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Lesson 1
助手席
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あの日を最後に、早瀬桃は俺の前から姿を消した。
桃が俺の部屋を訪れた翌日、俺は2学期の授業計画書を半日かけて完成させ、そのまま爆睡した。翌朝だるい身体を引きずって出勤し、久しぶりの学校の空気にやけに新鮮な気分を味わった。
生徒達はまだあと数日夏休みが残っているが、教師は2学期の授業や行事の準備で慌ただしい。しかも俺たちは3年生を受け持っているため、いよいよ受験に向けての具体的な指導を考えねばならなかった。
だが俺は、一昨日桃と過ごした濃密な時間に心を奪われたままだった。9月になって桃と最初に会うとき、果たして俺は冷静でいられるだろうかと、そんなことばかり考えていた。
朝、職員室で仙台土産の菓子を袋から出しているとき、水泳部の合宿で真っ黒に日焼けした市川先生が寄ってきて小声で俺に問いかけた。
「聞いた?早瀬さん、転校だってね」
「・・・は?」
一瞬言葉の意味が分からず、俺はポカンとした顔で小柄な市川先生を見下ろした。
「早瀬さんよ。早瀬桃。長野の高校に転校だって。陣野先生、やっぱり聞いてないんだ」
まだ意味が分からず、俺は数秒間黙り込んだ。早瀬という名の生徒が他にいるのかと思った。いや、うちの学年にはいない。しかも今、市川先生は確かに『早瀬桃』と言わなかったか・・・?
「・・・え、早瀬、ですか?・・・なんで?」
「お家でいろいろあって、経済的にももうこっちではやっていけなくなったらしいよ。長野にお母さんの実家があるとかで、早瀬さんのお祖父さんが全部面倒見ることになったって」
俺は市川先生の顔をまじまじと見ながら、今聞いた言葉を頭の中で繰り返した。何度反芻しても、上手く頭が理解してくれない。
「転校、ですか?早瀬桃が?」
・・・ちょっと待ってくれ。俺は何も聞いてない。そんなこと、一言も言ってなかったじゃないか。だいたい桃は、一昨日俺の部屋に来て、俺とあんなことを・・・。
足元から悪寒が這い上がってくるような感覚に襲われ、背筋がスーッと冷たくなった。心臓が急にドクドクと激しく暴れ出す。・・・桃が転校?長野?いったい何のことだ?
「アタシも一昨日知ったのよ。工藤先生がね、本人から口止めされててギリギリまで内密にしてたみたい。一昨日さ、転校手続きの書類を取りに早瀬さんが学校に来て、そのときアタシとかごく一部の教師だけ挨拶されたの。陣野先生にも会いたがってたけど、休みだって言ったら残念そうにしてたよ」
首筋に冷たい汗が浮いてきた。俺は動揺を押し隠し、適当な相槌を打ちながら目まぐるしく頭を回転させた。一昨日?桃が俺の部屋に来た日じゃないか。あのとき俺を訪ねて来たのは、別れの挨拶のためだったのか・・・?
「・・・いつ?いつですか?転校って」
「あー、もう2学期から。すぐ引っ越すって言ってたよ。大変よねぇ。あと半年かそこらで卒業なんだから、どうせならもう少しこっちにいられれば良かったのに。でもしょうがないんだって。お母さんも身体壊しちゃったらしいし」
引っ越し?すぐって、いつだ・・・?俺は振り返ってカレンダーに目を走らせた。あと数日で9月になる。2学期から転校ということは、まだこっちにいるのか・・・?
「ちょっと、大丈夫?なんか顔色悪いよ。・・・陣野くん、あの子のこと可愛がってたもんね。こういうの、教師としてもちょっとショックよね」
俺の様子が傍から見てもおかしかったのか、市川先生が励ますように背中をポンポンと叩いてくる。何か考えなければと思うのに、思考がまったく追いついてこない。
会議どころではなかった。今すぐ桃の家に車を走らせ、本当なのか確かめなければと思った。何か上手い言い訳を見つけて、今すぐここを抜けださないと・・・。
「はい、会議始めまーす!全員集まって」
桃の担任の工藤先生が、書類を掲げながら職員室全体に声をかけた。一瞬、俺と眼が合う。工藤先生は以前から俺と桃のことを微妙に疑っていた。まるで何かを咎めるような眼でじっと見据えられ、俺は力なく視線を逸らした。
長い会議の間、俺はまったく議事の内容が頭に入ってこなかった。
他の先生方がプリントをめくる音に気付いて慌ててページをめくり、見当違いの場所を何度も開いた。自分が発言すべきときも指名れているのに気付かずぼんやりし、隣の先生に突かれて冷や汗をかいた。
今は仕事中だ。頭を切り替えなければと思うのに、脳みそが全部桃のことでいっぱいになっていた。
昼休憩は校長が特別に用意してくれた仕出し弁当をみんなで食べたが、味がまったく分からず無理やり喉に押し込んだ。
俺は桃の携帯の番号もアドレスも未だに知らない。俺も教えていない。それはうちの学校のルールだった。弁当を食べた後、早瀬家の電話番号を生徒の住所録で調べて電話してみようかと思ったが、そんな時間もチャンスもなかった。午後の会議は食後すぐに始まり、3時半まで苦痛以外の何物でもない苦行に縛られた。
ようやく会議や面倒な雑務が終り、解放されたのは4時過ぎだった。
俺は手を付けるべき仕事も放置して職員室を飛び出し、桃の自宅マンションに車を走らせた。
信号待ちの僅かな時間すらもどかしかった。緩んだ顔でのんびり街を歩く人々に訳もなく苛立つ。進学塾のバッグを肩から掛けた小学生が、横断歩道を斜めに渡って俺の眼の前を走り過ぎて行く。
陽が傾くのが以前より早くなっていることに気付いた。夏が終わろうとしているのを、俺ははっきりと身体で感じ取った。
桃の自宅前に到着すると、俺は路上駐車したままマンションの入り口に走った。
郵便受けのボックスの名札を見る。たしか4階のはずだ。401から406まであるが、『早瀬』の文字は見つからない。402号室のボックスだけ、名札が抜き取られて空白になっていた。
エレベーターは一基しかなく上で使用中だった。脇にある階段を使うことにして、4階目指して一気に駆け上がる。
噴き出した汗を拭いながら4階に辿り着き、402号室の前まで走った。
表札はやはりなかった。チャイムを数回鳴らしたが応答がない。一瞬ためらった後ドアノブを握って回してみたが、当然ながら鍵が掛かっていて開かなかった。
・・・間に合わなかったか。もう行ってしまった後なのか。
灰色の古い玄関ドアを強い西日が照らしている。俺はがっくりと身体を折り曲げ、両手を膝に当てた。階段を駆け上がったせいで息が乱れている。ハァハァと荒い呼吸を繰り返していたら、重力のせいで目頭に水分が溜まってきた。
「あの・・・、早瀬さんなら引っ越しましたよ?」
背後から突然声を掛けられ振り向くと、初老の女性が買い物袋を提げて俺を見ていた。いかにも話し好きそうな主婦という感じの白髪交じりの女性は、「早瀬さんのお知り合い?」と俺に聞いてくる。俺は頷いて、藁をもすがる思いで女性に近づいた。
「いつ、引っ越されたんですか・・・?」
「今朝早くよ。奥さんと娘さんで。どこだっけ?信州かしら?奥さんのご実家に戻るんですって」
「今朝・・・」
桃は昨日までは確実にここにいたのだ。ここで、引っ越しの準備をしていた。
昨日の俺は何をしていた?家で桃のことを何度も思い浮かべながら、パソコンに向かってつまらない授業計画を打ち込んでいた。
「大変だったわよねぇ。ご主人があんなことになって」
「あの、何があったんですか?」
人が良さそうに見えて実は噂好きという感じの主婦が、さして躊躇することもなく事の顛末を説明し始めた。
「ほら、早瀬さんのご主人、お酒で肝臓やられて入院してたでしょ?で、退院した後は家にあんまり寄り付かなくなってたのよね。お仕事もする気配がなくて。奥さんパートのお仕事増やしたり、娘さんもアルバイトしたりしてがんばってたけどねぇ。結局、先月ご主人亡くなったじゃない?」
「・・・亡くなったんですか?」
「あら、ほんとに知らないのねぇ。そうなのよ、7月にね。お酒飲んだまま川に落ちちゃって溺れたんですって。事故なのか、自殺・・・?なのか分からなかったみたいよ。お気の毒だけど、前からたまに帰ってきても奥さんに辛く当たったり、外で酔ってケンカして警察のお世話になったりしてたしね。何度かここにもパトカーが来たりしてね、奥さんも居づらくなってたみたい。結局ご主人亡くされて、心労で参っちゃったみたいなのよね。だから、これを機に実家に帰ることにしたんですって」
終業式を休んでいた桃を思い出した。たしか「家庭の事情らしい」と工藤先生が言っていた。あのとき父親が亡くなっていたと言うのか。
そんな大事なことを、桃は一言も話さなかった。2日前に俺に絵を描いてくれとせがんだときも、俺の視界を奪って唇を重ねたときも。
話し好きの主婦に頭を下げ、俺は空っぽの早瀬家を後にした。
階段を降りるとき、膝に力が入らないのが自分でも笑えた。路駐した車に戻って力なくドアを開ける。むわっと生ぬるい空気が押し寄せてきたが、俺は構わず運転席に座り、そのままハンドルに突っ伏した。
一昨日の桃の表情、言動を必死に想い返した。たしかにいつもと様子が違っていた。
わざわざ訪ねて来て、あのとき俺に別れを伝えようとしたのだろうか。それならどうして、こんな大事なことを話さないまま去って行ったのか。
あんなふうに忘れられないキスとぬくもりだけ残して、俺の心を奪って、どうして黙って消えることができたのか。
ハンドルから斜めに顔を上げ、誰も座っていない助手席に眼をやった。
今年の初め、凍てつくほど寒い夕方、マフラーに顔を埋めた桃がここに座っていた。「メシを奢ってやる」と言ったら驚いて大きな眼を更に大きく見開き、それから嬉しそうに瞳を潤ませた。
手を伸ばしたら、桃の幻を抱きしめられそうな気がする。俺はこの手であいつを一度も抱きしめなかったことを、激しく悔やんだ。
車を停めたまま、誰も座っていない助手席を長いこと見つめていた。俺の眼にも桃と同じような透明な膜が張り、やがて視界が曇った。
桃が俺の部屋を訪れた翌日、俺は2学期の授業計画書を半日かけて完成させ、そのまま爆睡した。翌朝だるい身体を引きずって出勤し、久しぶりの学校の空気にやけに新鮮な気分を味わった。
生徒達はまだあと数日夏休みが残っているが、教師は2学期の授業や行事の準備で慌ただしい。しかも俺たちは3年生を受け持っているため、いよいよ受験に向けての具体的な指導を考えねばならなかった。
だが俺は、一昨日桃と過ごした濃密な時間に心を奪われたままだった。9月になって桃と最初に会うとき、果たして俺は冷静でいられるだろうかと、そんなことばかり考えていた。
朝、職員室で仙台土産の菓子を袋から出しているとき、水泳部の合宿で真っ黒に日焼けした市川先生が寄ってきて小声で俺に問いかけた。
「聞いた?早瀬さん、転校だってね」
「・・・は?」
一瞬言葉の意味が分からず、俺はポカンとした顔で小柄な市川先生を見下ろした。
「早瀬さんよ。早瀬桃。長野の高校に転校だって。陣野先生、やっぱり聞いてないんだ」
まだ意味が分からず、俺は数秒間黙り込んだ。早瀬という名の生徒が他にいるのかと思った。いや、うちの学年にはいない。しかも今、市川先生は確かに『早瀬桃』と言わなかったか・・・?
「・・・え、早瀬、ですか?・・・なんで?」
「お家でいろいろあって、経済的にももうこっちではやっていけなくなったらしいよ。長野にお母さんの実家があるとかで、早瀬さんのお祖父さんが全部面倒見ることになったって」
俺は市川先生の顔をまじまじと見ながら、今聞いた言葉を頭の中で繰り返した。何度反芻しても、上手く頭が理解してくれない。
「転校、ですか?早瀬桃が?」
・・・ちょっと待ってくれ。俺は何も聞いてない。そんなこと、一言も言ってなかったじゃないか。だいたい桃は、一昨日俺の部屋に来て、俺とあんなことを・・・。
足元から悪寒が這い上がってくるような感覚に襲われ、背筋がスーッと冷たくなった。心臓が急にドクドクと激しく暴れ出す。・・・桃が転校?長野?いったい何のことだ?
「アタシも一昨日知ったのよ。工藤先生がね、本人から口止めされててギリギリまで内密にしてたみたい。一昨日さ、転校手続きの書類を取りに早瀬さんが学校に来て、そのときアタシとかごく一部の教師だけ挨拶されたの。陣野先生にも会いたがってたけど、休みだって言ったら残念そうにしてたよ」
首筋に冷たい汗が浮いてきた。俺は動揺を押し隠し、適当な相槌を打ちながら目まぐるしく頭を回転させた。一昨日?桃が俺の部屋に来た日じゃないか。あのとき俺を訪ねて来たのは、別れの挨拶のためだったのか・・・?
「・・・いつ?いつですか?転校って」
「あー、もう2学期から。すぐ引っ越すって言ってたよ。大変よねぇ。あと半年かそこらで卒業なんだから、どうせならもう少しこっちにいられれば良かったのに。でもしょうがないんだって。お母さんも身体壊しちゃったらしいし」
引っ越し?すぐって、いつだ・・・?俺は振り返ってカレンダーに目を走らせた。あと数日で9月になる。2学期から転校ということは、まだこっちにいるのか・・・?
「ちょっと、大丈夫?なんか顔色悪いよ。・・・陣野くん、あの子のこと可愛がってたもんね。こういうの、教師としてもちょっとショックよね」
俺の様子が傍から見てもおかしかったのか、市川先生が励ますように背中をポンポンと叩いてくる。何か考えなければと思うのに、思考がまったく追いついてこない。
会議どころではなかった。今すぐ桃の家に車を走らせ、本当なのか確かめなければと思った。何か上手い言い訳を見つけて、今すぐここを抜けださないと・・・。
「はい、会議始めまーす!全員集まって」
桃の担任の工藤先生が、書類を掲げながら職員室全体に声をかけた。一瞬、俺と眼が合う。工藤先生は以前から俺と桃のことを微妙に疑っていた。まるで何かを咎めるような眼でじっと見据えられ、俺は力なく視線を逸らした。
長い会議の間、俺はまったく議事の内容が頭に入ってこなかった。
他の先生方がプリントをめくる音に気付いて慌ててページをめくり、見当違いの場所を何度も開いた。自分が発言すべきときも指名れているのに気付かずぼんやりし、隣の先生に突かれて冷や汗をかいた。
今は仕事中だ。頭を切り替えなければと思うのに、脳みそが全部桃のことでいっぱいになっていた。
昼休憩は校長が特別に用意してくれた仕出し弁当をみんなで食べたが、味がまったく分からず無理やり喉に押し込んだ。
俺は桃の携帯の番号もアドレスも未だに知らない。俺も教えていない。それはうちの学校のルールだった。弁当を食べた後、早瀬家の電話番号を生徒の住所録で調べて電話してみようかと思ったが、そんな時間もチャンスもなかった。午後の会議は食後すぐに始まり、3時半まで苦痛以外の何物でもない苦行に縛られた。
ようやく会議や面倒な雑務が終り、解放されたのは4時過ぎだった。
俺は手を付けるべき仕事も放置して職員室を飛び出し、桃の自宅マンションに車を走らせた。
信号待ちの僅かな時間すらもどかしかった。緩んだ顔でのんびり街を歩く人々に訳もなく苛立つ。進学塾のバッグを肩から掛けた小学生が、横断歩道を斜めに渡って俺の眼の前を走り過ぎて行く。
陽が傾くのが以前より早くなっていることに気付いた。夏が終わろうとしているのを、俺ははっきりと身体で感じ取った。
桃の自宅前に到着すると、俺は路上駐車したままマンションの入り口に走った。
郵便受けのボックスの名札を見る。たしか4階のはずだ。401から406まであるが、『早瀬』の文字は見つからない。402号室のボックスだけ、名札が抜き取られて空白になっていた。
エレベーターは一基しかなく上で使用中だった。脇にある階段を使うことにして、4階目指して一気に駆け上がる。
噴き出した汗を拭いながら4階に辿り着き、402号室の前まで走った。
表札はやはりなかった。チャイムを数回鳴らしたが応答がない。一瞬ためらった後ドアノブを握って回してみたが、当然ながら鍵が掛かっていて開かなかった。
・・・間に合わなかったか。もう行ってしまった後なのか。
灰色の古い玄関ドアを強い西日が照らしている。俺はがっくりと身体を折り曲げ、両手を膝に当てた。階段を駆け上がったせいで息が乱れている。ハァハァと荒い呼吸を繰り返していたら、重力のせいで目頭に水分が溜まってきた。
「あの・・・、早瀬さんなら引っ越しましたよ?」
背後から突然声を掛けられ振り向くと、初老の女性が買い物袋を提げて俺を見ていた。いかにも話し好きそうな主婦という感じの白髪交じりの女性は、「早瀬さんのお知り合い?」と俺に聞いてくる。俺は頷いて、藁をもすがる思いで女性に近づいた。
「いつ、引っ越されたんですか・・・?」
「今朝早くよ。奥さんと娘さんで。どこだっけ?信州かしら?奥さんのご実家に戻るんですって」
「今朝・・・」
桃は昨日までは確実にここにいたのだ。ここで、引っ越しの準備をしていた。
昨日の俺は何をしていた?家で桃のことを何度も思い浮かべながら、パソコンに向かってつまらない授業計画を打ち込んでいた。
「大変だったわよねぇ。ご主人があんなことになって」
「あの、何があったんですか?」
人が良さそうに見えて実は噂好きという感じの主婦が、さして躊躇することもなく事の顛末を説明し始めた。
「ほら、早瀬さんのご主人、お酒で肝臓やられて入院してたでしょ?で、退院した後は家にあんまり寄り付かなくなってたのよね。お仕事もする気配がなくて。奥さんパートのお仕事増やしたり、娘さんもアルバイトしたりしてがんばってたけどねぇ。結局、先月ご主人亡くなったじゃない?」
「・・・亡くなったんですか?」
「あら、ほんとに知らないのねぇ。そうなのよ、7月にね。お酒飲んだまま川に落ちちゃって溺れたんですって。事故なのか、自殺・・・?なのか分からなかったみたいよ。お気の毒だけど、前からたまに帰ってきても奥さんに辛く当たったり、外で酔ってケンカして警察のお世話になったりしてたしね。何度かここにもパトカーが来たりしてね、奥さんも居づらくなってたみたい。結局ご主人亡くされて、心労で参っちゃったみたいなのよね。だから、これを機に実家に帰ることにしたんですって」
終業式を休んでいた桃を思い出した。たしか「家庭の事情らしい」と工藤先生が言っていた。あのとき父親が亡くなっていたと言うのか。
そんな大事なことを、桃は一言も話さなかった。2日前に俺に絵を描いてくれとせがんだときも、俺の視界を奪って唇を重ねたときも。
話し好きの主婦に頭を下げ、俺は空っぽの早瀬家を後にした。
階段を降りるとき、膝に力が入らないのが自分でも笑えた。路駐した車に戻って力なくドアを開ける。むわっと生ぬるい空気が押し寄せてきたが、俺は構わず運転席に座り、そのままハンドルに突っ伏した。
一昨日の桃の表情、言動を必死に想い返した。たしかにいつもと様子が違っていた。
わざわざ訪ねて来て、あのとき俺に別れを伝えようとしたのだろうか。それならどうして、こんな大事なことを話さないまま去って行ったのか。
あんなふうに忘れられないキスとぬくもりだけ残して、俺の心を奪って、どうして黙って消えることができたのか。
ハンドルから斜めに顔を上げ、誰も座っていない助手席に眼をやった。
今年の初め、凍てつくほど寒い夕方、マフラーに顔を埋めた桃がここに座っていた。「メシを奢ってやる」と言ったら驚いて大きな眼を更に大きく見開き、それから嬉しそうに瞳を潤ませた。
手を伸ばしたら、桃の幻を抱きしめられそうな気がする。俺はこの手であいつを一度も抱きしめなかったことを、激しく悔やんだ。
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