最後の山羊

春野 サクラ

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 その後の二賀斗は、申請書類の作成やら現地調査やら、細々とした仕事が重なったことでしばらくの間は珠子のことに手を付けられずにいた。ただ、そんな日々の暮らしのことなどお構いなしに、いつの間にか近くの公園にある桜の木には桃色の花が咲き、いつの間にかその花びらも舞い、そしていつの間にか葉桜となっていった。
 とは言え、そんな忙しさの中にあっても二賀斗は、万寿のばあさんに教えてもらった珠子のかつての住所を基にいくつかの情報を集めることだけはしていた。
 三輪珠子。結果として残念なことだが、彼女はすでにこの世にはいなかった。ただ、珠子には一人娘がいることがわかった。……しかし、その娘も最近、亡くなっていた。
 そして、珠子の娘にも一人娘がいるということが判明した。珠子から見ると孫にあたる人物。
 孫娘は、生年月日から判断すると現在十八歳になっている。その子の名前は、葉奈。三輪葉奈みわはな。彼女の現在の住所も、役所の書類から確認することができた。……しかし、一つだけ引っかかることがあった。葉奈の戸籍と、その母親の戸籍の「父親」の欄が空欄になっている。これはつまり、珠子もその娘である葉奈の母親もどちらもシングルマザーだということを意味している。
 唯一の関係者である孫娘の葉奈。彼女の現状は、たった一人の親を亡くし、孤独の身だということ。そして父親のいない母子家庭で育ったということ。……手持ちの書類が、彼女の生きてきた様を客観的に物語っていた。
 「フゥ。今まで何十回とこんな書類に目を通してきたけど、……やっぱ慣れないよなぁ、こういう中身は。何とも寂しい気持ちでいっぱいになるよ」
 二賀斗は書類を見ながら、そうつぶやいた。

 季節柄、道を歩けば黄色い菜の花が目に留まるようになった。気が付くと、小さなテントウムシが窓枠に張り付いている。……あったかくなったとつくづく感じる今日この頃だが、二賀斗は明日夏から頼まれたこの件をどうすべきか、アパートのベランダに立って考えていた。
 〈珠子本人はもうこの世にはいないんだから、明日夏にはそれをそっくりそのまま言うしかないんだけど……〉
 二賀斗は人差し指で下唇を軽く掻き始める。
 「……でも、亡くなっちゃったって言ったところで、それで明日夏の目が覚めるかなぁ。……孫娘って、お婆さんのこと何か聞いてないかな」
 「チィチィ、ツィ、チィチィ」
 近くの木の枝には、オリーブ色をしたメジロが留まっている。
 「そう言えば尾村のばあさん、風が吹いて火が消えたって言ってたな。……温泉地。温泉の成分って、だいたい硫黄か炭酸だよな。……例えばあの旅館の風呂がその日、たまたま高濃度に炭酸とかを含んでいて、そこに火事が発生して、その火で熱せられたお湯の中の炭酸が気体になった。炭酸ガスは不燃ガスだから、そのまま旅館に充満して火事が鎮火した。高濃度の炭酸ガスを吸い込むと気を失うこともあるから、珠子はそれで気を失った。その場にいた人たちは一瞬って思っていただけで、実はゆっくりと火事は消えていった。……つまらん推理かな。本当は、珠子に話が聞けるのが一番良かったんだけど」
 二賀斗はベランダの手すりに腕を乗せて遠くの景色を眺める。
 「とりあえず孫娘の居場所はわかってるんだから、話を聞くだけ聞いてみるか。それでわからなければ俺の屁理屈を付けてこの件はこれで終わりにしよう」
 そう言うと、腕を高く上げて思い切り背伸びをした。

 さて、珠子の孫娘である葉奈の“十八歳”という年齢を考慮すれば、SNSなどで自分を発信しているのではないかと二賀斗は色々検索をかけてみたが、これといったものが見つからなかった。もちろん、若い世代の全員が全員そのようなことをやっているというわけでもないが。
 そんな中、一つだけ気になる情報を二賀斗は見つけた。
 “バドミントン県大会ダブルス優勝 K高三年 三輪葉奈……”
 去年の七月に開催された県大会の記事。それなりの大きさの、しかも写真付きで彼女の地元の新聞のネット記事を見つけた。
 「へー……。これは、かなりきれいな顔立ちだ」
 二重の大きな瞳に白い肌。鼻立ちがはっきりとしていて、やさしい顔立ち。そしてボブという髪型をしている。
 〈もしかしたら、この子が珠子の孫なんだろうか……〉



 二賀斗はそれから数週間後、孫娘が住んでいると思われる街に車で向かった。
 その場所は、高速を使っても三時間弱で行けるところだった。
 目的の街は、のどかな田舎町で駅のすぐそばに役所があり、そこから少し離れたところに図書館がある。レンガ造りのその図書館は、田舎町には不釣り合いなほど立派な施設だった。二賀斗は、その図書館で例の記事が載っている地元新聞を閲覧してみることにした。
 平日にも関わらず、それなりに利用者がいる。静黙の中、早速、当時の新聞を閲覧してみる。
 「ウーン……。新聞の写真でも肌が白いのがわかるって、よっぽど白いんだろうな。北欧あたりの血でも入ってんのかなぁ、この子」
 新聞を見て一通り感心すると、二賀斗はとりあえず彼女に会うために彼女の住まいに行ってみることにした。
 彼女が住んでいるところは、町の中心市街地からさほど離れていないところにある。二階建ての集合住宅、いわゆるアパートの二〇三号室。そこが彼女の住まいらしい。
 しばらくして二賀斗はそのアパートに到着すると、すぐそばの路肩に車を停めた。
 運転席のドアを開け、車から降りると、そこからアパートを一望する。築何十年といった感じのする古びたアパート。
 「二〇三だから二階か……」
 二賀斗は、アパートの外階段から二階に上がっていく。
 「二〇三号は……」
 外廊下を真っ直ぐに進んで行き、二〇三号室の表札を見つける。……が、その部屋の玄関ドアの郵便受けはガムテープで塞がれていた。
 「えっ……」
 思わず声が漏れ出た。二賀斗は頭を掻き、腕時計で時間を確認する。今の時刻は午後二時過ぎ。
 〈……学校はまだ、授業中だよな〉
 二賀斗はとりあえず両隣の部屋のチャイムを押してみたが、案の定、応答は無かった。
 今は六月も中旬。彼女はすでに高校を卒業していることだろう。その後、彼女は進学したのか、それとも就職したのか。地元にいるのか、いないのか。……何もわからない。調べた時点の住所はここのままだが……。二賀斗は逸る気持ちを紛らわせるように、その場で深く息を吐いた。

 意を決して二賀斗は、彼女が通っていた高校に向かった。
 その高校は彼女が住んでいたであろうアパートから車で三十分ほど離れた市街地のなかにある女子高校。学校の周辺には住宅が立ち並び、少し歩けばコンビニやスーパーがある。市街地の中だけに車の交通量も結構あり、また人通りもある。
 二賀斗は近くのスーパーに車を置くと、高校の正門から少し離れたところでその高校の様子を窺った。……二賀斗の考えた作戦はこうだ。彼女はこの春までこの高校のバドミントン部に在籍していた。だからバドミントンのラケットを持っている女子生徒に彼女の卒業後のことを聞いてみる。この作戦が成功するかどうかは、声をかける女の子次第。うまくいくか、はたまた通報されるか。
 〈……なるべくおとなしそうな女の子に、会わせてもらいたい〉
 二賀斗は手を合わせて切実に願った。

 正門前の一車線の道路には、車やバイクがひっきりなしに行き交う。
 下校時間はとうに過ぎている。すでに多くの高校生が徒歩や自転車で正門から出て行った。部活動が何時までやるのかは定かでないが、時刻はすでに五時を回っている。西に見える太陽も、もうしばらくすると姿を消す。かれこれ二時間近くこの場所で突っ立っているが、未だにお目当ての女の子達が見当たらないでいた。その上これだけ一か所に留まっていると、何となく周りの人の目も気になり始めた。……これ以上ここに居ると、近所から不審者扱いされそうな気配を二賀斗は感じた。
 「……しょうがないけど、今日はこれで退散するか」
 ここから少し北に向かうとすぐ中心市街地に入る。このまま帰るのも後味が悪いので自宅に帰る前にコーヒーでも飲んで一息つこう、と二賀斗は考えた。

 車に乗って中心市街地に入り、しばらく運転していると道路沿いにチェーン展開している喫茶店が見えてきた。
 「あそこにするか」
 二賀斗は車をその店の駐車場に停めると、車から降りて店の入り口に向かった。その喫茶店にはテラス席がいくつかあり、ちょうど制服姿の女子高生二人組がそのテラス席で飲み物片手に歓談している。二賀斗はその歓談している二人組を何気なく視界に入れた。
 「……あ、ラケット」
 その二人組の足元にはバドミントンのラケットケースが置かれている。
 二賀斗はとっさにしゃがみ込むと、靴の紐を結ぶ振りをした。
 〈い、いた! いたよ! どーする。えーっと、……どうしよ〉
 二賀斗は数秒考えた末、思い切って彼女たちの方に向かって歩き出した。
 「……えーっと、こんばんは」
 平静を装った表情で、二賀斗は二人組の女子高生に挨拶をした。
 「……はい?」
 二人の女の子が振り向いてみせる。
 「君ら……バドミントンやってんだね?」
 「え? ああ、……はい」
 女の子たちは、お互いを見合って不穏な顔をした。
 二人の子達の表情が、否が応にも二賀斗の心拍数を高めたが、それでも笑顔をつくって話を続ける。
 「あ、あのさっ。三輪葉奈さんって知ってる?」
 彼女たちは、再び互いを見合った。
 「あはははは――。またー?」
 二人は笑い転げながらそう言った。
 「ん? えーっと……」
 二賀斗は何度もまばたきしながら、戸惑った顔をした。
 「えーッ? 葉奈センパイのことスカウトに来たんですよねェ?」
 「へ? ……あー、はは。……ああ、バレバレかな?」
 二人組が何の話をしているのかよくわからなかったが、二賀斗は直感でその話に乗っかってみた。
 「だって、ねえー」
 二人の女子高生は、声をそろえて互いの顔を見合わせた。
 二賀斗は空いている席に腰を下ろして二人に話しかける。
 「葉奈さんってさ、どんな人なの?」
 「うーん。もう前々からこのあたりじゃ葉奈センパイは有名だったんだけど、去年のバドミントンの県大会で優勝して地元の新聞に載っちゃった後はもう、すごかったですよォ」
 長い髪を一つ結びにした子が、葉奈について力説した。
 「うん。学校の校門前とかさ、人がウロウロしてたしね。メジャーな事務所も二、三社聞き込みしてたもんね」
 もう一人のショートヘアーの子が共鳴したかのようにはしゃぎながら話す。
 「うん、そうそう。事務所の人にセンパイの事しつこく聞かれたって子、結構いたもんね」
 「オジサン、来るの遅すぎですよ」
 「はは……。なかなか目が届いてなくってね。……彼女、どっかの事務所に入っちゃったかな?」
 いつ話がかみ合わなくなるんだろうと、内心冷や冷やしながら二賀斗は女の子たちに尋ねた。
 「えーっと。……事務所、入らなかったんだよね」
 「そうそう。センパイ、芸能界とか全っ然興味なかったっぽい感じでしたから」
 ショートヘアーの子がストローを咥えながら答えた。
 「そっか。……もう、葉奈さん卒業しちゃったよね。今何してるんかな?」
 「えー、わっかんないですー。……でも進学じゃなかったよね」
 「うん。就職するって言ってたよね。センパイのウチって確か、お母さんしかいなかったんだよね。だから早く働いてお母さんのこと楽させるんだって、言ってたような気が……」
 一つ結びの子が、急に声のトーンを落として答えた。
 「新聞でしか見てないんだけどさぁ、彼女どんな感じなの?」
 「……どんな感じって、どんな感じ?」
 ショートヘアーの子が笑顔で返答に困った顔をした。
 「あー、ごめんごめん。その……顔立ちっていうか、性格っていうか」
 「んー。まあ、一言でいうと美人! でも全っ然顔を気にしてないってゆうか、顔にシャトル当たってキズになったって平気だし、普通に変顔やるし」
 ショートヘアーの子は、目を見開いて楽しそうにセンパイのことを語った。
 「あはははは! そうそう。で、面倒見はいいしね」
 「やさしいよねー」
 「うん、センパイ大好き!」
 二人は、二賀斗を置いてきぼりにして盛り上がっていた。
 「……そっか。……どうもありがとう」
 二賀斗は、二人に礼を言うと店には寄らず、そのまま駐車してあった車に向かう。腕時計に目をやると時刻は午後六時を過ぎている。西の空がオレンジ色に染まり、東の空は紫がかった色になっていた。幻想的な風景を背に、二賀斗は帰宅する前にもう一度だけ彼女が住んでいたアパートに立ち寄ってみようと思い車に乗り込むと、そちらに向かって車を走らせた。
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