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紗凪
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始めこそ無理矢理だった。だけどボクの言質を取り動画に収めたせいか、あれから何かを強要されることは無かった。
それは貴哉が安心したからなのか、ボクが痛みを与えられることに恐れ、無意識のうちに従順になっていたからなのかは分からない。
ただ、恐怖に支配されていたはずなのに毎日の生活の中で【大切にされている】と思う度に少しずつボクの気持ちは貴哉に向いていく。
ボクよりも先にベッドを降り、朝食を用意するのは夜毎ボクに無理をさせるからなのだけど、大切にされていると思ってしまう。
昼食は職場によって環境が違うせいで用意されることはないけれど、夕食はいつも彼が用意してくれる。
付き合うと言ったものの、この家から出て行かなければ問題ないのだと判断して今まで通り食事は冷凍ミールで済ませようと思っていたけれど「一緒に食事を摂りたいから」と言われてしまえば断る事もできない。
断るとまた痛みを与えられるのではないかという怯えもあったけれど、食事をするボクを観察し、ボクの好みを把握しようとする姿を見て絆されてしまった。
恐怖による刷り込みで言いなりになっていたはずなのにいつの間にか好意を抱き、彼の行動を肯定する。
貴哉がボクに痛みを与えたのはボクが悪かったのだから仕方がない。
だって、貴哉はこんなにもボクを愛し、こんなにもボクを大切にしてくれるのだから。
「紗凪、仕事、辞めてもいいんだよ?」
折に触れて言われる言葉で唯一頷くことのできなかった言葉。貴哉がボクの仕事を誤解していることには気付いていたけれど、はじめの頃に誤解を解こうと思った事もあったけれど、タイミングを逃してしまい今更言うこともできない。
早くて数週間、長くても数ヶ月で職場の変わるボクのことを自分が庇護しないと駄目だと思っているのだとすれば友人が代表の会社の役員だと知った時に騙されたと思い、ボクから離れていってしまうかもしれないと怖くなったせいもある。
そう。半ば脅される形で始まった関係だったけれど、今のボクに貴哉から離れるという選択肢は無い。
「辞めないよ。
何もかも貴哉に頼るのは申し訳ないから、せめて生活費くらいは入れさせて」
家賃も払うと言ったものの、ここに住んで欲しいと言ったのは自分だからと断られてしまった。それなら生活費を払いたいと申し出れば笑えるほどの金額を提示され、交渉の結果ある程度の金額を払うことで合意してもらった。
正直なところ自分の収入を考えればもう少し払っても問題無いのだけど、派遣で友達の家に居候していたと思われているせいでそれ以上は受け取れないと言われてしまった。それならばと思い、月々勝手に積み立てをして、まとまった金額になったら旅行に誘おうと思っているのは貴哉には内緒だ。
「本当は生活費もいらないからずっと家にいて欲しいんだけど…閉じ込めるわけにはいかないか」
その言葉で貴哉から離れていった姉を思い出すけれど、気付かないふりをして「ちゃんと帰ってくるから」とその口を塞ぐ。普段はボクから触れ合うことが少ないせいで嬉しそうに応えてくれるけれど、本当は知ってるんだ。貴哉にとってボクは姉の、紗羅の代わりでしか無いことを。
⌘⌘⌘
身体を重ねている最中に呼ばれる名前に違和感があった。
「紗凪」
そう呼ばれていると思っていればそう聞こえるけれど、囁くように呼ばれる名前はいつも語尾がはっきりしない。
「さな」なのか、「さら」なのか、そんなことを考えたことはなかったけれど、真夜中に寝言で貴哉が呼んだ名前は「紗凪」ではなくて「紗羅」だった。
それを聞いてしまった後で注意深く耳を澄ませば呼ばれた名前が自分のものでは無いことに気付いてしまうのはすぐだった。
「紗凪、何考えてるの?」
ボクを抱いているのにボクじゃ無い名前を呼び、「集中して」とその動きを早める。
何度も何度も身体を重ねたせいで何をすればボクが悦ぶのかなんて、貴哉にはお見通しなのだろう。
明確にボクを呼ぶ時には「紗凪」と呼ぶけれど、最中に気にして聞いてみれば「さ×」「さ×」と愛おしそうな声は「紗羅」「紗羅」と呼んでいることに気付く。貴哉はきっと、はじめからボクに姉を重ねていただけなのだろう。
結ばれるはずだったのに、自分が原因で諦めるしかなかった姉の【紗羅】とその弟である【紗凪】はその外見がよく似ていたから。
浅ましいボクは姉の名前で呼ばれていることに気付いてからも与えられる快楽に流され、姉の名前を聞きたくなくて唇を重ねて欲しいと強請るように舌を差し出す事を繰り返す。そんなふうにボクから求めれば嬉しそうに口を塞ぎ、唇を喰み、執拗に舌を絡める。
そうして口を塞いでしまえばボクの声は貴哉に飲み込まれ、姉とは違う嬌声は聞こえなくなるから彼には都合がいいのかもしれない。
そしてボクも、貴哉の口から溢れるボクじゃ無い名前を聞く必要がなくなるのだからwin-winだと卑屈なことを思ってしまう。
結局、ボクは姉の代わりでしか無いのだろう。
貴哉が姉にしてあげたかったことをボクにしているだけで、ボクにしたいと思っての行動ではないはずだ。
姉を養い、姉を慈しみ、姉と身体を重ね、姉との子供を育てながら姉と共に歳を重ねていく。それが貴哉の本当の望みなのだから。
ボクと姉は確かに似ている。
歳が少し離れていたことと性別が違うせいで、姉が化粧をするようになってからは特に2人並んでも【似ている】と言われることはなかったけれど、幼い頃の写真を見るとどちらが姉でどちらがボクなのか分からないことも多い。
服装や一緒に映る友人、場所を見れば区別がつくのだけど、幼い頃は髪を短くしていた姉と、男の子にしては長めの髪だったボクは写真だけ見せて双子だと言ってもきっと通じてしまう程。
幼い頃は母に髪を切ってもらっていたから姉もきっと、そうだったのだろう。
化粧をするようになった姉はどちらかといえば幼い顔立ちを隠すようにはっきりとアイラインを入れ、眉をしっかりと描くようになると面影が薄れ、それほど似ているとも思えなくなった。ただ、結婚を前提にお付き合いしていた貴哉に対しては当然だけど素顔を見せていただろうし、年齢から考えると別れた頃の姉の素顔と今のボクは自分で思う以上に似ているのかもしれない。
だから貴哉の会社で再会した時もすぐにボクだと気付いたのだろう。
平凡なボクにすぐに気付いたのは平凡なはずの姉の素顔と同じだったから。化粧で華やかに装った顔ではなくて、化粧を落とした平凡な顔に気付いたのは…きっと姉に対する気持ちが外見に左右されるようなものでは無かったから。
それだけ姉のことが好きで、いまだに姉を忘れることができていなかったからなのだろう。
強引な手段を取ってまでボクと付き合おうとしたのはボク相手なら子供を望むこともないから。どうにもならない理由で姉と別れることになったけど、同じ理由で自分が身を引く必要のない関係。それだけでなく、外見だけ見れば姉とよく似ているし、抱くことのできれば凹凸がないことなど取るに足らないことだったのかもしれない。
姉と同じ顔で自分を頼り、自分を受け入れ、自分から離れていかない存在。
それに気付いた時にはボクはもう貴哉のことが好きだったから。姉と過ごした数年をボクと過ごし、姉と過ごした年数よりも貴哉に寄り添えばその気持ちはきっとボクに向くと思っていた。
姉は貴哉を拒み貴哉を傷付けたけど、貴哉に傷付けられたボクはそれでも貴哉を受け入れたのだから。
だけど現実は甘くなくて、身体を重ねる時に呼ばれる名前は姉のものだったし、寝言で呼ぶのも姉の名前。
それもそのはずだ。
あの日、貴哉が言ったように別れた後も連絡を取り合っていたのだから姉のことを忘れることなんてできるはずがなかったんだ。貴哉はボクに姉を重ねていたわけではなくて、ボクを姉の身代わりにしただけのこと。
2人がどんなやりとりをしていたのかなんて知らないけれど、心は通いあったままだったのだろう。心は満たされていても満たされることのない身体。
同じ顔と似た名前。
同じ家庭で育ったのだから言動だって似ていたのかもしれない。
あの職場で彼と出会ったのは偶然だったけど、貴哉にとっては運命に思えるような出来事。姉に会えない淋しさを満たすために与えられたボクだったけれど、貴哉が求めたのはボクじゃない。
そして、最後の刻に求め合ったのは姉と貴哉。
何も問題がなければ結ばれたはずの2人が最後の瞬間を共にしたいと思うのは当たり前の感情で。だけど置き去りにされてしまったボクは貴哉の痕跡の残る部屋で過ごすことが辛すぎて、彼の帰ってこない部屋で過ごすのも辛すぎて。
貴哉が姉の元に向かった日に必要なものだけをスーツケースに詰めてこの部屋を出ることにした。
あの日、姉との関係を告白した貴哉は家を出るその日まで僕と身体を重ねようとはしなかった。本物に会う準備に追われ、偽物には興味を失ったのだろう。
食事だって「残務処理で忙しいから」と真夜中に帰ってくるから得意の冷凍ミールで済ませるようになった。
一応、貴哉の分も用意したけれど、冷凍庫を覗いても減っていないからきっとどこかで済ませてきているのだろう。
結局、僕は庇護欲を満たすための道具でしかなかったんだ。
どうせ数日後には世界は終わってしまうのだから、今更どうなったっていいんだ。
そう思っても浅ましいボクは貴重品を置いていくことはしなかった。もしかして世界が終わらなかった時、当然だけどお金は必要だし、自分の身分を証明するものだって必要だし、必要最低限の衣類だって有った方がいいだろう。
幸いなことに貴哉に庇護された生活のおかげで当分の間生活に困らないだけの貯金もある。
仕事だって混乱のせいで今は事務所に顔を出す程度だけど、もしも世界が終わらなければすぐに新しい職場が決まるだろう。
「とりあえず、事務所に顔出すかな」
少し大きめのスーツケースを引きずりながら部屋に鍵をかける。もしも世界が終わらなくても、もうこの部屋に戻ってくる気はない。
カチャン
ドアポストに落とした鍵はボクの手を離れ、ボクとこの部屋の接点は無くなってしまったのだった。
それは貴哉が安心したからなのか、ボクが痛みを与えられることに恐れ、無意識のうちに従順になっていたからなのかは分からない。
ただ、恐怖に支配されていたはずなのに毎日の生活の中で【大切にされている】と思う度に少しずつボクの気持ちは貴哉に向いていく。
ボクよりも先にベッドを降り、朝食を用意するのは夜毎ボクに無理をさせるからなのだけど、大切にされていると思ってしまう。
昼食は職場によって環境が違うせいで用意されることはないけれど、夕食はいつも彼が用意してくれる。
付き合うと言ったものの、この家から出て行かなければ問題ないのだと判断して今まで通り食事は冷凍ミールで済ませようと思っていたけれど「一緒に食事を摂りたいから」と言われてしまえば断る事もできない。
断るとまた痛みを与えられるのではないかという怯えもあったけれど、食事をするボクを観察し、ボクの好みを把握しようとする姿を見て絆されてしまった。
恐怖による刷り込みで言いなりになっていたはずなのにいつの間にか好意を抱き、彼の行動を肯定する。
貴哉がボクに痛みを与えたのはボクが悪かったのだから仕方がない。
だって、貴哉はこんなにもボクを愛し、こんなにもボクを大切にしてくれるのだから。
「紗凪、仕事、辞めてもいいんだよ?」
折に触れて言われる言葉で唯一頷くことのできなかった言葉。貴哉がボクの仕事を誤解していることには気付いていたけれど、はじめの頃に誤解を解こうと思った事もあったけれど、タイミングを逃してしまい今更言うこともできない。
早くて数週間、長くても数ヶ月で職場の変わるボクのことを自分が庇護しないと駄目だと思っているのだとすれば友人が代表の会社の役員だと知った時に騙されたと思い、ボクから離れていってしまうかもしれないと怖くなったせいもある。
そう。半ば脅される形で始まった関係だったけれど、今のボクに貴哉から離れるという選択肢は無い。
「辞めないよ。
何もかも貴哉に頼るのは申し訳ないから、せめて生活費くらいは入れさせて」
家賃も払うと言ったものの、ここに住んで欲しいと言ったのは自分だからと断られてしまった。それなら生活費を払いたいと申し出れば笑えるほどの金額を提示され、交渉の結果ある程度の金額を払うことで合意してもらった。
正直なところ自分の収入を考えればもう少し払っても問題無いのだけど、派遣で友達の家に居候していたと思われているせいでそれ以上は受け取れないと言われてしまった。それならばと思い、月々勝手に積み立てをして、まとまった金額になったら旅行に誘おうと思っているのは貴哉には内緒だ。
「本当は生活費もいらないからずっと家にいて欲しいんだけど…閉じ込めるわけにはいかないか」
その言葉で貴哉から離れていった姉を思い出すけれど、気付かないふりをして「ちゃんと帰ってくるから」とその口を塞ぐ。普段はボクから触れ合うことが少ないせいで嬉しそうに応えてくれるけれど、本当は知ってるんだ。貴哉にとってボクは姉の、紗羅の代わりでしか無いことを。
⌘⌘⌘
身体を重ねている最中に呼ばれる名前に違和感があった。
「紗凪」
そう呼ばれていると思っていればそう聞こえるけれど、囁くように呼ばれる名前はいつも語尾がはっきりしない。
「さな」なのか、「さら」なのか、そんなことを考えたことはなかったけれど、真夜中に寝言で貴哉が呼んだ名前は「紗凪」ではなくて「紗羅」だった。
それを聞いてしまった後で注意深く耳を澄ませば呼ばれた名前が自分のものでは無いことに気付いてしまうのはすぐだった。
「紗凪、何考えてるの?」
ボクを抱いているのにボクじゃ無い名前を呼び、「集中して」とその動きを早める。
何度も何度も身体を重ねたせいで何をすればボクが悦ぶのかなんて、貴哉にはお見通しなのだろう。
明確にボクを呼ぶ時には「紗凪」と呼ぶけれど、最中に気にして聞いてみれば「さ×」「さ×」と愛おしそうな声は「紗羅」「紗羅」と呼んでいることに気付く。貴哉はきっと、はじめからボクに姉を重ねていただけなのだろう。
結ばれるはずだったのに、自分が原因で諦めるしかなかった姉の【紗羅】とその弟である【紗凪】はその外見がよく似ていたから。
浅ましいボクは姉の名前で呼ばれていることに気付いてからも与えられる快楽に流され、姉の名前を聞きたくなくて唇を重ねて欲しいと強請るように舌を差し出す事を繰り返す。そんなふうにボクから求めれば嬉しそうに口を塞ぎ、唇を喰み、執拗に舌を絡める。
そうして口を塞いでしまえばボクの声は貴哉に飲み込まれ、姉とは違う嬌声は聞こえなくなるから彼には都合がいいのかもしれない。
そしてボクも、貴哉の口から溢れるボクじゃ無い名前を聞く必要がなくなるのだからwin-winだと卑屈なことを思ってしまう。
結局、ボクは姉の代わりでしか無いのだろう。
貴哉が姉にしてあげたかったことをボクにしているだけで、ボクにしたいと思っての行動ではないはずだ。
姉を養い、姉を慈しみ、姉と身体を重ね、姉との子供を育てながら姉と共に歳を重ねていく。それが貴哉の本当の望みなのだから。
ボクと姉は確かに似ている。
歳が少し離れていたことと性別が違うせいで、姉が化粧をするようになってからは特に2人並んでも【似ている】と言われることはなかったけれど、幼い頃の写真を見るとどちらが姉でどちらがボクなのか分からないことも多い。
服装や一緒に映る友人、場所を見れば区別がつくのだけど、幼い頃は髪を短くしていた姉と、男の子にしては長めの髪だったボクは写真だけ見せて双子だと言ってもきっと通じてしまう程。
幼い頃は母に髪を切ってもらっていたから姉もきっと、そうだったのだろう。
化粧をするようになった姉はどちらかといえば幼い顔立ちを隠すようにはっきりとアイラインを入れ、眉をしっかりと描くようになると面影が薄れ、それほど似ているとも思えなくなった。ただ、結婚を前提にお付き合いしていた貴哉に対しては当然だけど素顔を見せていただろうし、年齢から考えると別れた頃の姉の素顔と今のボクは自分で思う以上に似ているのかもしれない。
だから貴哉の会社で再会した時もすぐにボクだと気付いたのだろう。
平凡なボクにすぐに気付いたのは平凡なはずの姉の素顔と同じだったから。化粧で華やかに装った顔ではなくて、化粧を落とした平凡な顔に気付いたのは…きっと姉に対する気持ちが外見に左右されるようなものでは無かったから。
それだけ姉のことが好きで、いまだに姉を忘れることができていなかったからなのだろう。
強引な手段を取ってまでボクと付き合おうとしたのはボク相手なら子供を望むこともないから。どうにもならない理由で姉と別れることになったけど、同じ理由で自分が身を引く必要のない関係。それだけでなく、外見だけ見れば姉とよく似ているし、抱くことのできれば凹凸がないことなど取るに足らないことだったのかもしれない。
姉と同じ顔で自分を頼り、自分を受け入れ、自分から離れていかない存在。
それに気付いた時にはボクはもう貴哉のことが好きだったから。姉と過ごした数年をボクと過ごし、姉と過ごした年数よりも貴哉に寄り添えばその気持ちはきっとボクに向くと思っていた。
姉は貴哉を拒み貴哉を傷付けたけど、貴哉に傷付けられたボクはそれでも貴哉を受け入れたのだから。
だけど現実は甘くなくて、身体を重ねる時に呼ばれる名前は姉のものだったし、寝言で呼ぶのも姉の名前。
それもそのはずだ。
あの日、貴哉が言ったように別れた後も連絡を取り合っていたのだから姉のことを忘れることなんてできるはずがなかったんだ。貴哉はボクに姉を重ねていたわけではなくて、ボクを姉の身代わりにしただけのこと。
2人がどんなやりとりをしていたのかなんて知らないけれど、心は通いあったままだったのだろう。心は満たされていても満たされることのない身体。
同じ顔と似た名前。
同じ家庭で育ったのだから言動だって似ていたのかもしれない。
あの職場で彼と出会ったのは偶然だったけど、貴哉にとっては運命に思えるような出来事。姉に会えない淋しさを満たすために与えられたボクだったけれど、貴哉が求めたのはボクじゃない。
そして、最後の刻に求め合ったのは姉と貴哉。
何も問題がなければ結ばれたはずの2人が最後の瞬間を共にしたいと思うのは当たり前の感情で。だけど置き去りにされてしまったボクは貴哉の痕跡の残る部屋で過ごすことが辛すぎて、彼の帰ってこない部屋で過ごすのも辛すぎて。
貴哉が姉の元に向かった日に必要なものだけをスーツケースに詰めてこの部屋を出ることにした。
あの日、姉との関係を告白した貴哉は家を出るその日まで僕と身体を重ねようとはしなかった。本物に会う準備に追われ、偽物には興味を失ったのだろう。
食事だって「残務処理で忙しいから」と真夜中に帰ってくるから得意の冷凍ミールで済ませるようになった。
一応、貴哉の分も用意したけれど、冷凍庫を覗いても減っていないからきっとどこかで済ませてきているのだろう。
結局、僕は庇護欲を満たすための道具でしかなかったんだ。
どうせ数日後には世界は終わってしまうのだから、今更どうなったっていいんだ。
そう思っても浅ましいボクは貴重品を置いていくことはしなかった。もしかして世界が終わらなかった時、当然だけどお金は必要だし、自分の身分を証明するものだって必要だし、必要最低限の衣類だって有った方がいいだろう。
幸いなことに貴哉に庇護された生活のおかげで当分の間生活に困らないだけの貯金もある。
仕事だって混乱のせいで今は事務所に顔を出す程度だけど、もしも世界が終わらなければすぐに新しい職場が決まるだろう。
「とりあえず、事務所に顔出すかな」
少し大きめのスーツケースを引きずりながら部屋に鍵をかける。もしも世界が終わらなくても、もうこの部屋に戻ってくる気はない。
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ドアポストに落とした鍵はボクの手を離れ、ボクとこの部屋の接点は無くなってしまったのだった。
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