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出会い
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自分を解放しろという瑠夏の希望は、もちろん一蹴された。
瑠夏はそこで次の手段にでた。クラウスの治療の際、皇帝に願い出たのだ。
「ではお前はどんな高価なものも欲しくないというのか」
「はい」
「ふむ。あのベドジフの弟子とは思えん無欲さだな」
興が削がれたという表情の皇帝に、瑠夏はその代わりに、と申し出た。
「一日、城の外に出ることをお許しください」
「なんと、お前は街を見たことがないというのか」
「はい。記憶を失って倒れておりましたところをベドジフ様に拾われて以来、城の外にはでておりません。ベドジフ様は大変心配性でいらっしゃいまして、街は危険だとおっしゃるのです」
「あのベドジフがか。珍しいこともあるものだ。だが、お前のその貴重力を持ってすると、掌中の珠のように思うのもわからなくはない」
そうは言いながらも、皇帝は瑠夏に、束の間の自由を与えようと約束してくれた。
数日して皇太子の容態がさらに安定した頃、ベドジフは皇帝の命を受け瑠夏を部屋から連れ出した。
「全くうまくやりおって。顔に似合わず抜け目のないやつだ」
ベドジフは苦々しい顔で吐き捨てた。
クラウス皇太子の私室に向かう時とは違い、暗く長い螺旋階段を下へ下へ降っていく。
へとへとになりながら地上に出た瑠夏は、首が痛くなるほど上を向いた。
城の端にそびえ立つ塔は、堂々とした円柱形だ。最上部だけ円状となっており、まるで窓のない展望室のようである。
おそらく瑠夏が囚われていたのはそこだろう。
まだ息を荒くしている瑠夏を、ベドジフは蹴り出すように護衛兵に預けた。
「必ず祈りの時間までには戻るように。それから、命が惜しければ護衛と離れぬことだ」
瑠夏はてっきり誓えと要求されるかと思ったが、予想は外れた。
よほど腹立たしいのだろう。ベドジフは早々に立ち去っていった。
ここへきて初めて野外の空気だ。瑠夏は思いっきり深呼吸をして、護衛の後についていった。
外門に近づくにつれて、城の全貌が明らかになる。
ランディリア帝国ノイエヴァイス城。世界に名高き、白亜の城であった。
あまりの壮観さに、ほうっとため息をつく瑠夏を怪訝そうに見る。
「何をやっている。早く行くぞ」
瑠夏は慌てて護衛を追いかけた。瑠夏はベドジフの弟子だというのが表向きだ。外に出たことがないというのは、ベドジフと皇帝しか知らない。誰にも正体を不審がられる行動をとってはいけないというのが、ベドジフの言いつけだった。
手配された馬車に乗って、首都のリンゲンスブルクまではおよそ1時間。
近づくにつれて、遠目にも鮮やかな街並みが見えてくると瑠夏の胸は否応なく高鳴った。
リンゲンスブルクはとにかく人が多かった。特にこれと言って目的地がない瑠夏は、街につくと適当なところで馬車を降りることにした。
あちらこちらに目をやりながら石畳の上を歩く。
街角で火を吹く大道芸人には鈴なりに人が集り、道端の焼き栗売りには行列ができている。
宝石店や衣装店のショーウィンドウは目に美しく、コーヒーや酒を出すカフェからは馥郁とした香りが漂っていた。
しかし表の活気ある様相に反して、1本路地を除けば、道端には汚物がたまり、生きているかどうかも定かではない傷痍の物乞いが蹲っている。
「おい、あんまりそっちを見るな」
護衛に窘められる。
「首都に来たばかりのお前はしらんだろうが、ここ数年は政情が不安定だ。つまらん犯罪はもちろん、テロや暴動も多発している。あまり詰まらぬ因縁を買うような真似はよしておけ」
瑠夏は路地を覗くのをやめ、その代わり世界中の物が集まると言われる南の市にいくことにした。
小さな工芸品や、異民族の伝統衣装、香辛料、食器から果ては家畜まで、市場は様々なテントが無秩序にひしめき合っていた。
瑠夏は手近な果物屋で林檎を買って、かじりつきながら店を冷やかすことにした。
どの店先にも目を惹く商品があって、瑠夏は目移りしながら市場を回った。
だが金はいくらか貰っているが、買って帰ったところでベドジフの気に障れば取り上げられる。 それにどうせ小物などは使う宛もない。
これは所詮飼い犬の散歩のようなものだと思い至り、時間が経つにつれて、高揚していた気分は沈んでいった。
そんな時、瑠夏はふと、子供の泣き声が聞こえたような気がして辺りを見回した。
市の店は、ちょうどそのあたりで途切れている。
目の前には古びた建物。
物陰に迷子でもいるのかな、と首を巡らせるのとボロを纏った10歳ぐらいの少年が建物からまろび出てくるのが同時だった。
少年は瑠夏と目が合うと抱きつくような勢いで接近してきた。
「助けてください!」
瑠夏は少年に気圧され、とっさに背後に庇う。
建物からは風体の悪い男たちが少年のあとを追うようにでてくる。
「おい、どっちへ行った!探せ!」
少年は瑠夏つかまったまま震えている。
(とりあえず逃げないと!護衛は……あれ?)
瑠夏はいつの間にか護衛と逸れていることに気がついた。
間の悪いことに、やばいと思った瞬間男の1人が振り返った。
「いたぞ!」
市場のテントの間に紛れても、人混みに押されて逃げ切れない。瑠夏は男の声を合図にしたように、少年の手を引いて近くの路地に飛び込んだ。
だが、男たちを撒こうにも瑠夏に土地勘はない。
あっさりと見つかって追いつかれてしまった。
「めんどくせぇことしてくれるじゃねぇか」
リーダー格の男が瑠夏から少年を引き剥がし、地面に叩きつけた。
「その子に何をする気だ!」
瑠夏の声に男は振り返るが、問いに対する答えはなかった。
「お前もあとでおぼえてろよ!」
そう言って倒れた少年の腹を蹴りつけた。少年は激しい痛みに声も出せずに苦悶するばかりだ。
「二度とこんなまねができねぇようにしてやる。そのほうがおまえのご主人様もお喜びになるだろうさ」
男は残虐な笑みを浮かべて、腰に差していた短剣を引き抜いた。
「やめろ!」
瑠夏は男を止めようとするが、逆他の奴らに羽交い締めにされてしまう。
腕の太さすら何倍もある男たちに拘束されて、瑠夏はなすすべがなかった。
男が少年の足首に刃を振り下ろす。
その光景はスローモーションのように瑠夏の眼裏に灼きついた。
「んーっっ」
少年の叫び声も、男の分厚い手でくちを塞がれて外に漏れることはない。
次は自分の番だ。瑠夏は、悪党共の邪魔をした自分はきっと殺されるだろうと覚悟した。
ベドジフは怒り狂うだろうか。治療途中だったクラウスには可哀想だが、ベドジフを困らせることができると思うと少しだけ胸がすいた。
(そうだ、僕がここで死んでもベドジフも王宮から追い出されてしまえばいい)
脚の腱を切られもう立ち上がることもできない少年を放り出し、男が近寄って来る。
男の仲間に捕らわれて身動きできないのをいいことに、無遠慮に手を伸ばして来る。
咄嗟に引いた顎を荒々しく捕まれ男に見据えられる。
「上等な身なりに力仕事を知らない肌。一体お前はどこのぼっちゃんだ」
「……僕を誘拐したって、身代金なんかでないぞ」
「そうか。ならお前もあの小僧と同じように変態趣味の下衆に売りつけることにしよう。いい値段になるしリスクもねぇ」
「なっ……!」
「まあ死ぬよりましだろう。悪いようにはしない」
悪いようにはしないと言われて言葉通りに受け取るのは馬鹿だと、瑠夏は身を以て知っている。
男は血でべとついた短剣を瑠夏のローブに押し当てる。
ぴり、と布が避ける音をきいた瑠夏は切っ先が肌を傷つけるのも構わず、滅茶苦茶に暴れた。
「この!大人しくしやがれ」
カッとなった男が短剣を握り直す。
切っ先が陽の光に煌めいた。
ーー今度こそ殺される。
そう思った次の瞬間
「ぎゃぁぁー!!」
体を裂かれる痛みのかわりに聞こえたのは野太い悲鳴だった。
瑠夏が恐る恐る目を開くと、そこにはもんどりうって倒れた悪党の姿がある。
そして、
ザシュッ、ザシュッ……
耳元で空を切る音がして、瑠夏の体を拘束していた腕が解かれる。
振り向いた瑠夏の目に入ってきたのは、肩を切り裂かれて痛みに呻いている男2人。
助かったと安堵すると同時に、驚きに目を見張る。
ひとり、そこに立っていたのは恐ろしく見目のいい、燃えるような赤毛の青年だった。
青年は手のひらに、小さな竜巻をのせていた。
「大丈夫か?!」
青年は瑠夏に駆け寄り、背中に庇ってくれた。
そして転がっているリーダーたちを尻目にじりじりと後ずさる仲間たちに、朗々とした声で告げた。
「私は近衛第一連隊長、イザーク・グスタフ・フォン・ヒルデブラントである!この者たちのように風魔法の餌食になりたくなければ手を引け」
「何⁉︎」
悪党共がざわめきだす。しかし地面に転がっていたリーダーが呻き声と共に仲間たちを叱咤する。
「どうせはったりだ!軍服も着ていないこの男を信じてどうする!全員でかかれ!殺してしまえ!」
躊躇いつつも剣を向ける男たちに、イザークは大きな目をさらに見開き、自信に満ちた笑みを向ける。
「違法な人身売買の情報を入手した。路地裏の悪事を嗅ぎまわるのに、一眼で正体がばれるようなことをするものか。付近には私の部下をたんまり仕込んであるぞ」
どうする?と凄まれて、男たちはとうとう諦めた。
「覚えてろよ!」
倒れた仲間を引きずって逃げる男たちを見送ると、イザークは笑みを消して部下の名前を呼んだ。
「悪党共を追いかけて捕らえろ。それから建物に捕らえられている奴隷たちを解放してやれ。采配はまかせる」
瑠夏は呆然として一連の出来事を見ていたが、奴隷と聞いてはっと思い出す。
(あの子……)
瑠夏は血溜まりに倒れている少年に駆け寄った。
意識はなく、顔は土気色だ。
「生きていたのか」
瑠夏の後からついてきたイザークも、その顔色を見て眉を寄せる。
「出血がひどいな……手遅れかもしれん」
瑠夏はそれを聞いて焦った。
(この子、僕なんかに助けを求めたばっかりにこんな目にあって……)
血溜まりの中で苦しむ様子が、事故で亡くなった母の姿に重なる。
瑠夏は両手で少年の両足首を優しく包んだ。
屈むと、先程短剣が浅く切り裂いた胸元から血が滲んだ。
「何をしている。お前も怪我をしているんだぞ」
「僕に、任せてください」
瑠夏は構わず目を閉じた。
(僕の力を分けてあげる。血よ、肉を巡れ、新たな生命の息吹を生み出し傷を癒せ)
どれくらいたっただろうか。
やがて血は止まり、少年の頰はほんのりと色をとりもどした。
「お前、これは」
瑠夏は力を消耗しすぎ、息も絶え絶えになっていた。
「これで、とりあえず大丈夫です。どうか、保護してあげてください」
瑠夏はもう座ってもいられなかった。少年の上に倒れこみそうになるところをすんでのところで仰け反ると、後ろから大きな手に支えられた。
「あ……」
そのまま肩を抱かれて、自然と逞しい胸に顔を寄せることになる。
先程の騒ぎのせいだろうか。貴人らしいコロンに混じって少し汗の匂いがしたが、不快ではなかった。
「しっかりしろ。お前を家に連れて帰ってやる」
「家など、」
ーー家などない。
その言葉は、無遠慮に近寄って来る足音に止められた。
「その者から離れろ!」
逸れたはずの護衛の声だった。
「痛っ……」
男たちは無理やり瑠夏をイザークの腕からひったくった。
瑠夏はこの人は違う、と言いたかったが、もう声が出ない。
代わりにイザークの声がする。
「この少年はお前たちの家のものか。身なりからして主人ではないのか」
護衛たちの態度は主人に対するそれとはとても言えない。イザークは不審に思ったようだった。
「お前には関係ない。連れて行くぞ」
そういうと瑠夏は護衛の肩に担ぎ上げられて、まるで荷物を運ぶように連れ帰られたのだった。
運び去られる瑠夏をじっと見つめていたイザークは、奴隷を保護を終えた部下に呼びかけられて我に帰った。
「あとは外の2人で最後です……って1人どうしたのですか?」
部下は辺りを見回して瑠夏がいないことに困惑していた。
「ヒュー少尉。頼みたいことがある。先程の少年はあそこだ」
イザークが指をさした先に、すでに小さくなった人影が見える。
「あれを尾行して、どの屋敷に入ったか調べてくれ」
イザークは、瑠夏のことが気になっていた。水、火、風、土など、エレメンツの力を引き出し具現化する魔法が当たり前のこの国。貴族であれば、誰しも得意な分野を持つ。だが、人を攻撃する技を洗練することができても、生命を癒すことができる者はいない。
少なくとも、今までイザークは大多数の人々と同じようにそう思っていた。
奇跡の魔法の使い手か、はたまたまやかし、妖術のたぐいか。
(正体を見極めねば……)
そう思って心に思い描くのは、助けた瞬間、初めて目を合わした瑠夏の大きな瞳と、イザークの操る風に揺らめく柔らかい髪だった。
両方とも、見たこともない神秘的な美しい黒。
その正体を差し置いても、また会ってみたいと思わせるには十分だった。
瑠夏はそこで次の手段にでた。クラウスの治療の際、皇帝に願い出たのだ。
「ではお前はどんな高価なものも欲しくないというのか」
「はい」
「ふむ。あのベドジフの弟子とは思えん無欲さだな」
興が削がれたという表情の皇帝に、瑠夏はその代わりに、と申し出た。
「一日、城の外に出ることをお許しください」
「なんと、お前は街を見たことがないというのか」
「はい。記憶を失って倒れておりましたところをベドジフ様に拾われて以来、城の外にはでておりません。ベドジフ様は大変心配性でいらっしゃいまして、街は危険だとおっしゃるのです」
「あのベドジフがか。珍しいこともあるものだ。だが、お前のその貴重力を持ってすると、掌中の珠のように思うのもわからなくはない」
そうは言いながらも、皇帝は瑠夏に、束の間の自由を与えようと約束してくれた。
数日して皇太子の容態がさらに安定した頃、ベドジフは皇帝の命を受け瑠夏を部屋から連れ出した。
「全くうまくやりおって。顔に似合わず抜け目のないやつだ」
ベドジフは苦々しい顔で吐き捨てた。
クラウス皇太子の私室に向かう時とは違い、暗く長い螺旋階段を下へ下へ降っていく。
へとへとになりながら地上に出た瑠夏は、首が痛くなるほど上を向いた。
城の端にそびえ立つ塔は、堂々とした円柱形だ。最上部だけ円状となっており、まるで窓のない展望室のようである。
おそらく瑠夏が囚われていたのはそこだろう。
まだ息を荒くしている瑠夏を、ベドジフは蹴り出すように護衛兵に預けた。
「必ず祈りの時間までには戻るように。それから、命が惜しければ護衛と離れぬことだ」
瑠夏はてっきり誓えと要求されるかと思ったが、予想は外れた。
よほど腹立たしいのだろう。ベドジフは早々に立ち去っていった。
ここへきて初めて野外の空気だ。瑠夏は思いっきり深呼吸をして、護衛の後についていった。
外門に近づくにつれて、城の全貌が明らかになる。
ランディリア帝国ノイエヴァイス城。世界に名高き、白亜の城であった。
あまりの壮観さに、ほうっとため息をつく瑠夏を怪訝そうに見る。
「何をやっている。早く行くぞ」
瑠夏は慌てて護衛を追いかけた。瑠夏はベドジフの弟子だというのが表向きだ。外に出たことがないというのは、ベドジフと皇帝しか知らない。誰にも正体を不審がられる行動をとってはいけないというのが、ベドジフの言いつけだった。
手配された馬車に乗って、首都のリンゲンスブルクまではおよそ1時間。
近づくにつれて、遠目にも鮮やかな街並みが見えてくると瑠夏の胸は否応なく高鳴った。
リンゲンスブルクはとにかく人が多かった。特にこれと言って目的地がない瑠夏は、街につくと適当なところで馬車を降りることにした。
あちらこちらに目をやりながら石畳の上を歩く。
街角で火を吹く大道芸人には鈴なりに人が集り、道端の焼き栗売りには行列ができている。
宝石店や衣装店のショーウィンドウは目に美しく、コーヒーや酒を出すカフェからは馥郁とした香りが漂っていた。
しかし表の活気ある様相に反して、1本路地を除けば、道端には汚物がたまり、生きているかどうかも定かではない傷痍の物乞いが蹲っている。
「おい、あんまりそっちを見るな」
護衛に窘められる。
「首都に来たばかりのお前はしらんだろうが、ここ数年は政情が不安定だ。つまらん犯罪はもちろん、テロや暴動も多発している。あまり詰まらぬ因縁を買うような真似はよしておけ」
瑠夏は路地を覗くのをやめ、その代わり世界中の物が集まると言われる南の市にいくことにした。
小さな工芸品や、異民族の伝統衣装、香辛料、食器から果ては家畜まで、市場は様々なテントが無秩序にひしめき合っていた。
瑠夏は手近な果物屋で林檎を買って、かじりつきながら店を冷やかすことにした。
どの店先にも目を惹く商品があって、瑠夏は目移りしながら市場を回った。
だが金はいくらか貰っているが、買って帰ったところでベドジフの気に障れば取り上げられる。 それにどうせ小物などは使う宛もない。
これは所詮飼い犬の散歩のようなものだと思い至り、時間が経つにつれて、高揚していた気分は沈んでいった。
そんな時、瑠夏はふと、子供の泣き声が聞こえたような気がして辺りを見回した。
市の店は、ちょうどそのあたりで途切れている。
目の前には古びた建物。
物陰に迷子でもいるのかな、と首を巡らせるのとボロを纏った10歳ぐらいの少年が建物からまろび出てくるのが同時だった。
少年は瑠夏と目が合うと抱きつくような勢いで接近してきた。
「助けてください!」
瑠夏は少年に気圧され、とっさに背後に庇う。
建物からは風体の悪い男たちが少年のあとを追うようにでてくる。
「おい、どっちへ行った!探せ!」
少年は瑠夏つかまったまま震えている。
(とりあえず逃げないと!護衛は……あれ?)
瑠夏はいつの間にか護衛と逸れていることに気がついた。
間の悪いことに、やばいと思った瞬間男の1人が振り返った。
「いたぞ!」
市場のテントの間に紛れても、人混みに押されて逃げ切れない。瑠夏は男の声を合図にしたように、少年の手を引いて近くの路地に飛び込んだ。
だが、男たちを撒こうにも瑠夏に土地勘はない。
あっさりと見つかって追いつかれてしまった。
「めんどくせぇことしてくれるじゃねぇか」
リーダー格の男が瑠夏から少年を引き剥がし、地面に叩きつけた。
「その子に何をする気だ!」
瑠夏の声に男は振り返るが、問いに対する答えはなかった。
「お前もあとでおぼえてろよ!」
そう言って倒れた少年の腹を蹴りつけた。少年は激しい痛みに声も出せずに苦悶するばかりだ。
「二度とこんなまねができねぇようにしてやる。そのほうがおまえのご主人様もお喜びになるだろうさ」
男は残虐な笑みを浮かべて、腰に差していた短剣を引き抜いた。
「やめろ!」
瑠夏は男を止めようとするが、逆他の奴らに羽交い締めにされてしまう。
腕の太さすら何倍もある男たちに拘束されて、瑠夏はなすすべがなかった。
男が少年の足首に刃を振り下ろす。
その光景はスローモーションのように瑠夏の眼裏に灼きついた。
「んーっっ」
少年の叫び声も、男の分厚い手でくちを塞がれて外に漏れることはない。
次は自分の番だ。瑠夏は、悪党共の邪魔をした自分はきっと殺されるだろうと覚悟した。
ベドジフは怒り狂うだろうか。治療途中だったクラウスには可哀想だが、ベドジフを困らせることができると思うと少しだけ胸がすいた。
(そうだ、僕がここで死んでもベドジフも王宮から追い出されてしまえばいい)
脚の腱を切られもう立ち上がることもできない少年を放り出し、男が近寄って来る。
男の仲間に捕らわれて身動きできないのをいいことに、無遠慮に手を伸ばして来る。
咄嗟に引いた顎を荒々しく捕まれ男に見据えられる。
「上等な身なりに力仕事を知らない肌。一体お前はどこのぼっちゃんだ」
「……僕を誘拐したって、身代金なんかでないぞ」
「そうか。ならお前もあの小僧と同じように変態趣味の下衆に売りつけることにしよう。いい値段になるしリスクもねぇ」
「なっ……!」
「まあ死ぬよりましだろう。悪いようにはしない」
悪いようにはしないと言われて言葉通りに受け取るのは馬鹿だと、瑠夏は身を以て知っている。
男は血でべとついた短剣を瑠夏のローブに押し当てる。
ぴり、と布が避ける音をきいた瑠夏は切っ先が肌を傷つけるのも構わず、滅茶苦茶に暴れた。
「この!大人しくしやがれ」
カッとなった男が短剣を握り直す。
切っ先が陽の光に煌めいた。
ーー今度こそ殺される。
そう思った次の瞬間
「ぎゃぁぁー!!」
体を裂かれる痛みのかわりに聞こえたのは野太い悲鳴だった。
瑠夏が恐る恐る目を開くと、そこにはもんどりうって倒れた悪党の姿がある。
そして、
ザシュッ、ザシュッ……
耳元で空を切る音がして、瑠夏の体を拘束していた腕が解かれる。
振り向いた瑠夏の目に入ってきたのは、肩を切り裂かれて痛みに呻いている男2人。
助かったと安堵すると同時に、驚きに目を見張る。
ひとり、そこに立っていたのは恐ろしく見目のいい、燃えるような赤毛の青年だった。
青年は手のひらに、小さな竜巻をのせていた。
「大丈夫か?!」
青年は瑠夏に駆け寄り、背中に庇ってくれた。
そして転がっているリーダーたちを尻目にじりじりと後ずさる仲間たちに、朗々とした声で告げた。
「私は近衛第一連隊長、イザーク・グスタフ・フォン・ヒルデブラントである!この者たちのように風魔法の餌食になりたくなければ手を引け」
「何⁉︎」
悪党共がざわめきだす。しかし地面に転がっていたリーダーが呻き声と共に仲間たちを叱咤する。
「どうせはったりだ!軍服も着ていないこの男を信じてどうする!全員でかかれ!殺してしまえ!」
躊躇いつつも剣を向ける男たちに、イザークは大きな目をさらに見開き、自信に満ちた笑みを向ける。
「違法な人身売買の情報を入手した。路地裏の悪事を嗅ぎまわるのに、一眼で正体がばれるようなことをするものか。付近には私の部下をたんまり仕込んであるぞ」
どうする?と凄まれて、男たちはとうとう諦めた。
「覚えてろよ!」
倒れた仲間を引きずって逃げる男たちを見送ると、イザークは笑みを消して部下の名前を呼んだ。
「悪党共を追いかけて捕らえろ。それから建物に捕らえられている奴隷たちを解放してやれ。采配はまかせる」
瑠夏は呆然として一連の出来事を見ていたが、奴隷と聞いてはっと思い出す。
(あの子……)
瑠夏は血溜まりに倒れている少年に駆け寄った。
意識はなく、顔は土気色だ。
「生きていたのか」
瑠夏の後からついてきたイザークも、その顔色を見て眉を寄せる。
「出血がひどいな……手遅れかもしれん」
瑠夏はそれを聞いて焦った。
(この子、僕なんかに助けを求めたばっかりにこんな目にあって……)
血溜まりの中で苦しむ様子が、事故で亡くなった母の姿に重なる。
瑠夏は両手で少年の両足首を優しく包んだ。
屈むと、先程短剣が浅く切り裂いた胸元から血が滲んだ。
「何をしている。お前も怪我をしているんだぞ」
「僕に、任せてください」
瑠夏は構わず目を閉じた。
(僕の力を分けてあげる。血よ、肉を巡れ、新たな生命の息吹を生み出し傷を癒せ)
どれくらいたっただろうか。
やがて血は止まり、少年の頰はほんのりと色をとりもどした。
「お前、これは」
瑠夏は力を消耗しすぎ、息も絶え絶えになっていた。
「これで、とりあえず大丈夫です。どうか、保護してあげてください」
瑠夏はもう座ってもいられなかった。少年の上に倒れこみそうになるところをすんでのところで仰け反ると、後ろから大きな手に支えられた。
「あ……」
そのまま肩を抱かれて、自然と逞しい胸に顔を寄せることになる。
先程の騒ぎのせいだろうか。貴人らしいコロンに混じって少し汗の匂いがしたが、不快ではなかった。
「しっかりしろ。お前を家に連れて帰ってやる」
「家など、」
ーー家などない。
その言葉は、無遠慮に近寄って来る足音に止められた。
「その者から離れろ!」
逸れたはずの護衛の声だった。
「痛っ……」
男たちは無理やり瑠夏をイザークの腕からひったくった。
瑠夏はこの人は違う、と言いたかったが、もう声が出ない。
代わりにイザークの声がする。
「この少年はお前たちの家のものか。身なりからして主人ではないのか」
護衛たちの態度は主人に対するそれとはとても言えない。イザークは不審に思ったようだった。
「お前には関係ない。連れて行くぞ」
そういうと瑠夏は護衛の肩に担ぎ上げられて、まるで荷物を運ぶように連れ帰られたのだった。
運び去られる瑠夏をじっと見つめていたイザークは、奴隷を保護を終えた部下に呼びかけられて我に帰った。
「あとは外の2人で最後です……って1人どうしたのですか?」
部下は辺りを見回して瑠夏がいないことに困惑していた。
「ヒュー少尉。頼みたいことがある。先程の少年はあそこだ」
イザークが指をさした先に、すでに小さくなった人影が見える。
「あれを尾行して、どの屋敷に入ったか調べてくれ」
イザークは、瑠夏のことが気になっていた。水、火、風、土など、エレメンツの力を引き出し具現化する魔法が当たり前のこの国。貴族であれば、誰しも得意な分野を持つ。だが、人を攻撃する技を洗練することができても、生命を癒すことができる者はいない。
少なくとも、今までイザークは大多数の人々と同じようにそう思っていた。
奇跡の魔法の使い手か、はたまたまやかし、妖術のたぐいか。
(正体を見極めねば……)
そう思って心に思い描くのは、助けた瞬間、初めて目を合わした瑠夏の大きな瞳と、イザークの操る風に揺らめく柔らかい髪だった。
両方とも、見たこともない神秘的な美しい黒。
その正体を差し置いても、また会ってみたいと思わせるには十分だった。
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