Home, Sweet Home

茜色

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当惑

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「あ、何ー?にやけちゃって。彼氏からラブラブメール?」
 隣に座っている佐川さんが、朗らかな笑顔で私の顔を覗き見た。
「あ、いえいえ、そんな」
 室井くんの手前、あまり具体的なことは言いたくない。私が笑ってごまかすと、佐川さんは屈託のない様子で更に問いかけてきた。

「庄野ちゃんさー、最近キレイになったよね。なんかエステとか行ってる?」
「え?ホントですか?お世辞でも嬉しいなぁ。エステは行ってないけど、お肌の手入れにちょっと気を使ってるからかな」
「そうなんだ、何使ってるの?あ、でもそういうお手入れうんぬんより、もっとこう、内面キラキラ系?恋でもしてる感じだなぁ。まさか相手は室井じゃないよね・・・。うん、それはナイ」
「なんで、オレはナシなんですか!オレが鞠子さんの恋人かもしれないでしょう」
「それはないわ。断じて、ナイ。庄野ちゃんは年上の男が好みだもんねー」
「あはは、えーと、まあ・・・」
 佐川さんとは以前、飲み会の席で好みのタイプを話したことがあった。向かいの席で室井くんの表情が微妙に険しくなっているのがチラリと見え、私は早く話題を変えたくなった。

「ねえ、庄野ちゃん。藤堂さんとかどう?結構お似合いだと思うよ。最近よく一緒に仕事してるし、二人いい感じじゃない。ねえ?」
「あ、そう・・・ですね。すごくいい人で、良くしてもらってます・・・」
「そーいえばさ!昔、藤堂さんがまだ前の会社にいた頃さ、フードフェスやったじゃん。あれの打ち上げで庄野ちゃんが酔っぱらっちゃって、藤堂さんが面倒見てくれたことあったよねー。あのときアタシら、カラオケ行きたくてさっさと帰っちゃったんだよね、ごめんねー。ていうか、あのとき藤堂さんと何かあったりしなかったの?お持ち帰りとかさ」
 佐川さんが俄然興味津々な顔で私ににじり寄ってくる。内心ギクリとしながら「何もあるわけないじゃないですかー」と笑って流そうとしたとき、室井くんが飲んでいた水のグラスを勢いよくテーブルに置いた。音にびっくりして顔を見ると、私を咎めるような強い瞳で見つめてくるので少し怖くなった。

「藤堂次長はダメですよ。あの人は女なんてより取り見取りですからね。鞠子さんはああいう人に引っかかっちゃダメです、苦労するだけだから。それに鞠子さんにはオレがいるんだから」
「しつこいなー。あんた、まだ庄野ちゃんのこと諦めてないの?ダメダメ。どっちにしたって藤堂さんには敵いっこないんだから」
「いやいや、オレだって負けませんよ。少なくともオレは一途に鞠子さんオンリーですからねー」
 笑ってはいるが、室井くんの言葉には棘があった。
 
 室井くんは私が藤堂さんに惹かれていることに気付いているのだろう。きっと視線や態度を観察していて、前から警戒していたに違いない。そして力づくでもそれを阻止しようとしている。
「藤堂さんは、ああ見えて結構上昇志向が強いし、ちゃっかりしてると思いますよ。今回の社長との出張だって、社長の姪との見合いがメインだそうですから」
「えっ!そうなの?マジで?!」
 室井くんは佐川さんに話しながら、視線を真っすぐ私に向けていた。
 社長の姪とお見合い・・・?そんなの聞いていない。そんなの知らない・・・。

「でも、藤堂さん、お見合いは断ったって聞いたけど・・・」
 できるだけ平静を装って反論してみる。が、室井くんにぴしゃりと跳ね返された。
「この前は断ってたけど、今回は相手が社長の姪だから会うことにしたみたいですよ。社長、実家が福岡でしょう?お兄さんが九州では結構有名な会社の役員で、その娘さんがまだ22歳の美人なんだって。話がまとまれば、うちの会社にも恩恵あるんじゃないかなー。あっち方面の事業拡大にもなるし」
「えー、初耳!室井、あんたって情報通だねー。でも藤堂さんならどっかの令嬢とかにも気に入られそうだもんね。社長のお墨付きだし、これはひょっとしたらひょっとするかねぇ?」
 会話はそこで途切れた。テーブルにラーメンが運ばれてきたからだ。私は黙って割り箸を手に取ると、味の分からないラーメンを啜り始めた。室井くんが前の席からじっと私の顔を見ていたが、完全に無視した。

 室井くんに怒っても仕方ないが、腹が立って苦しくて、胸がズキズキ痛んだ。
 一昨日の夜、何度もキスして情熱的に抱いてくれた藤堂さんを想い出し、視界が揺れて曇った。
ラーメンのせいで汗をかいたふりをして、ハンカチを顔に当てる。動揺していることを室井くんにも佐川さんにも悟られたくなかった。
 藤堂さんはあんなに優しく激しく私を求めてくれた。ずっと忘れられなかったと打ち明けてくれた。でもそういえば、「好き」だとは言ってくれなかった。そうだ。私たちはまだ、「好き」という想いを言葉では伝えあっていない・・・。

 藤堂さんは、私を「好き」なのだろうか。
 もしかしたら「忘れられなかった」と言うのは、心ではなく身体だけ、なのだろうか。だから、私を心から好きなわけではないから、結婚する相手は別に探すということなのだろうか。
 ・・・そんな人じゃない。室井くんの話だけで疑うのは藤堂さんに失礼だ。そう自分に言い聞かせながらも、胸に広がっていく黒々とした不安の影に負けそうになる。
 早く家に帰ろう。帰って、藤堂さんに逢わなければ。私はグッと姿勢を正すと残りのラーメンを急いで食べ終えた。


 最寄り駅で電車を降りるとき、室井くんが私を家まで送ると言って一緒にホームに降り立った。
「大丈夫だって。うち、駅からそんなに遠くないし。ほら、電車に戻って」
 私は室井くんの背中に手を添えて列車に押し戻そうとした。けれども室井くんはスルリと逃げてしまい、私より先にホームをスタスタ歩いて行く。私は困惑と苛立ちで立ちすくんでしまった。
 どうしてこの子は自分の思うままに行動しようとするのだろう。ラーメン屋でのやり取りから、今の私はあまり彼と話をしたい気分じゃない。それにおそらく家にはもう藤堂さんが帰っているはずだ。室井くんを家の前まで来させるわけにはいかない。

「ねえ、本当にこういうの、困るから。室井くん、隣の駅でしょ?」
「一駅分くらい歩けますよ。大丈夫、鞠子さんの家がだいたいどのへんか分かってるし、オレのアパートからそんなに遠くないはずだから」
 全然言うことを聞いてくれない。この子は仕事でも意外と思い込みが強くて強情なのだ。
 仕方ない。こうなったら家の近くで上手いこと振り切って、別れるしかない。そう思って仕方なく並んで歩き出した。

「懐かしいなー。オレが入社2年目にミスやらかしたときも、鞠子さんとラーメン食べて一緒に帰りましたよね。落ち込んでるオレを慰めてくれて。あのときから鞠子さんに惚れちゃったんだよなぁ」
 夜更けの道を歩きながら、あまり和やかではない雰囲気を打ち消すように室井くんが明るく話しかけてくる。
「オレのミス、鞠子さんが手伝ってフォローしてくれてね。帰りにラーメン誘ってくれて。優しい人だなーってグッときたんですよね。もともと入社した時から可愛いなーって思ってたし」
「私も新人の頃、似たようなミスしたことあったから・・・」
 入社時から生意気で態度の大きかった室井くんが、2年目の秋に取引先をひどく怒らせたことがあった。私も少し関わっていた案件だったので彼を手伝ってなんとか事態を収拾し、客先からの帰り道、元気づけようとラーメンを奢った。それだけのことだ。離れて暮らす自分の弟の姿を、室井くんに重ねたのかもしれない。でも室井くんにとってあのときの出来事は、私が覚えていたよりずっとくっきりと胸に刻まれたものだったのだろう。5年前の私が、藤堂さんのぬくもりに救われたように。

「鞠子さんは、オレがいつも好きだの結婚したいだの軽いノリで言ってるから本気に思ってないかもしれないけど、オレ、本気ですよ。でもフツーに口説いたって相手にされないの分かってるから、こういうふうにデカイ声で周りにアピールして、鞠子さんはオレのものっていう空気に持っていければって思ってた。鞠子さん、なかなか本命の彼氏作らないから、それってなんだかんだでオレのことまんざらでもないからかなー、なんて思ったし」
 室井くんの声はいつもより真面目なトーンで、それが私の逃げ場を奪っている。
 そんなふうに人に想われるのはとてもありがたいし、幸せなことなのだと思う。でも今の私には答えることができない。

 困った。もうすぐ我が家に着いてしまう。どうやって振り切ればいいのか。
「鞠子さん、なんか言ってくださいよ。オレ、鞠子さんを他の誰かに盗られたくない」
「・・・盗られるとか、私はモノじゃないよ。誰を好きになるかは私が決めることだもの」
「そりゃそうだけど」
 どうしよう。もう家が見えてきた。ああ、門灯が点いている。藤堂さんが帰っている。
「室井くんが私なんかのこと、そういうふうに思ってくれるのはとても光栄だけど、私たちは普通の仕事仲間でいた方がいいよ。室井くんのこと好きだけど、それは仲間としてであって・・・」
「そんなの嫌だ」
 室井くんが私の手首を掴んで引き寄せようとするので、咄嗟に拒んだ。心拍数が一気に上がる。

「室井くん、ごめん。もう家に着いたから。いろいろありがとう。でも気持ちに答えられないの。ごめんね」
 室井くんから離れ、この場から逃れたい一心で急いで門扉に手を伸ばした。
「・・・誰かいる」
「え?」
「鞠子さんの家に、誰かいる」
 私はギクリとして振り返った。室井くんの眼が、玄関口を照らす門灯に、引き戸の擦りガラス越しに漏れる淡い光に釘付けになっていた。


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