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35話「無力感」

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※R15描写注意 

 
 緑さんと「契約」を交わした当初、少なくとも半月に1回は会う約束をしていた。

 だけど彼方のことがあって以来、僕は緑さんとは会わないようにしている。

 緑さんのことを、緑さんと彼方の関係を誰かに知られるわけにはいかない。だから今はまだ会えない。今はと言っても、この状況がいつまで続くか分からないけれど。

 その代わりに緑さんとは電話でやり取りしていた。

『おかえり、灰人。今帰ったの?』

 僕が頷くと、緑さんは「お疲れ様」と優しい声で言う。声だけで緑さんがどんな表情をしているか分かる。僕が抱きしめるのを許している時みたいな、甘やかな表情をしているんだろう。

「ただいまです、緑さん……」

『どうしたの、随分疲れた声してるけど。仕事大変だった?』

「いえ……いや、それもあるのかもしれないですけど……緑さんに会えないのが寂しくて」

 緑さんには彼方のことは言っていない。緑さんと話す時はできるだけそのことを考えないようにしていた。でも、そろそろ限界かもしれない。

 疑心暗鬼と気休めの現実逃避が頭の中をぐるぐると巡っている。

 あの映像はやっぱり緑さんじゃないんじゃないか。イタズラだったんじゃないか。リコリスと呼ばれていたのも気のせいか、もしくは偶然なんじゃないか。でもあれは彼方さんでもなくて、きっと僕が見たのは幻だったんだ。何も起こってないし、誰も何も悪くない。

 違うだろ、と誰かが囁く。それは僕の声をしていた。

_____何が「誰も悪くない」だ。そんなわけないだろ。

 だって、そう思わないとやっていけないんだ。僕は誰かを疑うようなことはしたくない。

_____そうやって誰かを信じ続けて、何度裏切られるつもりだ。あの女の時みたいに、また記憶を消してやり過ごすつもり? それともまた、罪の意識に苛まれて、「加害者」気取りでもするつもりか。


 僕が人を信じようとすればするほど、その声は僕の頭で大きな声を発する。

 まるで「これこそが本当のお前なんだ」と突きつけられているみたいだ。

 どんなに否定しても、そいつは僕の中で膨らんでいくから、最近は否定するのも疲れてしまった。

 僕は、なんて嫌な奴なんだろう。

『_____灰人、大丈夫?』

 緑さんの声にハッと我に返る。

「すみません、ちょっと疲れてるみたいで、ボーっとしちゃって」

『あんま無理すんなよ』

「無理なんてしてませんよ」

『……本当に?』

 緑さんが少し声をひそめる。

『本当は悩みとか、仕事で何かあったんじゃないのか』

「そんなことは_____」

『でも最近お前、配信しなくなっただろ。それに赤槻もだ』

 流石は緑さんだ。鋭い。でも緑さんには何も話せない。

「……何にもありませんよ。僕も彼方も、今すごく仕事が忙しくて、配信をやる暇がないんです」

『本当にそれだけ?』

「そうですよ」

 緑さんが目の前にいなくて良かった。顔を見られていたら嘘なんてとっくに見破られていただろう。声だけなら、まだ大丈夫だ。僕はまだ嘘を吐いていられる。

『……灰人に会いたいなぁ』

 緑さんが言った。胸がきゅう、と締め付けられる。

「僕も会いたいです」

 緑さんに会いたい。会って、声を聞いて、僕よりも一回り小柄な体を抱きしめて……抱きたい。緑さんを愛したい。

 
 *
 

 頭の中がぐちゃぐちゃだった。

『カイと俺は友達なんですよ。気持ち悪いこと言わないでくださいよ』

 彼方の侮蔑するような顔。
 
『あんま無理すんなよ』

 緑さんの優しい声。

『彼方くんのそばにいてあげてください』

 マネージャーの頼みすらまともに叶えることができない無力な自分。

 様々な感情と情報が氾濫を起こす複雑な脳内と、単純な体。

 緑さんとの電話を終え、熱くなる体を鎮めるために、僕は自分を慰めた。

 僕は妄想の世界で、何度も緑さんを抱いた。緑さんが上擦った声で僕の名前を呼ぶ。僕の律動に合わせ、緑さんの体が柳の枝のようにたおやかにしなり、彼方よりも少し長い髪が跳ねる。

 浮かぶ汗が緑さんの肌の表面をつるりと撫で、重力に従って下に落ちていく。僕は緑さんの背中に顔を埋め、そっと唇を押し当てた。緑さんの息が荒くなる。灰人、俺、もう。その言葉を合図に腰の動きを早くする。

 僕と緑さんの間にある境目をなくすほどに、緑さんの体を強く抱きしめる。緑さんが切れ切れに声を上げ、体を震わせた。僕は緑さんの中に自身の欲望を吐き出し_____

 掌に絡み付く白濁をぼんやりと眺め、ため息を吐く。

 妄想であれば緑さんを抱けるのに、どうして現実では上手くいかないのだろう。

 最近ようやく、自慰行為に罪悪感を抱かなくなってきた。だけど駄目なんだ。緑さんを抱こうとすると、昔の嫌な記憶がフラッシュバックして苦しくなる。

『苦しいなら、無理にやる必要はないよ』

 緑さんはそんな僕を笑って許し、代わりに僕を抱いた。気持ち良かった。緑さんも気持ち良いと言ってくれた。

 だけど一時的な幸福の代償に、罪悪感は積み重なっていく。

 僕が無力であることを思い知らされるようで、苦しい。

 
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