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12話「悪夢」

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 家に着いた。鍵を開けて中に入ると、斑目も「お邪魔します」と丁寧に言葉を添えて、一緒に入ってくる。

「仕事あるんじゃないの」

「まだ時間には余裕がありますから平気です。それと、今の緑さん、ちょっと心配なんで」

 看病します。そう言って、斑目は腕まくりをする。

 夏だというのに長袖を着ているのは仕事のためだろう。

 暑くないんだろうか。暑いだろうな。

「緑さんは寝ててくださいね。俺お粥作りますから……って、冷蔵庫の中全然入ってないじゃないですか、買って来ないと。

 あ、ついでに買ってほしいものあったら言ってくださいね。それから_____」

「斑目ってさ、好きな奴いんの?」

 冷蔵庫を開いた体勢で、斑目が固まった。

「ど、どうしたんですか、急に」

「……お前って良い奴だなと思ってさ」

「良い」とは、相手にとって都合の「良い」人のことを指すのだと誰かが言っていた。

 斑目は本来の意味でも、そういう意味でも、まさしく「良い」奴だった。
 
「いるなら正直に言ってよ。そしたら俺もセックスするなんて言わないから」

「え……」

「金も払わなくて良い。売りだってしないよ。

 ちゃんと真面目に働く。お前と赤槻の傍にも近づかない。

 だから、正直に言えよ」

 斑目が、困ったように眉を下げた。

 蝉が激しく鳴きわめいて、俺達の間に広がる静寂の隙間を埋める。

「……いませんよ」

 やがて、斑目はポツリと呟いた。

「付き合っている人も、好きな人も、いません」

 斑目の声が、表情が、嘘を吐いていた。

「じゃあ、しようよ」

 俺はそれに気が付かないふりをした。

「いる」と答えて欲しかったのだろうか。微かに胸が痛んだ。

 斑目、お前は優しいけど、馬鹿だよ。

 どうしてそう、誤った選択肢ばかり選んじゃうのかな。
 





 斑目が俺に手を伸ばす。ひんやりとした指先が俺の髪を恐る恐ると撫で、頬にぎこちなく触れた。

 気持ち良さに目を閉じると、斑目は小さく喘ぐように息を吐いた。

「緑さん、僕_____」

「……喋るなよ。気が散る」

 今はただ、斑目から与えられる感触に浸っていたい。

 空っぽの器に液体を注ぐように。存在意義を与えるように。

 俺の体に、価値を刻み込んでほしい。

 すぐ近くで、斑目のか細い吐息が聞こえた。

 何かを堪えるように、その吐息は震えていた。

 俺はうっすらと目を開ける。緊張した面持ちの斑目の顔がすぐそばにあった。

 やがて覚悟を決めたのか、斑目はごくりと唾を飲み込んだ。頬を撫でる手に力が込められる。

 斑目の顔が、ゆっくりと近づいてくる_____

 だけど、待ち望んでいたものは与えられなかった。唇に何かが当たる感触はなく、俺の目の前に会ったはずの斑目の顔も見えなくなっていた。

 一瞬何が起こったのか分からなかった。全身を柔らかなシーツで包まれたような温かさが全身を襲う。

 俺は斑目に抱きしめられていた。早鐘を打つ心臓の鼓動が、触れ合った肌を通じて伝わってくる。

 時間の感覚を忘れ俺が呆然としているうちに、斑目は俺から離れた。斑目はぎこちなく笑みを浮かべる。

「昔、僕が悪い夢を見て泣いていたら母さんがいつもこうやってくれたんです。

 大丈夫だよ、何も怖くないよって、そう言ってずっと抱きしめてくれました」

……何だよそれ。意味分かんない。

「なんだか、緑さんを見ていると、昔のことをよく思い出すなあ」

「……子供扱いしないでよ」

「良いじゃないですか。僕だって、緑さんだって、まだ子供ですよ。

 泣いたって、好き勝手にワガママを言ったって、1人で何もできなくたって、まだ許されると思うんです」

 ね、と同意を求めるように斑目がウインクをして、また俺を抱きしめた。

 今度は心臓の鼓動も穏やかだったし、緊張している様子もなかった。

「言ったじゃないですか。困ってるならいつでも相談に乗るって。

 緑さんのことを、緑さんが思っていることを、僕にも教えてください。1人で何もかも抱え込もうとしないでください」

 斑目が俺の背中をあやすように叩く。

 馬鹿にするな、子供扱いするな、と言ってやりたいのに、俺の体は素直に反応していた。

 とろとろと、溶けた飴玉のような眠気が訪れる。

 俺を布団に寝かせた斑目が、にこりと笑って俺の頭を撫でた。

「おやすみなさい、緑さん。早く元気になってくださいね」

 その言葉を最後に、俺は意識を手放した。



 悪夢は見なかった。
 
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