拳を、撃ちこむ。

チャンスに賭けろ

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後編

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 閑散とした放課後の道場は、夕陽が斜めからさしこみ、どこか気だるげだった。
 畳の上に落ちた光は、赤みを帯びている。
 ここにさらに紅い鮮血が落ちるかもしれない。
 数馬にはその覚悟があった。

 数馬はすでに、胴着に着替えている。
 いつでも対決できるように、日頃から持ち歩いているのだ。
 ゆっくりと扉が開く気配がした。
 木下誠一郎が、姿を現した。やつも空手着だ。
 
「用意がいいじゃないか」

「たまたまだ。常に襲撃の機会を窺っている、数馬とは違う」

「それだけ飢えていたんだ。勘弁してもらいたいね」

 数馬は柔軟を始めた。
 誠一郎も同様である。

「ルールはどうする?」

「金的と目玉はナシにしよう。あとはどうでもいい」

「わかった、そうならないように、戦闘不能にするよ」

「それができたらな――」

 数馬の両眼に炎がともった。
 それを受けた誠一郎も、真剣な表情だ。
 眼にはいつもの、悲しげな色はない。
 それでいい。久しぶりに互いの顔をまともに見たな。

「始めようか――」

 ふたりはゆっくりと間合いをつめた。
 そして構えた。

 数馬は、ひたすら相手の顔面を狙っていた。
 しかし、身長差のある相手にそれを成功させるのは、難しい。
 胴体にいくら打撃を打ちこんでも、決定打にすることは困難をきわめる。
 だが顔面ならば――たとえば拳がかるく顎先をかすめるだけで、平衡感覚が失われ、ダウンを奪うことができるのだ。
 
 体格差がある場合、長期戦はまずい。
 小さい方は、食らえば一撃で勝負が決まる可能性がある。
 だからしきりと位置を変え、動き回らねばならない。

 大きい方は、どっしりとガードを固めていればいい。
 小さい方の打撃がガードの上からきたところで、致命傷にならない。
 ただ急所を守り、相手の消耗を待つだけで、勝機は訪れる。

 ひたすら、数馬は撃った。
 それを、誠一郎はひたすらしのいだ。
 難攻不落の城砦のようだ。
 数馬は誠一郎を見て、そう思った。

 ああ。これでは対戦を避けられるわけだ。
 これほど遠くにいってしまったのだ。
 隣に住んでいたライバル。
 しかし、もう五分ではない。
 拳を交えたいま、はっきりとそれがわかる。

「どうした、息が荒いぞ」

 誠一郎が冷静に指摘した。
 いつのまにか、数馬は肩で息をしていた。
 誠一郎は牽制程度の打撃しか放っていない。
 数馬は、消耗しきっていた。

 はしゃいでいたのだ。
 自分のことながら、未熟だったと思う。
 奴と闘えるということで、浮かれていた。
 でなければ、こんなに当らない打撃をふりまわすことはしない。
 もっと冷静に勝負ができるはずだった。
 冷静に、この拳を、顔面に。

 頃はよしと見たのか。
 城砦が動き始めた。
 重い打撃が、数馬の胴体に打ちこまれた。
 ガードする。しかし重い。
 受けた腕が痺れるほどの衝撃だ。

 それは手始めにすぎなかった。
 やつは冷静に隙をみて、拳を、蹴りを放ってきた。
 一撃一撃が重い。かつて受けたことのない衝撃が、両腕にひたすら積み重なっていく。このままではまずい。
 距離をとろうとして、サイドステップした。
 相手は、10キロ以上の差があるというのに、それについてきた。

 もはや、勝負は明白だった。
 ここに審判がいる勝負だったら、すでに数馬の負けが宣告されていただろう。
 だが、これは決闘だ。
 ふたり以外に、この戦いを止める者はいなかった。

 誠一郎め。本気で潰しにきてるな。
 数馬にはそれがわかった。
 それが嬉しいと思う反面、歯ぎしりするほど悔しかった。
 勝てないという言葉が、じわじわと数馬の心に浸透しはじめていた。

 疲労感で、サイドステップが鈍る。
 鈍るとそこに容赦なく、打撃が飛んでくる。
 強い相手だ。だからこそ闘う価値がある。
 もう両膝をつきたくなっている。
 だめだ。まだ想いは叶っていない。

 この拳を、奴に――
 数馬は、一気に勝負をかけることにした。
 もう体力が底をついていた。
 この一撃にすべてを賭ける。

 そう思って、放った。
 正拳突きを、顔面に。
 拳がやつのがら空きの顔面に炸裂するはずだった。
 しかし、そうはならなかった。

 衝撃が数馬の側頭部を捉えていた。
 ハイキック。誠一郎が隙を見せて、誘い込んだのだ。
 脳が揺れる。世界が揺れる。
 三半規管が正常に作動していない。
 
 ああ、まだ目的は達成されていないのに――
 数馬の眼前に迫りくるものがあった。
 畳だ。俺は倒れようとして――

 意識が漆黒につつまれた。
 眼を開くと、心配そうな顔が上から見下ろしていた。
 むろん、誠一郎だ。

「大丈夫か、ちょっとやりすぎたな」

 その言葉が終らぬうちであった。
 全力で突いた。
 畳の上から、全力で突いた。拳を。
 その拳は確実に、誠一郎の顎先を揺らしていた。
 奴は、仰向けに倒れた。

「やった、やってやった……」

 数馬は残ったすべてのエネルギーを、その一撃にこめた。
 もう自力で立ち上がることもできない。
 一方、一撃を打ちこんだ相手は、平気だった。
 すぐにダメージから立ち直り、片手をさしだしてきた。
 もちろん、下からの打撃を警戒しながらだったが。

「安心しろ、もう撃てねえよ」
 
 数馬は、その手をとって身を起こした。
 立ち上がることはできない。
 疲労から回復するのに、もう少しかかりそうだった。
 
「なぜ、親はもっと俺を大きく生んでくれなかったんだろう」

 愚痴ってもしょうがないことだが、言わずにはいられなかった。
 それを含めて勝負だった。
 勝負に負けた。
 だが、夢は叶った。
 不意打ちにせよ、拳を顔面に撃ちこんでやったのだ。

「大きく生んでもらったら、俺が困るな」

 誠一郎が真剣な表情で、横顔をこちらに向けたままで、言った。

「――試合前の約束、覚えているか?」

「ああ、覚えている。ごまかすつもりはない」

 数馬は対決しか関心がなかった。
 たとえ、やつに負けてパシリにされようが、かまわなかった。
 ただ勝負がしたかった。それだけしか頭になかった。
 が、誠一郎が口にした言葉は、意外なものであった。

「俺とつきあってくれ」

「――……ハァ!?」

 意図をはかりかねて、数馬は素っ頓狂な声をあげた。
 木下誠一郎は、顔をこちらに向けている。
 これまで下を向いたり、横顔を向けたり、やたら避けている行動をとっていた奴とは思えない、真剣なまなざしをぶつけてきていた。

「それから、下の名前で呼ばせてくれ」

「案外、要求が多いな……」

「そういう約束だろう? でないと、女との真剣勝負なんて受けないぞ」

「仕方ないな、そういう約束だったからな」

 そう溜息とともに彼女――数馬留美子は、つぶやいた。

「もうひとつある」

「まだ、あるのか」

 さすがに数馬も、呆れた表情を浮かべた。

「帰りは俺が、留美子をおぶっていく」

 赤面したまま、そう宣言した。
 これには彼女も、異論はなかった。

 

 
 
 

 『拳を、撃ちこむ』
 
  ―――了。

 
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