フェチではなくて愛ゆえに

茜色

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二人の夜道

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 電車を降りると、二人は連れ立って一馬のマンションへと歩き始めた。駅前のロータリーを出て、街路樹の茂る舗道を真っ直ぐに進んでいく。
 月が煌々と明るい夜だ。アルコールで少し火照った頬に夜風が心地良い。犬を散歩させている大学生くらいの若い男が、擦れ違いざま少し羨むような視線をみなせと一馬に投げていく。

「先に言っとくけど、俺の部屋、散らかってます。すみません。慌てて出張に出たからいろいろやりっぱなしで」
「全然、気にしません。私だって、そんなに片付いてないですよ」
 ふふっと笑って、みなせは握っている手に少し力を籠めた。一馬が指と指を絡め、もっと強く握り返してくる。

「……どこか綺麗なホテルでも行った方が気が利いてるんだろうけど、どうしても、うちに連れてきたくて」
「どうして……?」
「カッコつけない、そのままの俺を知ってほしいので」

 月明かりの下、みなせは一馬の顔を静かに見上げた。実際、出張帰りでとても疲れているのだろう。眼の下にうっすら隈ができている。でもそれもまた独特の色気に感じられ、そういうくたびれた彼もまたたまらなく愛おしかった。

「さっき、『9階のイケメン』がどうとか教えてくれたけど、実際の俺は全然イケてないです」
 暗い道に靴音を響かせながら、自嘲するように一馬は続ける。
「部屋だっていつも散らかってるし、しょっちゅう寝坊して走って家出るし、Tシャツ裏返しとか、洗濯したら靴下片っぽ見つからないとかよくあるし。会社の連中と飲みに行っても、一番話がつまらないって言われます」
 みなせは一馬の日常を想像してみた。こんなに涼やかなイケメンが、寝ぐせの付いた頭で靴下を探して右往左往している姿。思わず吹き出しそうになった。

「見た目で勘違いされがちだけど、実際は冴えなくて、本当にどうってことない男です。でも、そういう人間だってこと、みなせさんには隠したくない。がっかりさせるかもしれないけど、ありのままの俺をみなせさんには見てほしくて」
 少し自信なさげに、でもとても誠実な様子で一馬は言葉を紡ぐ。飾らないそのままの自分を見せようとしてくれている、そのことが心から嬉しいとみなせは思った。

「どうして、そんなふうに思ってくれるんですか?」
「どうしてって……?」
「だって、私の方こそつまらなくてたいした取り柄もない女ですよ。一馬さんがそんなふうに特別に想ってくれるのが不思議で。……もしかして、やっぱりお尻がきっかけですか?」
 心の奥でこっそり疑っていたことを、思い切って口にしてみた。案の定、一馬は唖然とした顔になり、慌てて反論しようとして少し咳き込んだ。

「いや、あの、ですね。俺は別にお尻フェチってわけじゃないですよ?!」
「えっ、違うんですか?」
 正直意外に思った。あの興奮の仕方は、相当なフェチなのではと密かに疑っていたからだ。

「違いますって……!いや、好きですけど。好きだけど、それはみなせさんのお尻だから好きって言うか……。あ、すみません。その、たしかに、そう思われても仕方ないことしたけど、あれは本当にきっかけに過ぎなくて」
 しどろもどろになっている。別にフェチというわけではなかったのか。少し驚いて、やはり正直ホッとした。

「もともと、前からみなせさんのこと、いいなって思ってたから」
「え……。本当、ですか?」
「……よく眼、合ったでしょ?」
「あれは……、私が見てるからだと思ってました」
「お互い、見てるから合うんだよ」
「たしかに。……そっか」

 いろいろ思い返すと、今更胸がドキドキしてきた。
 朝の出勤時、ビルの入口で人の群れに混ざりながら視線がぶつかったこと。それぞれ同僚と一緒にいても、姿を見かけたり一階のロビーで擦れ違う度に密かに胸が躍ったこと。そして、段ボールを抱えた一馬と偶然二人きりでエレベーターに乗り合わせたとき。「9階でいいですか?」と思い切って尋ねたら、知ってたんだ、とでも言うように一瞬眼を見開いて、それから少し嬉しそうにお礼を言ってくれた。あのときの一馬の眼差しの優しさとどこか意味ありげな温かさに、胸が大きな音を立てて震えたこと。

 眼が合うだけで嬉しかったのに、挨拶できるようになるともっと嬉しくて欲深になった。けれど、自惚れてはいけない、都合よく考えてはいけないと何度も自分に言い聞かせていた。勘違いして、後で痛い目を見るのが怖かったから。

「最初は、7階で降りる人たちの中に可愛い子がいるなって気になってた」
 可愛いなどとと言われ、まるで女子高生のようにドキリとした。
「渡辺とかには黙ってたけど。冷やかされるの苦手だし、しかもアイツもみなせさんのこと可愛いとか言ってたから、余計言いたくなくて」
 だから先ほどの渡辺は、一馬を訪ねてきたみなせを見て「アイツ、いつの間に」と驚いていたのか。
 一馬がそんなふうに密かに自分を気に掛けてくれていたなんて。ここが夜道で良かった。今、みなせはおそらく相当赤い顔をしているに違いない。

「それで、みなせさんの姿を見かけると、自然と眼で追うようになって。……みなせさんて、エレベーターで大勢乗り合わせると、いつも自分が端っこや後ろにけて他の人を優先するでしょ。当たり前のようにボタン押す係みたいになってるし、降りるときも大抵最後だし」
「それは……、あの、特に深い意味はないんです。子供の頃からマンション住まいだったので、親がよくそうしてたから自然に身に付いただけで」
 自分が特別なことをしているとは思わない。同じようなことをする人は世の中いくらでもいる。

「でもいつも自然にできる人って、少ないよ。特に会社なんてみんな急いでてせわしないから、他人のことなんて気にしてない人が多い」
 言われてみれば、たしかにそういう部分はある。後から乗ってきてお喋りに夢中になり、エレベーターが到着するなり我先に降りて行く社員は少なくない。でもそういうときのみなせの行動を、一馬が見ていたとはちっとも知らなかった。

「昼のコンビニでもさ、買うもの少ないお婆ちゃんに先にレジ譲ってあげたり。小銭ぶちまけた人が拾うの手伝ってあげてたり」
「……そんなとこまで見てたんですか」
 なんだか妙な汗をかきそうになった。
「視界に入っちゃうんだよ。いつも眼で追ってるから、みなせさんのそういう優しいところ、気づいたらたくさん見てた」
 どうしよう。どんどん顔が熱くなってくる。そんな地味なところを一馬に目撃されて、しかも好意的に解釈してもらえていたなんて。

「だから、どんどんみなせさんのこと気になって、すごいイイなって思ってて、どうしたら仲良くなれるかいろいろ考えてたんだけど、俺はそういうとき本当スマートにできなくて。考えすぎて動けなくなるって言うか。下手に声かけてナンパだと思われたら恥ずかしい、とかね」
「そ、そうだったんですね……。私、挨拶できるようになっただけで嬉しくて、いっぱいいっぱいになってたから」
「ホントに……?」
「本当ですよ」
 一馬の指をキュッと握り、みなせは一馬の瞳を見つめ返した。

「だから、先々週、偶然二人きりでエレベーターに乗り合わせて、同じ路線だって教えてもらえたとき、ものすごく嬉しかった。これをきっかけにもっと話せるようになるかなってドキドキして」
「あれは、俺も決死の覚悟で話題を出しました。7階なんてあっという間に着いちゃうから、必死で」
 照れくさそうに一馬が笑う。落ち着いているように見えたのに、一馬も内心余裕がなかったとは。お互い同じように、近づきたいと思っていたなんて。

「私たち……、ちょっと純情すぎますかね?」
 コンビニの手前で立ち止まった一馬に、みなせは少し悪戯っぽく尋ねてみた。サラリとした夜風が、一馬の前髪を微かに乱していく。
「うん。でも、結果的には純情すっ飛ばして、暴走してごめんなさい」
 一馬もまた、悪戯な眼でニヤリと笑う。瞬時に思い出してしまう。あのとき、敏感な場所に触れた一馬の指先、唇、それからもっとせつないもの。

「暴走したのは私も……。はしたないこと、口にしたし」
 あのとき、「濡れた」などと思わず口にしてしまった自分を思い出すと、猛烈に恥ずかしくなる。
「たしかに、みなせさんが煽ったから止まらなくなったのはあるなぁ。でも今思い返すと、あのときの俺は完全に変態だった……」
 一馬はあれこれ思い出したのか、自嘲気味に大きな溜息をついた。

「でも私、好きです。ああいう一馬さん。……すごくドキドキして、正直、もっともっとしてほしくなります」
 今だって、想像するだけで濡れてしまいそうになるのだ。早く触れてほしくて、本当はさっきから身体の奥が熱くてたまらない。 

 一馬が「ぐっ」と言葉を詰まらせ、それからひどく照れた様子で手のひらを口元に持っていった。この仕草はこの前も何度か眼にした。興奮したときの一馬のクセなのかもしれない。そういうひとつひとつを知ることですら、今のみなせには幸せな発見だった。

「みなせさん、コンビニ寄りましょう。……泊りに必要なもの、いろいろ買ってこう」
 一馬は必死に理性を保っている様子で、みなせの手をグイグイ引っ張ってコンビニに入って行った。




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