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救出
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フェリックスは自宅であるユストゥス侯爵邸の図書室で、読書に勤しんでいた。
片端から机の上に置かれているのは
神話、説話の類と、古代史。
そのなかには大学施設から新たに譲り受けたものもある。
召使いたちの間ではお坊ちゃんの新しい道楽が始まったと噂されていた。
だが当の本人はそんなことはどこ吹く風いった体で紅茶を優雅に啜りながら、ページをめくっていた。
(ランディリア創世記、創造神エヴァンジェリンの系譜……異世界からの救世の神子……やはりこれか)
あの少年に関して、フェリックスは確信めいたものを持っている。
まだ情報が少ないが、もし仮に少年が本物だった場合、今のままベドジフ神父の元へ置いておくのは危険だとおもった。
それはベドジフにとっても、フェリックス、いやイザークにとっても切り札になるはずの存在だからだ。
控えめな足音がして、執事がフェリックスを呼びに来た。
「フェリックス様、ご友人がお見えです。こちらにお通ししますか?」
イザークが訪ねてきたのだろう。フェリックスは積み重ねた本を一瞥する。
「いや、ここは散らかっている。いつもの応接室に通せ」
フェリックスが応接室に着いた時、イザークは気配に気づくことなく窓の外を眺めていた。
何やら物思いに耽る様子だ。
「よく来たな、イザーク」
フェリックスが声をかけてようやく振り返る。存在に気づかなかったことに、自分でも驚いている様子だった。
「それで、どうだった?見つかったか」
「ああ、やはり東塔近くの地下牢に捕らえられていた。可哀想に、魔法付きの鍵で閉じ込められていた。時々様子を見に行っているが、早めに出さないと命が危ないかもしれん」
イザークはどこか落ち着かなげである。フェリックスはこんな彼を見るのは初めてだった。
10代の思春期の頃でさえ、この男は自分を見失うということがなかった。
それが、あの少年と出会ってから変わり始めている気がする。
それが、何か重大な災いにならなければいいがと時折フェリックスを不安にさせる。
「……それで、お前のことだから救出方法は考えてあるんだろ?」
イザークは無言で頷く。
「皇太子殿下にご助力を賜る」
イザークはフェリックスに、一連の出来事を説明した。
いくらベドジフでも皇帝の命には逆らえまい。そして皇帝は体の弱い息子を目に入れても痛くないぐらい可愛がっている。
それを利用するつもりだった。
「王家に忠実なお前の案とは思えないぐらい不敬だ」
フェリックスは笑ったが、イザークはそれを否定しなかった。
「……ベドジフに怪しまれずにルカを助け出すためだ。クラウス殿下に合わせた後、ベドジフには返さない」
イザークの瞳に鋭い光が宿っている。
フェリックスは戦場に行ったことがないが、きっとファナハではこんな目をしていただろうと思った。
「その少年は、ルカというのか」
「ああ。タカス ルカと名乗っていた。ルカが名前でタカスが姓らしい。タカス、というのは鷹の栖という意味だそうだ」
まるで異国の言葉のようだというイザークに、フェリックスは当てはまる符号を見つけた。
「なるほど、確かに珍しい。その辺もこちらで引き続き調べてみよう」
「ああ。頼む。あれから何かわかったか?」
「うん、わかりつつあるというべきか。だが本人にあってみなことには、なんとも言えん」
ルカ本人を見定めなければというフェリックスに、イザークが真剣な表情で向き直る。
「フェリックス、頼みがある」
「なんだ、改まって」
「ルカを救い出したら、しばらく匿って欲しい。彼が安全に身の振り方を決めることができるまで」
「それは構わないが……」
フェリックスはお前が側につかなくていいのか、と言いかけてやめた。
ベドジフや皇帝のいる王宮で安全を確保するのは難しいと悟ったのだろう。
本当は手ずから世話をしてやりたいという気持ちがひしひしと伝わって来た。
「頼む」
「わかった。預かろう。救出の際の段取りも考えておく」
イザークは心から安堵した、という様子を見せた。
「恩にきる」
そう言うと、イザークは仕事に戻ると言って屋敷を立ち去っていった。
最後に彼がここへ遊びに来たのはいつだろう、とフェリックスは思う。
もうはっきり思い出すこともできない。
フェリックスはいつでもイザークに立ち寄って欲しいといっていたが、結局軍隊に入ってからは初めてのはずだ。
それが図らずもイザークが気にかける少年の為であったことに、フェリックスの胸の内はちり、と何かが焦がすようだ。
フェリックスは自嘲気味にため息をつく。
とうの昔に諦めたはずの想いが、彼に想い人が現れたと知って疼くとは。
最初、皇太子はイザークの案に難色を示した。
「そんな、嘘をつくなんていけないことです。ましてや仮病だなんて、お父様にご心配をおかけするようなことをしては」
ルカが地下牢にいると言う事実は、あまりにショッキングなため、クラウスには伏せていた。
イザークはなんとか説得しようと試みる。
「まるきり嘘というわけではございません。殿下はまだ乗馬の許可がおりないほどですし」
「そうでしょうか」
結局クラウスはルカに会いたいという欲求に負けて、イザークの案に同意した。
案は至極単純だ。
クラウスが体調の悪くなったふりをし、ルカを連れて来させる。
治療を終えたらその日は王宮に泊め、翌日薔薇を見に出かける。
今は冬薔薇がとても綺麗なのだが、クラウスはルカとの約束が心残りで病が落ち着いている今でも行けずにいたのだった。
「本日の晩餐は、皇帝陛下もこちらでお食事をなさいます。その時に私からも探りを入れて見ましょう」
晩餐の席でイザークは皇帝に、ついにルカのことを訪ねた。
「そういえば、クラウス殿下のご病気はどうして急に良くなられたのですか?私は知らなかったのですが、少し前まで大変な状態だったと」
「フェリックスだな、おしゃべりめ」
皇帝は眉をひそめた。
だがそこで、娘のマリアが助け舟を出してくれた。
「あらお父様。イザークを家族と思えとおっしゃったのはお父様ですわ。家族なら、お教えして差し上げてもよろしいでしょう?」
「ああそうだな、お前はどう思う」
皇帝は困ったように皇后に意見を求めた。
「駄目ですわ、皇帝陛下。ベドジフ神父が秘密にとおっしゃったではありませんか」
そこまで言ってから、皇后は自分の失敗を悟った。
「ベドジフ神父が関係を?」
イザークがとぼけて聞き返す。
それを知らない皇帝は、やはりイザークには話しておくべきだろうと口を開いた。
「クラウスを治したのはベドジフ神父の弟子の少年だ。不思議な治癒の力を使う。だがその希少さゆえに危険が伴う。彼を失えばクラウスが危うい。だからなるべく正体は隠すことにしたのだ。この事実は王宮の中でもごくごく私に近い貴族しかしらん」
イザークは、では養育も隠されるように行われて来たのだろうと思った。
哀れなことだ。
「……お父様、僕は彼と薔薇園に遊びに行くお約束をいたしました。彼はどこに行ったのでしょう」
クラウスの質問に、皇帝はそうだなぁと頭をかいた。
「ベドジフに預けておるからわからぬが、先日粗相をしたとかでベドジフが折檻を与えると言っておった」
折檻、という言葉にクラウスが震えた。
「恐ろしいことです。鞭で打たれたのですか?」
「さあなあ。少し前のことだから、今はどうなってるかわからん。お前の具合もよかったしな。気になるなら呼び寄せるように命じよう」
イザークは、やはりルカを牢に閉じ込めたのはベドジフの私刑だったかとため息をついた。
驚くべきことに、皇帝の意に反してルカはなかなかクラウスのところに現れなかった。
のらりくらりとするベドジフの態度に、クラウスは気を揉んでいたが、イザークには理由がわかった。
とてもではないがあの体では殿下の前に立たせることができないからだ。
そしてとうとう焦れたクラウスは、自ら作戦を実行してくれた。
「大丈夫かクラウス!」
クラウスのいる奥の宮からの火急の知らせに、皇帝は朝の謁見を取りやめてかけつけた。
「お父様……ルカを……あの方をお側に…」
クラウスが苦しい息の下からそう告げると、皇帝は声を張り上げてベドジフを呼んだ。
「はやく!早くあの少年を連れて参れ!」
そうしてようやく、ルカは牢にからだされたのである。
イザークは白いローブをまとったルカを見て心を痛めた。
痣だらけの肌には化粧が施され、ひび割れた唇には朱が塗られていた。
一見知らない者からみると怪我の様子はわからない。
だがイザークはその細い手が震えているのを見逃さなかった。
ベドジフに後ろから顎でしゃくられ、ルカはとぼとぼとクラウスの寝台に近づく。
本当にクラウスが病気ならば、ルカの命は危ない。
ベドジフはそんなことも顧みることはないのだろう。
寝台まであと一歩という時、ルカが膝をついた。
イザークは慌てて駆け寄り、その肩を抱いてやった。
事情を疑われてはならないという意識は、一瞬で霧散していた。
「大丈夫だ、ルカ。これは作戦だ。クラウス殿下はご無事だぞ」
耳元で囁いてやると、ルカははっとイザークを見た。
だが次の瞬間何事もなかったように、クラウスに向き直る。
ルカは演技に乗ることにしたのだ。
イザークはほっとした。ルカは、まだ諦めてはいなかった。
やがて儀式を終え、ルカは眠りについた。
それが自身の容態の悪化なのか、クラウスに対する力の代償なのかわからなかったが、ベドジフはそのままルカを引き取ろうとと手ぐすねをひいていた。
「お待ちください」
寝台から身を起こしたクラウスがはっきりとした口調で言う。
心持ち先ほどよりも顔色がいい。やはりルカは力を使ったのかもしれなかった。
「ルカは僕と薔薇園に行く約束です。また来なくなってしまったら困るので、今日はここで寝かせてください」
ベドジフは憎々しげに顔を歪めたが、さすがに皇太子に悪態を吐くような真似はしなかった。
「クラウス殿下、お気持ちは分かりますが、この者は下賤の身。殿下と寝所をともにするなど、とんでもございません」
皇帝も、そのベドジフの言葉に同意するらしかった。
「では私が今宵は引き取りましょう」
全員がイザークを振り返った。
ベドジフが青筋立てるのをみながら、イザークは事もなげにいった。
「私でしたら、普段は兵士たちと行動を共にする身。戦場では平民兵士達とも共に戦いました。子どもひとり預かるぐらいわけもない事です」
「なりません、なりませんぞ」
ベドジフが怒鳴るのを皇帝が制した。
「ベドジフ。お前に感謝しておる。だがクラウスの願いも叶えてやりたいのだ。ここにというわけにはいかんが、イザークのところならクラウスも安心だろう」
「はい、お父様」
イザークは勝ったとばかりにベドジフに笑みを向けた。
「これで決まりですね」
こんなじれったいやり方は軍人の自分らしくない。
だが背に腹は変えられぬととった作戦で見事にベドジフを出し抜くことができた。
イザークは眠っているルカを抱き上げる。
意識がないにもかかわらずルカは驚くほど軽かった。まるで羽でも生えているかのようだ。
そんな風にしてしまった責任の一端は自分にもあるとイザークは苦々しく思う。
だが部屋に連れ帰ることができるのは僥倖だった。
今日だけは、彼を手に入れた喜びに身を浸したい。
そう思いながら、イザークはクラウスの私室を後にした。
ベドジフの射殺すような視線を背中に浴びても、いつでもかかってこい、報復をしてやるぞ、とかえって高揚するほどであった。
片端から机の上に置かれているのは
神話、説話の類と、古代史。
そのなかには大学施設から新たに譲り受けたものもある。
召使いたちの間ではお坊ちゃんの新しい道楽が始まったと噂されていた。
だが当の本人はそんなことはどこ吹く風いった体で紅茶を優雅に啜りながら、ページをめくっていた。
(ランディリア創世記、創造神エヴァンジェリンの系譜……異世界からの救世の神子……やはりこれか)
あの少年に関して、フェリックスは確信めいたものを持っている。
まだ情報が少ないが、もし仮に少年が本物だった場合、今のままベドジフ神父の元へ置いておくのは危険だとおもった。
それはベドジフにとっても、フェリックス、いやイザークにとっても切り札になるはずの存在だからだ。
控えめな足音がして、執事がフェリックスを呼びに来た。
「フェリックス様、ご友人がお見えです。こちらにお通ししますか?」
イザークが訪ねてきたのだろう。フェリックスは積み重ねた本を一瞥する。
「いや、ここは散らかっている。いつもの応接室に通せ」
フェリックスが応接室に着いた時、イザークは気配に気づくことなく窓の外を眺めていた。
何やら物思いに耽る様子だ。
「よく来たな、イザーク」
フェリックスが声をかけてようやく振り返る。存在に気づかなかったことに、自分でも驚いている様子だった。
「それで、どうだった?見つかったか」
「ああ、やはり東塔近くの地下牢に捕らえられていた。可哀想に、魔法付きの鍵で閉じ込められていた。時々様子を見に行っているが、早めに出さないと命が危ないかもしれん」
イザークはどこか落ち着かなげである。フェリックスはこんな彼を見るのは初めてだった。
10代の思春期の頃でさえ、この男は自分を見失うということがなかった。
それが、あの少年と出会ってから変わり始めている気がする。
それが、何か重大な災いにならなければいいがと時折フェリックスを不安にさせる。
「……それで、お前のことだから救出方法は考えてあるんだろ?」
イザークは無言で頷く。
「皇太子殿下にご助力を賜る」
イザークはフェリックスに、一連の出来事を説明した。
いくらベドジフでも皇帝の命には逆らえまい。そして皇帝は体の弱い息子を目に入れても痛くないぐらい可愛がっている。
それを利用するつもりだった。
「王家に忠実なお前の案とは思えないぐらい不敬だ」
フェリックスは笑ったが、イザークはそれを否定しなかった。
「……ベドジフに怪しまれずにルカを助け出すためだ。クラウス殿下に合わせた後、ベドジフには返さない」
イザークの瞳に鋭い光が宿っている。
フェリックスは戦場に行ったことがないが、きっとファナハではこんな目をしていただろうと思った。
「その少年は、ルカというのか」
「ああ。タカス ルカと名乗っていた。ルカが名前でタカスが姓らしい。タカス、というのは鷹の栖という意味だそうだ」
まるで異国の言葉のようだというイザークに、フェリックスは当てはまる符号を見つけた。
「なるほど、確かに珍しい。その辺もこちらで引き続き調べてみよう」
「ああ。頼む。あれから何かわかったか?」
「うん、わかりつつあるというべきか。だが本人にあってみなことには、なんとも言えん」
ルカ本人を見定めなければというフェリックスに、イザークが真剣な表情で向き直る。
「フェリックス、頼みがある」
「なんだ、改まって」
「ルカを救い出したら、しばらく匿って欲しい。彼が安全に身の振り方を決めることができるまで」
「それは構わないが……」
フェリックスはお前が側につかなくていいのか、と言いかけてやめた。
ベドジフや皇帝のいる王宮で安全を確保するのは難しいと悟ったのだろう。
本当は手ずから世話をしてやりたいという気持ちがひしひしと伝わって来た。
「頼む」
「わかった。預かろう。救出の際の段取りも考えておく」
イザークは心から安堵した、という様子を見せた。
「恩にきる」
そう言うと、イザークは仕事に戻ると言って屋敷を立ち去っていった。
最後に彼がここへ遊びに来たのはいつだろう、とフェリックスは思う。
もうはっきり思い出すこともできない。
フェリックスはいつでもイザークに立ち寄って欲しいといっていたが、結局軍隊に入ってからは初めてのはずだ。
それが図らずもイザークが気にかける少年の為であったことに、フェリックスの胸の内はちり、と何かが焦がすようだ。
フェリックスは自嘲気味にため息をつく。
とうの昔に諦めたはずの想いが、彼に想い人が現れたと知って疼くとは。
最初、皇太子はイザークの案に難色を示した。
「そんな、嘘をつくなんていけないことです。ましてや仮病だなんて、お父様にご心配をおかけするようなことをしては」
ルカが地下牢にいると言う事実は、あまりにショッキングなため、クラウスには伏せていた。
イザークはなんとか説得しようと試みる。
「まるきり嘘というわけではございません。殿下はまだ乗馬の許可がおりないほどですし」
「そうでしょうか」
結局クラウスはルカに会いたいという欲求に負けて、イザークの案に同意した。
案は至極単純だ。
クラウスが体調の悪くなったふりをし、ルカを連れて来させる。
治療を終えたらその日は王宮に泊め、翌日薔薇を見に出かける。
今は冬薔薇がとても綺麗なのだが、クラウスはルカとの約束が心残りで病が落ち着いている今でも行けずにいたのだった。
「本日の晩餐は、皇帝陛下もこちらでお食事をなさいます。その時に私からも探りを入れて見ましょう」
晩餐の席でイザークは皇帝に、ついにルカのことを訪ねた。
「そういえば、クラウス殿下のご病気はどうして急に良くなられたのですか?私は知らなかったのですが、少し前まで大変な状態だったと」
「フェリックスだな、おしゃべりめ」
皇帝は眉をひそめた。
だがそこで、娘のマリアが助け舟を出してくれた。
「あらお父様。イザークを家族と思えとおっしゃったのはお父様ですわ。家族なら、お教えして差し上げてもよろしいでしょう?」
「ああそうだな、お前はどう思う」
皇帝は困ったように皇后に意見を求めた。
「駄目ですわ、皇帝陛下。ベドジフ神父が秘密にとおっしゃったではありませんか」
そこまで言ってから、皇后は自分の失敗を悟った。
「ベドジフ神父が関係を?」
イザークがとぼけて聞き返す。
それを知らない皇帝は、やはりイザークには話しておくべきだろうと口を開いた。
「クラウスを治したのはベドジフ神父の弟子の少年だ。不思議な治癒の力を使う。だがその希少さゆえに危険が伴う。彼を失えばクラウスが危うい。だからなるべく正体は隠すことにしたのだ。この事実は王宮の中でもごくごく私に近い貴族しかしらん」
イザークは、では養育も隠されるように行われて来たのだろうと思った。
哀れなことだ。
「……お父様、僕は彼と薔薇園に遊びに行くお約束をいたしました。彼はどこに行ったのでしょう」
クラウスの質問に、皇帝はそうだなぁと頭をかいた。
「ベドジフに預けておるからわからぬが、先日粗相をしたとかでベドジフが折檻を与えると言っておった」
折檻、という言葉にクラウスが震えた。
「恐ろしいことです。鞭で打たれたのですか?」
「さあなあ。少し前のことだから、今はどうなってるかわからん。お前の具合もよかったしな。気になるなら呼び寄せるように命じよう」
イザークは、やはりルカを牢に閉じ込めたのはベドジフの私刑だったかとため息をついた。
驚くべきことに、皇帝の意に反してルカはなかなかクラウスのところに現れなかった。
のらりくらりとするベドジフの態度に、クラウスは気を揉んでいたが、イザークには理由がわかった。
とてもではないがあの体では殿下の前に立たせることができないからだ。
そしてとうとう焦れたクラウスは、自ら作戦を実行してくれた。
「大丈夫かクラウス!」
クラウスのいる奥の宮からの火急の知らせに、皇帝は朝の謁見を取りやめてかけつけた。
「お父様……ルカを……あの方をお側に…」
クラウスが苦しい息の下からそう告げると、皇帝は声を張り上げてベドジフを呼んだ。
「はやく!早くあの少年を連れて参れ!」
そうしてようやく、ルカは牢にからだされたのである。
イザークは白いローブをまとったルカを見て心を痛めた。
痣だらけの肌には化粧が施され、ひび割れた唇には朱が塗られていた。
一見知らない者からみると怪我の様子はわからない。
だがイザークはその細い手が震えているのを見逃さなかった。
ベドジフに後ろから顎でしゃくられ、ルカはとぼとぼとクラウスの寝台に近づく。
本当にクラウスが病気ならば、ルカの命は危ない。
ベドジフはそんなことも顧みることはないのだろう。
寝台まであと一歩という時、ルカが膝をついた。
イザークは慌てて駆け寄り、その肩を抱いてやった。
事情を疑われてはならないという意識は、一瞬で霧散していた。
「大丈夫だ、ルカ。これは作戦だ。クラウス殿下はご無事だぞ」
耳元で囁いてやると、ルカははっとイザークを見た。
だが次の瞬間何事もなかったように、クラウスに向き直る。
ルカは演技に乗ることにしたのだ。
イザークはほっとした。ルカは、まだ諦めてはいなかった。
やがて儀式を終え、ルカは眠りについた。
それが自身の容態の悪化なのか、クラウスに対する力の代償なのかわからなかったが、ベドジフはそのままルカを引き取ろうとと手ぐすねをひいていた。
「お待ちください」
寝台から身を起こしたクラウスがはっきりとした口調で言う。
心持ち先ほどよりも顔色がいい。やはりルカは力を使ったのかもしれなかった。
「ルカは僕と薔薇園に行く約束です。また来なくなってしまったら困るので、今日はここで寝かせてください」
ベドジフは憎々しげに顔を歪めたが、さすがに皇太子に悪態を吐くような真似はしなかった。
「クラウス殿下、お気持ちは分かりますが、この者は下賤の身。殿下と寝所をともにするなど、とんでもございません」
皇帝も、そのベドジフの言葉に同意するらしかった。
「では私が今宵は引き取りましょう」
全員がイザークを振り返った。
ベドジフが青筋立てるのをみながら、イザークは事もなげにいった。
「私でしたら、普段は兵士たちと行動を共にする身。戦場では平民兵士達とも共に戦いました。子どもひとり預かるぐらいわけもない事です」
「なりません、なりませんぞ」
ベドジフが怒鳴るのを皇帝が制した。
「ベドジフ。お前に感謝しておる。だがクラウスの願いも叶えてやりたいのだ。ここにというわけにはいかんが、イザークのところならクラウスも安心だろう」
「はい、お父様」
イザークは勝ったとばかりにベドジフに笑みを向けた。
「これで決まりですね」
こんなじれったいやり方は軍人の自分らしくない。
だが背に腹は変えられぬととった作戦で見事にベドジフを出し抜くことができた。
イザークは眠っているルカを抱き上げる。
意識がないにもかかわらずルカは驚くほど軽かった。まるで羽でも生えているかのようだ。
そんな風にしてしまった責任の一端は自分にもあるとイザークは苦々しく思う。
だが部屋に連れ帰ることができるのは僥倖だった。
今日だけは、彼を手に入れた喜びに身を浸したい。
そう思いながら、イザークはクラウスの私室を後にした。
ベドジフの射殺すような視線を背中に浴びても、いつでもかかってこい、報復をしてやるぞ、とかえって高揚するほどであった。
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