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Epilogue
先生
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陣野竜一先生に恋をしたのは、高校の入学式だった。
中学の後半から、私の家は少しずつおかしくなっていった。
父が、勤めていた製薬会社のデータ改ざん騒動に巻き込まれ、責任を押し付けられる形で退職に追い込まれた。再就職も上手くいかなくて、もともと繊細で生真面目だった父は挫折感からお酒に逃げるようになってしまった。
収入が途絶え、貯金を食いつぶす日々。母が慣れないパートに出て、なんとか私を高校に進学させてくれた。暴力こそ振るわないものの父は母に辛く当たり、私は自分の部屋でじっと嵐が過ぎるのを待つことが増えていった。
そういうことがあったから、私は高校の入学式の時点でかなり人目を気にしてビクビクしていた。
同じ中学出身の子たちが、私の家のことを周りに話はしないだろうか。自分の家庭の恥部を知られたくない、気の毒な子だと思われたくない、そんな気持ちが私の心にバリアを張った。
高校では明るく振る舞って悩みを悟られないようにしよう、でも同級生とはある程度の距離感を持って付きあおう。そうすればきっと、私の家の事情を知られないで済む。そう心に決めて、緊張しながら入学式に出席した。
私たちの学年を担当する先生方が壇上で紹介された。
年齢が高めの先生が圧倒的に多い中、まだ20代で見た目も悪くない陣野先生は一人だけ周囲から浮いていた。どこかの席から「あのセンセイ、結構良くない?」とヒソヒソ話す女子の声が聞こえてきたのを覚えている。
私も先生のことが気になった。普通に、かっこいい先生だな、数学は苦手だけれどあの先生なら教わりたいな、と密かに思った。
先生は退屈そうな顔をしていた。校長先生の異様に長いわりに通り一遍の話が続く中、他の先生方が神妙な顔をしたり生徒に好かれようと愛想を振りまいているのに、陣野先生だけがちょっと面倒くさそうに淡々とした表情をしていた。
だからこそ、余計に気になった。人目を気にし高校生活をどう取り繕おうかと考えていた私には、先生みたいなタイプは少し羨ましく見えた。
式の後半、体育館の入口付近に移動していた先生をこっそり眼で追っていたら、不意に外から黄色い蝶がひらひらと入り込んできて先生の肩に止まるのが見えた。
ダークスーツの肩先に、蝶は居心地良さそうに留まっていた。私は先生が蝶を追い払うだろうと思ったけれど、先生はそうしなかった。自分の左肩にいる蝶をチラッと見て、フッと優しい眼で笑ったのだ。そうして、そのまま動かずに蝶を止まらせていた。どちらかと言うと不愛想に見えた先生の秘密の顔を見た気がして、私の胸がドキンと鳴った。
私は陣野竜一先生に恋をした。
1年生のときは、私のクラスの数学は別の先生が担当した。陣野先生に教わる子たちが羨ましいと思っていたら、2年生になってなんと先生が私のクラスの担任になった。先生にとっても初めて担任として受け持つクラスだったので、私は嬉しくてたまらなかった。
家の方はますます厳しい状況になっていた。1年生の3学期に、ローンが払えなくなった家を手放して古くて狭い賃貸マンションに引っ越した。父は身体を壊したくせにろくに家に帰ってこなくなり、母もパートの仕事がきつくてよく寝込むようになっていた。私も仕方なく水泳部を辞め、アルバイトの量を増やしたりした。
苦しいと思うことは多かったけれど、世の中には私よりもっと辛い思いをしている人がいると考えて自分を憐れまないようにしていた。そういう生活の中で、先生のクラスの一員になり、先生の授業を受けられることが唯一の喜びだった。
私の泳ぎを偶然見てくれたことがきっかけで、先生とたくさん話せるようになった。先生の方からも、よく私に声をかけてくれるようになった。
先生は自分では全然気付いていないみたいだけれど、本当はとても優しい人だ。
あからさまに人の内情に立ち入ってはこない。でもさりげなく気にかけ、ここぞと言うときに手を差し出してくれる。
私は先生にどんどん惹かれていった。家の中がおかしくなればなるほど、先生と過ごすひとときが私を救ってくれた。
先生には恋人がいると噂に聞いていたから、高望みしちゃいけないと自分を何度もたしなめた。それでも先生を好きだと想う気持ちはどうすることもできなくて、私は先生の優しさについつい甘えてしまった。
先生への憧れは、私のなかでいつしか一生消えない恋に育っていた。
ああいう形で突然転校することになり、先生に何も言わないまま別れたことをずっと悔やんでいた。
人は大袈裟だと思うかもしれないけれど、生きている意味が分からなくなるほど辛かった。
長野に行ってからは、早く忘れなきゃ、早く新しい人生に慣れなきゃと自分を叱咤して、転校先での半年間を必死に耐えた。もう東京には戻れないと祖父にきつく言われ、私は先生への想いを封印するしかなかったのだ。
その祖父のおかげで短大に進学することができ、友達もできた。合コンにも誘われて行ってみたし、そこで出会った人とデートの真似事も何度かしたけれど、大抵1回会っただけで嫌になって逃げ出した。
信用金庫に就職し、先輩の高木さんにプロポーズされても、まるで他人事のように醒めていた。自分の居場所はここじゃないと、はっきり実感したのもそれがきっかけだった。
祖父が亡くなって、私は決心した。失ったものを、自分で手放したものをもう一度探しに行こうと。
もう遅いかもしれない。逢いに行って、不幸な結果に終わってもっと傷つくかもしれない。でも、何もしないで諦めるより、私は自分で自分の人生を切り開いていきたいと思った。その行き着く先が、私にとっては先生だった。
そうして私は東京に戻り、再び先生に辿り着くことができた。先生と、もう二度と離れないと誓いあうことができた。
どんなに距離が離れても、どれだけ時間が経っても、私のなかで先生の存在が消えることは決してなかった。
だから私は、長野に行ってもずっと先生のネクタイを隠し持っていた。先生を感じられる物がどうしても欲しくて、「洗ってくる」と言って持ち出したあの紺色のネクタイ。
先日、先生が私の部屋に泊ったときにあのネクタイを見せて「これ、もう返した方がいいよね?」と聞いたら、「返すも何も、もうすぐ一緒に住むんだから」と笑われた。それで翌朝、出勤前にそのネクタイを私が締めてあげた。先生は結ばれたネクタイを見下ろして、少しだけエッチな顔になった。
先生と私は、予備校の校長と事務長に結婚することを報告した。
お二人はしばし悩んだ末に、本部から何か指摘されるまでは、私を異動させずに今の事務局で働かせると言ってくれた。なんて寛大な方たち。先生は何度もお二人に頭を下げていた。
他の講師やスタッフの人達からは、「やっぱりそういう仲だったのか」と冷やかされるやらブーイングを受けるやらで、先生はちょっと大変そうだった。
先生と私は、結婚を機に新しい部屋に引っ越すことになった。私にプレゼントしてくれたあの美しい肖像画は、新居の寝室に飾ることにした。
自分がモデルになった絵を(しかもヌード!)寝室に飾るなんてナルシストみたいで気が引けるけれど、先生が描いてくれた私の絵だからずっと大切に見ていたいのだ。大好きなあの絵を見ていると、先生の私への想いを感じられて心がとても満たされる。そして、離れ離れだったときのお互いの悲しみを思い出し、今ある幸せを大事にしようと改めて約束しあえる。
先生と結婚することが決まって、私は高校で仲良しだった真樹ちゃんに連絡を取った。先生の方から、「向井に連絡しなくていいのか?」と言ってくれたからだ。
真樹ちゃんには春に東京に戻ったことだけはメールで伝えていたけれど、詳しい話はしていなかった。向こうも社会人一年目で忙しそうだったし、私も先生と同じ予備校で働いているとは言いにくくて会う約束を先延ばしにしていたのだ。
先生が、私の好きなように話していいと言ってくれたので、真樹ちゃんに電話して先生と結婚することになったと報告した。真樹ちゃんは電話口で絶叫し、30分くらいずっと「うそー!うそー!」と盛り上がっていた。仲の良い元サッカー部の松重くんも呼んで先生を交えて会いたいと言われ、私たちは秋が深まる頃に4人で同窓会をした。
私と先生が居酒屋のテーブルに並んで座っているのを見て、真樹ちゃんも松重くんもやたらと興奮していた。
「ほんとにツーショットだよ。信じられない!何このデキあがってる空気!」
「やべー。俺、ちょっと感動。何これ純愛??」
先生はこういうのを嫌がるだろうと思っていたけれど、意外に楽しそうに笑っていたのでホッとした。それどころか、真樹ちゃんと松重くんに「それでおまえたちは何でつきあわないんだ?」と直球を投げて二人を固まらせていた。
二人が「まさかこんなのと」「ありえないよねー」などとぎこちなく否定するのを見て、先生はからかうどころか至極真面目な顔でこう言った。
「そうやって、そばにいるのが当たり前と油断してたり、いつでもどうにかなるって先延ばしにしてると、ある日突然大事なものを失うことがあるんだぞ」
先生の言葉に真樹ちゃんも松重くんも神妙な顔になった。
「大事なものを失うと、取り戻すのに本当に苦労するぞ。それが嫌なら、自分の気持ちに嘘をつくのはやめたほうがいいな」
そう言って、「今の俺、センセイっぽかったよな?」と悪戯な眼で私に微笑んだ。
先生のアドバイスが効いたのか、店を出ると真樹ちゃんと松重くんは「二人でもう一軒行く」と言って私たちと別れた。後ろ姿がなんとなく肩を寄せ合っているように見えたので、「先生、キュービッドになったかもね」と私が言ったら、先生は「世話の焼ける生徒だよな」と私の肩を抱き寄せた。
年明けに私の母を長野から呼び、先生と私と母の3人で仙台を訪れた。
先生の実家にお邪魔して、結婚の挨拶と両家の顔合わせをするのが目的だった。先生のお父様が脚が悪く長距離の移動が辛いので、先生の実家でみんなで食事会をした。
先生のご両親も、弟さん夫婦もみんな優しくていい人たちだった。食事の席で、先生のご両親も実は教師と教え子の関係だった事実を知らされてとても驚いた。特に先生と弟さんはそのことを今までまったく知らなかったそうで、衝撃の事実に言葉を失っていた。
「兄貴、血は争えないな」と弟さんが言ったので、その場は大笑いになった。
母は初めての仙台を満喫していた。弟さんが親切にも老舗旅館を予約してくれていて、母と私はそこに泊り、翌日はたっぷり観光を楽しませてもらった。
そんな母も、長野で製麺工場を営んでいる幼馴染の男性と最近いい雰囲気なのだそうだ。
「再婚しちゃえば?!」と私がけしかけたら、「そうねぇ、どうしようかしら」と満更でもない顔で微笑んでいた。母が幸せそうなので、私はもっと幸せな気持ちになった。
☆
「あ、虹・・・」
コテージの窓辺から、雨あがりの虹が見えた。
先生に教えてあげようと思ってベッドを振り返ったけれど、まだ気持ちよさそうに寝息をたてているので起こすのはやめにした。さっきスコールみたいな雨に降られてビーチから部屋に戻ってきたのだけれど、先生ったら日頃の疲れが溜まっていたのかシャワーの後でベッドに倒れ込んで眠ってしまった。
・・・先生の寝顔って可愛い。いつ見ても飽きない。私は窓辺のチェアから先生の寝姿を眺め、それからまた窓の向こうの虹を見上げる。
ふたりだけの結婚式とハネムーン。南の島の、人の少ないビーチに面した小さなコテージ。
先生が私の泳ぎを見たいと言ったので、ここを選んだのだ。でも海だとプールでクロールを泳ぐようにはいかない。結局先生は私を水の中で捕まえて抱きしめ、いろんなところを触ったりしてふざけてばかりいた。私は先生に触れられるのが嬉しくて、潮の薫りがするキスをたくさんねだった。
もう少ししたら、空が夕日で金色に染まる。そうなる前に、秘密のプレゼントのように姿を見せてくれた虹に向かって私は祈った。
竜一先生とこれからもずっと、死ぬまでずーっと愛しあって一緒に生きていけますように。私の願いはそれだけです。他には何もいりません。
眼を開けると、早くも上の方から虹が色褪せ始めていた。
やっぱり先生にも教えてあげよう。ベッドに近付き、先生の鼻をギュッと摘んだ。「ん、ぐぁっ、何・・・?」と先生が驚いて眼を覚ます。
「先生、虹!虹!」
私は先生の手を引っ張って、無理やり窓辺に連れて行く。先生は呻くような欠伸をしながら、眠そうに窓の外を見た。
「あー、ほんとだ。綺麗だな。・・・きっといいことあるよ、桃」
そう言って私を後ろから抱きしめる。私の肩に顎を乗せて、それから頬っぺたにチュッとキスしてくれる。
ふと、修学旅行のバスでの移動を思い出した。
あのときも私は車窓から虹を見つけて、前の席にいる先生に知らせた。他の生徒がほとんど眠っているか携帯のゲームに夢中だったバスの中、たぶん私と先生だけが、あの虹を見ていた。
「おー、ほんとだ。綺麗だな。早瀬、いいことあるかもしれないぞ」
そうだ。あのときも、先生は今と同じことを言った。先生の予言は当たった。本当に、私の人生には素晴らしいことが起こった。
「あ、消えちゃう・・・」
虹が、空に溶けていく。先生と私は、そのまま黙って虹が消えるのを見守った。きっと私の祈りを天に届けてくれるのだと思い、私は安心して先生の胸に背中を預けた。後ろから覗き込むように先生の顔が近付いて、私の唇を優しく捕える。
先生。私だけの先生。
私がどんなに先生を愛しているか、きっと一生かかっても全部は伝えきれないと思う。
だから私は、毎日先生に愛を伝える。愛してるって何度も言う。先生、私のしつこさに呆れないでね。それで、先生も時々私に愛してるって言ってね。
「・・・桃を愛してるよ。どんなに愛してるか、おまえには想像がつかないくらい」
先生がキスしながら囁いた。もしかしたら先生は、私の心が読めるのかもしれない。
Happily Ever After
中学の後半から、私の家は少しずつおかしくなっていった。
父が、勤めていた製薬会社のデータ改ざん騒動に巻き込まれ、責任を押し付けられる形で退職に追い込まれた。再就職も上手くいかなくて、もともと繊細で生真面目だった父は挫折感からお酒に逃げるようになってしまった。
収入が途絶え、貯金を食いつぶす日々。母が慣れないパートに出て、なんとか私を高校に進学させてくれた。暴力こそ振るわないものの父は母に辛く当たり、私は自分の部屋でじっと嵐が過ぎるのを待つことが増えていった。
そういうことがあったから、私は高校の入学式の時点でかなり人目を気にしてビクビクしていた。
同じ中学出身の子たちが、私の家のことを周りに話はしないだろうか。自分の家庭の恥部を知られたくない、気の毒な子だと思われたくない、そんな気持ちが私の心にバリアを張った。
高校では明るく振る舞って悩みを悟られないようにしよう、でも同級生とはある程度の距離感を持って付きあおう。そうすればきっと、私の家の事情を知られないで済む。そう心に決めて、緊張しながら入学式に出席した。
私たちの学年を担当する先生方が壇上で紹介された。
年齢が高めの先生が圧倒的に多い中、まだ20代で見た目も悪くない陣野先生は一人だけ周囲から浮いていた。どこかの席から「あのセンセイ、結構良くない?」とヒソヒソ話す女子の声が聞こえてきたのを覚えている。
私も先生のことが気になった。普通に、かっこいい先生だな、数学は苦手だけれどあの先生なら教わりたいな、と密かに思った。
先生は退屈そうな顔をしていた。校長先生の異様に長いわりに通り一遍の話が続く中、他の先生方が神妙な顔をしたり生徒に好かれようと愛想を振りまいているのに、陣野先生だけがちょっと面倒くさそうに淡々とした表情をしていた。
だからこそ、余計に気になった。人目を気にし高校生活をどう取り繕おうかと考えていた私には、先生みたいなタイプは少し羨ましく見えた。
式の後半、体育館の入口付近に移動していた先生をこっそり眼で追っていたら、不意に外から黄色い蝶がひらひらと入り込んできて先生の肩に止まるのが見えた。
ダークスーツの肩先に、蝶は居心地良さそうに留まっていた。私は先生が蝶を追い払うだろうと思ったけれど、先生はそうしなかった。自分の左肩にいる蝶をチラッと見て、フッと優しい眼で笑ったのだ。そうして、そのまま動かずに蝶を止まらせていた。どちらかと言うと不愛想に見えた先生の秘密の顔を見た気がして、私の胸がドキンと鳴った。
私は陣野竜一先生に恋をした。
1年生のときは、私のクラスの数学は別の先生が担当した。陣野先生に教わる子たちが羨ましいと思っていたら、2年生になってなんと先生が私のクラスの担任になった。先生にとっても初めて担任として受け持つクラスだったので、私は嬉しくてたまらなかった。
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苦しいと思うことは多かったけれど、世の中には私よりもっと辛い思いをしている人がいると考えて自分を憐れまないようにしていた。そういう生活の中で、先生のクラスの一員になり、先生の授業を受けられることが唯一の喜びだった。
私の泳ぎを偶然見てくれたことがきっかけで、先生とたくさん話せるようになった。先生の方からも、よく私に声をかけてくれるようになった。
先生は自分では全然気付いていないみたいだけれど、本当はとても優しい人だ。
あからさまに人の内情に立ち入ってはこない。でもさりげなく気にかけ、ここぞと言うときに手を差し出してくれる。
私は先生にどんどん惹かれていった。家の中がおかしくなればなるほど、先生と過ごすひとときが私を救ってくれた。
先生には恋人がいると噂に聞いていたから、高望みしちゃいけないと自分を何度もたしなめた。それでも先生を好きだと想う気持ちはどうすることもできなくて、私は先生の優しさについつい甘えてしまった。
先生への憧れは、私のなかでいつしか一生消えない恋に育っていた。
ああいう形で突然転校することになり、先生に何も言わないまま別れたことをずっと悔やんでいた。
人は大袈裟だと思うかもしれないけれど、生きている意味が分からなくなるほど辛かった。
長野に行ってからは、早く忘れなきゃ、早く新しい人生に慣れなきゃと自分を叱咤して、転校先での半年間を必死に耐えた。もう東京には戻れないと祖父にきつく言われ、私は先生への想いを封印するしかなかったのだ。
その祖父のおかげで短大に進学することができ、友達もできた。合コンにも誘われて行ってみたし、そこで出会った人とデートの真似事も何度かしたけれど、大抵1回会っただけで嫌になって逃げ出した。
信用金庫に就職し、先輩の高木さんにプロポーズされても、まるで他人事のように醒めていた。自分の居場所はここじゃないと、はっきり実感したのもそれがきっかけだった。
祖父が亡くなって、私は決心した。失ったものを、自分で手放したものをもう一度探しに行こうと。
もう遅いかもしれない。逢いに行って、不幸な結果に終わってもっと傷つくかもしれない。でも、何もしないで諦めるより、私は自分で自分の人生を切り開いていきたいと思った。その行き着く先が、私にとっては先生だった。
そうして私は東京に戻り、再び先生に辿り着くことができた。先生と、もう二度と離れないと誓いあうことができた。
どんなに距離が離れても、どれだけ時間が経っても、私のなかで先生の存在が消えることは決してなかった。
だから私は、長野に行ってもずっと先生のネクタイを隠し持っていた。先生を感じられる物がどうしても欲しくて、「洗ってくる」と言って持ち出したあの紺色のネクタイ。
先日、先生が私の部屋に泊ったときにあのネクタイを見せて「これ、もう返した方がいいよね?」と聞いたら、「返すも何も、もうすぐ一緒に住むんだから」と笑われた。それで翌朝、出勤前にそのネクタイを私が締めてあげた。先生は結ばれたネクタイを見下ろして、少しだけエッチな顔になった。
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お二人はしばし悩んだ末に、本部から何か指摘されるまでは、私を異動させずに今の事務局で働かせると言ってくれた。なんて寛大な方たち。先生は何度もお二人に頭を下げていた。
他の講師やスタッフの人達からは、「やっぱりそういう仲だったのか」と冷やかされるやらブーイングを受けるやらで、先生はちょっと大変そうだった。
先生と私は、結婚を機に新しい部屋に引っ越すことになった。私にプレゼントしてくれたあの美しい肖像画は、新居の寝室に飾ることにした。
自分がモデルになった絵を(しかもヌード!)寝室に飾るなんてナルシストみたいで気が引けるけれど、先生が描いてくれた私の絵だからずっと大切に見ていたいのだ。大好きなあの絵を見ていると、先生の私への想いを感じられて心がとても満たされる。そして、離れ離れだったときのお互いの悲しみを思い出し、今ある幸せを大事にしようと改めて約束しあえる。
先生と結婚することが決まって、私は高校で仲良しだった真樹ちゃんに連絡を取った。先生の方から、「向井に連絡しなくていいのか?」と言ってくれたからだ。
真樹ちゃんには春に東京に戻ったことだけはメールで伝えていたけれど、詳しい話はしていなかった。向こうも社会人一年目で忙しそうだったし、私も先生と同じ予備校で働いているとは言いにくくて会う約束を先延ばしにしていたのだ。
先生が、私の好きなように話していいと言ってくれたので、真樹ちゃんに電話して先生と結婚することになったと報告した。真樹ちゃんは電話口で絶叫し、30分くらいずっと「うそー!うそー!」と盛り上がっていた。仲の良い元サッカー部の松重くんも呼んで先生を交えて会いたいと言われ、私たちは秋が深まる頃に4人で同窓会をした。
私と先生が居酒屋のテーブルに並んで座っているのを見て、真樹ちゃんも松重くんもやたらと興奮していた。
「ほんとにツーショットだよ。信じられない!何このデキあがってる空気!」
「やべー。俺、ちょっと感動。何これ純愛??」
先生はこういうのを嫌がるだろうと思っていたけれど、意外に楽しそうに笑っていたのでホッとした。それどころか、真樹ちゃんと松重くんに「それでおまえたちは何でつきあわないんだ?」と直球を投げて二人を固まらせていた。
二人が「まさかこんなのと」「ありえないよねー」などとぎこちなく否定するのを見て、先生はからかうどころか至極真面目な顔でこう言った。
「そうやって、そばにいるのが当たり前と油断してたり、いつでもどうにかなるって先延ばしにしてると、ある日突然大事なものを失うことがあるんだぞ」
先生の言葉に真樹ちゃんも松重くんも神妙な顔になった。
「大事なものを失うと、取り戻すのに本当に苦労するぞ。それが嫌なら、自分の気持ちに嘘をつくのはやめたほうがいいな」
そう言って、「今の俺、センセイっぽかったよな?」と悪戯な眼で私に微笑んだ。
先生のアドバイスが効いたのか、店を出ると真樹ちゃんと松重くんは「二人でもう一軒行く」と言って私たちと別れた。後ろ姿がなんとなく肩を寄せ合っているように見えたので、「先生、キュービッドになったかもね」と私が言ったら、先生は「世話の焼ける生徒だよな」と私の肩を抱き寄せた。
年明けに私の母を長野から呼び、先生と私と母の3人で仙台を訪れた。
先生の実家にお邪魔して、結婚の挨拶と両家の顔合わせをするのが目的だった。先生のお父様が脚が悪く長距離の移動が辛いので、先生の実家でみんなで食事会をした。
先生のご両親も、弟さん夫婦もみんな優しくていい人たちだった。食事の席で、先生のご両親も実は教師と教え子の関係だった事実を知らされてとても驚いた。特に先生と弟さんはそのことを今までまったく知らなかったそうで、衝撃の事実に言葉を失っていた。
「兄貴、血は争えないな」と弟さんが言ったので、その場は大笑いになった。
母は初めての仙台を満喫していた。弟さんが親切にも老舗旅館を予約してくれていて、母と私はそこに泊り、翌日はたっぷり観光を楽しませてもらった。
そんな母も、長野で製麺工場を営んでいる幼馴染の男性と最近いい雰囲気なのだそうだ。
「再婚しちゃえば?!」と私がけしかけたら、「そうねぇ、どうしようかしら」と満更でもない顔で微笑んでいた。母が幸せそうなので、私はもっと幸せな気持ちになった。
☆
「あ、虹・・・」
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・・・先生の寝顔って可愛い。いつ見ても飽きない。私は窓辺のチェアから先生の寝姿を眺め、それからまた窓の向こうの虹を見上げる。
ふたりだけの結婚式とハネムーン。南の島の、人の少ないビーチに面した小さなコテージ。
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もう少ししたら、空が夕日で金色に染まる。そうなる前に、秘密のプレゼントのように姿を見せてくれた虹に向かって私は祈った。
竜一先生とこれからもずっと、死ぬまでずーっと愛しあって一緒に生きていけますように。私の願いはそれだけです。他には何もいりません。
眼を開けると、早くも上の方から虹が色褪せ始めていた。
やっぱり先生にも教えてあげよう。ベッドに近付き、先生の鼻をギュッと摘んだ。「ん、ぐぁっ、何・・・?」と先生が驚いて眼を覚ます。
「先生、虹!虹!」
私は先生の手を引っ張って、無理やり窓辺に連れて行く。先生は呻くような欠伸をしながら、眠そうに窓の外を見た。
「あー、ほんとだ。綺麗だな。・・・きっといいことあるよ、桃」
そう言って私を後ろから抱きしめる。私の肩に顎を乗せて、それから頬っぺたにチュッとキスしてくれる。
ふと、修学旅行のバスでの移動を思い出した。
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「おー、ほんとだ。綺麗だな。早瀬、いいことあるかもしれないぞ」
そうだ。あのときも、先生は今と同じことを言った。先生の予言は当たった。本当に、私の人生には素晴らしいことが起こった。
「あ、消えちゃう・・・」
虹が、空に溶けていく。先生と私は、そのまま黙って虹が消えるのを見守った。きっと私の祈りを天に届けてくれるのだと思い、私は安心して先生の胸に背中を預けた。後ろから覗き込むように先生の顔が近付いて、私の唇を優しく捕える。
先生。私だけの先生。
私がどんなに先生を愛しているか、きっと一生かかっても全部は伝えきれないと思う。
だから私は、毎日先生に愛を伝える。愛してるって何度も言う。先生、私のしつこさに呆れないでね。それで、先生も時々私に愛してるって言ってね。
「・・・桃を愛してるよ。どんなに愛してるか、おまえには想像がつかないくらい」
先生がキスしながら囁いた。もしかしたら先生は、私の心が読めるのかもしれない。
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