小野寺社長のお気に入り

茜色

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読めない本心

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「キスもだいぶ上手くなったぞ。舌の使い方も悪くない。そうやって経験を積んでいけば、自然と色気も増してくる」
「……そ、そうですか?……それなら、良かったです」
 間の抜けた答えを返しながら、渚はゆっくりと小野寺の胸から身体を起こした。

 ……ああ、やっぱりこれは、私を大人の女にするための「練習」に過ぎないんだ。社長にとってはそれだけのことで、特別な意味なんてない……。
 一瞬愚かな期待をした自分をひどく恥じた。自身でもよく分からない、鈍い痛みが胸の奥に広がっていく。

「風邪ひくから、服着ろよ。俺はちょっとトイレ」
 小野寺は、さっき脱がせたブラウスを渚の肩にフワッとかけた。そんなふうにされると、自分の半裸状態がますます惨めでみっともないものに思えてくる。

 小野寺はどこかよそよそしい動きでソファから立ち上がった。
 本当にトイレに行くらしい。フロアに向かう姿をチラリと見やりながら、渚は無意識に小野寺の下半身に眼を向けてしまった。
 小野寺の股間は窮屈そうに盛り上がっていた。それは明らかに、渚との行為に興奮して勃起したものに違いなかった。

 自分に対して小野寺がこれほど反応していることに、渚は激しく心を揺さぶられた。ドキドキして、自分でも信じられないことに手を伸ばして小野寺のそれに触れたいとすら思った。
 けれども小野寺は渚を残して応接室を出て行ってしまった。足早に、こんなあられもない姿の渚を置き去りにして。
 トイレに行くと言うことは、自分で処理するつもりなのだろうか。渚を恥ずかしいくらい乱れさせておきながら、自分はこっそり自慰で済ますとでも言うのか。
 
 何故か、余計に女としての自信を失った気がした。
 小野寺が実は少しも自分に心を開いてくれていないのではと思い至り、快楽に流されてしまった自分を悔やみそうになった。
 渚はノロノロと服を身に付け、乱れた髪を撫でつけた。バッグを拾い応接室を出る。フロアの明かりの下で、すっかり落ちてしまったグロスを塗り直した。

 手鏡に映る自分は、良くも悪くも「女」の顔をしていた。
 唇がかすかに腫れて痺れるような感覚がある。あれだけ激しく何度もキスしたのだから、それも当然かもしれなかった。
 唇にも胸のふくらみにも、こんなに男の余韻が残っている。長い指を呑み込んだ性器は、じんじんと疼いてまだ感触を覚えている。それなのに、当の小野寺はさっさと渚に背を向けてしまった。


 小野寺はどこかスッキリしたような呆けたような顔でトイレから戻ってきた。
「帰るぞ。タクシーで送ってやるよ」
 そう言って、スタスタとフロアを横切って行く。さっきまでの熱のこもった行為がまるで幻だったかのように。

 なんだか無性に腹が立った。自分がただのセクハラの餌食になった哀れな女に思えてきて、小野寺の背中を思い切り蹴飛ばしてやりたくなった。
 けれどもそんなことができるずもなかった。渚は小野寺の後ろを歩きながら、焦がれるような想いでその背中を見つめていた。近づけば近づくほど、この男の考えていることが分からなくなっていく。

 タクシーの後部座席に並んで腰を下ろしていても、小野寺はもう渚に触れようとはしなかった。そっと横顔を盗み見ても、小野寺は車窓から夜の街並みをぼんやり眺めているばかりだった。
 渚のアパートの前にタクシーが到着したとき、このまま離れるのが名残惜しいような気がして渚は必死に言葉を探した。けれども小野寺に「お疲れ。明日はゆっくり休めよ」と妙に明るい口調で言われてしまい、結局モヤモヤした気持ちをグッと呑み込んだ。

「社長も、お疲れ様でした。送ってくださってありがとうございます。おやすみなさい」
 まったく面白みのない挨拶だけ返して、渚はタクシーを静かに降りた。何故か涙が込み上げそうになったので、そのまま振り返らずにアパートの階段を駆け上がった。


 結局その夜は、ほとんど眠ることができなかった。
 翌日を代休に当てておいて本当に良かった。こんな気持ちで翌朝小野寺と顔を合わせ、何事もなかったように一緒に働くなんて、とても耐えられそうにない。
 休日をゴロゴロ過ごしながら、渚は小野寺の生々しい幻影に繰り返し悩まされた。バスタブに浸かりながら、淫靡な指使いを思い出しては何度も大きな溜息をついた。

 ……どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 答えなど出るはずのない疑問に翻弄され、渚はベッドの中で小野寺の唇の感触を何度も思い出していた。


 休日明けに出勤すると、またいつもの慌ただしい日常が始まった。
 小野寺は普段とまったく変わらぬ態度で渚に接し、クライアント先への訪問の際にはいつも通り渚を同行させた。ただ、今までだったら些細な用事はほぼ渚に頼ってきたのに、あれ以来小野寺が自分で処理することが多くなった。
「社長、私やりますよ」と声を掛けても、「あー、大丈夫。気にすんな」と言ってさっぱりとした笑顔を見せてくる。

 以前の渚だったらようやく小野寺が自立心を持ってくれたと喜んだかもしれないが、今はなんとなく距離を置かれているような気がして複雑な想いにさいなまれた。
 ぎくしゃくしている、というほどではない。他の社員の前でもごく自然に会話できていると思う。けれどもあの夜以来、小野寺は渚にあまり甘えなくなった。ごちゃごちゃだった机も、自分で少しずつ片付けるようにすらなっていた。

 人間は勝手なものだ。さんざん世話を焼かされていたときは小野寺のだらしなさに文句を言っていたのに、いざこうして小野寺が自分で自分のことをやるようになると、なんとも説明のしようがない淋しさに襲われるのだから。


「最近の社長、朝岡ちゃんのこと前みたいにこき使わなくなったね。もしかしてガツンと言ってやったの?」
 ショートカットに眼鏡が良く似合う葛城祥子かつらぎしょうこが渚にこっそり尋ねてきた。
 渚より四つ年上の頼りになる先輩社員は、男所帯の社内では渚が比較的心を許して話ができる相手だ。

「……そう言うわけじゃないんですけどね。もしかしたら社長、私に怒られることに飽きたのかも」
 そう言って冗談ぽく笑って見せたけれど、祥子は何故か真顔になった。
「飽きることはないでしょう。朝岡ちゃんは社長のお気に入りなんだから。あなたに怒られる度に、社長が嬉しそうにニヤニヤしてるのみんな知ってるよ。」
「お気に入りなんかじゃないですよ。ただの便利屋みたいなものです」
 渚は苦笑いを返し、そのまま口を噤んでしまった。

 これまでも何度も言われてきた「社長のお気に入り」という言葉。
 褒め言葉ではないのだろうが、そう言われることは嫌いではなかった。「もう、勘弁してくださいよぉ」などと困った顔をしつつ、自分が一番小野寺の近くにいるという意識に自尊心が満たされていたのは事実だ。でもそれももう、過去のことになるのかもしれない。

 急にあんなふうに恋人同士のような濃密な時間を与えられ、そうかと思うとさりげなく突き放される。
毎日小野寺の顔を見る度に、渚はどんどん自分の存在価値が分からなくなっていった。


 郵便局と銀行で用事を済ませ、いくつかの買い物を済ませた水曜の午後。社に戻ると来客中なのか応接室のドアが閉まっていることに気づいた。

「どなたかクライアントさんですか?」
 渚が机に戻りながら聞くと、斜め向かいの席から遠藤が「派遣の売り込みだよ。今来たばっかり」と答えてくる。遠藤は今月末で退職することが決まり、あの夜以来渚に妙な接近をしてくることもなくなった。既に吹っ切れたのか、ごく自然に接してくれているのがありがたい。

「朝岡ちゃん、悪いんだけどお茶出しお願いしていい?私、ちょっと電話長引いてて」
 祥子が送話口を手で覆いながら申し訳なさそうに言った。遠藤も電話中で相手に保留にされているらしく、他の社員は外出中か席を外していた。

 渚は廊下の先にある狭い給湯室に向かい、ポットのお湯を再沸騰させた。
 客用の湯飲み茶碗を出し、小野寺の分と一緒に緑茶を注ぐ。お茶請けの小さなクッキーを小皿に盛り、それらをトレーに乗せて応接室に向かった。

 イベントスタッフの人材派遣会社などが売り込みに来ることはよくある。小野寺はその手の業者に対しても如才なく接するが、実際に発注するかどうかは金額と中身次第だと言ってかなりシビアに判断する。小規模でもこの会社が順調な売り上げを誇っているのは、小野寺の情に流されない冷静さも大きく影響しているのは間違いなかった。
 普段はお気楽を装っていても、本来小野寺という男はとてもクールなのだ。きっとプライベートでも情に流されたりしないのだろうなと、渚は頭の隅っこでぼんやりと考えた。


「失礼します」
 応接室のドアをノックし、返事を待たずにドアを開けた。それでいいと小野寺から常々言われてきたからだ。商談中でも構わずお茶を出し、すぐに退出する。いつものことだ。
 だからお茶を乗せたトレーを手に片手でドアを開けたとき、眼の前の思いがけない光景に渚は呆然となった。
「あっ……!」と思わず声を上げ、反射的に身体がビクッと揺れてしまった。

 腰に届きそうなほど長い髪の女性が、小野寺の首筋に抱きついていた。
 スラリと背が高く折れそうなピンヒールを履いていて、スーツを着ていても肉感的なヒップラインが人目を惹く。まるでキスでもしようとしているみたいに、ふたりの身体は密着していた。


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