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紗羅
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「じゃあ、仕事に行ってくるね。
紗柚の荷物も僕の荷物も用意してあるけど、忘れ物ないかチェックしておいてくれると嬉しいな。
僕のは大丈夫だけど、紗柚のは少し心配だから」
そう言った夫は今日も穏やかな笑みを浮かべ、私がその言葉を受け入れたことを示すように頷けば「いってきます」と実家に向かった。
明日からは紗柚を連れて実家に泊まるからと、今日中にその間の仕事を終わらせると張り切っている。
そんなにやる事があるのかと不思議に思うけど、家業に興味は無いと言いながらも事務仕事以外のことも手伝っているらしい。
技術的な事を今から身に付ける気は無いけれど、そのノウハウを活かしてもっと手に取りやすいものを作りたいと考えていると告げられたのは随分前のこと。確かに彼の実家で作る物は【良い物】だけど、普段使いするには少し気が引ける。ただ、彼の実家で作るような物の紛い物は割と簡単に手に入るのだから、彼のやっている事が実を結ぶとは思っていない。
汐勿の家は不労所得が有るし、彼だって実家から給料が出ていて困ることはないのだから趣味のようなモノだと認識している。
馬鹿みたいに都市伝説がどうだと話されているよりは、彼が作ろうとしているモノの話を聞いている方が私の精神的にも、紗柚の教育的にも良いのだからこのままでいいと思っている。
夫を送り出し、学校が休みだからといって寝坊を許さないせいで朝食を終えて手持ち無沙汰にしている紗柚に「宿題終わらせた?」と聞いてみる。
世界が終わるなんて噂を真に受けて休校になったからといってダラダラ過ごす事が許せず、学校からの宿題に加え学習プリントを用意しておいた。
義実家に泊まりに行くまでに終わらせるように言った分を終わらせていない紗柚は、「あと少し」と答えるため終わらせるように促す。
食卓を片付け、宿題を持ってくるように伝えて今日の分の家事をこなしていく。結婚して同居を決めたものの、紗柚が生まれたばかりの頃は助かっていた大人の手も、ある程度成長して仕舞えば邪魔なだけだった。
今とは違う育児の知識と方法。
今は違うと言っても昔はこうだったと口を出し、私の目を盗んで行われる古い育児。
そして、初孫が可愛いと言って行われる過剰な甘やかし。
我慢の限界が来た私はこれから来るであろう紗柚の思春期や、生活時間の違いを理由に水回りを増築し、両親や祖父母とは別々の生活を送ることを選んだ。
母のように第二子を望んでいれば我慢をするしかなかったのだろうけれど、紗柚に全てを注ぎたいと思っていた私にしてみれば当然の結果だろう。
私が欲しかったのは祖父母の愛ではなくて両親からの愛だったのだから、それを十分に与えるために環境を整えるのは当たり前のことだ。
だから今回、実家に泊まりにいく夫に私は私で親孝行をするからと言えば疑う事なく受け入れられた。
水回りを増築することに最後まで反対したのは彼だったから、私が親を気にかける事が嬉しいのだろう。あちらの両親を気遣いふたりでの宿泊を許し、自分はこちらの両親と共に過ごすことは彼にとって理想的な事だったのかもしれない。
家族仲の良かった彼に私の気持ちを理解して欲しいとは思わないけれど、それなりの年月を共に過ごしていても私の本質に気付いてくれないことに不満を感じながらも今回はその愚鈍さが丁度良い。
もう少し私のことを理解してくれていれば、明日からは義実家に泊まることは遠慮しても、寝るまでの時間をあちらの家で過ごすことを選んだかもしれない。
全ては彼の愚鈍さが招いた事態なのだから仕方ない。
同じ時間を過ごしているのに私の機微に気付かない彼は、元彼である貴哉と連絡を取り合っていることにも気付いていないだろう。あんな理由で別れたのだからまだ繋がっているなんて思いもしないだろうし、貴哉と紗凪との関係を知る由もない。そして、夫と紗柚がいない間に私がしようとしていることに気付くこともないのだろう。
「宿題したらゲームしてもいいからね」
宿題を前に不満気な顔を見せた紗柚だったけど、その言葉に素直に頷くと問題を解き始めた。
⌘⌘⌘
《明日はどうする?》
洗濯を干している時に入ったメッセージは貴哉からのものだった。
PTAや紗柚の習い事の役員をやっている関係で知り合いも友人も増えた私のスマホは、1日中何かしらを受け取っている。そのせいで貴哉からのメッセージが増えたくらいでは怪しまれることはないけれど、名前だけは変えてある。
どうせ貴哉が通知を見ることはないのだから当然と言えば当然の対策だろう。
〈夫と子どもが義実家に行ったら家を出るから、それまで待ってて〉
こんなにも求められるのは悪い気分じゃない。
そして、それを軽くあしらうのは楽しくて仕方がない。
《迎えに行こうか?》
〈駄目〉
夫と紗柚を朝から義実家に向かわせるのなんて簡単なことだ。少し紗柚を焚き付ければ早く義実家に行きたいと夫に告げるだろう。だけど、貴哉の気分を盛り上げるためにも【おあずけ】は大切だ。
〈貴哉の最寄りの駅まで行くから、そこまで迎えにきて〉
飴と鞭ではないけれど、おあずけの後はご褒美を与えるべきだろう。
《ビジネスホテルだから一度チェックアウトする予定》
《だから紗羅が決めてくれればそこまで迎えに行くよ》
よほど早く会いたいのかそんなメッセージを送ってくるけれど、私の行動範囲に来られるのは迷惑だ。
夫の実家の家業も代々続いているせいで、元々知り合いの多かった地元だけど夫の関係で増えた知り合いも多い。こちらは認識していないのに、あちらは認識しているということも多いため迂闊なことはできない。
貴哉が泊まったホテルの最寄駅なら大丈夫だと思っていたのにチェックアウトして近くをうろうろされても迷惑だと思い、貴哉が泊まったのとは逆の街にある駅を指定する。
この辺で1番人の行き交うその駅でなら知り合いに会うことを恐れる必要もないだろう。
適当な駐車場で待っていてもらい、車に乗り込めば安心だ。
〈じゃあ、〉
《何でそこなの?》
告げた駅名に疑問の言葉を投げかけられる。
学生の頃は何度も遊びに行ったその駅だったけれど、私たちのような年齢になってしまうと車での移動が多くなり、敢えて行くようなことはない。当時から若者の街、というイメージが強かったから意外なのかもしれない。
〈だって、関係ない場所の方が安全でしょ?〉
〈知り合いがいなくて、貴哉のことを知ってる人のいない場所〉
〈そこの最寄駅だと貴哉のこと認識した人がいるかもしれない〉
適当な言葉を並べ、貴哉の思考を停止させる。昔から私の言葉を鵜呑みにして従う事が多かったから、今回も私の言葉に素直に従うだろう。
それでも嘘を言っているわけじゃない。
学生の多いその駅は店舗の入れ替わりも早く、私たちが学生の頃に行った店はほとんど残っていない。学生をターゲットにしているため知り合いが少ないのも本当。
私たち母親世代は全てのことがその場所だけで事足りる集合商業施設に車で行くのが定番だ。
〈人の目、気にして会いたくない〉
これは本音。それに、ほんの少しだけ学生の頃の気持ちを思い出したいという想いもある。
学生の頃は貴哉との結婚を疑ってはいなかった。
就職を機に一人暮らしを始め、お互いの部屋を行き来して過ごし、いずれは結婚して地元に戻る。
地元に戻り、後継を産み、汐勿の家を守りながら歳を重ねていく。
そう考えた時に私の隣に立つのはいつも貴哉だった。
「紗凪じゃないのよ、隣に立つのは」
知らず知らずのうちに責めるような言葉が溢れる。私のことを諦め、思い描いたような未来を諦めたくせに幸せそうな笑顔を見せるふたりが許せなかった。
私を諦めたのに私とよく似た顔で満足して微笑む貴哉が、家を継げなかったのに【家が継げなくなるから】と私が諦めた貴哉の隣で微笑む紗凪が許せなかった。
紗凪は今頃、隣にいてくれない貴哉を想い泣いているのかもしれない。
もしも本当に世界が終わるなら、貴哉も紗凪も独りで終わっていくのだろう。
《分かったけど、時間は?》
〈たぶん、昼食食べてから出ると思うからそれ以降で〉
〈家族には友達に会いに行くって言ってあるから〉
そう答え、具体的な名前を示す。
夫には親孝行をすると言ったけれど、母には友人に会うと告げた。夫と紗柚の予定が決まってから友人から連絡が入ったと言ってあるけれど、そんな嘘を信じてはいないだろう。
何も知らないフリをするのは簡単だ。
だから私は本当の事のように嘘を吐き、相手に信じているフリをさせる。
《その友達の名前は出して大丈夫な人なの?》
知っている名前なのにそう聞くのは貴哉の知らないフリ。
〈大学の同級生だった子、〉
《まだ付き合いあったの?》
だからすぐに認めるような言葉が送られてくる。結婚式にも出てもらった彼女は少なからず貴哉のことを想っていたのを私は知っていた。
お式の時に私に非難するような目で見ていたけれど、二次会の時に意地悪な言葉をくれた彼女に結婚できない理由は貴哉だったのだと匂わせておいた。『だって、後継産みたいし』その一言で察した彼女は偉そうなことを言ったくせに、ふたりで頑張ると言う道を選ぶことはなかったのだろう。
もしかしたらアプローチをしても貴哉に相手にしてもらえなかったのかもしれないけれど、彼女が選ばれなかったのだとしても私のせいじゃない。
貴哉とは違う相手と並ぶ年賀状が送られてきた翌年には家族が増えたという写真付きの年賀状が届いていた。
理想と現実は違うと理解したのだろう、きっと。
〈年賀状くらいはね〉
〈学生時代を過ごした場所を見ておきたいって理由でこっちに来ることにしてある〉
《分かった》
適当に選んだ彼女の名前だったけど、待ち合わせの駅を選んだことに理由ができてしまった。
学生時代に一緒に行った場所に久しぶりに友人に会うために足を運ぶ。誰かに見られても齟齬の生まれない嘘。
〈明日は彼女と飲み過ぎて外泊する予定だから〉
そして、暗にその後の予定を匂わせる。外泊するのだから夜は貴哉と過ごすつもりだ。
《何か用意しておくものは?》
用意しておくものと言われても思いつくことはない。夜を共に過ごすのだから当然だけど身体を重ねることになるだろう。少なくとも私はそのつもりだ。
相手が貴哉じゃなければゴムは必須だけど、男性不妊の貴哉に必要は無い。
久しぶりの行為だから不安はあるけれど、何度も重ねた身体はすぐに馴染むだろう、きっと。
〈貴哉さえいてくれたらそれで良いから〉
紗凪だったらきっとこう告げるはずだ。
〈早く会いたいのに、ごめんね〉
紗凪のところになんて帰さない。
《いいよ、勝手に早く来ただけだし》
紗凪を置いて私のところに来た貴哉はどんな気持ちでいるのだろう。
紗凪のことを思い出したりするのだろうか。
〈明日、楽しみにしてるから〉
独りで過ごす紗凪に連絡してみようか。電話をかければ沈んだ声を聞くことができるかもしれない。
《俺も》
このやり取りを紗凪に見せることを夢想してメッセージを終える。
普段連絡を取ることがないから電話やメッセージで紗凪に知らせることはしないけれど、そうした時の紗凪のリアクションを夢想するくらいは許されるだろう。
「ざまあみろ」
夢想した紗凪の泣き顔に満足した私は家事に戻る。
別に奪うわけじゃない、返してもらっただけ。
そして時期がくれば、終わらなければもう一度終わらせて、紗凪に返すだけのこと。
ほんの数日の逢瀬はふたりの仲を終わらせるのか、それとも新しい関係を築くのか。
ふたりがどんな道を選ぶとしても私にはもう関係の無いことだ。
紗柚の荷物も僕の荷物も用意してあるけど、忘れ物ないかチェックしておいてくれると嬉しいな。
僕のは大丈夫だけど、紗柚のは少し心配だから」
そう言った夫は今日も穏やかな笑みを浮かべ、私がその言葉を受け入れたことを示すように頷けば「いってきます」と実家に向かった。
明日からは紗柚を連れて実家に泊まるからと、今日中にその間の仕事を終わらせると張り切っている。
そんなにやる事があるのかと不思議に思うけど、家業に興味は無いと言いながらも事務仕事以外のことも手伝っているらしい。
技術的な事を今から身に付ける気は無いけれど、そのノウハウを活かしてもっと手に取りやすいものを作りたいと考えていると告げられたのは随分前のこと。確かに彼の実家で作る物は【良い物】だけど、普段使いするには少し気が引ける。ただ、彼の実家で作るような物の紛い物は割と簡単に手に入るのだから、彼のやっている事が実を結ぶとは思っていない。
汐勿の家は不労所得が有るし、彼だって実家から給料が出ていて困ることはないのだから趣味のようなモノだと認識している。
馬鹿みたいに都市伝説がどうだと話されているよりは、彼が作ろうとしているモノの話を聞いている方が私の精神的にも、紗柚の教育的にも良いのだからこのままでいいと思っている。
夫を送り出し、学校が休みだからといって寝坊を許さないせいで朝食を終えて手持ち無沙汰にしている紗柚に「宿題終わらせた?」と聞いてみる。
世界が終わるなんて噂を真に受けて休校になったからといってダラダラ過ごす事が許せず、学校からの宿題に加え学習プリントを用意しておいた。
義実家に泊まりに行くまでに終わらせるように言った分を終わらせていない紗柚は、「あと少し」と答えるため終わらせるように促す。
食卓を片付け、宿題を持ってくるように伝えて今日の分の家事をこなしていく。結婚して同居を決めたものの、紗柚が生まれたばかりの頃は助かっていた大人の手も、ある程度成長して仕舞えば邪魔なだけだった。
今とは違う育児の知識と方法。
今は違うと言っても昔はこうだったと口を出し、私の目を盗んで行われる古い育児。
そして、初孫が可愛いと言って行われる過剰な甘やかし。
我慢の限界が来た私はこれから来るであろう紗柚の思春期や、生活時間の違いを理由に水回りを増築し、両親や祖父母とは別々の生活を送ることを選んだ。
母のように第二子を望んでいれば我慢をするしかなかったのだろうけれど、紗柚に全てを注ぎたいと思っていた私にしてみれば当然の結果だろう。
私が欲しかったのは祖父母の愛ではなくて両親からの愛だったのだから、それを十分に与えるために環境を整えるのは当たり前のことだ。
だから今回、実家に泊まりにいく夫に私は私で親孝行をするからと言えば疑う事なく受け入れられた。
水回りを増築することに最後まで反対したのは彼だったから、私が親を気にかける事が嬉しいのだろう。あちらの両親を気遣いふたりでの宿泊を許し、自分はこちらの両親と共に過ごすことは彼にとって理想的な事だったのかもしれない。
家族仲の良かった彼に私の気持ちを理解して欲しいとは思わないけれど、それなりの年月を共に過ごしていても私の本質に気付いてくれないことに不満を感じながらも今回はその愚鈍さが丁度良い。
もう少し私のことを理解してくれていれば、明日からは義実家に泊まることは遠慮しても、寝るまでの時間をあちらの家で過ごすことを選んだかもしれない。
全ては彼の愚鈍さが招いた事態なのだから仕方ない。
同じ時間を過ごしているのに私の機微に気付かない彼は、元彼である貴哉と連絡を取り合っていることにも気付いていないだろう。あんな理由で別れたのだからまだ繋がっているなんて思いもしないだろうし、貴哉と紗凪との関係を知る由もない。そして、夫と紗柚がいない間に私がしようとしていることに気付くこともないのだろう。
「宿題したらゲームしてもいいからね」
宿題を前に不満気な顔を見せた紗柚だったけど、その言葉に素直に頷くと問題を解き始めた。
⌘⌘⌘
《明日はどうする?》
洗濯を干している時に入ったメッセージは貴哉からのものだった。
PTAや紗柚の習い事の役員をやっている関係で知り合いも友人も増えた私のスマホは、1日中何かしらを受け取っている。そのせいで貴哉からのメッセージが増えたくらいでは怪しまれることはないけれど、名前だけは変えてある。
どうせ貴哉が通知を見ることはないのだから当然と言えば当然の対策だろう。
〈夫と子どもが義実家に行ったら家を出るから、それまで待ってて〉
こんなにも求められるのは悪い気分じゃない。
そして、それを軽くあしらうのは楽しくて仕方がない。
《迎えに行こうか?》
〈駄目〉
夫と紗柚を朝から義実家に向かわせるのなんて簡単なことだ。少し紗柚を焚き付ければ早く義実家に行きたいと夫に告げるだろう。だけど、貴哉の気分を盛り上げるためにも【おあずけ】は大切だ。
〈貴哉の最寄りの駅まで行くから、そこまで迎えにきて〉
飴と鞭ではないけれど、おあずけの後はご褒美を与えるべきだろう。
《ビジネスホテルだから一度チェックアウトする予定》
《だから紗羅が決めてくれればそこまで迎えに行くよ》
よほど早く会いたいのかそんなメッセージを送ってくるけれど、私の行動範囲に来られるのは迷惑だ。
夫の実家の家業も代々続いているせいで、元々知り合いの多かった地元だけど夫の関係で増えた知り合いも多い。こちらは認識していないのに、あちらは認識しているということも多いため迂闊なことはできない。
貴哉が泊まったホテルの最寄駅なら大丈夫だと思っていたのにチェックアウトして近くをうろうろされても迷惑だと思い、貴哉が泊まったのとは逆の街にある駅を指定する。
この辺で1番人の行き交うその駅でなら知り合いに会うことを恐れる必要もないだろう。
適当な駐車場で待っていてもらい、車に乗り込めば安心だ。
〈じゃあ、〉
《何でそこなの?》
告げた駅名に疑問の言葉を投げかけられる。
学生の頃は何度も遊びに行ったその駅だったけれど、私たちのような年齢になってしまうと車での移動が多くなり、敢えて行くようなことはない。当時から若者の街、というイメージが強かったから意外なのかもしれない。
〈だって、関係ない場所の方が安全でしょ?〉
〈知り合いがいなくて、貴哉のことを知ってる人のいない場所〉
〈そこの最寄駅だと貴哉のこと認識した人がいるかもしれない〉
適当な言葉を並べ、貴哉の思考を停止させる。昔から私の言葉を鵜呑みにして従う事が多かったから、今回も私の言葉に素直に従うだろう。
それでも嘘を言っているわけじゃない。
学生の多いその駅は店舗の入れ替わりも早く、私たちが学生の頃に行った店はほとんど残っていない。学生をターゲットにしているため知り合いが少ないのも本当。
私たち母親世代は全てのことがその場所だけで事足りる集合商業施設に車で行くのが定番だ。
〈人の目、気にして会いたくない〉
これは本音。それに、ほんの少しだけ学生の頃の気持ちを思い出したいという想いもある。
学生の頃は貴哉との結婚を疑ってはいなかった。
就職を機に一人暮らしを始め、お互いの部屋を行き来して過ごし、いずれは結婚して地元に戻る。
地元に戻り、後継を産み、汐勿の家を守りながら歳を重ねていく。
そう考えた時に私の隣に立つのはいつも貴哉だった。
「紗凪じゃないのよ、隣に立つのは」
知らず知らずのうちに責めるような言葉が溢れる。私のことを諦め、思い描いたような未来を諦めたくせに幸せそうな笑顔を見せるふたりが許せなかった。
私を諦めたのに私とよく似た顔で満足して微笑む貴哉が、家を継げなかったのに【家が継げなくなるから】と私が諦めた貴哉の隣で微笑む紗凪が許せなかった。
紗凪は今頃、隣にいてくれない貴哉を想い泣いているのかもしれない。
もしも本当に世界が終わるなら、貴哉も紗凪も独りで終わっていくのだろう。
《分かったけど、時間は?》
〈たぶん、昼食食べてから出ると思うからそれ以降で〉
〈家族には友達に会いに行くって言ってあるから〉
そう答え、具体的な名前を示す。
夫には親孝行をすると言ったけれど、母には友人に会うと告げた。夫と紗柚の予定が決まってから友人から連絡が入ったと言ってあるけれど、そんな嘘を信じてはいないだろう。
何も知らないフリをするのは簡単だ。
だから私は本当の事のように嘘を吐き、相手に信じているフリをさせる。
《その友達の名前は出して大丈夫な人なの?》
知っている名前なのにそう聞くのは貴哉の知らないフリ。
〈大学の同級生だった子、〉
《まだ付き合いあったの?》
だからすぐに認めるような言葉が送られてくる。結婚式にも出てもらった彼女は少なからず貴哉のことを想っていたのを私は知っていた。
お式の時に私に非難するような目で見ていたけれど、二次会の時に意地悪な言葉をくれた彼女に結婚できない理由は貴哉だったのだと匂わせておいた。『だって、後継産みたいし』その一言で察した彼女は偉そうなことを言ったくせに、ふたりで頑張ると言う道を選ぶことはなかったのだろう。
もしかしたらアプローチをしても貴哉に相手にしてもらえなかったのかもしれないけれど、彼女が選ばれなかったのだとしても私のせいじゃない。
貴哉とは違う相手と並ぶ年賀状が送られてきた翌年には家族が増えたという写真付きの年賀状が届いていた。
理想と現実は違うと理解したのだろう、きっと。
〈年賀状くらいはね〉
〈学生時代を過ごした場所を見ておきたいって理由でこっちに来ることにしてある〉
《分かった》
適当に選んだ彼女の名前だったけど、待ち合わせの駅を選んだことに理由ができてしまった。
学生時代に一緒に行った場所に久しぶりに友人に会うために足を運ぶ。誰かに見られても齟齬の生まれない嘘。
〈明日は彼女と飲み過ぎて外泊する予定だから〉
そして、暗にその後の予定を匂わせる。外泊するのだから夜は貴哉と過ごすつもりだ。
《何か用意しておくものは?》
用意しておくものと言われても思いつくことはない。夜を共に過ごすのだから当然だけど身体を重ねることになるだろう。少なくとも私はそのつもりだ。
相手が貴哉じゃなければゴムは必須だけど、男性不妊の貴哉に必要は無い。
久しぶりの行為だから不安はあるけれど、何度も重ねた身体はすぐに馴染むだろう、きっと。
〈貴哉さえいてくれたらそれで良いから〉
紗凪だったらきっとこう告げるはずだ。
〈早く会いたいのに、ごめんね〉
紗凪のところになんて帰さない。
《いいよ、勝手に早く来ただけだし》
紗凪を置いて私のところに来た貴哉はどんな気持ちでいるのだろう。
紗凪のことを思い出したりするのだろうか。
〈明日、楽しみにしてるから〉
独りで過ごす紗凪に連絡してみようか。電話をかければ沈んだ声を聞くことができるかもしれない。
《俺も》
このやり取りを紗凪に見せることを夢想してメッセージを終える。
普段連絡を取ることがないから電話やメッセージで紗凪に知らせることはしないけれど、そうした時の紗凪のリアクションを夢想するくらいは許されるだろう。
「ざまあみろ」
夢想した紗凪の泣き顔に満足した私は家事に戻る。
別に奪うわけじゃない、返してもらっただけ。
そして時期がくれば、終わらなければもう一度終わらせて、紗凪に返すだけのこと。
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