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1 プロローグ
しおりを挟む―ならば、己の心肝が飽き満つるまで人間というものに仕えてみるがよい―
プロローグ
何処までも続く川堤を菜の花が黄色に染め上げ、その隙間にシロツメクサの白い花が雪のように咲き誇っている。一匹、また一匹とモンキチョウが蜜を求めて黄色い羽根をヒラヒラと宙に泳がせていく。
四月、陽春の候。晴れ渡る青い空のもと、着込んだ上着を脱いでしまいたくなるような暖かな陽気が差し込む。そしてその陽気に誘われたかのように南の方角から穏やかな風が街中に流れ込む。
街路を通り抜け、郊外に向かって延びる大通りを進み、小高い坂道を上りきったところに建てられた深い木々の中にある市営の斎場ではその日、喪服に身を包んだ多くの人々が或る人物の死を悼んでいた。
「チチチ、チチ。……チチッ」
黒装束の人々を見下ろすように佇む桜の木。萌黄色した葉桜に覆われたその桜の木の枝には、一羽のホオジロが羽を休めながら気持ちよさそうにさえずっていた。
「ほんとにねぇ……」
「早過ぎましたなぁ。……誠に、残念です」
しめやかに会話する人々をよそ目に、斎場の火葬炉は低い唸り声を立てながら淡々と故人を煙に変えていく。
建物の外。屋外のちょうど斎場の屋根と屋根の間から空が覗ける場所で、黒衣を羽織った葉奈が口元をハンカチで押さえながら絶え間なく涙を流していた。容子は葉奈の背中を優しくさすりながら参列者と挨拶を交わす。
「じゃんけんぽん! あっちむいて……ほい! はい、ゆあの負けー」
「えーっ。もーいっかーい!」
そう広くもない待合室のロビーでは、世間話をしている参列者達に紛れて黒いワンピース姿の結愛と白いワイシャツに黒のズボンを身に着けた収友が手持ち無沙汰をまぎらわすために二人で駆けずり回りながら遊び、その傍らの長椅子には五十五歳になった二賀斗陽生と五十歳になった如月明日夏が長椅子に並んで座っていた。
斎場の煙突からは、うっすらと白い水蒸気のような煙が立ち上る。新緑のせいなのか、青い空には微かな緑色が滲み込む。白い煙はゆっくりと、静かにその緑青色の空に溶けてゆく。
「疲れたでしょ。ニーさん」
明日夏は陽生に気遣いの言葉をかけた。
「……ん。いや、大丈夫だよ。あーこそ疲れたんじゃないのか?」
「全然。……これといってなんにもしてないから」
明日夏は視線を床に落としたまま左手で耳元の髪をかき上げた。
「……辛かったろうな、お義父さん」
隣に座る陽生も真似るように視線を床に落とした。
「……でしょうね」
「でも、お義父さん癌で亡くなったのにとっても安らかな顔だったなぁ。俺の知り合いも昔、癌で亡くなったんだけどさ、すごい顔だったよ。すごく……険しい死に顔だった」
陽生は眉間に皺を寄せながら語った。
「そうね。鎮痛剤を上手に使ってもらえてたからね。……ただ、日本にはそういった薬を上手に扱えるお医者さんが少ないってゆうからさ、その意味じゃお父さんは幸運だったみたいね」
明日夏はほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「本当に……好きだったなぁ、俺。お義父さんのこと」
陽生はロビーの床に視線を置いたまま、そうつぶやいた。
「あらそう。……じゃあ、相思相愛ね。……何かと気にかけてたみたいよ、お父さん。ニーさんのこと」
明日夏は口元を緩めながら陽生を横目で見つめた。
「やめてよ、結愛ちゃん」
「もう! もうっ!」
収友と結愛がケンカをし始めた。
陽生は立ち上がると二人のそばに歩み寄った。
「もう少しだけ時間がかかるから、ちょっとママのところに行ってみようか」
そう言って二人の手を握った。
「ちょっと、外に出てくるよ」
陽生は明日夏に声をかけて待合室を出た。
明日夏は長椅子の背にもたれ掛かると、無意識に足を組んだ。――待合室のガラスの引き戸。明日夏はその先にある火葬炉の側壁をぼんやりと眺める。
〈私って、親不孝者だったのかなぁ。結婚もしなかったし、孫の顔も見せられなかった。……まぁ、それができたからってそれだけが親孝行ってわけでもないんだろうけど……。でも、収友や結愛のことホントにかわいがってたなぁ、お父さん。……何か、いろんなこと思い出してきちゃった。フフッ〉
明日夏は側壁を見つめながら目を細めた。
「……お父さん。わがままに生きちゃって、ゴメンね」
父に贈る最後の言葉が明日夏の桜色した薄い唇から小さく、漏れ出た。
陽生は子どもたち二人の手をつないで下を向いて泣きじゃくる葉奈の元に歩み寄った。
「あぁ、陽生さん」
葉奈の背中をさすりながら容子は陽生の方を向いた。
「すいませんでした、お義母さん。後は自分が見ますから……」
「そう? じゃあ。……葉奈ちゃん。あんまり悲しむとお父さん心配で向こうに行けなくなっちゃうわよ。さぁ、涙をふいて」
容子は優しく葉奈の背中を二度ほど擦ると、陽生に軽くお辞儀をして待合室の方へと歩いて行った。
「……ママ、泣かないで」
収友が心配そうな顔で葉奈を見つめる。
「ママ―――」
結愛が葉奈の黒いスカートのすそを握り締めた。
「うええッ……。ううッ……」
陽生は、悲しみに耐え忍ぶ葉奈の背中にそっと左手を添えた。
「葉奈。……こっちにきてごらん」
陽生のその声に葉奈は顔を上げた。
葉奈の背中に手を添えながら、陽生はゆっくりと陽の当たる場所まで葉奈を導いた。ちょうどそこは斎場の煙突が見える場所。
透き通るような白い煙が、マリンブルーにも似た青い空に向かって伸びてゆく。
陽生は葉奈に静かな口調で話しかけた。
「葉奈、見てごらん。……泣いてないで、よく見て。お義父さんが上って行く姿を」
葉奈は頬を濡らしながら空を見上げる。
「俺も悲しいけどさ、お義父さんには笑顔でこう呼びかけるよ。”葉奈をここまで大切に育ててくださって本当にありがとうございました”って……」
陽生の瞳が微かに潤む。葉奈は陽生の言葉を耳に受けるとしゃがみこんで号泣した。
「パパぁ――……。 うあああぁ……」
陽生も一緒になってその場に腰を落とすと、後ろから優しく葉奈の肩を抱きしめた。震える葉奈の身体を包むように抱きしめながら陽生は空を仰いだ。
〈お義父さん。本当に……お世話になりました〉
収友と結愛も陽生につられて一緒に空を見上げる。
「パパ! 見て見てっ、ひこうきぐもだよ!」
西から東に向かって一直線に白い雲が青い空に線を引く。
「おおー。真っ直ぐに伸びてるなぁ。こりゃあ綱引きができるぞー」
「ゆあもやるー」
そう言うと、結愛は陽生の袖を力任せに引っ張った。
「ちょっ、ォわわわ―――ッ」
陽生たち親子の戯れを、萌黄色に包まれた桜の木に止まっているホオジロが首をくねらせながら不思議そうに見つめていた。
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