アダルト漫画家とランジェリー娘

茜色

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珠里の涙

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 もういいや。はぐれたふりをして先に帰ろう。
 珠里は川沿いの道を人々とは逆方向に歩き出した。

 みんなに一言声を掛けてから帰るべきなのは分かっている。でもそれすらも面倒だった。
 きっと「大丈夫?」と心配され、誰か送った方がいいなどという声が上がってややこしくなる。楽しんでいるみんなの邪魔もしたくない。それに、門倉に対して腹も立っていた。

 後で麻実子の携帯に連絡を入れておこう。みんなとはぐれて、体調も悪いから先に帰ってきた。心配ないから気にしないで。そう伝えればいい。
 一刻も早く家に帰って、自分のベッドで眠りたかった。
 せっかくがんばって着てみた浴衣だけれど、今は早く脱いでしまいたい。帯が苦しい。喉が痛くて頭がズキズキして、身体がひどくだるい。夏なのにこんなに寒いなんてどうかしている。

 浴衣を着た若い娘が、疲れた顔で流れに逆らうようにフラフラ歩いて行く。
 すれ違う人が時折怪訝そうに珠里を振り返る。だがそれも一瞬のことで、関心はすぐに夜空の花火へと戻される。
 何度も人にぶつかりそうになり、すみませんと謝りながら、重たい足を必死に動かして来た道を引き返した。一度体調の悪さを自覚すると、みるみるうちにしんどくなってくる。

 こんなことになるなら、朝の喉の不調を甘く見ずに約束を断ればよかった。
 自分は何のためにここまで繰り出してきたのだろう。みじめな気持ちがどんどん胸の奥から湧き上がってくる。
 時々確かめるように空を見上げまばゆい花火を眼に焼き付けるものの、その度に足がもつれそうになる。慣れない下駄で親指の付け根が痛くなってきた。家に着く頃にはりむけているかもしれない。

 もう少し。あと少しがんばれば、信号が見えてくる。そこを渡って大通りに出れば、駅に辿り着ける。
 家は隣駅なので昼間なら十分歩ける距離だけれど、今日は電車で帰ることにしよう。
 誠也はまだパーティーの真っ最中に違いない。楽しんでいるだろうか。本当は今年も、誠也と一緒に花火を見たかったのに。

「あれ。カノジョどしたのー?ひとりで淋しそうじゃん」
「カレシとケンカしちゃたかなー。オレらと飲み行かない?いいとこ連れてってあげるよー」
 一心不乱に歩いていたら、若い男の二人組が声を掛けてきた。一人は金髪、もう一人は極端な短髪。首からジャラジャラとシルバーのネックレスをぶら下げて、カマキリみたいに痩せこけた身体を薄いTシャツでかろうじて隠している。

「ねえ、無視しないでよー。なんか怒った顔して、カレシにフラれちゃった感じ?」
「そーいうときは楽しいことしよーよ。カラオケ行く?あ、もっとキモチイイとこ行っちゃうー?」
「アホか、ヘンタイ。あ、こいつのことは気にしないでね。オレは優しーから」
 珠里の歩く速度に合わせ、からかうように両脇からしきりに話しかけてくる。強引なことをすれば大声を上げられると思っているのか、微妙な距離感でしつこくつきまとってくるのが腹立たしい。

「行きません。急いでるんで」
「またまたー。まだ花火終わってないし―。そんな怖い顔しないでよぉ、オレらマジやさしーよ?」
 頭がガンガン痛む。額がひどく熱い。手にしていた巾着型のバッグを胸に引き寄せ、身を守るように足早になる。怖がっているところを見せたくないが、急に襲いかかられたらたまったものではない。

 小走りに信号を渡る。途中で金髪の方が珠里の肩に手を掛けてきた。身体に悪寒が走り、必死で振り払った。そこから本気で走り始める。
「おいおい、待てよー」
「転ぶよー。オレらを撒けるとか思ってないよねー」
 へらへらと馬鹿にしたような笑い声。あえて一定の距離を保ちながら、獲物をじりじり追い詰めるような気配に本能的な恐怖を感じる。

 どうして今日はこんなことばかり続くのか。自分は何かいけないことでもしたのだろうか。みんなに黙って勝手に帰ってきたから、罰が当たったとでも言うのだろうか。

 足が痛くてたまらないが、後ろからまだ追いかけてくる気配がするので止まれない。すれ違う人が珠里のただならぬ様子を見て驚いた顔になる。
 大通りへ続く曲がり角の先に、制服警官の姿を見つけた。もう少しだ。あそこまで辿り着けば大丈夫。そう思ったとき、背後から金髪の男が二の腕を強く掴んできた。

「やだっ……!」
 珠里は痛む喉を我慢して大声で叫んだ。すると二十メートルほど先に立っていた警官が即座に反応し、「こらっ、何してる!」とこちらに駆け寄ってきた。
「やっべ……っ」
 男二人がすぐさま引き返し、通りを横切ってあっという間に河川敷への道を駆け戻って行く。走り寄ってきた警官に「大丈夫ですか?」と訊かれ、珠里は息を切らしながら何度も頷いた。


 途中まで付き添ってくれた警官が「駅まで送りましょうか?」と心配してくれたが、珠里は大丈夫だと礼を言って大通りに出た。街灯やビルの明かりで周囲が一気に明るくなる。土曜の夜なので花火見物以外の人の往来も多く、ここまで来てようやく人心地がついた。

 ペースを落とし、息を整えながら駅までの道を歩いていく。
 まだ心臓がドキドキしていた。走ったせいで一気に熱が上がったような気がする。寒気がするのに肌に汗が浮いて気持ちが悪い。珠里は街路樹の下で立ち止まり、巾着からタオルハンカチを取り出して額や首筋の汗を拭いた。

 ハンカチで顔を押さえたら、自動的に涙が込み上げてきた。
 なぜか自分が悪いことをしたかのような気がしてきて、情けなさとみじめさでみるみる涙が溢れ出した。
 こんなところで泣いていたら、ますます人に変に思われる。早く涙を止めなければ。珠里は人目に付かないよう一番近くにある建物の軒下に入り込み、暗がりに顔を伏せて濡れた目元を何度もハンカチで押さえた。

「珠里……っ」
 背中から声を掛けられ、一瞬夢かと思った。
 間違いない、誠也の声だ。珠里が驚いて振り返ると、スマートフォンを片手に持った誠也が強張った顔で走り寄ってきた。

「……誠ちゃん……」
「どうした?こんなところで……、何かあったのか?!」
 ハンカチを手に濡れた眼をしている珠里を見下ろし、誠也の顔が更に強張った。すぐに「何でもない」と言おうとしたが、喉がひりついて上手く言葉が出てこない。それよりもこのタイミングで誠也に会えたことが嬉しくて、張りつめていた心と身体が一気に弛緩した。

 せっかく拭いたのに、また涙がぽろぽろ零れ落ちる。それを見て誠也はあきらかに動揺し、珠里の肩を両手で掴んで「どうした、何された?」と問いただしてきた。

 心配と怒りと恐怖の感情がごちゃ混ぜになった顔。これほどまでに必死な誠也は一度だって見たことがない。
「あいつか?さっき一緒にいた、あの男に何かされたのか」
 一瞬意味が分からなかったが、おそらく門倉のことを言っているのだろうと気づいた。何か言えば誠也は今にも報復に走り出しそうな勢いだったので、珠里は必死に首を振った。

「違うの、大丈夫。ちょっと体調悪くなって、先に帰ってきたの。途中で変な人たちが寄ってきたから走ったら疲れちゃって……」
「どいつだ……?どこに……」
 誠也が険しい顔で辺りを見回したので、「もう平気。ほんとに」と、誠也の腕を掴んだ。

「……無事なのか?怪我とか……」
「してない。だいじょぶ、本当に。ちょっと風邪みたい」
 珠里は心配させないよう微笑んで見せたが、いつもの半分も笑顔にならない。その弱々しい表情を見て、誠也が珠里のおでこに手のひらを当てた。

「熱、ありそうだな。寒いか?」
「……少し」
 誠也は自分のジャケットを脱ぐと、珠里の肩に掛けて包み込んだ。
 温かさにホッとする。そのまま誠也に肩を抱かれて少し歩き、大きなビルの植え込み近くにある石造りのベンチに座らされた。
 今気づいたが、このビルは月光社のパーティー会場のホテルだった。まだ頭上では花火が鳴り響いている。誠也は途中で抜け出してきたのだろうか。

「ひととおり挨拶も済ませたし、腹ごしらえもしたから出てきた。……夕方そこで会ったとき、なんかおまえ元気なかったからさ。ひょっとして具合でも悪いのかって気になって、ちょっと川の方まで行ってみようと思ってたんだ」
 さっきから携帯鳴らしてたんだぞ、と言われ、珠里は巾着の中を確かめた。スマートフォンが、通知の青い光を点滅させている。必死に歩いたり走ったりで忙しくて、ちっとも気づかなかった。

「……よく、分かったね。さっきのあれだけで、具合悪いって」
「そりゃ分かるさ。昼間より眼が腫れぼったかったし、表情で。何年一緒に暮らしてると思う?」
「……ふふ。そうだよね。……ありがと」
 嬉しかった。誠也だけは珠里のことを分かってくれる。些細なことも気づいてくれる。こうして心配して、迎えに来ようとしてくれていた。
 保護者だから。でもそれだけじゃないと、今はどうしても信じたかった。

「具合悪いだけじゃないだろ。……嫌なこと、あったんだろ」
 やっぱり誠也は昔から魔法使いだ。いつだって珠里の心を先回りして手を差し伸べてくれる。
「……ちょっとね。でも大丈夫。誠ちゃんに心配してもらえたから、気持ちは元気になったよ」
 珠里は首を傾け、隣に座っている誠也の肩にもたれかかった。
 こんな甘える仕草をしたことは、たぶん一度もない。でも今は体調が悪くてしんどいから、許してほしい。少しの間でいいから、このまま甘えさせてほしい。

「……タクシーで帰ろう。風が涼しいから、身体が冷える」
「うん。……あ、待って」
 夜空にひときわ大きな花火が上がり、それを合図に色とりどりの光の華が一気に咲き乱れた。いよいよフィナーレだ。

 ドドン、ドンッとお腹の底に響くような音が鳴り続ける。
 派手やかで美しく、勇壮な花火の渦。金色の雨、空を切り裂く光、すべての人を包み込むような大輪の花の数々。
 次々打ちあがる豪華絢爛な花火に、雑踏からも歓声が上がっている。道行く人の誰もが空を見上げ、放心している。笑顔になっている。神妙に、祈るような顔になっている。

「良かった」
「……ん?」
「誠ちゃんと、一緒に見られて良かった」
 珠里は誠也にもたれたまま、空を見上げ呟いた。

「今年も、一緒に見られたね」
「……そうだな」
 誠也の声が耳にとても近い。低くて心地良い声。この声を頼りに、今までずっと生きてきた。

「来年も」
「……うん」
「来年も、再来年も。その先もずーっと、誠ちゃんと一緒に花火見られたらいいな……」

 止まったはずの涙が、またひとつポロリと落ちた。
 何の涙だろう、自分でもよく分からない。
 指先で拭おうとしたら、誠也にその手を掴まれた。濡れた眼で見つめ返すと、誠也の眼も少しだけ濡れているように見えた。

 言葉もないまま唇をそっと塞がれた。初めてのキスは、優しい涙の味がした。


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