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時也編 2
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翌日からも特に変わる事なく日々は過ぎていく。
朝起きて、朝食を食べ、常備菜や冷凍食品なども使い弁当を作る。
帰宅すれば夕飯を作り、夜はゆっくりと読書を楽しむ。
昼食は基本的に薫さんと食べているけれど、時にはみんな出払ってしまい1人で食べる日もある訳で。そんな時に時間を持て余すことがないよう、本を持っていって読むようになった。
今までは時間を潰すためにスマホを弄んでいたけれど、溜まった本を読み進めるうちに習慣となり、いつしか読まないままになっていた本は僕の愛読書となりその量を増やしていく。今は書店に行かなくても欲しい本が買えてしまうため蔵書は日々増加している。
時折、何を読んでいるのかと聞かれその流れで好きな本の話となり、お互いの蔵書を貸したり借りたりする事もあって僕もすっかりこの会社に慣れてきたと嬉しく思う時もあった。
仕事は順調だし、人間関係も良好で、橘さんともメッセージを交わし、時には顔を合わせて話したりもする。
穏やかな毎日は僕を慰め、僕を癒す。
季節が移り変わり人恋しいと思うような気温になった頃、そのメッセージを受け取った。
〈いつになったら連絡してくるの?〉
メッセージを送ってきたのは敦志で、何のことがわからずに〈何の連絡?〉と素で返してしまいそれに対する答えは折り返しの電話だった。
「どうしたの?」
全く何のことかわからない僕は電話でもそんな風だから、敦志は呆れてため息を吐く。
『飲もうって約束したよね?』
「いつ?」
『モールで会った時』
そこまで言われてやっと思い出す。
敦志とそんな会話をした翌日に橘さんとの出会いがあり、その情報量の多さに敦志と約束をすっかり忘れていたようだ。
「ごめん、色々あって忘れてた」
『色々?』
僕の返事に対して帰ってきた言葉に少しだけ緊張感が含まれていると思うのは気のせいだろうか?
「うん。あの次の日に社長とゆっくり話す機会があって、色々と考えさせられることが多くてそのことばかり考えてたから…」
『会社で何かあった?』
「仕事の事じゃなくて…人間関係?
世の中の渡りかた?」
『なに、それ』
社長と橘さんの関係を敦志に話す訳にはいかず、何と答えればいいのか悩んでそう答えると、先ほどとは違い少しだけ笑っているような声色の返事が来る。卒業後はほとんど会ってはいなかったけれど、敦志とは大学の4年間で一緒にいた時間が1番長かったせいか、その声色で何となく感情を読み取ることができる。
『時也にとって楽しい話だった?』
そして、敦志も僕と同じように声色で、選ぶ言葉で僕の感情を読み取ることができるのだろう。質問すると言うよりも、確認するといったニュアンスで言葉を続ける。
「そうだね。
今まで自分がどれだけ目先のことに、自分の周りの狭い範囲にだけに囚われてたのか気付かされた」
『そうなんだ。
じゃあ、その話を詳しく聞くためにも時間作ってもらおうかな』
安心したような声でそう告げられて、改めて予定の確認をされる。
特に予定は無いからいつでも大丈夫だと答えると、その週の金曜日を指定され『予定がないならもっと早く連絡すれば良かった』と言われてしまった。きっと連絡が来ないのは忙しいからだと思い、遠慮させてしまっていたのだろう。
「ごめん」
『別に謝らなくていいよ。
色々聞きたいこととか、話したいこともあるから楽しみにしてる』
そう言って通話は終了した。
久しぶりにと出かけた先で敦志とその彼女に会い、逃げるように帰ってきたのは少し前の事だ。聞きたいことはきっと僕が口にした社長とした話についてだろう。話したいことは…もしかしたらおめでたい話かもしれない。
僕たちも20代後半となり、少しずつ既婚者も増えてきている。年下の弟だってそろそろ結婚を、と言っているくらいだ。あの時一緒にいた女性とそう言う話になっていても不思議では無い。
会社の人たちとの関係は良好で、時には夕食を共にする時もあるけれど、まだまだ緊張してしまうため久しぶりに気を使わない相手と飲むのは楽しみだ。そう言えば最後に友人と飲みに行ったのは…と考えて、思い出した相手が一也だったことに驚く。一也と付き合っていた当時、向こうはそれなりに友人たちに会ったりしていたことには気付いていた。平日にだって作ろうと思えば時間は作れるし、週末は僕と過ごすことが前提となっていたけれど、あれだけ顔が広かった一也が僕とだけ過ごしていたなんてことはあり得ない。一応、僕に配慮して自分の用事がある程で話していたけれどそうじゃ無い時があった事だって知っている。
僕だって誰とも連絡を取っていなかったわけじゃ無い。
友人と話していて、パートナーが一也だとバレるのが怖くてメッセージや通話だけでの交流だったけれど、『そう言えば〇〇で三浦見たよ。なんか、相変わらずな感じだったよ。アイツらまだ、あんな事してんだな』なんて話を聞かされたのは一度や二度ではない。はじめは僕に遠慮して友人と会った事を話さなかっただけだと思ったけれど、それが度重なり相手が誰かを知れば〈そういう事だ〉と理解をしてしまうまでに時間はかからなかった。
それでも、時折予定があると遅くに来てみたり、早く帰ったりしていても、基本的に週末は一緒に過ごしてくれていたから見て見ない振りをしていただけ。
彼に女性のパートナーがいたと知った時に気付けなかった僕だけど、一也の時には気付いていたんだ。だけど、時折聞かされる名前は全て同性の名前で、だから〈子供ができた〉と言われる不安は無かったから見て見ぬ振りが出来ていただけ。
自分の目で見ればその衝撃はまた違ったのかもしれないけれど、それをする勇気は無かった。だから一也と彼女を見た時に我慢できなくなって電話をしてしまったのだと、今ならそう思うことができる。
不安で不安で、同性相手なら我慢できたけれど、僕の言葉の揚げ足を取るように〈異性〉ではなく〈同性〉と関係を持ち続けていた一也だったけれど、それでも〈僕との約束〉は守っていたのだから。僕の〈異性と付き合う時は僕と別れてからにして〉と言う約束はちゃんと守られていたのだから。
だけど、異性に〈一也〉と呼ばせ、残した食事を手伝い、指を絡め、僕からの電話を無視して、そんな場面を自分の目で見てしまったら逃げ出すしか方法は無かったんだ。
こんな話を橘さんにすれば「何でその時に声をかけなかったの?」と言われそうだけど、そして社長に「芳美と加賀美は違う」と嗜められるのだろうけど、あの時に声をかけないにしても、逃げるように一也の前から姿を消すのではなくてもっと違う終わり方だってあったのかもしれない。そう思いつつ、逃げるようにではなくて本当に逃げたんだよな、と可笑しくなってしまう。よくよく考えればなかなかの実行力だ。
今はもうこんな風に時折思い出すだけの一也だけど、ちゃんと話し合ってちゃんと別れることができていれば生活用品を全て買い換えるなんて事をしなくても良かったのかもしれない。
だけど、この部屋にあの時に捨てた家具がある景色を想像して〈無いな〉と自嘲する。
あの時に逃げることができたから、あの時に捨てることができたから、だから今の僕が居るのだ。
どうやら僕は、橘さんと連絡を取るようになってから少しずつ考え方が変わってきているようだ。
彼のことも一也のことも思い出すと辛かったけれど、思い出すことが無くなりもう忘れたから大丈夫だと思っていたけれど、ひとつひとつ思い出す事柄に対してひとつひとつ理由を考えて消化していく事によって自分が楽になる事を知った。
〈被害者面って、加賀美君は被害者でしょ?〉
あの言葉が僕をどれだけ楽にしてくれたのか計り知れない。
自分が相手の変化に気付けないままに終わった恋愛は、求められているのだから自分よりも好きな相手が現れるわけがないという傲慢な考えがあったせいだと、求められたことに良い気になって努力をしなかったせいだと自分を責めた。自分がもっとちゃんと相手の気持ちを考えていたら、自分が相手の動向にもっと気をつけていたら。自分が努力を怠ったせいで終わってしまったのに、それなのに相手を求め、新しいパートナーを羨み、相手に対して負の感情を持って〈自分は悪くない〉と相手を恨み被害者面する自分が嫌で、忘れることで自分はもう大丈夫だと思い込もうとしていたけれど、ちっとも大丈夫ではなかったことに気付かされた。
悲しいと声に出して良かったんだ。
苦しいと想いを吐き出して良かったんだ。
嫌われたくないと聞き分けの良い振りをしたけれど、自分がいるのに異性のパートナーと仲良くした相手に嫌われたからといって何が困ると言うのだ。
嘘吐きと、大嫌いだと罵ってしっかり終わらせれば引きずる事も無かったのかもしれない。
今更、彼に対しても一也に対しても何かアクションを起こそうなんて思わないけれど、僕を思い出さないほど幸せであって欲しいという思いは変わらないけれど、それは以前のような綺麗事ではなくて、今後関わりたく無いと言う明確な意思を持ってのことだ。
家庭が円満であれば、パートナーとうまく行っていれば僕のことを思い出す暇などないだろう。
今更2人に対して不幸になればいいのに、なんて思うほど彼らに対する興味もない。だから、僕の知らないところで僕の知らない人と幸せでいてくれれば良い。
自分がちゃんと〈恋愛〉をできなかったせいで、自分のことを好きだと言ってくれた人たちの想いに応えることができなかったからと思い悩んでいた僕はこの先恋愛とは無縁の生活を送ることになるのかもしれないと思っていたけれど、橘さんの言葉で随分と救われた。
全く悪く無かったと言うのは憚られるけれど、それでも僕だけが悪いわけじゃなかったし、外側から見れば僕は〈被害者〉に見えると客観的に言われた事が救いになったのかもしれない。
もしかしたら、こんな僕でも良いと言ってくれる人が現れるかもしれない。
もしかしたら、こんな僕でも好きだと思える人が現れるかもしれない。
独りだと膝を抱えた僕だけど、このまま独りで生きていくのだと、独りでも大丈夫だと強がっていた僕だけど、自分は思うよりも1人ではなかったみたいだ。
想定外に異動となった職場で巡り合い、僕に手を差し伸べてくれた優しい人たちは頑なだった僕の心を解きほぐし、僕の気持ちを前向きにさせてくれた。
彼や一也と過ごした時間に比べれば本当に短い時間だというのに、それなのに僕の気持ちを変えてくれた人たち。
今までだって少しでも周りに話す事ができていれば、周りを頼る事ができていれば何かが違ったのかと思うけれど、今の僕だからこそ今の職場に異動となり、橘さんに出会う事ができたのだろう。
そう言えば、僕がこの会社に異動できるように尽力を尽くしてくれた先輩からは無事に子供が産まれたと連絡をもらい、お祝いの言葉と共に落ち着いたら会いに行きたいと連絡をしたままになっている。
どのくらいになれば会いに行っても大丈夫なのか、薫さんに相談してみよう。出産祝いは…好みもあるけれど、これも相談しても大丈夫だろうか。
とりあえずは週末に敦志と会い、久しぶりにゆっくりと話をしよう。
恋愛に囚われ過ぎて空白になってしまった友人との時間を今から取り返すことは難しいかもしれないけれど、新たな形での付き合いを模索してみよう。
頑なだった心は、二度と溶ける事はないと思えるほどに凍りついたはずの心は優しい人たちの手によって少しずつ溶かされていく。そして、凍りついた心を溶かす術を教えてくれる。
恋愛にばかり囚われず、自分を見つめ直して毎日を過ごすことの大切さ。新しい事に挑戦する楽しさ。
尊人さんからは山登りを勧められ、読書家である康紀さんからは読んだことの無かったジャンルを薦められた。薫さんは生活全般において僕に新しい知識を与えてくれる。
そして、社長と橘さんからは信頼と覚悟を教えられ、依存するのではなくて支え合う強さを教えられた。
相手に依存することで甘やかされたまま過ごし、甘やかされた状態で放り出されて身動きの取れなくなった僕はもう居ない、と思いたい。
差し伸べられたたくさんの優しい手は僕を強くする。
それでは僕の手は…。
朝起きて、朝食を食べ、常備菜や冷凍食品なども使い弁当を作る。
帰宅すれば夕飯を作り、夜はゆっくりと読書を楽しむ。
昼食は基本的に薫さんと食べているけれど、時にはみんな出払ってしまい1人で食べる日もある訳で。そんな時に時間を持て余すことがないよう、本を持っていって読むようになった。
今までは時間を潰すためにスマホを弄んでいたけれど、溜まった本を読み進めるうちに習慣となり、いつしか読まないままになっていた本は僕の愛読書となりその量を増やしていく。今は書店に行かなくても欲しい本が買えてしまうため蔵書は日々増加している。
時折、何を読んでいるのかと聞かれその流れで好きな本の話となり、お互いの蔵書を貸したり借りたりする事もあって僕もすっかりこの会社に慣れてきたと嬉しく思う時もあった。
仕事は順調だし、人間関係も良好で、橘さんともメッセージを交わし、時には顔を合わせて話したりもする。
穏やかな毎日は僕を慰め、僕を癒す。
季節が移り変わり人恋しいと思うような気温になった頃、そのメッセージを受け取った。
〈いつになったら連絡してくるの?〉
メッセージを送ってきたのは敦志で、何のことがわからずに〈何の連絡?〉と素で返してしまいそれに対する答えは折り返しの電話だった。
「どうしたの?」
全く何のことかわからない僕は電話でもそんな風だから、敦志は呆れてため息を吐く。
『飲もうって約束したよね?』
「いつ?」
『モールで会った時』
そこまで言われてやっと思い出す。
敦志とそんな会話をした翌日に橘さんとの出会いがあり、その情報量の多さに敦志と約束をすっかり忘れていたようだ。
「ごめん、色々あって忘れてた」
『色々?』
僕の返事に対して帰ってきた言葉に少しだけ緊張感が含まれていると思うのは気のせいだろうか?
「うん。あの次の日に社長とゆっくり話す機会があって、色々と考えさせられることが多くてそのことばかり考えてたから…」
『会社で何かあった?』
「仕事の事じゃなくて…人間関係?
世の中の渡りかた?」
『なに、それ』
社長と橘さんの関係を敦志に話す訳にはいかず、何と答えればいいのか悩んでそう答えると、先ほどとは違い少しだけ笑っているような声色の返事が来る。卒業後はほとんど会ってはいなかったけれど、敦志とは大学の4年間で一緒にいた時間が1番長かったせいか、その声色で何となく感情を読み取ることができる。
『時也にとって楽しい話だった?』
そして、敦志も僕と同じように声色で、選ぶ言葉で僕の感情を読み取ることができるのだろう。質問すると言うよりも、確認するといったニュアンスで言葉を続ける。
「そうだね。
今まで自分がどれだけ目先のことに、自分の周りの狭い範囲にだけに囚われてたのか気付かされた」
『そうなんだ。
じゃあ、その話を詳しく聞くためにも時間作ってもらおうかな』
安心したような声でそう告げられて、改めて予定の確認をされる。
特に予定は無いからいつでも大丈夫だと答えると、その週の金曜日を指定され『予定がないならもっと早く連絡すれば良かった』と言われてしまった。きっと連絡が来ないのは忙しいからだと思い、遠慮させてしまっていたのだろう。
「ごめん」
『別に謝らなくていいよ。
色々聞きたいこととか、話したいこともあるから楽しみにしてる』
そう言って通話は終了した。
久しぶりにと出かけた先で敦志とその彼女に会い、逃げるように帰ってきたのは少し前の事だ。聞きたいことはきっと僕が口にした社長とした話についてだろう。話したいことは…もしかしたらおめでたい話かもしれない。
僕たちも20代後半となり、少しずつ既婚者も増えてきている。年下の弟だってそろそろ結婚を、と言っているくらいだ。あの時一緒にいた女性とそう言う話になっていても不思議では無い。
会社の人たちとの関係は良好で、時には夕食を共にする時もあるけれど、まだまだ緊張してしまうため久しぶりに気を使わない相手と飲むのは楽しみだ。そう言えば最後に友人と飲みに行ったのは…と考えて、思い出した相手が一也だったことに驚く。一也と付き合っていた当時、向こうはそれなりに友人たちに会ったりしていたことには気付いていた。平日にだって作ろうと思えば時間は作れるし、週末は僕と過ごすことが前提となっていたけれど、あれだけ顔が広かった一也が僕とだけ過ごしていたなんてことはあり得ない。一応、僕に配慮して自分の用事がある程で話していたけれどそうじゃ無い時があった事だって知っている。
僕だって誰とも連絡を取っていなかったわけじゃ無い。
友人と話していて、パートナーが一也だとバレるのが怖くてメッセージや通話だけでの交流だったけれど、『そう言えば〇〇で三浦見たよ。なんか、相変わらずな感じだったよ。アイツらまだ、あんな事してんだな』なんて話を聞かされたのは一度や二度ではない。はじめは僕に遠慮して友人と会った事を話さなかっただけだと思ったけれど、それが度重なり相手が誰かを知れば〈そういう事だ〉と理解をしてしまうまでに時間はかからなかった。
それでも、時折予定があると遅くに来てみたり、早く帰ったりしていても、基本的に週末は一緒に過ごしてくれていたから見て見ない振りをしていただけ。
彼に女性のパートナーがいたと知った時に気付けなかった僕だけど、一也の時には気付いていたんだ。だけど、時折聞かされる名前は全て同性の名前で、だから〈子供ができた〉と言われる不安は無かったから見て見ぬ振りが出来ていただけ。
自分の目で見ればその衝撃はまた違ったのかもしれないけれど、それをする勇気は無かった。だから一也と彼女を見た時に我慢できなくなって電話をしてしまったのだと、今ならそう思うことができる。
不安で不安で、同性相手なら我慢できたけれど、僕の言葉の揚げ足を取るように〈異性〉ではなく〈同性〉と関係を持ち続けていた一也だったけれど、それでも〈僕との約束〉は守っていたのだから。僕の〈異性と付き合う時は僕と別れてからにして〉と言う約束はちゃんと守られていたのだから。
だけど、異性に〈一也〉と呼ばせ、残した食事を手伝い、指を絡め、僕からの電話を無視して、そんな場面を自分の目で見てしまったら逃げ出すしか方法は無かったんだ。
こんな話を橘さんにすれば「何でその時に声をかけなかったの?」と言われそうだけど、そして社長に「芳美と加賀美は違う」と嗜められるのだろうけど、あの時に声をかけないにしても、逃げるように一也の前から姿を消すのではなくてもっと違う終わり方だってあったのかもしれない。そう思いつつ、逃げるようにではなくて本当に逃げたんだよな、と可笑しくなってしまう。よくよく考えればなかなかの実行力だ。
今はもうこんな風に時折思い出すだけの一也だけど、ちゃんと話し合ってちゃんと別れることができていれば生活用品を全て買い換えるなんて事をしなくても良かったのかもしれない。
だけど、この部屋にあの時に捨てた家具がある景色を想像して〈無いな〉と自嘲する。
あの時に逃げることができたから、あの時に捨てることができたから、だから今の僕が居るのだ。
どうやら僕は、橘さんと連絡を取るようになってから少しずつ考え方が変わってきているようだ。
彼のことも一也のことも思い出すと辛かったけれど、思い出すことが無くなりもう忘れたから大丈夫だと思っていたけれど、ひとつひとつ思い出す事柄に対してひとつひとつ理由を考えて消化していく事によって自分が楽になる事を知った。
〈被害者面って、加賀美君は被害者でしょ?〉
あの言葉が僕をどれだけ楽にしてくれたのか計り知れない。
自分が相手の変化に気付けないままに終わった恋愛は、求められているのだから自分よりも好きな相手が現れるわけがないという傲慢な考えがあったせいだと、求められたことに良い気になって努力をしなかったせいだと自分を責めた。自分がもっとちゃんと相手の気持ちを考えていたら、自分が相手の動向にもっと気をつけていたら。自分が努力を怠ったせいで終わってしまったのに、それなのに相手を求め、新しいパートナーを羨み、相手に対して負の感情を持って〈自分は悪くない〉と相手を恨み被害者面する自分が嫌で、忘れることで自分はもう大丈夫だと思い込もうとしていたけれど、ちっとも大丈夫ではなかったことに気付かされた。
悲しいと声に出して良かったんだ。
苦しいと想いを吐き出して良かったんだ。
嫌われたくないと聞き分けの良い振りをしたけれど、自分がいるのに異性のパートナーと仲良くした相手に嫌われたからといって何が困ると言うのだ。
嘘吐きと、大嫌いだと罵ってしっかり終わらせれば引きずる事も無かったのかもしれない。
今更、彼に対しても一也に対しても何かアクションを起こそうなんて思わないけれど、僕を思い出さないほど幸せであって欲しいという思いは変わらないけれど、それは以前のような綺麗事ではなくて、今後関わりたく無いと言う明確な意思を持ってのことだ。
家庭が円満であれば、パートナーとうまく行っていれば僕のことを思い出す暇などないだろう。
今更2人に対して不幸になればいいのに、なんて思うほど彼らに対する興味もない。だから、僕の知らないところで僕の知らない人と幸せでいてくれれば良い。
自分がちゃんと〈恋愛〉をできなかったせいで、自分のことを好きだと言ってくれた人たちの想いに応えることができなかったからと思い悩んでいた僕はこの先恋愛とは無縁の生活を送ることになるのかもしれないと思っていたけれど、橘さんの言葉で随分と救われた。
全く悪く無かったと言うのは憚られるけれど、それでも僕だけが悪いわけじゃなかったし、外側から見れば僕は〈被害者〉に見えると客観的に言われた事が救いになったのかもしれない。
もしかしたら、こんな僕でも良いと言ってくれる人が現れるかもしれない。
もしかしたら、こんな僕でも好きだと思える人が現れるかもしれない。
独りだと膝を抱えた僕だけど、このまま独りで生きていくのだと、独りでも大丈夫だと強がっていた僕だけど、自分は思うよりも1人ではなかったみたいだ。
想定外に異動となった職場で巡り合い、僕に手を差し伸べてくれた優しい人たちは頑なだった僕の心を解きほぐし、僕の気持ちを前向きにさせてくれた。
彼や一也と過ごした時間に比べれば本当に短い時間だというのに、それなのに僕の気持ちを変えてくれた人たち。
今までだって少しでも周りに話す事ができていれば、周りを頼る事ができていれば何かが違ったのかと思うけれど、今の僕だからこそ今の職場に異動となり、橘さんに出会う事ができたのだろう。
そう言えば、僕がこの会社に異動できるように尽力を尽くしてくれた先輩からは無事に子供が産まれたと連絡をもらい、お祝いの言葉と共に落ち着いたら会いに行きたいと連絡をしたままになっている。
どのくらいになれば会いに行っても大丈夫なのか、薫さんに相談してみよう。出産祝いは…好みもあるけれど、これも相談しても大丈夫だろうか。
とりあえずは週末に敦志と会い、久しぶりにゆっくりと話をしよう。
恋愛に囚われ過ぎて空白になってしまった友人との時間を今から取り返すことは難しいかもしれないけれど、新たな形での付き合いを模索してみよう。
頑なだった心は、二度と溶ける事はないと思えるほどに凍りついたはずの心は優しい人たちの手によって少しずつ溶かされていく。そして、凍りついた心を溶かす術を教えてくれる。
恋愛にばかり囚われず、自分を見つめ直して毎日を過ごすことの大切さ。新しい事に挑戦する楽しさ。
尊人さんからは山登りを勧められ、読書家である康紀さんからは読んだことの無かったジャンルを薦められた。薫さんは生活全般において僕に新しい知識を与えてくれる。
そして、社長と橘さんからは信頼と覚悟を教えられ、依存するのではなくて支え合う強さを教えられた。
相手に依存することで甘やかされたまま過ごし、甘やかされた状態で放り出されて身動きの取れなくなった僕はもう居ない、と思いたい。
差し伸べられたたくさんの優しい手は僕を強くする。
それでは僕の手は…。
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