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失恋と残業
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腕時計を見ると、既に8時半を回っていた。
入社6年目、28歳の椎名澪は、たった一人で暗いオフィスに居残っていた。
この会社と来たら、みんな呆れるほど帰宅が早くて、5時半の定時と共に女子社員は風のように去っていくし、男性陣も残っていてもせいぜい7時か8時。今時これほど残業をしない民間企業も珍しいんじゃないかと思うけれど、ここの社長の方針で「一気に働き、さっさと帰る」が社訓になっている。そうは言っても実際の仕事量はそれなりに膨大なので、こうして月に何度かは居残る羽目になってしまう。
パソコンのキーボードが無機質な音を響かせる。最後の見積書をプリントアウトし終えた澪は、椅子に座ったまま思い切り伸びをした。自分のデスク回りのみ照明を点けているので、フロア全体は薄暗く静まりかえっている。今日は本当だったら女子会に誘われていた。でもどうしても行く気がしなくて、一人こうしてオフィスに残っている。会社ってこういう時ありがたい。行き場のない自分を守ってくれる、安全なシェルターみたいだ。
先週から、澪の感情は麻痺していた。日中、同僚や友人の前ではいつも通り明るく笑って過ごしている。笑えているはずだ。けれどもこうして夜に一人になると、無気力な喪失感に襲われる。底なし沼にズブズブと落ちていきそうな気持ちになる。
失恋はもちろん初めてではない。しかも相手と疎遠になってからもう一年も経つ。すっかり傷も癒えたはずだった。それなのに、このむなしさは何なのだろう。
今までの人生において失恋した時は、それがどんなに淡い一方的な片思いだったとしても、自然と涙が溢れてバスルームや蒲団のなかでさめざめと泣いたものだ。それなのに、あの男に対しては、不思議と涙というものが出てこなかった。動き始めたばかりの恋だったのに、あっけないほどストンと終わってしまったからかもしれない。
涙が出ないので自分はあまり悲しくないのではないかと思ったが、むしろ逆のようだった。要は、低温火傷のような痛みなのだ。オイオイ泣くほどはっきりした痛みじゃない。けれども気づいたらいつまでも傷跡が消えずに、しつこく胸に巣食う痛み。いっそ思い切り泣けたほうがスッキリするのに。
M支店の1年先輩の男。彼とは、ほんの数回デートしただけだった。
もともと飲み会などで面識はあったが、仕事を通じて電話のやり取りをするうちに仲良くなって、いつしかデートに誘われるようになった。遠距離と言うほどではないにしろ住んでいる場所が結構遠かったので、なかなか二人で会う機会を持てなかったが、恋愛に消極的な澪にはむしろそれくらいのペースがありがたかった。
ゆっくり仲良くなれると思っていた。20代も半ばを過ぎると、恋愛と結婚を切り離して考えることはできないし、澪は慎重だった。手も繋がないまま、中学生みたいなデートだったけれど、それなりに楽しくて幸せだった。これから少しずつ本物の関係に育てていければいい。そう思っていたのに、3度目のデートの後、男は少しずつ澪から距離を置いていった。
男の中で何かが変わった。そう敏感に澪は察知し、しつこくして嫌われたり、社内で噂になるのが怖くて自分からも距離を置いてしまった。そして、そのまま自然消滅になった。
愛情がどうとかより、自分の存在がそれほど薄かったという事実が辛かった。泣くことすらしないまま、あっという間に1年が過ぎていった。そして先週、男が取引先の受付嬢と結婚するらしいという噂を同僚から聞かされた。しかも相手の女性のお腹には、既に命が宿っているとのことだった。
男が女性と付き合い始めたのは、澪が距離を置かれるようになった時期と重なっていた。
涙も出ない、怒りもさほど感じない。ただ、「なんだ、やっぱりそういうことか」という悟りにも似た気持ち。これならたいしてショックも受けずにやり過ごせると思っていたが、むしろこういう自覚のない傷のほうが厄介なのかもしれなかった。もう何日も、澪は頭に靄がかかったようなぼんやりした日々を送っていた。
男への未練ではない。自分は女性として、本気で求められることなどないのではないか。そんな孤独感だった。
学生の頃から、あまり恋愛運がないのを自覚している。これでも一応「可愛い」とか「キレイ」だとか褒められることもあるし、人からも好かれている方だと思う。モテないわけじゃない。なのに、どうも恋愛に縁がない。彼女のいる人を好きになって、告白もできないまま失恋したり、好意を寄せられても、「この人は私の求めている人じゃない」と逃げてしまったり。やっと彼氏ができても、臆病で本音をなかなか言えないから、今回のように飽きられてしまう。
自分は心のどこかで、少女漫画かロマンス小説のように、心底愛しあえる運命の人を待ち続けているおバカさんなのかもしれない。もういいかげん、現実を見据えなきゃいけない年齢なのに。
「澪ちゃん、保守的だよね」
受付嬢と結婚する例の男に、縁が切れる少し前に言われたことがある。口調が少し冷たかったのを覚えている。
・・・私って、つまらない女かな。
澪は、ふうっと大きく溜息をつくと、そろそろ帰ろうとゆっくり席から立ち上がった。
「遅くまで頑張ってるな、椎名。まだ終わらないのか?」
後ろから不意に声をかけられ、澪は飛び上がるほど驚いた。
「ひゃっ・・・!え、あ、成瀬さん、直帰じゃなかったんですか・・・?」
振り向くと、澪の所属する課の営業課長である成瀬昇吾が外出先から戻り、自分のデスクに鞄をドサリと置いたところだった。少し疲れた顔をしていて、風に乱されたのか前髪が額に無造作に落ちかけている。それが不思議と妙な色気を感じさせ、澪を落ち着かない気持ちにさせた。
「そのつもりだったんだけど、書類仕事が残ってたのを思い出してな。おまえこそ、まだ帰らないのか」
「あ、ちょうど終わって、いま帰ろうと思ってたところです」
澪はドギマギしながら机の上を片付け、隣の椅子の背もたれに掛けておいた薄手のコートに手を伸ばした。
成瀬昇吾は、半年ほど前に澪の課に異動してきた課長だ。35歳、独身。仕事ができて出世も早く頭が切れ、ルックスも良い上に背も高いときている。絵に描いたような高スペックで、当然女子社員の憧れの的だった。そのわりに、気取ったところがない性格で根がさっぱりしているので、同性にも好かれる得な性分。いくらでもモテそうなのに、なぜか未だに独身一人暮らし。そして本音が分かりにくい。自分のことをあまり話さないので、謎が多い人物だった。
「外、だいぶ寒くなってきたぞ。ほら、コレやるよ」
お気に入りの秋物コートを羽織ってバッグを持ち上げた澪の頬っぺたに、成瀬がカフェオレのペットボトルを押し当てた。ほんのり温かい感触に、思わず澪の口元がほころぶ。
「わ、ありがとうございます。あっ、私これ、すごい好きで・・・」
たまにコンビニで買って、仕事中に飲んでいるメーカーのものだった。成瀬はそれに対しては何も答えず、ただ優しい笑顔を見せ、自分のデスクに戻ってしまった。
「お先に失礼します。カフェオレ、ご馳走さまです」
澪がぺこりと頭を下げると、成瀬がPCから顔を上げた。
「お疲れ。気を付けて帰れよ」
なぜか必要以上に視線がからんでしまい、澪は落ち着かない気持ちでフロアを後にした。
エレベーターで下りながら、もらったカフェオレをひと口飲んだ。熱くて甘い。身体の内側からホッとするような感覚に包まれる。
成瀬は普段はブラックコーヒーかお茶ばかりで、カフェオレのような甘いドリンクは好まないはずだった。
・・・もしかして私が残業しているのを知ってて、わざわざ買ってきてくれたとか・・・?
「まさか、そんなわけないよね」
自惚れかけた自分をたしなめるように、独り言を呟く。それでも胸の奥に少しだけ優しいぬくもりを感じることができて、帰り道はいつもより心が温かくなった気がした。
入社6年目、28歳の椎名澪は、たった一人で暗いオフィスに居残っていた。
この会社と来たら、みんな呆れるほど帰宅が早くて、5時半の定時と共に女子社員は風のように去っていくし、男性陣も残っていてもせいぜい7時か8時。今時これほど残業をしない民間企業も珍しいんじゃないかと思うけれど、ここの社長の方針で「一気に働き、さっさと帰る」が社訓になっている。そうは言っても実際の仕事量はそれなりに膨大なので、こうして月に何度かは居残る羽目になってしまう。
パソコンのキーボードが無機質な音を響かせる。最後の見積書をプリントアウトし終えた澪は、椅子に座ったまま思い切り伸びをした。自分のデスク回りのみ照明を点けているので、フロア全体は薄暗く静まりかえっている。今日は本当だったら女子会に誘われていた。でもどうしても行く気がしなくて、一人こうしてオフィスに残っている。会社ってこういう時ありがたい。行き場のない自分を守ってくれる、安全なシェルターみたいだ。
先週から、澪の感情は麻痺していた。日中、同僚や友人の前ではいつも通り明るく笑って過ごしている。笑えているはずだ。けれどもこうして夜に一人になると、無気力な喪失感に襲われる。底なし沼にズブズブと落ちていきそうな気持ちになる。
失恋はもちろん初めてではない。しかも相手と疎遠になってからもう一年も経つ。すっかり傷も癒えたはずだった。それなのに、このむなしさは何なのだろう。
今までの人生において失恋した時は、それがどんなに淡い一方的な片思いだったとしても、自然と涙が溢れてバスルームや蒲団のなかでさめざめと泣いたものだ。それなのに、あの男に対しては、不思議と涙というものが出てこなかった。動き始めたばかりの恋だったのに、あっけないほどストンと終わってしまったからかもしれない。
涙が出ないので自分はあまり悲しくないのではないかと思ったが、むしろ逆のようだった。要は、低温火傷のような痛みなのだ。オイオイ泣くほどはっきりした痛みじゃない。けれども気づいたらいつまでも傷跡が消えずに、しつこく胸に巣食う痛み。いっそ思い切り泣けたほうがスッキリするのに。
M支店の1年先輩の男。彼とは、ほんの数回デートしただけだった。
もともと飲み会などで面識はあったが、仕事を通じて電話のやり取りをするうちに仲良くなって、いつしかデートに誘われるようになった。遠距離と言うほどではないにしろ住んでいる場所が結構遠かったので、なかなか二人で会う機会を持てなかったが、恋愛に消極的な澪にはむしろそれくらいのペースがありがたかった。
ゆっくり仲良くなれると思っていた。20代も半ばを過ぎると、恋愛と結婚を切り離して考えることはできないし、澪は慎重だった。手も繋がないまま、中学生みたいなデートだったけれど、それなりに楽しくて幸せだった。これから少しずつ本物の関係に育てていければいい。そう思っていたのに、3度目のデートの後、男は少しずつ澪から距離を置いていった。
男の中で何かが変わった。そう敏感に澪は察知し、しつこくして嫌われたり、社内で噂になるのが怖くて自分からも距離を置いてしまった。そして、そのまま自然消滅になった。
愛情がどうとかより、自分の存在がそれほど薄かったという事実が辛かった。泣くことすらしないまま、あっという間に1年が過ぎていった。そして先週、男が取引先の受付嬢と結婚するらしいという噂を同僚から聞かされた。しかも相手の女性のお腹には、既に命が宿っているとのことだった。
男が女性と付き合い始めたのは、澪が距離を置かれるようになった時期と重なっていた。
涙も出ない、怒りもさほど感じない。ただ、「なんだ、やっぱりそういうことか」という悟りにも似た気持ち。これならたいしてショックも受けずにやり過ごせると思っていたが、むしろこういう自覚のない傷のほうが厄介なのかもしれなかった。もう何日も、澪は頭に靄がかかったようなぼんやりした日々を送っていた。
男への未練ではない。自分は女性として、本気で求められることなどないのではないか。そんな孤独感だった。
学生の頃から、あまり恋愛運がないのを自覚している。これでも一応「可愛い」とか「キレイ」だとか褒められることもあるし、人からも好かれている方だと思う。モテないわけじゃない。なのに、どうも恋愛に縁がない。彼女のいる人を好きになって、告白もできないまま失恋したり、好意を寄せられても、「この人は私の求めている人じゃない」と逃げてしまったり。やっと彼氏ができても、臆病で本音をなかなか言えないから、今回のように飽きられてしまう。
自分は心のどこかで、少女漫画かロマンス小説のように、心底愛しあえる運命の人を待ち続けているおバカさんなのかもしれない。もういいかげん、現実を見据えなきゃいけない年齢なのに。
「澪ちゃん、保守的だよね」
受付嬢と結婚する例の男に、縁が切れる少し前に言われたことがある。口調が少し冷たかったのを覚えている。
・・・私って、つまらない女かな。
澪は、ふうっと大きく溜息をつくと、そろそろ帰ろうとゆっくり席から立ち上がった。
「遅くまで頑張ってるな、椎名。まだ終わらないのか?」
後ろから不意に声をかけられ、澪は飛び上がるほど驚いた。
「ひゃっ・・・!え、あ、成瀬さん、直帰じゃなかったんですか・・・?」
振り向くと、澪の所属する課の営業課長である成瀬昇吾が外出先から戻り、自分のデスクに鞄をドサリと置いたところだった。少し疲れた顔をしていて、風に乱されたのか前髪が額に無造作に落ちかけている。それが不思議と妙な色気を感じさせ、澪を落ち着かない気持ちにさせた。
「そのつもりだったんだけど、書類仕事が残ってたのを思い出してな。おまえこそ、まだ帰らないのか」
「あ、ちょうど終わって、いま帰ろうと思ってたところです」
澪はドギマギしながら机の上を片付け、隣の椅子の背もたれに掛けておいた薄手のコートに手を伸ばした。
成瀬昇吾は、半年ほど前に澪の課に異動してきた課長だ。35歳、独身。仕事ができて出世も早く頭が切れ、ルックスも良い上に背も高いときている。絵に描いたような高スペックで、当然女子社員の憧れの的だった。そのわりに、気取ったところがない性格で根がさっぱりしているので、同性にも好かれる得な性分。いくらでもモテそうなのに、なぜか未だに独身一人暮らし。そして本音が分かりにくい。自分のことをあまり話さないので、謎が多い人物だった。
「外、だいぶ寒くなってきたぞ。ほら、コレやるよ」
お気に入りの秋物コートを羽織ってバッグを持ち上げた澪の頬っぺたに、成瀬がカフェオレのペットボトルを押し当てた。ほんのり温かい感触に、思わず澪の口元がほころぶ。
「わ、ありがとうございます。あっ、私これ、すごい好きで・・・」
たまにコンビニで買って、仕事中に飲んでいるメーカーのものだった。成瀬はそれに対しては何も答えず、ただ優しい笑顔を見せ、自分のデスクに戻ってしまった。
「お先に失礼します。カフェオレ、ご馳走さまです」
澪がぺこりと頭を下げると、成瀬がPCから顔を上げた。
「お疲れ。気を付けて帰れよ」
なぜか必要以上に視線がからんでしまい、澪は落ち着かない気持ちでフロアを後にした。
エレベーターで下りながら、もらったカフェオレをひと口飲んだ。熱くて甘い。身体の内側からホッとするような感覚に包まれる。
成瀬は普段はブラックコーヒーかお茶ばかりで、カフェオレのような甘いドリンクは好まないはずだった。
・・・もしかして私が残業しているのを知ってて、わざわざ買ってきてくれたとか・・・?
「まさか、そんなわけないよね」
自惚れかけた自分をたしなめるように、独り言を呟く。それでも胸の奥に少しだけ優しいぬくもりを感じることができて、帰り道はいつもより心が温かくなった気がした。
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