小野寺社長のお気に入り

茜色

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恋愛下手

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「……何なんですか、いきなり。そういうの、セクハラです」
 ぴしゃりと言ってやるつもりが、やけに弱々しい声音になった。
 ドアの向こうから明かりが差し込むだけの暗い応接室で、のしかかるように小野寺が顔を近づけてくる。ビールの薫りが微かに漂っていた。頭がクラクラして、今頃急に酔いが回ってきたような気がする。
 そうか、社長も酔っぱらっているんだ。だからまるで口説いているみたいにこんなにぴったり身体を寄せてくるんだ……。

「ははっ。追い込まれたウサギみたいな顔して。そんなに男が怖いのか」
「こ、怖くなんてありません……!社長があんまり失礼なこと言うから、ちょっとびっくりしただけで」
 渚は顔を背けようとしたが、小野寺の指がそれを阻止した。長い指で顎を優しく掴まれ、瞳をじっと覗き込まれる。

 どうしよう、心臓が破裂しそうだ。どうして私はこんなに動揺して顔を熱くさせているのだろう……?
 ここが暗がりで良かった。顔が茹でダコみたいに真っ赤になっていることを、小野寺に知られたくない。きっと今以上にバカにされるに決まっている。

「なあ、教えろよ。あんまり経験ないんだろ?……もしかして処女か?」
「ち、違います……!」
 これだけはきっぱり断言した。とは言え、かろうじて「処女ではない」と言える程度の乏しい経験しかないのが正直なところだった。男をろくに知らないと言われれば、その通りだと認めざるを得ない自分が情けない。

「ふーん。一応経験はあるんだ。でもイクとこまでは知らなそうだな」
 あまりに露骨なセクハラ発言に渚はあんぐりと口を開けた。
 いったい何なのだ。せっかく夜中まで残って仕事を手伝ったと言うのに、献身的な部下に対してこの侮辱的な発言は、あまりにひどい気がする。自分専用のアシスタントだから、どういじめても許されるとでも思っているのだろうか。

「しゃ、社長には関係ないでしょう……。どうしてそんな、バカにしたみたいな言い方するんですか?」
 言いながら、悔しくてちょっとだけ泣きそうになる。そしてそういう自分にまた腹が立った。コンプレックスを刺激されて動揺したからと言って、ここで涙なんて見せたら本当に中学生並みの幼さを露呈することになる。

「バカになんてしてねーよ。もったいないと思っただけで」
「……もったいないって、何が……」
「いや、おまえってさ、たぶん開発したらすげーエロくなる素材だと思うんだよ。なのに28にもなってまともに男も知らないんじゃ宝の持ち腐れだなって思ってさ」
 開発?エロくなる素材?そんなこと言われたことがないので渚は眼をぱちくりさせた。

「……言ってる意味が分かりません……」
「自分じゃ分かんない?」
 小野寺が不意に渚の前髪をそっと掻き上げたので、またしても胸がドクンと音をたてた。

「まず、おまえは顔がまあまあエロい。意外にそそるものを持ってる」
「は……っ?!」
「なんかこう、思いっきり突きまくってあえがせたくなる顔っつーの?たぶん感じてるときの表情が相当エロくなりそうな気がするんだよ」
「……社長。自分が何を言ってるか分かってます……?」
「うるさい、聞けよ」
 手首を掴まれたまま命令され、渚は少しだけ脅えるような、でも不思議と胸の奥が締めつけられるようなおかしな気持ちになった。

「要するにさ、せっかくいい素材なのに磨かれないまま放置されてて気の毒だなと思って」
 やっぱりかなり失礼なことを言われている気がする。
「俺が想像するに」
 小野寺は渚のセミロングの髪を妙にゆっくり撫でながらニヤリと笑った。
「おまえはたぶん、それなりに男には言い寄られるタイプだろう。見た目も悪くないし、普段はニコニコ愛想いいからな。なんでだか俺の前では怒ってばっかだけどよ」
「そ、それは社長があまりにいい加減で、だらしないからです」
「悪かったな」
 小野寺はフンッと鼻から息を吐いた。

「まあそれはいい。で、おまえは男に口説かれることも少なくないはずだ。今まで何人かつきあった相手もいるだろう。でも、続かない。すぐダメになる。理由も分からずフラれている。……こんな感じじゃないか?」
 図星すぎて何も答えられなかった。渚がうろたえているのを見てフンフンと頷きながら、小野寺は更に言葉を続けた。

「どうしていつもそうなるんだと思う……?おそらくな、おまえのガードが固すぎるから、男がそれをこじ開けて段階を踏む努力を放棄しちまうんだよ、きっと」
「ガード……?」
「あのな、女には『隙』ってもんが必要なの。隙のない女に男は無駄な時間を費やしたくない。それで結局他の口説きやすい女の方に逃げちまう。で、気づいたらおまえはひとりぼっち。ああ、どうして?モテないわけじゃないのに、どうして気づけば私はいつもひとりなの?と、落ち込むわけだな。……どうよ?こんな感じでほぼ当たってるだろ?」

 渚は数秒間押し黙った。
 どうしてここまで失礼なことを言われなければならないのか。思い切り反論してやろうと思ったけれど、言い返す言葉がひとつも見つからなかった。
 小野寺の言葉があまりにどんぴしゃすぎて、胸にグサグサと突き刺さっていた。むしろこうして第三者から分かりやすく指摘され、ああそうか、そういうことだったのかと腑に落ちる気にさえなっていた。

「あれ?反論しないの?図星?」
「……社長はひどいです。そうやって人の心を無神経に傷つけて」
「傷つけてるつもりはねーよ。ただ推測したことを言ったまでだ。それもこれも、おまえのためだぞ、渚」
「私のため……?」
「もっと楽に生きられるように、気づかせてやってるってこと」
「私、別に……」
「もっと、女であることを楽しめばいいって言いたいんだよ。おまえ、肩の力抜けば結構イイ女になるぞ」
 ものすごく悔しい。腹が立って仕方ない。なのに、何故だかスルスルと胸の奥の塊がほどけていく気がした。

 小野寺の言う通りかもしれなかった。
 そんなつもりはないのに、誰かを好きになったりつきあうようになると、いつも相手に対して心の奥で「絶対的な誠実さ」を求めてしまう。自分の方が愛しすぎたら後で傷つくのではないかと不安になって、心を開くことをためらってしまう。
 だから男を信頼するまでに時間がかかり、相手からすると可愛げのない女に見えてしまうのだろう。今までだって、向こうから言い寄ってきたのにいつの間にか距離を置かれたり心変わりされることが少なくなかった。その度に、「男の人って結局みんなこうなのか」と諦めのような気持ちが積み重なっていくのだ。

 中学に入って間もなく、両親が離婚した。父が外で女の人を作り、あっさりと家を出て行ってしまった。
 既に高校生だった姉は、比較的冷静に受け止めていた。けれどもまだ12歳だった渚は大きなショックを受けた。真面目で優しい父のことがとても好きだったから、その父があんなふうに母を裏切ったことが信じられなかった。
 たぶんあの頃から、自分は絶対男に裏切られたくないという思いが意識の底に刻み込まれたのかもしれない。
 実家で一人暮らししている優しい母の顔が脳裏に浮かぶ。母を二度と悲しませたくない。そう思うと、渚自身も男性を見るとき必要以上に慎重になってしまうのだ。

「男に対する猜疑心が強いのか?」
 黙り込んでいる渚の手を握ったまま、小野寺が少し柔らかい声で訊いた。
「……そうかもしれません」
「何かあったのか?過去に。ひどい失恋とか、んー、もっと思春期の頃とか」
「……父のせいかも。母が苦労して、離婚してるので」
 ビールで酔ったせいなのか、渚は妙に素直な気持ちになった。

 どうせ小野寺には敵いっこないのだ。雑で無神経な性格のくせに、いつもこの男は渚の心理を見抜いてドキリとするような言葉を突き付けてくる。
 反発する気持ちの裏で、本当はそんなふうに自分を見抜いてくれる人がずっと欲しかったような気もする。だから文句を言いつつ、渚は小野寺から離れられないのかもしれない。

「そうか。そういうことがあれば、たしかに心の傷になって男を見る眼にも影響は出るだろうな」
 いつになく穏やかな眼で見つめられ、渚はさっきとは少し色合いの違うざわめきを胸に感じた。
「でもお父さんのことに囚われて、恋愛の機会を逃すのはもったいないぞ。世の中いくらでも男はいるんだ。おまえにぴったりのイイ男がいるかもしれないのに、頑なになってるうちにチャンスを掴み損ねるなんて馬鹿馬鹿しいぞ」
「社長のお守りに忙しくて、チャンスに気づいてる暇もなかったです」
「俺のせいか!そりゃ悪かった」
 気を悪くするでもなく、小野寺は楽しそうに笑った。こういうとき、こうして笑い飛ばしてくれる軽さはわりといいなと渚はこっそり思った。

「おまえさ、好きな男とかいないの……?」
「え……、いません、けど」
 そう答えながら、胸に引っかかるような違和感を覚えた。
 好きな人はいない、と断言するのは違うような気がするし、かと言って小野寺の顔を真正面から見て「好きな人くらいいます」と言うのはもっと怖いような気がした。

「ふーん。……だったらさ、次のチャンスが巡ってきたときのために、今から練習でもしておくか?」
「……は?練習って……?」
「ちゃんと恋愛できる、色気のある女になる練習だよ」

 渚は意味が分からずに小野寺の顔をまじまじと見た。薄暗がりの中で、いつもは涼しげな眼差しが妙に熱っぽく見えるような気がする。
 あれ?さっきより更に顔が近い……?
 小野寺の息が頬にかかる気配。戸惑う渚の視界が暗く覆われる。

「俺が教えてやるよ。エロくてイイ女になる方法」
 そう言って小野寺は、唐突に渚の唇を奪った。


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