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第1章

プロローグ

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 もう何日が経っただろう。恐らく今夜で五日はまともに睡眠がとれていない。
 ランプのやさしいひかりだけが、ぼんやりと室内を照らしている。古い木製の机、積み重なった革製の本の数々。窓の外にはふたつの月と無数の星。降る雪屑に混じり、きらきらとした魔法石の欠片が舞っている。こじんまりとした部屋の中には、所狭しと様々な植物や樹木が並んでいる。そのどれもが充分に手入れがされていて、瑞々しい葉をしげらせていた。
 この部屋の主である《レイス》は、朦朧とする意識の中、薬草と調合物まみれの指先で目頭を抑える。気怠いという感覚はとうに過ぎ、一秒でも目を閉じれば眠ってしまう極限状態。
 この辺境の地の森にあのご令嬢が突然やってきたのはひと月程前。なんでも彼女は異世界からやってきたうえに、死なない肉体を持ち、あらゆる高度な魔法を詠唱なしで使い、更には美貌も兼ね備えているらしい。
 俄には信じ難いが、その能力のひとつである高度な魔法を使ってひと夜で広大な森の半分を消し炭にし、残りの半分を灰にされたくなければ"言う事を聞け"と押し迫ってきた。
 幸いなことに森の生き物は全て避難させることができた。本来ならこの森には動物や精霊のほかにもエルフ族が多く暮らしていたのだが、百年前の戦争でこの世界のエルフ族は人間族に皆殺しにされてしまった。森だけではない、世界中どこを探しても、エルフ族はレイスただひとりだ。
 エルフ族は長寿で博識なうえに魔法も扱える程に知能も高く、ごく一部の魔法使いしか解読できない魔法書に記載されている特殊な魔法薬の調合法を知っている。そして、レイスはエルフ族の中でも最上級の魔法薬を製造できる唯一の存在だった。――だからこそ、レイスは百年前の戦争で生かされたのだろう。
 戦争中、レイスは捕虜として人間族に捕らわれ、長い間監禁生活を強いられていた。
 戦争が終わり身柄は解放されたが、百年経った今でも、レイスが住む森の入口には人間族が用意した屈強な軍人や魔法使いが四六時中配備されている。レイスは森から出ることも許されていない。
 エルフ族は穏やかな性格で争いを好まない。百年前の戦争も、殆ど人間族による一方的な虐殺同然だった。人間族がエルフ族を何故皆殺しにしたのか理由は定かではないが、どうせ身勝手でろくでもない理由なのだろう。人間族の考えることは、全くもって理解に苦しむ。
 この世界は、人間族が支配している。エルフ族も、精霊族も獣人族もオーク族も魔族ですら人間族には頭が上がらなかった。現在の国王と呼ばれる者も人間族だ。千年前まではそうではなかった。
 千年前、異世界からやってきたという"特殊な能力を最初から兼ね備えた"人間族が先代の獣人族の国王を殺してから先は、代々人間族が国を治めている。
 この世界はいつも、異世界からくる人間族が支配する。

「……疲れましたね」

 ふう、と深いため息をひとつつき目を閉じる。色々な意味を含んだ台詞だ。誰に伝えるわけでもなく独り言ちる。
 先に述べた異世界からやってきたというご令嬢がレイスに製造するように命令したのは"惚薬"だった。
『皇子様を! いえ、全世界の顔がいい権力者の男をひと目で惚れさせる薬を造りなさい!』
 何故そんなものを欲するのかも、何故そんなもののために森を消し炭にするのかも、他者を支配しようとするのかもレイスには理解出来なかった。彼女曰く、王妃になりたいのだという。そして権力がある顔のいい男達から持て囃され色欲と強欲にまみれた日々を謳歌したいのだと。他者を支配して、他者を己の思うがままにしたいのだと。
 魔法や薬でひとの心を捕らえても、自分の心は満たされるものなのだろうか。虚しくないのだろうか。生まれてこの方千余年、禁欲的な生活を送ってきたレイスに色欲や強欲という言葉の意味が理解できるはずもない。
 それも全てどうでもいい。とにかく今は彼女が用意した期限の七夜まであと一夜しか期限が無い。
 もし期限に間に合わなければ、残された森の半分は灰にされ、森のいきものたちは住む場所を失ってしまうだろう。もしかしたら自身を喪ってしまったり、仲間や家族を喪ってしまうものもいるかもしれない。それだけは避けなくてはならない。
 レイスは古い革の分厚い本を捲りながら、造りかけの惚薬が入ったガラス瓶のふちを指で撫でた。あとはいくつかの魔法石を砕いたものを溶かせば完成だ。魔法を唱えながら石を溶かしていくのだが、溶かす順番を間違えれば全てが台無しになってしまう。魔法を間違えたり、魔法陣を描き間違えても駄目だ。
 何度も失敗してしまった造りかけの惚薬が、所狭しと机のうえに並んでいる。片付けをする時間も惜しいほど、十五分程の仮眠もとるのが難しいほどに時間に追われていた。眠気覚ましに淹れた紅茶を手探りで探し、一気に飲み干すが、だいぶ時間が経っていたせいか冷めきっていてひどい味がした。



 あの令嬢が用意した期限は七夜。その日は丁度、国を挙げて皇子様の成人を祝う祝典がある。
 そこに令嬢も参加すると聞いた。そこで皇子様に惚薬を飲ませ、ひと目で惚れさせ国王の前で婚約宣言させたい――という魂胆らしい。だから城まで惚薬を届けに来い、と。
 七夜目の期限ギリギリにやっと惚薬を造り終えることができたレイスは、令嬢の寄越した迎えの馬車の中で睡眠をとっていた。
 馬車に揺られながら、同乗している軍人達から聴こえてくる自分に対しての卑猥で下賎な話を、長い耳を塞いで耐えしのいだ。早く終わらせて、帰ってゆっくり眠りたい。窓の外から覗いた景色に、城が小さく映る。馬車の速度から城までの距離を計算するに、あと一時間は眠ることができそうだ。
 目深にフードをかぶり、馬のようなまつ毛をした美しいまぶたを閉じる。
 エルフ族は皆美男美女に産まれてくるが、レイスもその例外ではなかった。レイスの母親に、人間族の前では必ずフードをかぶり、顔を見せないようにしなさいと教えられてきた。でなければ、おまえは無事では済まないだろう。それくらい、おまえはエルフ族のなかでも飛び抜けて美しいのだと。だが、レイスは自分を美しいと思ったことは一度たりともなかった。外見に対する美醜という概念自体、レイスには存在しなかったからだ。
 今夜を過ぎれば、また森で静かに暮らせる。本を読み、知識を蓄え、好きなように魔法薬を学ぶ時間がとれる。――そう考えていた。





 おかしい。なぜこうなったのだろう。城の外へ出るための煌びやかな大理石でできた階段を駆け降りながら、レイスは自分がおかれている現状をただただ呪った。
 城につき、令嬢に惚薬を渡したまではよかった。レイスを見た皇子様が求婚さえしてこなければ、今頃は帰りの馬車に揺られていた頃だろう。
「エルフは居たか!? 見つけたら殺さずに皇子の元へ連れて行け!」
 階段の踊り場から勇ましい軍人達の声が聴こえてきて、思わず身を潜めてしまう。
 そこかしこから聞こえてくる男達の張り上げる声や話題は、全てレイスに関する事だ。
 レイスに求婚をしてきたのは皇子様だけではなかった。ありとあらゆる名家の貴族、騎士、皇族、はたまたオーク族の頭領や獣人族の長――……それも全て顔のいいと言われるような男がもれなく全員レイスに"ひと目で惚れてしまった"のだ。
 令嬢に、皇子様の前でフードを被っているのは無礼だと無理やり脱がされた瞬間、レイスは皇子様だけではなく広場にいた全ての男を虜にした。身の危険を察知したレイスはなんとか透明化する魔法を自身にかけて逃げ延び、今に至る。
 森での引きこもり生活を百年も続けていれば体力も衰える。普段から全くからだを動かしたりしないものだから、肩で息をしながら階段を降り切る前にへばってしまった。魔法も解け、もう一歩も動けないという所に運悪くやってきたのは人間族の軍人達だ。

 こっちに来い! と腕を引っ張られ、階段から逸れた茂みに連れ込まれそうになる。逃げようにも、足が竦んで動けない。汚く笑う軍人の顔は見覚えがある。こんなことは百年前にもよくあった光景だ。
 どうにでもなれと目を閉じようとしたその瞬間、自分の腕を引っ張っていた軍人の上半身が消し炭になった。
 救いの手ではない。恐ろしい形相をしたあの令嬢を視界に捉えると、彼女は次の魔法を放ち残りの軍人を消し炭にした。一難去ってまた一難。
「あんた、惚薬を自分で使うなんて……。モブのくせにいったいどういうつもり?」
 モブ……? とは自分を指しての言葉だろうか。軍人達の死体を高そうな靴で踏みつけながら、ゆっくりとレイスに歩み寄る。どういうつもりも何も、レイスには全く心当たりがなかった。惚薬を自ら服用した記憶もないし、皇子様たちにも魔法をかけたつもりもない。
「……私には、心当たりがありません。ですから、いったいどうしてこうなってしまったのかがよく――」
 台詞を掻き消す爆音と共に、レイスのすぐわきの大理石でできた像が崩れ落ちた。
「次はあんたに当てるからよろしく~。あたしは"どういうつもり?"って聞いたんだけど。理解できてる? え? 何? 口ごたえ? 超笑えるんですけど。創造主から最強のチート能力を与えられて転生したあたしに、あんたみたいなモブエルフが口ごたえできんのかって聞いてんの!」
 創造主……? 最強の、チート? 次々とよくわからない単語を吐き出しながら金切り声をあげ、令嬢は持っていた惚薬が入った瓶を座り込むレイスに叩きつけた。
「それ、もう要らないから返すわ。あっ! ごっめーん、割れちゃって中身ぶちまけちゃってるね!」
 長い長いレイスの髪を掴み、光の無い瞳で見下ろし、聞いてんのかよ! と怒鳴りつけて肩を蹴る。
「ねぇ、てゆうか皇子様、あんたを探すのに夢中であたしの話なんて聞かないし薬飲んでくれなかったんですけど。あんたが来る前までは攻略ルート入ってるくらいには皇子様はあたしに気があったはずなんですけど?」
 彼女曰く最強のチート能力を持ってしてみれば、エルフの骨を砕くのは容易いだろう。何度目かの肩への鈍痛のあとやってきた激しい痛みに、ああ、多分骨が折れてしまったのだろうな……と、薄れていく意識の中でぼんやりと他人事のように考えていた。

 もう目を閉じてしまおう。このまま死んで、エルフ族の血を絶やすのも悪くない。ふと、そんなことが浮かんだその刹那――。



 甲高い悲痛に満ちた悲鳴が雷鳴に掻き消され凍てつく冷気を全身に感じ、誰かに優しく抱き寄せられた感覚を最後に、レイスは意識を手放した。





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