんてできないかもしれないけど、聞くことはできますから」

「……俺は酷い奴なんだよ。緑を束縛して、苦しめて、そんなことにさえ気が付かなかった酷い奴だ。なのにどうして、こんな俺と仲良くしてくれるの」

「言ったじゃないですか。確かに彼方さんは悪いところもあるかもしれないけど、でも僕はそれだけで彼方さんのことを嫌いにはなりません。僕は彼方さんの素敵なところも沢山知ってるんです」

 分からない。一緒に仕事をしてきたはずなのに、カイという人が分からない。

 きっと無意識のうちに、カイを傷つけたことだってあったはずだ。どうしてこいつは俺に、優しい言葉を吐けるんだろう。

 でも、こいつはそういう奴だ。出会った時からそうだった。
 

 *

 
 カメラに向けていた視線を逸らした瞬間、マネージャーの隣に立っていた人に目が奪われた。その人は背が高く顔も整っていたけれど、俺をじっと見つめる瞳は、どこか自信がなさげに揺れていた。まるで、迷子になった子供が泣くのをこらえているみたいに。

 ひとりでいる時より、誰かと一緒にいる時の方がより強い孤独を感じる。少なくとも俺はそうだ。あの人も、同じなのだろうか。

「良いね、その角度。次はちょっと笑ってみようか」

 たくさん並べられた机。同じ制服を着た子供達。ひそひそと話す声。クラスメイトがこっちを見て、嫌な笑いを浮かべる。先生は知らないふりをする。

 今の俺ならば、あの頃の俺を助けてあげられるだろうか。別にいじめっ子を殴り飛ばさなくても、先生を罵倒しなくても良いんだ。

 ただ、見つけてほしかった。俺がそこにいることを。俺の存在を。俺を認めてほしかった。

 だから、笑いかけた。斑目灰人。その時はまだ名前を知らない、その人に。

 きっと、恋に落ちたのはその瞬間だ。


 *


 緑さんのことが心配だから、追いかける。そう言ってカイは俺と別れた。俺は1人でマンションに戻り、部屋のチャイムを押した。

「どうしたのよ、急に飛び出して、びっくりするでしょ」

「ごめん。ちょっと急用を思い出して」

「もー。ご飯、自分であっためなよ」

「うん」

 冷蔵庫に俺の分のご飯が入っていた。電子レンジに入れてあっためる。リビングでテレビを見ていたお母さんが、突然1人で話し出した。と思ったら、どうやら電話に出ていたみたいだ。俺がテーブルに温め直したご飯を置いた時、電話を切ったお母さんが嬉しそうに振り返った。

「お父さん、これから帰ってくるって!」

「早いね」

「仕事が思ったより早く終わったみたい。ねぇ、せっかくだから一緒に食べたら?」

「もう温めちゃったよ」

「ちょっとくらい冷めたって問題ないよ。私の料理は完璧なんだから」

「うぬぼれてんね」

「うるさい。文句があるなら自分で作りなさい」

 カイと別れる直前、気になっていたことを尋ねた。カイと緑ってどんな関係なの? カイはまっすぐに俺を見つめて言った。僕と緑さんは付き合ってるんだ、って。

 まだ言いたいことはたくさんあった。いつ知り合ったの? どうして付き合うことになったの? 何で俺に黙ってたの? 緑が「リコリス」だってことをカイも知ってたの?

 色々あったけど、聞くのはやめた。そういえばカイは一度俺に打ち明けようとしてくれていたんだ。拒絶したのは俺なのだから、怒る資格はない。

 胸に穴が空いたような虚しさがあった。

 ああ、そうか。

 俺は納得した。

 俺は、ずっとのことが好きだったんだ。

 大切だったから、秘密にしておきたかった。何も知らないフリをした。好きという感情に鍵をかけ、心の奥に閉じ込めた。

 鍵を開けてくれる人はもういない。俺自身が、鍵を開けるチャンスを逃してしまったんだ。

 もしかしたら、これが緑にとっての本当の「復讐」だったのかもしれない。

 緑は俺から大切な人を奪っていった。俺がかつて、緑から友達を奪ったように。

 これはきっと因果応報だ。でも、まだ足りない。

 俺はどうすればこの罪を償うことができるんだろう。

 どうすれば、緑から奪ったものを全て、返すことができるだろう。

 俺の頭には緑の声が延々と響き渡っていた。

「もう良い」と、全てを投げ出すように言った緑の声が、頭から離れない。

「ねぇ、お母さん」

「何?」

「今、幸せ?」

 困惑した表情でお母さんが振り返った。俺の顔を見た瞬間、困惑は驚きへと変わった。

「……俺ね、知ってたんだ」

 俺は、気がつけば泣いていた。

「お母さんが毎日料理作りながら泣いてたこと。知ってて、知らないふりをしてたんだよ」

 一口一口、ご飯を食べるたびに、涙のしょっぱさが口に滲んだ。

「……ごめんね、あの時は何もできなくて。お母さんを幸せにしてあげられなくてごめんね」

 お母さんが泣きそうな顔をした。

「ごめんね」お母さんは何度もそう言って、俺を抱き締める。

 きっと俺が泣き虫なのはお母さん譲りだ。

 でも緑は俺達の前では絶対に涙を見せなかった。
 
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