世界が終わる、次の日に。

佳乃

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紗羅

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 貴哉に別れを告げ、駅舎に入る時に車を振り返ってみた。
 何となくこちらを見ている気がして、もしかしたらとほんの少しの期待を込めてお腹に手を当てて別れを惜しんでみる。

 私の姿を目に焼き付けて欲しいと。
 
 貴方に未練を残し、貴方の子供を望み、この思いを抱えたまま生き続けるしかない私を。

 傷付けて捨てた相手だけど、私だって傷付けられたんだ。

 私をアッサリと諦めたくせに紗凪に笑いかける姿に苛立った。
 私とよく似た顔に後ろめたさを感じることはないのかと呆れた。
 彼女はいるのかと聞いた私に《いない》と答えてくれれば無理にでも納得したけれど、《いる》と答えた貴哉はどんな気持ちだったのかと考えるけれど、私は貴哉ではないのだからその気持ちを知ることはできない。
 ただ、貴哉に弟がいたとしても、弟と知り合ったとしても、私は貴哉の弟と付き合おうとは思わないだろう、きっと。

 腹が立った。

 男性不妊だからと自分ではどうしようもない理由で捨てられたのに、私と同じ顔をした紗凪に笑いかける姿に苛立ちを抑えることができなかった。
 私の時間を数年無駄にしたのだから、よく似た顔を見て私を思い出し、私に対して罪悪感を感じるべきだ。
 せっかく私が選んだのに、それなのに私を孕ませる能力を持っていなかったことをもっと恥じるべきなのに。
 紗凪に笑いかけることなく、紗凪の笑顔で私を思い出し、私に対して罪悪感を抱き、自分の不甲斐なさを嘆くべきなのに、それなのに写真が送られてくる度に柔らかい表情を見せる貴哉のことを許し難いと思ってしまう。

「流石にもう出ないと駄目なんじゃないか?」

 スマホを見てそう言った貴哉はどこかで食事でも、と言ったけれど人の目が気になるからと言ってルームサービスを頼んでもらうことにした。
 外でふたりで食事をするなんて、そんなリスクを犯すことはできないから。

 それでも少しでも長く貴哉と一緒にいたいという矛盾した気持ち。

 貴哉に対して腹を立てているのに、それなのに離れたくない。
 紗凪のことをひとり残してきたのは私のためだと喜びながらも、あっさりと置き去りにした紗凪にあの時の自分を重ねて息苦しくなる。

 あの時、貴哉が私のことを諦めることなく説得してくれていれば…。
 自分の想いが都合の良すぎるものだなんて分かってる。だけど、割り切ることができないのだ。

 孕むことのない紗凪でいいのなら私でも良かったのではないか。
 根本から間違っていることはわかっている。
 孕むことを望んだのは私であって貴哉じゃない。だから貴哉が紗凪を選んだことに不満を持つのは間違っているのだけど、それでもそう考えてしまう。

「どうせできないんだから、もっとちょうだい」
『できなくても、それでも欲しいから』

「中に欲しいの」
『貴哉の全てを受け止めたいから』

「だって、無い方が気持ちいいし」
『薄いゴム1枚でも貴哉と私を遮るものがあるのは許せないから』

「貴哉相手なら要らないでしょ?」
『相手は私なんだから、遠慮しないで』

「欲しかったのにできなかったね、貴哉の子」
『本当は貴哉の子が欲しかった』

 貴哉は私の言葉に感情を揺らし、言葉を重ねれば重ねるほど乱暴に私を抱いた。

 優しくされれば未練が残るから。

 優しくされれば期待するから。

 紗凪ではなくて私を選んでくれたと思いたいけれど、世界が終わらなければ紗凪の元に戻る貴哉を取り戻したいと思ってしまった。
 限りなくゼロに近くても可能性があるのなら。
 だって、紗凪を選んだのは私に未練があったからなのだろうし、私を選んだのはまだ私に想いを残しているから。

 今は一緒にいることはできないけれど、もしもこの胎に貴哉の子が宿っていたら今度は諦めることなく私を選んでくれるだろう。

 ホームに入ってきた電車に乗り込み、知り合いがいないことに安堵する。一駅だけだから座ることなく、それでももしかしたらとついついお腹を庇いたくなる。わずかな、本当にわずかな可能性だけど、可能性が無いわけじゃないから。

「帰りたくなかったな、」

 思わずそんなことを言ってしまうけれど帰らないという選択肢はない。だって、夫と紗柚は明日には帰ってきてしまうから。
 たった一駅分だけ電車に乗り、目当ての駅で降りると迎えの車に乗り込む。

「ありがとう。
 遅くにごめんね」

 そう言った私に「おかえり」と言った母だったけれど、何か言いたそうなのは気付いていた。友人に会うと言ったまま帰宅せず、翌々日のこんな時間に帰ってきたのだから当たり前の反応だろう。
 私の会った相手が貴哉だと思いはしないだろうけれど、それでも告げた相手と一緒にいたとは思っていないかもしれない。

「紗柚がゲーム忘れたからって取りに来てたわよ」

「え、紗柚が?」

「急に友人から連絡が来て会いに行ったって言っておいたから」

 唐突に口を開いた母は【誰】とは言わず、夫の帰宅を告げる。
 運転しているのだから当たり前だけど私の顔を見ずにそう告げた母は、それ以上何も言わず駐車場に車を入れる。

「嘘を吐くなら吐き通しなさいよ」

 車から降りる時にそううと、やっぱり私の顔を見ることなく母は家に入ってしまった。

 いい大人なんだから親に何を言われても動じない自信はあったけれど、何も言われないことで傷つく。
 もっと、どこに行っていたのかと、何をしていたのかと聞かれると思っていたのに母は私の嘘に気付き、私を突き放したのだ。

 気付かれたのかもしれない。
 夫以外の男と過ごしていたことを。

 気付かれたのかもしれない。
 夫以外の男と身体を重ねたことを。

 貴哉に愛された身体からは匂い立つ何かがあるのかもしれない。
 だって、何度も何度もこの胎に精を受け止めたのだから。

 部屋に入ってすぐに剥ぎ取るように脱いだ服は、最後にシャワーを浴びるまで畳まれることもなくソファーの上に放置されたままだった。
 年齢に合わせたニットのセットアップを選んだおかげで幸い皺にはなっていなかったけれど、濃密な時間の残滓に気付いたのだろう。

 そのまま浴室に向かいシャワーを浴びる。
 夫に配慮したのか、あれだけ激しく身体を重ねたのに残されたのは足りないものを埋められた感覚と、溢れずに胎に残っていた精だけだった。
 それだって、シャワーで洗い流してしまったせいで貴哉との距離を実感させられる。
 首元にも、胸元にも、背中にも、太腿にも口付け、舌を這わせたのにその痕跡を見つけることはできなかった。
 ほんの数時間前までは一緒に過ごしていただけでなく、ふたりで繋がっていたのに。

 貴哉の痕跡がないことに淋しさを感じながら髪を乾かし、寝室に入った時にはとっくに日付は変わっていた。
 紗柚はそろそろ自室が欲しいと言い出していて、もしも世界が終わらなければ紗凪の部屋を与えるつもりだ。紗凪だって今更戻ってくる気はないだろうし、私の顔を見たくなんてないだろう。
 私だって、今更紗凪に戻ってこられても冷静に接することなんてできない。

 姉が好きだった相手を平気で寝とるような弟は必要無い。

 明日、本当に世界が終わるだなんて思ってなんていない。
 きっと何事もなく時間が過ぎ、「何も無かったね」と言って日常が戻ってくるのだろう。

 いつの間に眠っていたのか、気付けばいつも起きる時間よりもだいぶ遅い時間で、夫と紗柚が戻ってくる前にと急いで身支度をする。
 昼食は食べてくるのだろうと思いながらも、予定外の行動をされても対応できるように冷蔵庫の中をチェックする。
 冷凍うどんがあるし、卵もある。
 紗柚の好きな玉子うどんができればとりあえずはお腹は満たせるだろう。

 いつ帰ってくるのかわからないまま待たされるのは退屈で、〈起きた?〉と貴哉にメッセージを送ってみるけれど既読が付くことはなかった。

 帰ってこないふたりを待つだけの時間は退屈で、夕飯の支度をしながら貴哉からの返信を待つ。だけど、返信がないままふたりが帰宅して日常が戻ってくる。
 
 夫の実家での様子を紗柚が楽しそうに話してくれるけれど、何か言いたそうな夫の視線に気付かないふりをしていつも通りの自分演じる。
 
 大丈夫、きっと気付いていないから。

『どこかに行ってたの?』

『誰かに会ってたの?』

『僕たちがいない間、何してたの?』

 そんなことを口にしたいはずなのに、臆病な夫はそれをしない。
 だから、何事も無かったかのように振る舞うのはきっと正解なのだろう。

『お母さんから紗柚の忘れ物取りに帰ってきたって聞いたよ』なんて、夫が話しやすくなるような言葉を与える必要もない。

「落ち着いたら私もご挨拶に行くから」

 紗柚の話に笑顔で答えながら良い嫁のフリをして、「やっぱり、ふたりで行って正解だったみたいね」と自分の行動の正当性も主張しておく。
 私が一緒に行ってしまったら、紗柚がこんなふうに笑顔で報告するような行動をさせることはなかっただろう。

「うん、みんな紗羅ちゃんが来ないの、淋しがってたよ」

 上辺だけの嘘だらけの会話。
 あちらの家族は私を毛嫌いしているわけではないけれど、好かれているわけでもないのは何となく伝わってくるもので。夫はきっと話すことはないけれど、私たち夫婦が円満なのは上辺だけなのだと感覚で気付いているのだろう。

「明日だね、」

 紗柚は楽しかったと言いながらも緊張していたのか、それとも興奮状態がやっと治ったのか、夕飯の後でお風呂に入るとさっさと寝てしまった。

 大人が寝るにはまだ早い時間だけど、夫とふたりだと間が持たず、仕方なくつけたテレビでは【明日】のことを予想する特番が組まれている。
 どこにチャンネルにしても似たような内容ばかりで、いい加減食傷気味だ。

「そうね。
 でも明日の夜には『何も無かったね』って言ってるんだろうね」

「きっと、そうだと思うよ。
 まあ、きっと何も変わらないんじゃない。昨日も、今日も、明日も」

 夫の言葉の真意を探るけれど、違和感を感じるものの確信は無い。

「学校、月曜から普通にあるの?」

 学校からの連絡は私のスマホに来るためそう聞いたのだろう。

「そうね、何事も無ければ週明けから始めますって連絡来てたし」

 そう言って学校からの連絡をチェックするフリをして貴哉とのメッセージ履歴を確認する。
 既読は付いたけれど新しいメッセージは無いままだ。

 テレビでは自然現象のほんの僅かな変化を取り上げてそれによって何が起こりうるかを解説している。

 馬鹿らしい。

「じゃあ、明日何も無かったら紗柚の休みも終わりだな」

「そうね」

 何かを言いたそうなのに白々しい会話を続け、結局は早いけれど寝ようと寝室に向かう。
 紗柚を挟んで3人で並び、いわゆる川の字で眠るけれど、紗柚が自室で眠るようになればこの寝室でふたりで過ごすことになるのだろう。

 正直、少し憂鬱だ。

「もしも日付が変わると同時に世界が終わったら…家族そろって終われるね」

 夫が言ったその言葉に「そうね、」とだけ答え、そっと目を閉じた。
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