小野寺社長のお気に入り

茜色

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愛の宣言

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 日曜の午後、病院の売店で母のために雑誌と水を購入していた渚の携帯電話に、小野寺から電話が入った。

「どうだ?お母さんの具合。落ち着いたか?」
「はい、お陰様ですごく回復が早くて元気です。本当にありがとうございました。明日から出勤します」
「そうか、良かった。……おまえ、今も病院にいるのか?」
 そうだと答えると、今からちょっとだけそっちに寄ってもいいかと聞いてくる。たまたまY市に用事があって近くに来ていると言うが、それはたぶん小野寺の嘘だと渚は思った。
 きっと心配してわざわざ様子を見に来てくれようとしてしているのだ。胸の奥が浮き立つのを感じ、ここは病棟だと言うのに渚はつい顔をほころばせた。


 三十分も経たないうちに、小野寺が病院のロビーに現れた。
 スーツ姿ではない小野寺を見るのはこれが初めてで、渚は一瞬その姿に見惚れてしまった。11月の冷たい風に乱された髪はいつもよりややラフなスタイルで、黒っぽい厚手のジャケットに合わせたジーンズが長い脚によく似合っている。
 小野寺もまた渚の姿にしばらくじっと見入っていた。そう言えば渚自身も小野寺には仕事用のスーツやオフィススタイルしか見せたことがない気がする。今日はカジュアルだが品のいいワンピースを着ていたので、たしかにこれだとデートの待ち合わせをしているカップルのように見えなくもなかった。
 なんとなく照れ笑いを浮かべると、小野寺が「いいじゃん、そのカッコ」とニヤリと笑ったので勝手に心臓が跳ねた。

「慌ただしいときに押しかけて悪いな。これだけ渡したかったんだ、お母さんにお見舞い。たいしたもんじゃないけど」
 小野寺はそう言ってデパートの紙袋を渚に差し出してきた。慌てて遠慮したが、「いいから」と強引に押し付けられた。チラリと中を覗くとミセス向けブランドの綺麗な包装紙にくるまれた箱が入っている。これはひょっとして衣類ではないか。

「社長、こんな立派なものいただけません……!さんざんお世話になっておいてここまでしていただいたら……」
「いや、本当にたいしたもんじゃないって。病院の中でも寒いといけないから、ちょっと羽織れるものだよ。お母さんに渡しといてくれ」
 それじゃ、と言って、もう背中を向けて帰ろうとする。どうやら柄にもなく照れているらしいと分かり、渚の胸がキュッとせつなく疼いた。

「あの、社長……!もしご迷惑じゃなければ、母の顔見て行ってもらえませんか?母も社長に会ってお礼がしたいって言ってるんです。今なら起きてるし、少しだけ……」
 入院時に小野寺に何から何まで助けてもらったことを、母には話してあった。律儀な母は小野寺に後日必ずお礼がしたいと言っている。入院中のやつれた姿を初対面の男性に見せるのは気が進まないかもしれないが、こんな機会は滅多にないし小野寺が来てくれたと言えば母はきっと会いたがるに違いない。

「いや、でもいきなり知らない男が訪ねても迷惑だろう」
「大丈夫です!母も喜びます。会ってやってください」
 渚は思わず小野寺のジャケットの袖を掴んだ。帰ってほしくなかった。本当のことを言えば、渚自身が小野寺ともう少し一緒にいたかったのだ。
「そうか……?じゃあ、図々しくて悪いけど、ほんの少しだけ寄らせてもらうか」
 思いのほか嬉しそうに小野寺が笑ったので、渚もホッとして微笑み返した。


 母に対面したときの小野寺の態度は、ちょっとした見物だった。
 いつもどんな相手に対しても如才なく振る舞う小野寺が、渚の母にはやけに緊張した面持ちでぎこちない様子を見せている。むしろ病床の母の方が落ち着いていて、思いがけず娘の上司に会えたことを心から喜んでいた。

「この度はいろいろ助けていただいて、何てお礼を申し上げていいか……。本当にありがとうございます。こんな素敵なカーディガンまでいただいちゃって、どうしましょう」
 小野寺からのプレゼントに母はいたく感激し、また娘の勤め先の社長が思いのほか若くてハンサムなことに喜んでいた。母はもともと面食いなので、どうやらすっかり小野寺のことを気に入ってしまったようだ。

「お体が辛いときに急にお邪魔して申し訳ありません。でもお会いできて良かったです。だいぶお元気になられたようでホッとしました」
 そう言って小野寺は何度もぺこぺこ頭を下げている。渚はそんな小野寺の様子を隣で見つめながら、「どうして社長はここまでうちの母に気を遣ってくれるんだろう?」などと不思議に思っていた。
 
 目隠しのカーテンを引いた中に借り物のパイプ椅子を2つ並べ、小野寺は渚と並んで母のベッドの脇に座っている。せっかくの休みの日にわざわざこうして訪ねてきてくれるなんて、小野寺の思いがけない優しさに夢を見ているような気持ちになった。

「娘が随分お休みをいただいてしまったみたいで、ごめんなさい。会社にご迷惑おかけしてしまいましたよね」
「いえ、それは大丈夫です。こういうときはお互い様ですから、どうかお気になさらず。それに普段から渚さんには僕の雑用をさんざん頼んで迷惑の掛け通しなんで、せめてもの罪滅ぼしの気持ちもありますし」
 小野寺が恐縮したように頭をポリポリ掻いた。母はそんな小野寺の仕草のひとつひとつも、楽しそうに観察している。

「この子、小野寺さんのお役に立ててますか?だったら親としても安心なんですけど」
「もちろんです。僕がだらしない男なので、渚さんには本当にいろいろ助けてもらってます。彼女のおかげで毎日なんとか回ってるようなものです」
「あらそんな、お上手ですのね。でも嬉しいわ、娘をそんなふうに持ち上げてくださって」
「いえ、本心ですから」

 横で聞いていてだんだん恥ずかしくなってきた。
 ほんの少しだけの面会のつもりが、さっきから母が小野寺を引き止めている気がする。引き合わせた自分の責任なのだが、思ったより話が長引いてしまい小野寺に申し訳ない気持ちになった。
 日曜の夕方に近い貴重な時間を、社長が部下の親の見舞いで潰すなんてあまりに勿体ない。渚はそろそろ母をたしなめ、小野寺を解放しなければと身を乗り出した。が、最後になって小野寺自身が思いがけない言葉を口にした。

「お母さん。今日はせっかくお会いできたので、初対面でこんなことを言うのはなんですが、折り入ってお願いがあります」
 小野寺が居住まいを正し、小さく咳払いをした。
「あら、何でしょう?はいはい」
 母がキョトンとしつつ何かワクワクするような眼で問いかける。渚は小野寺の真意が分からず、「社長……?」とその横顔を覗き見た。小野寺はチラリと渚の顔を見返し、小さく頷いてから再び母に向き直った。

「……お母さん。実は渚さんと結婚を前提におつきあいしたいと思っているのですが、お許しいただけますか?」
「あらっ、本当に?!まあまあまあ!」

 母が病人とは思えないほど大きな声を上げた。小野寺はガチガチに硬い顔で、珍しく頬を紅潮させている。この表情は、どうやら冗談ではないらしい。
 渚はと言えば、あまりの驚きでパイプ椅子から転げ落ちそうになっていた。


 まだ頭がフワフワしていた。
 さっきの小野寺の「結婚前提交際」宣言と、それからの母と小野寺の初対面とは思えないテンポの良いやり取りに渚は唖然とするだけだった。ふたりのペースに完全に置いていかれ、話の展開についていけず、気づいたら小野寺の車の助手席に乗せられていた。

「ほら、もう私のことはいいから、小野寺さんと今後についてよく話し合ってらっしゃい。小野寺さん、どうぞ娘をよろしくお願いしますね」
 そう言って母は病人らしからぬ満面の笑みで渚を小野寺に押し付けた。小野寺もまた「お任せください!」などと調子よく答え、「さ、行こうか」などと堂々と渚の手を掴んだ。母の手前焦って手を振りほどこうとしたが、「あらぁ、仲良くて素敵ねぇ」などと母に囃し立てられ、結局手も掴まれたまま病院を後にする羽目になった。

 そうして今、小野寺の車は都内へと向かっていた。そろそろ夕方の5時になろうとしていて、「どこかで夕飯食って帰ろう」と小野寺は上機嫌でハンドルを握っている。
 
 隣の横顔をチラリと見つつ、渚は想像もしていなかった事態にまだ半信半疑の気持ちだった。
 母の見舞いにわざわざ来てくれた小野寺の心遣いに感激したのは事実だが、その場でまさかの「結婚宣言」が出るとは夢にも思っていなかった。と言うよりも、そもそも渚はまだ小野寺から愛の告白すら受けていないのだ。
 なんとなく気持ちが通じあい、気持ちを確かめあうようなキスはした。けれども「好きだ」とか「つきあおう」なんて言葉は言われてもいないし、渚自身も口にしていない。
 
 結婚だなんて、小野寺は本気なのだろうか。
 いや、いくら普段いい加減でノリの軽い小野寺でも、さすがに入院中の部下の親に向かってこんな冗談は口にしないだろう。と言うことはそれなりに本気の言葉だと思っていいのだろうか。

 ……でもどうして?独身主義者ともっぱらの噂の小野寺が、なぜ渚と結婚したいなどと思うのだろう?
 小野寺に比べたら、渚など平凡でこれと言って取り柄もないつまらない女ではないのか。男に慣れていない、ウブで余裕のない自分などより、松江のぞみのように男性の扱いにも長けている派手めの美人の方が、小野寺が隣に置くのにふさわしい相手なのではないだろうか……?

「また、頭ん中でごちゃごちゃ考えて悩んでるんだろう」
 押し黙ったままの渚の心を読んで、小野寺がからかうような口調で言った。
 図星なので少しムッとする。結局いつだって、渚は小野寺の手の上で面白おかしく転がされているに過ぎないのだ。

「普通、こういう展開になればごちゃごちゃ悩みますよ。社長、勝手すぎます。いきなりこんな……」
「なんだよ、喜んでくれないのか。冷てえな、おまえ。お母さんはノリノリだったのに」
「だって、何の前触れもなくいきなり……。私、社長から、その……す、好きとかも言われてないのに」
「あれっ、言ってなかったっけ」
 あまりに軽い態度に絶句する。渚が思わず助手席からジロリと睨むと、小野寺はククッと笑って「冗談だよ。悪かった。おまえが戸惑うのも無理ないよな」と謝ってきた。

「……段取りもすっ飛ばして、驚かせて悪かった。でもいい加減な気持ちでもふざけてるわけでもない。俺は本気だよ」
 本気、という響きに胸がドキリと音を立てた。何か言わなければと言葉を探していると、追い打ちをかけるように小野寺がとどめの言葉を刺してきた。

「おまえが好きだ。本気で惚れてる。結婚したいと思うのはおまえだけだ。それが俺の本心」
 望んでいた以上の言葉が一気に降ってきて、渚の頭はパンクしそうになった。


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