世界が終わる、次の日に。

佳乃

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貴哉

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「紗凪、何考えてるの?」

 その日も俺の呼んだ名前に違和感を感じたのだろう。揺れた視線に「集中して」と声をかけ、その身体を揺さぶり続ける。

「紗羅」

「紗羅」

 敢えて呼ぶその名前に不安になった紗凪が腕を、舌を伸ばす。

 これでいい。
 傷付きながら俺を求め、疑心暗鬼に陥りながらも俺に縋ればいいんだ。

 紗羅との関係は紗凪と付き合うようになっても続いていた。
 細く細く、途切れることなく続く関係は腐れ縁なんて呼び方すらできない繋がっているようで繋がっていない関係。季節の挨拶と共に自分の近況を伝え、共通の友人の変化があればそれを伝え合うだけの関係はとても事務的なものだった。
 感情を交えずに事実だけを送り合うメッセージに温度を感じる事はなく、それでも止めることができず惰性で続くメッセージのやり取り。

 そんな関係だから紗凪と再会したことも、紗凪と暮らし始めたことも、紗凪と付き合い始めたことも紗羅には告げていなかった。
 紗凪に紗羅を重ねたくせにそのことを告げて気を引くような事はしたくなかった。偶然の再会なのに、自分の気を引きたくて紗凪に近づいたと思われ、マイナスの感情を持たれることが怖かった。

 紗凪に再会したのは偶然だし、一緒に暮らし始めたのは親切心から。同じ部屋で過ごすうちに紗羅を重ね、人と過ごす時間の大切さを思い出し、独りの時間の寂しさを再認識する。
 そして、紗凪と過ごすうちに紗羅の面影を見付け、あの頃の紗羅を重ね、気持ちを向け、手に入れることを決意した。

 紗羅のことを忘れることなんてできないし、繋がりを断つことができなかったのはやっぱり未練があったから。自分から告げる気は無かったけれど、紗凪が家族に伝えることで、もしかしたら紗羅に伝わるかもしれない。紗凪との関係を知った紗羅から、温度を感じるメッセージが来るかもしれないという期待を持たなかったわけじゃない。

 紗羅の弟じゃなければこんなふうに気にはしなかったけれど、純粋に心配して気にかけたことに他意はなかった。
 ただ、同じ時間を過ごすうちに紗羅の面影を見つけ、家を出ると言った紗凪と俺から離れて行った紗羅を重ねて焦燥感に苛まれ、また独りになることが耐えられないと思い無理やり囲い込んでしまった。

 紗凪は紗凪、紗羅は紗羅と認識していた。だけど仲が深まるうちにあの頃の紗羅が蘇り、紗凪と紗羅を混同していく。

 紗凪を抱きながら紗羅を思い出し、紗羅を重ねていることを自覚して、紗羅を重ねていることに気付き傷付いた紗凪を愛おしいと思い慈しむ。

 結局は自分の淋しさを、自分の欲望を満たすことができれば紗凪でも紗羅でも良かったのかもしれないなんて最低なことを考え、それでも目の前にいる紗凪のことを大切に想う。

 紗羅を重ねていることを匂わせて紗凪を傷付け、その気持ちを利用して俺から離れられなくなればいいと思っていた。

 だって、紗凪が俺だけを求めるようになれば俺たちが離れることはないのだから。俺と紗羅との関係は【男性不妊】のせいで解消することになったけれど、俺と紗凪の関係はそれを理由に解消する必要のないものだから何の障害もない。

 だからきっと上手く行くと思っていた。
 傷付けて苦しめて、その傷を癒して甘やかして、俺だけを見て俺だけを求める未来しか思い描いていなかった。

 それが変わってしまったのはあの噂のせいだった。

⌘⌘⌘

「世界が終わるって、聞いた?」

「何それ」

「今日職場で聞いたんだけど、そんな噂があるらしいよ?
 ほら、昔からノストラダムスとか、マヤの予言とか有ったじゃない?
 そんな感じの話みたい」

「そんな訳ないって。
 紗凪はそういうの、信じるタイプ?」

「そうじゃないけど…」

 最近決まった派遣先は歳の近い社員が多いらしく、休憩の時に一緒に過ごす相手もできたようだった。オカルトマニアとまではいかないけれど、都市伝説と言われる類の話を好んでする社員がいるようで、そこで聞いた話を真剣に話す姿は無垢で可愛く思っていた。
 伝統というか、昔ながらの決まりごとを大切にする家で育ったせいか、その手の話を疑うことをしない紗凪は今日聞いた話に顔を曇らせる。

「紗凪、おいで」

 不安げな顔をした紗凪が可愛くて、素直に身体を寄せた彼をそっと抱きしめる。

「もしも世界が終わるなら、その時はそばにいてくれる?」

「当たり前だろ?」

 それは本心から出た言葉だった。
 無理やり囲み込んだせいで褒められた始まり方ではなかったけれど紗凪に対する気持ちは愛情だし、紗凪だって同じように想いを返してくれるようになっていた。
 嗜虐心を満たしたくなってわざと嫌がることをしてしまうこともあるけれど、それはマンネリ化しないためのプレイのひとつ。
 何も生み出すことのない関係は、安穏のまま過ぎてしまえばマンネリになってしまうだけで、マンネリ化を防ぐためにはある程度の刺激が必要だから。

「もしも本当に世界が終わるなら、その時はふたりで一緒に終わるのも悪くないんじゃない?」

 そう言いながらチュッと音を立てて口付けを交わす。

「何なら、終わる瞬間はずっと繋がっていようか?」

 その言葉の意味を理解するまでに時間のかかった紗凪だったけれど、ニヤニヤしている俺の顔を見て察したのだろう。顔を赤くして「それなら怖くないかも」と可愛らしいことを言った紗凪が愛おしくて安心させるために「まあ、そんな事ないだろうけど」と嘯いてみせる。

「そうだよね。
 世界が終わるなんて、そんなはず無いのにね」

 安心したようにそう言った紗凪と笑い合ったあの時が、幸せだと思える最後の時だったのかもしれない。

 信憑性のない噂。

 根拠のない噂。

 そして、俺たちの関係を壊した噂。

 はじめはオカルト好きの間でまことしやかに流れ出した噂だったけれど、SNSで拡散され、雑誌で特集が組まれ、テレビでは不確かな情報に流されないようにと注意喚起される。
 ただ、不確かな情報であっても多く囁かれるようになれば信憑性が増していってしまう。

 時折不安そうに身体を寄せてくる紗凪をもっと依存させたくて違う名前を呼ぶ悪癖を捨てることができず、健気に舌を伸ばす姿を見るために紗羅の名前を呼ぶ。
 
 そんな俺の悪癖のせいであんな結末を迎えるなんて、この時は考えてもみなかった。

《こんなことなら、世界が終わるって知ってたら貴哉と別れなかったのに》

 終わりの始まりは、そんな紗羅からのメッセージ。

《こんなことなら、世界が終わるって知ってたら貴哉と別れなかったのに》
 
 俺に対する想いなんて無くなったと諦めたのに、それなのにそれが残っていたとも受け取れるメッセージ。

 無機質なやり取りしかしていなかったその数年間を一気に埋めてしまうような熱の籠ったメッセージに即座に返信してしまったのは燻った思いが再燃したから。
 
〈どうしたの、急に〉

 感情を出すことなくメッセージを返したのは同じ部屋で過ごす紗凪に対する罪悪感から。

《だって、家を継いで、子どもを産んで、この先もずっと続くと思ってたのに》

《それなのに終わっちゃうなら跡を継いだ意味も、子どもを産んだ意味も無かったってことでしょ?》

 その言葉に引っ掛かりを覚えたけれど、その言葉で自分への気持ちを再確認して紗羅に対する気持ちを抑えられなくなってしまった。

 目の前にいるのは紗凪だけど、メッセージが届くまでは愛おしいと思っていた彼に対して違和感を覚える。

 紗羅とメッセージを交わしているのに目の前の存在に紗羅を重ね、偽物じゃないかと紗凪の存在を否定してしまう。
 そして、こんなふうに不安を覚え、俺に縋ってくる紗羅の弟なのに姉の不安を察することなく、俺の変化にも気付かず物語の世界に入り込む紗凪に失望する。

 結局、俺にとって紗凪は紗羅の身代わりでしかなかったのだろう。

《少し話せる?》

 以前、共通の友人が結婚すると連絡した時に《彼女できた?》と聞かれた時にできたと答えたことを覚えていたようで、自分の弟と付き合っているなんて想像すらしないであろう紗羅が【彼女】の存在を気にしながらもそんな言葉を送ってくる。

 断るという選択肢なんてなかった。

 仕事の用事があると紗凪に断りを入れて寝室に向かい電話を繋ぐ。久しぶりに聞いたその声は記憶の中のそれと変わらず、名前を呼ぶ度に想いが蘇る。

 弱音を吐く紗羅に寄り添いたいと思った。

 俺を頼る紗羅に応えたいと思った。

 彼女の存在を気にして、彼女を寄り添うように言いながら声を振るわせる紗羅を守りたいと思った。

 そして、紗凪の存在を疎ましく思ってしまった。

 彼女に寄り添うように言いながら自分のことも支えて欲しいと言った紗羅の本心に気付かず気を良くした俺は、紗凪に対する想いを紗羅に向けていく。
 と言っても実際のところ持て余した想いをぶつける相手は目の前にいる紗凪だった。

 紗羅の代わりに紗羅を抱くように抱いていたその身体だったけれど、紗羅の声を聞き、あの頃を思い出せば身体の違いを思い知らされる。
 その声を思い出し、その身体を思い出してする行為は柔らかさのない胸や、あるはずのない陰茎から目を逸らしたくなってしまう。

 欲は満たしたいけれど違和感から目を逸らしたい俺はその抱き方を変え、四つん這いにさせた紗凪を声が聞こえないように枕に顔を押し付けるように組み敷き、紗羅とよく似たその背中と細い腰だけに意識を向けて揺さぶり続ける自分本位な行為を繰り返した。

 紗凪だって当然異変に気付いていただろう。だけど噂のせいで仕事がうまく回らないと言えばストレスが溜まっているのだろうと俺の身体を、俺の心を心配してくれる。

 罪悪感がなかったわけじゃない。
 ただ、罪悪感よりも紗羅への想いの方が強かっただけ。

 少しずつ離れていく気持ちと少しずつ減っていくふたりの時間。義務のように食事の用意はするけれど、その身体に触れることも無くなっていく。
 
 そして告げた紗羅との関係。

 隠し続けた関係を告げた後は開き直って紗凪を避け続けた。
 紗羅に会うために仕事を詰め、「残務処理で忙しいから」と真夜中に帰宅して寝室で眠る紗凪を見て安堵するものの、その気持ちは紗羅を想ってのこと。選ばれなかったことに腹を立て、紗羅の元に向かうという選択もできるはずなのに、それをしていないことを確認するための行為。

 隣で寝ている紗凪に嫌悪はないけれど、以前のような愛おしさを感じることはない。

 それでも部屋に残ってもいいと告げたのは…この部屋に帰ってくることがあった時に独りの時間を過ごしたくなかったから。
 もう一度紗羅を諦めることになっても、紗凪がいてくれると思えば戻ってくることができると思ったから。

 紗凪が俺から離れるなんて考えたこともなかったし、紗凪が俺から離れられるわけがないなんて自惚れていたから。

 残処理を終え、紗羅の元に向かうと告げた時に紗凪は微笑んでいた。
 部屋は解約していないからこのままここで過ごせばいいと告げた時と同じ顔だったから、きっとこの場所で俺を想い、俺を待っていると思っていたんだ。

 もしも最後の時を迎えることになっても、俺の気配の残る部屋でその時を迎えるのが紗凪の幸せだと本気で思っていた。

 そんな都合のいい事があるわけないのに愚かで狡い俺は、紗凪の存在を保険のように思い、帰る場所だと決めつけていた。

 終わらない世界を呪いながら、俺を選ばなかった紗羅を呪いながら、それでも紗凪の存在があるから大丈夫だと言い聞かせ帰宅した部屋に紗凪が居ないだなんて、そんなこと考えもしなかった。

 無くなった荷物に気付き、ドアポストに入れられた鍵に気付き、失ったことに気付いた時にはもう手遅れだったんだ。

 紗羅を失い、紗凪を失い、俺の世界はこの時終わりを告げたのかもしれない。
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