初恋の行方

佳乃

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case 1 律希

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「律希、待ってた」

 塾の帰り道、健琥と別れてから〈もうすぐ着くよ〉とメッセージを送っておいたせいか、玄関先で出迎えてくれた貴之はインターホンを鳴らすと同時にドアを開け、ボクを家の中へと招き入れる。
「お邪魔します」
 そう言って室内に声をかけると「誰もいないよ」と貴之が笑う。
「2人とも飲みに行ったり、習い事行ったり、家になんかいないほうが多い」
「食事は?」
「それも色々。
 用意してある時もあるし、金が置いてある時もあるし。部活やってる時は腹減って仕方なかったからとりあえず米だけは炊いてあったけど、今はそこまで腹減らないから」
 炊いた米と生卵があれば問題無かったなんて笑いながら言っているけれど、少しだけ寂しそうな顔を見せたのはきっと気のせいじゃない。
「俺が部活辞めたせいで親も夜出歩くのやめるとか言い出すからそれは止めてくれって言ったんだけど、毎日退屈でさぁ。だから律希が来てくれて嬉しい」
 そんな風に言われると嬉しい気持ちはあるものの、何だか少しだけモヤっとしてしまう。来てくれるのならばボクじゃなくても良いのだろうか?
 少しだけ卑屈な気持ちになるけれど、貴之の部屋に通されれば今度は緊張してしまう。
 小学生の頃は何度も来たことのある部屋だったのに疎遠になっている間に部屋の雰囲気は大きく変わっていた。
 勉強机自体は変わってないもののキャラクターの描かれたデスクカバーは無くなっていたし、少年漫画が並べられていた本棚は貴之のやっていたスポーツに関する雑誌やそのスポーツを題材にした漫画が多くを占めている。部活ができなくなったからといってそのスポーツが嫌いになったわけではないのだろうけど、見るのが辛くはないのかと心配になってしまう。
 貴之のイメージとは少し違う可愛目のクロスの貼ってあった壁はウッドパネルが貼られ、カーテンも柄のないシンプルなものに変わっている。
「いつの間にこんなに部屋、変わったの?」
「どうだろう、高校入るタイミング?
 友達が来ても恥ずかしくない部屋にするって、入学祝いがわりにやってもらった。部活忙しすぎて友達と遊ぶ暇なんてなかったけどね」
 全ての記憶が部活に繋がってしまうようで、気付かずにしているであろう淋しそうな顔がボクを切なくさせる。こんな時だから近くにいたい、こんな時だから寄り添いたいと思ってしまうのは貴之を諦められていないからだろう。

 ソファーの無い部屋はラグが敷いてあるためベッドを背もたれがわりにして床に直接座る。ラグに付いた跡は筋トレの名残りなのか、そっとその跡に触れてしまう。
「それな、腹筋ローラーの跡。
 やらなくなっても消えないんだよな」
 ボクの手の動きに気付いた貴之はそう言って笑い「やってみる?」とボクに聞くけれど首を振ってそれを断る。やった事はないけれど、情けない姿を見せることになるだけだろう。
 2人でベッドを背もたれにして座り、どうでも良い話をして過ごす時間は少し緊張感を孕み、ボクを饒舌にさせる。

『告白だよって言ったら…困らせるよな』

 あの言葉を忘れたわけじゃない。だけど、あの言葉を鵜呑みにしたわけでもない。
 怪我をして友達と少し距離を置いている時に久しぶりに会った幼馴染に甘えているだけだと自分に言い聞かせ、それでも会いに来てしまったのは〈友情〉だからと自分の気持ちに念を押す。そして、弱っている貴之の気持ちに引きずられてはダメだと自分に言い聞かせる。
 夏休みが終わり、貴之の友達に時間ができるまでの繋ぎの付き合いだから。
 ボクには受験が待っているのだから。

「会いに来てくれたのは俺の言葉を受け入れてくれたって事?」
 そんな風に自分を戒めながら過ごしていたのに会話が途切れた瞬間に溢れた貴之の言葉。
 気を付けてそんな話題にならないように他愛も無い話をしていたはずなのに、溢れたその言葉は貴之がタイミングを図り、ボクが少しだけ期待していたものだった。
「貴之は今、淋しいだけだよ。
 部活頑張ってたから一緒に過ごしてた仲間に頼れなくて、久しぶりに会ったボクに甘えてるだけ。
 健ちゃんは甘えさせてくれなさそうだからボクに甘えてるだけだよ」
「だから健琥の名前は出すなって」
 受け入れたいのに受け入れるのが怖くて無意識に出してしまった健琥の名前。その名前に苛立った貴之に怯え、ビクリとしてしまったのだろう。「ごめん」と言いながら隣に座るボクの肩をそっと引き寄せると顔を覗き込まれてしまった。逃げたくても逃げることのできない距離と、逃げなければと思う気持ちと逃げたくないと思ってしまう気持ち。

「言ったよな、律希に毎日会いたいって。健琥よりもたくさん会いたいし、健琥よりも律希のこと知りたいって」
 ゆっくりと、改めて告げられる言葉と真剣な目。
「気弱になってる時にボクが優しくしたからだよ、きっと。
 貴之ってほら、安珠ちゃんのこと好きだったじゃん?」
 咄嗟に出た名前にチクリと胸が痛んだのは本当の事だから。
 貴之が好きだと言ったあの娘。黒髪が綺麗な、大きな黒目をした猫のような安珠は貴之ともボクたちとも違う高校に行った貴之の初恋の相手。
〈ボクのことをそういう意味で好きなわけじゃない〉貴之の言葉に流されてしまいたいけれど、それでも最後の最後に健琥の顔がチラついて思い止まる。
 そう、貴之の初恋の人は安珠だし、部活で忙しかったせいで彼女がいなかっただけで恋愛対象は異性なんだから。今は少し気弱になって勘違いしているだけだ。
「健琥よりって、何対抗しちゃってるの?貴之も健ちゃんも同じ幼馴染でしょ?」
「違うっ‼︎」
 ボクの言葉に被せるように大きな声を出されて怖くなってしまう。中学生の頃からあまり変わらないままのボクと、部活のおかげか一段と逞しくなった貴之とでは体格差があり過ぎて肩を抱かれた今、逃げる事は難しい。背中はベッドにもたれかかったまま肩を掴まれ、顔を覗かれている今、ボクに逃げ道は無い。

「貴之は今、怪我して不安になってるだけだよ。たまたま近くにいるボクに甘えてるだけ」
「駄目なのか?」
「甘え方にもよるかな?
 幼馴染としてたまにこうやって顔出すくらいなら」
「そうじゃない。
 幼馴染だけど、そうじゃないって律希だってわかってるだろ?

 健琥じゃなくて、俺を見て欲しい。
 健琥の知らない律希を俺にだけ見せて欲しい。
 俺だけの律希になって?」
 ボクの言葉を遮って絞り出すように言った貴之のことをそれ以上拒む事は難しかった。
「お願い、俺を拒まないで…」
 真剣な表情のまま重ねられる唇。
 力では敵わないにしても拒否する事はできたはずなのに、顔を背けることも、身を捩ることも、拒否を示す方法はいくらでもあったのに、それなのにボクは動くことができなかった。

 はじめはそっと触れた唇が、僕が拒否しないのに気づくと何度も何度も角度を変えて触れるものとなり、何度も繰り返される。
 拒む事は出来なかった。
 掛けたはずの鍵は簡単に開いてしまい、チェーンは滑り落ち、ボクの想いを閉じ込めたはずの箱は簡単にその蓋を開けてしまう。
 溜め込んで溜め込んで消えてしまうはずだった想いは溜め込んだせいで溢れ出してしまった。
 触れるだけの唇は徐々に重なる時間が長くなり、大人しくしているボクに気を良くしたのか唇を舌でなぞったり、唇で唇を甘噛みしたりと悪戯をし始める。
 ボクの唇を弄ぶ舌に応えたくて薄く唇を開けるとそれに気付いた貴之が笑う気配がしたのはきっと気のせいじゃない。それまで優しく触れていた舌は薄く開けただけのボクの唇をこじ開け、歯列をなぞり、奥へ奥へと押し入ってくる。
「たか、ゆ…き」
 そう名前を呼んだつもりなのにボクの声は貴之の口腔へと吸い込まれてしまう。上手いのか下手なのかもわからない舌の動きはボクを翻弄し、蹂躙されるような、捕食されるようなその勢いが嬉しくてその歓びが声として漏れてしまう。
「ふぁ、ぅ、」
 逃げ出したくなる気持ちを抑え、貴之の背に腕を回し受け入れた事を態度で示す。
 深くなる口付け、絡める舌が出す音と、飲み込むことができずに溢れでる唾液。
「ぃや、ぁ…」
 そして、思い至ってしまった考えがボクの動きを止める。
 慣れた口付けはボクのことを誰かの代わりなのだと不安にさせ、それまでの浮ついた気持ちが一気に沈み込む。
「たか、や…だ、やめて」
 背中に回していた腕を解き、胸の間に無理やり差し込み押し返そうとするけれど、非力なボクには何も出来ない。だけど、気付いてしまったせいで涙が溢れ出す。
 貴之を拒絶しようと声を出そうとすればそれを拒否するように押し付けられる唇。さっきまでは時折声を出せる程には離れることのあった唇は、ボクの吐く息さえも吸い込もうとするように離れる事はない。
 苦しくて、悲しくて、うまく鼻で息をすることもできないのに貴之を押し戻そうとしたせいでボクは体力を消耗し、ぐったりしてしまったせいでボクの身体の力が抜けたのだろう。
「なんで泣いてるの?」
 抱きしめたボクの顔を覗き込み心配そうな声をかけてくれるけれど、その心配はボクに対するものじゃないのかもしれない。
「貴之、彼女いるんじゃないの?」
 キスの余韻が苦しかったけれど、気付いてしまった思いを黙っておく事は出来なかった。
「なんで?」
 ボクの言葉に意味がわからないという顔をするけれど、誤魔化されてるとしか思えなかった。
「彼女も部活忙しいの?
 それともおじさんやおばさんに知られたくない?」
「なに言ってるの?」
「だって…」
 キスが慣れてるからと言えず言葉に詰まってしまう。慣れてるとか、上手いと言ってしまったら誰と比べているのかと言われそうで怖かったから。そんな風に貴之に思われてしまったら言い訳することができず、意味もなく疑われてしまうかもしれない。健琥の名前を出す度に苛つく貴之にそれを言ってしまったら、どんな感情をぶつけられるかわからなくて怖くなってしまったのだ。

「初めてだよ?」
 しばらくの沈黙の後に貴之の告げた言葉はボクの予想とは違う言葉だった。ボクの口から言葉を待っていた貴之はしばらく黙ったままだったけど、何も言うことができず、グズグズと泣き続けるボクに困り果ててのことだろう。
「キスしたのも、抱きしめたのも初めてだから。彼女なんて作るヒマ無いって、前にも言ったことなかった?」
 そう言われて思い出すのは健琥と共に会った時の言葉と、中学の頃の言葉。確かにあの時も中学の頃もそんな事を言っていたけれど、あれからどれだけの年月が過ぎていると思っているのだろう。
「あんなの、中学の時じゃん」
「部活、中学の時と比べもんにならないくらい忙しかったし」
「でも…慣れてる感じがした」
 貴之の言葉に思っていたことをつい言ってしまう。また怒るかと思って顔を上げることのできないボクの耳に呆れたようなため息が聞こえる。
「なに、それ。
 誰かと比べてる?」
「そうじゃなくて、」
「誰?
 健琥?」
 そして、冷たい声。
「ち、がぅ」
「じゃあ何で?
 慣れてるって、誰としたの?」
「違うってば」
 無理やり顔を上げさせられ詰め寄られても目を合わせることができない。大きな手に挟まれた頬が熱い。
「ねぇ、誰のこと考えてるの?
 俺が目の前にいるのに、誰とキスしたこと思い出してたの?」
 何も言えず閉じたままのボクの唇に唇を重ねながら、ボクの唇を啄みながら追い詰めるように囁かれる言葉に涙が止まらない。
「ち、がぅ。
 したことなんて、ない」
 追い詰められてやっと言った言葉に貴之の動きが止まる。頬の添えられた手の強さが緩み、ボクはまた顔を伏せてしまう。
「律希、ごめん。
 …初めてだったのに、ごめん」
 何に対するごめんなのだろう。下を向いたまま考える。
 キスをした事を謝るくらいなら謝らないで欲しいし、初めてじゃないと疑った事に対してなら…意味がわからない。
「慣れてるって言われて、誰かと比べられたと思った。誰かとしたことがあると思ったら、そいつのこと忘れさせたいと思った」
 その言葉に貴之の独占欲を知る。
 独占欲で怒った貴之と、独占欲で泣いてしまったボク。

 …似たもの同士でお似合いじゃないか。
 そんな風に言われてしまったら素直になってしまうのは必然。
「ボクは、慣れてるみたいで悲しかった。ボクじゃない誰かと何度もしたから、だからその人の代わりにされてるのかと思って苦しかった」
「…それって、ヤキモチ?」
 さっきまでの冷たさが嘘のように甘い、貴之の声。
「ねぇ、顔見せて。
 ヤキモチ…嬉しい。
 もっと、キスさせて」
 優しく頬を包み込み、ボクの顔を上げさせるとチュッと音をさせてキスをする。
「これね、話に聞いてたの試しただけ」
「工業高校って、男ばかりだろ?」
「あんな事した、こんな事したって自慢話するんだよ」
 言い訳しながら落とされるキスはボクの涙を簡単に止めるほど甘い。
「馬鹿だからさ、誰かが話し出すと根掘り葉掘り聞くんだ」
「ああしたら良いとか、こうしたら良いとか、」
「した事なくてもした事あると思えるくらい聞かされるんだって」
 勘違いしたボクが可愛いと途中で交えながらの言葉はボクを素直にさせる。

「律希も、同じ気持ちだって思って良い?」
 その言葉に頷くことしかできなかった。
 











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