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羽琉 今までのこと、これからのこと、この夏のこと。
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物足りないように感じたシャワーだったけれど、長時間浴びていたせいか寒さを感じて浴室を出る。入院しているのだから風邪をひいても、発熱しても問題ないと投げやりなことを考えてしまう。
どうせどこにも行けないのだから体調が良くても、悪くてもこの部屋で過ごすことに変わりはないのだから。
「さむ、」
それでも流石に身体を冷やしすぎたのだろう、エアコンの温度を少し上げて隆臣が持ってきてくれたカーディガンを羽織る。そろそろ消灯時間だろうか。
時間を確認しようとスマホを手にして着信があったことに気付く。
「燈哉?」
その名前に驚き、着信の意味を考える。時間を見るとずいぶん前の着信で、どれだけ浴室にいたのかと自分に呆れてしまう。熱を逃すのにそれだけ時間がかかったということだろう。
折り返した方がいいのかと考えるけれど、浴室でのことを思い出してしまい指が止まる。燈哉が何を思って電話をしてきたのかは分からないけれど、感情を乗せることなく話すことは難しいだろう。
そもそも、昨日の出来事を思い出してしまうと冷静に話す自信がない。せめて何かメッセージがあればとも思うけれど、着信があるだけでメッセージは僕の送った事務的なもので止まったままだ。
〈ごめん、お風呂入ってた〉
〈おやすみ〉
折り返す気にはなれなかった。
もうすぐ消灯時間だし、と心の中で言い訳をしてメッセージを送る。メッセージを返さないという選択もあったけれど、メッセージを送れば何か言葉が返ってくるのではないかと少しだけ期待してのこと。
《おやすみ》
《また連絡する》
そして返ってきたメッセージ。
事務的なメッセージには事務的なメッセージが返されるだけで、モヤモヤしたままその言葉だけを何度も読み返す。
《また》ということは待っていれば連絡が来るのだろうか。それとも僕の送った〈また〉と同じでただの社交辞令なのだろうか。
なんで電話してきたの?
彼と夏休みにどこに行くの?
彼のヒートの時には一緒に過ごすの?
僕の【その時】には一緒にいてくれないの?
僕のことはもう、どうでもいいの?
僕にはもう、マーキングしてくれないの?
聞きたいことはたくさんあるのに聞く勇気がなくて、聞けないままの質問が増えていく。
今日は何してたの?
僕がいなくて淋しかった?
僕がいなくて嬉しかった?
彼と何を話したの?
彼とまた、僕のことを嗤ってたの?
知りたいけど知りたくないこと。
知らなければならないけれど、知らずに済むなら知りたくないこと。
このままでいられないことは分かってるけれど、燈哉の隣にいられるのならこのままでもいいと思ってしまう気持ちと、僕さえ我慢すればこのままの関係が続けられるのではないかという僅かな期待。
僕が彼を受け入れることを条件に今までと過ごしたいと伝えれば、これまでと同じように過ごせないのかと考えてみる。だけど、燈哉が受け入れたとしても彼が拒否すれば今までと同じようには過ごせないのだろう。
番となった彼が望めば番となった燈哉が断ることはないだろう、いくら僕が願ったとしても。
そう言えば何度も何度も燈哉が打診してきていた彼との話し合いは何のためのものだったのだろうか。
燈哉が彼の香りを纏っていたあの日、僕は燈哉にとって僕が絶対的な存在ではないことに気付かされた。それまでは僕が何を言っても、何をしても許されたし、僕を最優先にすることが当たり前のことだと思っていた。
だからこそできていた振る舞い。
それが壊れてしまったあの瞬間はどう表現したらいいのだろう。どう表現したら伝わるのだろう。
崩壊する世界。
変わってしまった僕と燈哉だけの世界。
燈哉が僕以外に触れたことが許せなかったし、僕以外の香りは残り香でも許せなかった。できることなら何をしているのかと詰め寄り、どういうつもりかと問い詰めたかった。
だけど僕にはそれは許されなかった。
詰め寄る僕なんて、問い詰める僕なんて【仲真羽琉】じゃない。傷付いて、弱々しく涙を流し、それでも燈哉を信じて想い続けるのが僕なのだから。
あの時に僕が動くことができていたら。ほんの少しだけ、自分のイメージなんて気にせずに本心を露わにしていたら。
燈哉の言葉に素直に従わず、燈哉の側を離れなければふたりの接触を防げたかもしれない。あの時、彼の前に立つ燈哉を見つけた時に、彼を抱き寄せた燈哉を見た時に何かできることがあったのかもしれない。
考えろと言われて考えることができるのはあの時に動かなかったことに対しての後悔ばかりで、この先のことを考えることができない。
あの日、あの時、あの場所で僕に何ができたのか。あの日、あの時、あの場所で僕はどう動くべきだったのか。
今だって本当は何をするべきかだなんて分かっている。
燈哉の意図は分からないけれど、僕と話す意思を見せた着信の意味を考えるべきなのに、それをしないのはただ逃げているだけ。
消灯時間が近いだなんて自分に言い訳をして、燈哉から告げられる現実を先延ばしにしているだけの無駄な時間。
個室なのをいいことに消灯時間を過ぎてもベッドの中で燈哉からのメッセージを遡ってみる。何か変化がないか、何か打開するためのヒントは無いか。
だけど彼と出会ってから交わしたメッセージはほとんど無いし、あっても事務的なものばかりで何も読み取ることはできない。
できる事はあったはずなのに、やるべき事はあったはずなのに、それなのに相手が動く事を期待して逃げ続けた結果がこれなのだろう。
⌘ 政文 ⌘
《夏休み、羽琉遊べないって》
伊織からのメッセージを見た時に「だろうな、」と呟いたのを伊織に聞かれたら、きっと彼は「何、それ?」と不機嫌な顔を見せただろう。
伊織の物事を自分に良いように受け取るのは悪い癖。あの電話の時だって戸惑う様子の羽琉に気付かず話をしていたけれど、伊織が嬉しそうだから助け舟を出してしまったけれど、きっとこれは叶わない約束なのだろうとは思っていた。
もしも羽琉がその気になったとしても、きっと何か邪魔が入っただろう。伊織が羽琉を守れるほどの強さを持っていれば少しは望みがあっただろうけれど、燈哉のマーキングで近づけなくなるような程度の強さでは無理だ。
〈何があった?〉
何か言葉を待つようなメッセージ。
予定が無くなったら無くなったで何の問題もないけれど、理由を言えば一度で済むはずのメッセージなのにそれが無いという事は何か伝えたい事があるのだろう、きっと。
今日出た課題を進めながらメッセージを待つものの、伊織は荒れているのだろうなと苦笑いが漏れる。俺も羽琉のことが好きだから付き合っているふりをして、羽琉の近くにいられるように、燈哉の目を欺くようにと言ったのは俺だけどそれに乗ってきた伊織は正直馬鹿だと思っている。
羽琉が俺たちと一緒に過ごしているのは俺たちが無害だと思っているから。Ωには興味無いと公言しているからこそ許される関係。
俺たちが本当に付き合っていると思っている奴もいれば、ただのΩ避けだと気付いている奴もいる。それに、燈哉は羽琉に対する伊織の気持ちが友情だけでは無いと気付いているはずだ。
だから、燈哉が欠席する時に羽琉と一緒に過ごして欲しいと言われた時には驚いたというのが本音。
燈哉が席を外す時に一緒に過ごすのと、欠席の時に一緒に過ごすのでは全く意味が違うのに、それを同列に扱ったせいで少しずつ拗れていった羽琉と燈哉の関係。
あの日、燈哉に連れられて挨拶をした羽琉のお目付役は「燈哉さん以外に友達がいたんですね」なんて呑気なことを言っていたけれど、それが良い意味で言われていたとは思ってはいない。羽琉の我儘を叶えるために了承したのは彼がβだからで、もう少しαに対しての理解があれば羽琉と燈哉の仲がここまで拗れたりはしなかったかもしれない。
伊織と俺との友人関係を認めてはいるものの、事あるごとに送られてくる付け届けは一線を引くようにという警告が含まれていると思うのは考えすぎなのだろうか。
《療養の許可、出なかったって》
〈そっか〉
許可が出ないのなら仕方ないと他人事のように考えて短く返信する。そもそもΩの療養先にαがふたりで駆けつけるなんて勘違いしてくれと言っているようなものだから、許可が出なかったのにはその辺も関係しているのではないかと勘繰ってしまう。
羽琉が療養先にどこを選ぶのかで伊織とふたりで過ごす時間を多く取れるのではないかという淡い期待がなかったわけではないけれど、ふたりで過ごす時間は作ろうと思えばなんとでもなるのだろうと頭を切り替える。
そんなことを考えながら課題の続きをやろうとした時に入る着信。相手は当たり前だけど伊織だった。
「はい」
『はいって、何でそんなに落ち着いてるの?メッセージ、ちゃんと見た?』
通話ボタンを押すなり聞こえてきた内容に呆れてしまうけれど、伊織らしいと言えば伊織らしい。普段は落ち着いて見えるのに、羽琉が関係すると途端に馬鹿になるのはどういう心理なのだろう。
今まで一緒に過ごして羽琉の気持ちが伊織に向くことなんて絶対にないと断言できるような関係性なのに、それでも諦めきれないのだろう。
そもそも俺と付き合うふりをすることを受け入れた時点で、羽琉との未来なんて無いとなぜ気付かないのだろう。
俺と付き合っていると言って羽琉に近付いたくせに、羽琉に対しての恋情を向ければその気持ちを、その信頼を裏切っていたことになるのに。
「見たよ。
だって、何か言ったところで許可が出ないならどうしようもないし」
『そうなんだけど…。
せっかく燈哉に自慢したのに』
「………言ったのか?」
『だって、どうせ燈哉だって今居と過ごすだろうし』
「それとこれとは別なんじゃないか?」
『政文、よく燈哉の肩持つけど羽琉のこと心配じゃないの?』
正論のつもりで言った言葉に伊織が見当違いのことを言い出す。燈哉が今居と過ごすからといって俺たちが羽琉と過ごして良いわけじゃないし、燈哉が今居と過ごすことを怒っていいのは羽琉だけだ。
どこまでいっても俺たちは外野なのだから、できる事はせいぜい見守ることくらいだろう。
「心配って、燈哉と今居のことか?」
『そう。
あのふたり、付き合うなら付き合うで羽琉との関係をちゃんと解消するべきだと思わない?』
「何で?」
『だって、二股だし』
「二股って、」
『この前だって廊下でイチャイチャしてたし』
「イチャイチャって、」
その言葉に思わず苦笑いが漏れる。
あの日、確かにふたりは楽しそうに話していたけれど、その関係が友情以上に見えるような事はなかった。燈哉から今居に近づいた理由を聞かされていたせいもあるけれど、今居の香りが移らないよう、燈哉の香りが移らないよう互いの距離を保っているようにすら見えた。
毎日毎日羽琉に気を遣っているのだから、羽琉がいないあの状況でのあのシュチュエーションは、気の置けない友人と話していると思えば適正な距離。
入学式の燈哉の振る舞いのせいで歪んだ関係に見られがちだけど、あのふたりの間に恋愛感情があるとは思えない。燈哉のしてしまった馬鹿な振る舞いと、αとΩであるということで勘違いされたままの関係を正すにはふたりが離れることが1番だけど、無駄に正義感の強い燈哉が今居のことを心配するせいで誤解されたままの関係。
あれは、羽琉に対する歪んだ想いもあるだろう。
自分は全てを羽琉に合わせて、羽琉のことだけを考えて、自分に近付くΩには一切興味を向けず、ただただ羽琉だけを見つめてきた一途な想い。
その想いを先に裏切ったのは羽琉で、それに加担したのは伊織と俺。
幼稚舎の頃から羽琉だけのために、羽琉だけに寄り添ってきたのにあの日の、たった数分の行動でその評価を下げた燈哉のことを気の毒に思わないでもない。その行動の意味を聞かされているだけにちゃんと話をして誤解を解けば良いのにとすら思ってしまう。
許す、許さないは別として、羽琉にはその行動の意味を知る義務があると思うし、燈哉にはその行動の意味を伝える義務があるはずだ。互いの義務を果たした上でその関係をどうするかを決めるのはふたりであって、俺や伊織、ましてや今居がどうこう言えるものではない。
燈哉の馬鹿な振る舞いのせいで羽琉か傷付いているというのが今の認識だけど、それよりも随分前から羽琉が燈哉を傷付け続けていることに気付けば燈哉だけを責める事はできないだろう。
「あれでイチャイチャなんていったら、俺たちなんて公然猥褻って言われるんじゃないのか?」
わざと茶化した言葉に『公然猥褻って、』と伊織が絶句する。
距離を保って話をしているだけでイチャイチャしていたと言われるのなら、身体を密着させたり手を繋いでいる俺たちは人前でイチャイチャ以上のことをしていることになるはずだ。
『だって、僕たちは付き合ってるふりしないとだし』
「あのふたりだって付き合ってるって思われてるけど、実際にふたりで話してるところくらいしか見たことないんじゃないか?」
『確かにそうだけど…』
時折目にする下校時の様子も話をしながら笑顔を見せる事はあるものの、俺の目には適正な距離を保っているように見えるし、身体の一部ですら触れる様子はない。校外で2人で会っているかどうかは知らないけれど、あの日たった1日だけ今居の香りを纏ってきただけで、それ以降は残り香を感じることもほとんど無い。
『でも、ふたりが一緒にいるのを見て羽琉がショックを受けたのは本当だし』
「それだって、羽琉が本気で嫌だと言えば燈哉だって何か考えたんじゃないか?」
『だって、羽琉は優しいから』
優しいんじゃなくて狡いんじゃないのかと言いたかったけれど、その言葉は飲み込んだ。伊織は羽琉を神聖視し過ぎて聖人君子のように思っているから何を言っても否定されるだけだろう。
「優しい羽琉なら無理してでも約束を守るはずだから、それができないって事は俺たちが思う以上に体調が思わしくないんじゃないか」
少しの嫌味を込めた言葉を素直に受け止めた伊織は『そっか、そうだよね』とさっきまでの憤りはどこへいったのか、心配そうな声を出す。その羽琉を想う一途な想いが気に入らないけれど、それを伝えるのは今じゃない。
今はただ伊織に寄り添い、隣に立つ俺を意識するのを待つだけ。
「とりあえず、空いた予定の埋め方でも相談しないか?」
羽琉のことを狡いと思ったけれど、伊織とのこんな関係を作り上げた俺だって充分狡い。
『………どこに行く?
何する?
お土産買ってくれば羽琉に会う口実になるかな』
それでも諦めきれないのか伊織の声は少しだけ期待を孕む。
「隆臣さんに聞いてみたら。
お見舞いは無理でもお土産届けるくらいは許されるかもね」
伊織と俺の予定。
入院した羽琉。
羽琉を諦めきれない燈哉と、燈哉の隣を歩く今居。
きっと、この夏はそれぞれの関係に変化をもたらすのだろう。
どうせどこにも行けないのだから体調が良くても、悪くてもこの部屋で過ごすことに変わりはないのだから。
「さむ、」
それでも流石に身体を冷やしすぎたのだろう、エアコンの温度を少し上げて隆臣が持ってきてくれたカーディガンを羽織る。そろそろ消灯時間だろうか。
時間を確認しようとスマホを手にして着信があったことに気付く。
「燈哉?」
その名前に驚き、着信の意味を考える。時間を見るとずいぶん前の着信で、どれだけ浴室にいたのかと自分に呆れてしまう。熱を逃すのにそれだけ時間がかかったということだろう。
折り返した方がいいのかと考えるけれど、浴室でのことを思い出してしまい指が止まる。燈哉が何を思って電話をしてきたのかは分からないけれど、感情を乗せることなく話すことは難しいだろう。
そもそも、昨日の出来事を思い出してしまうと冷静に話す自信がない。せめて何かメッセージがあればとも思うけれど、着信があるだけでメッセージは僕の送った事務的なもので止まったままだ。
〈ごめん、お風呂入ってた〉
〈おやすみ〉
折り返す気にはなれなかった。
もうすぐ消灯時間だし、と心の中で言い訳をしてメッセージを送る。メッセージを返さないという選択もあったけれど、メッセージを送れば何か言葉が返ってくるのではないかと少しだけ期待してのこと。
《おやすみ》
《また連絡する》
そして返ってきたメッセージ。
事務的なメッセージには事務的なメッセージが返されるだけで、モヤモヤしたままその言葉だけを何度も読み返す。
《また》ということは待っていれば連絡が来るのだろうか。それとも僕の送った〈また〉と同じでただの社交辞令なのだろうか。
なんで電話してきたの?
彼と夏休みにどこに行くの?
彼のヒートの時には一緒に過ごすの?
僕の【その時】には一緒にいてくれないの?
僕のことはもう、どうでもいいの?
僕にはもう、マーキングしてくれないの?
聞きたいことはたくさんあるのに聞く勇気がなくて、聞けないままの質問が増えていく。
今日は何してたの?
僕がいなくて淋しかった?
僕がいなくて嬉しかった?
彼と何を話したの?
彼とまた、僕のことを嗤ってたの?
知りたいけど知りたくないこと。
知らなければならないけれど、知らずに済むなら知りたくないこと。
このままでいられないことは分かってるけれど、燈哉の隣にいられるのならこのままでもいいと思ってしまう気持ちと、僕さえ我慢すればこのままの関係が続けられるのではないかという僅かな期待。
僕が彼を受け入れることを条件に今までと過ごしたいと伝えれば、これまでと同じように過ごせないのかと考えてみる。だけど、燈哉が受け入れたとしても彼が拒否すれば今までと同じようには過ごせないのだろう。
番となった彼が望めば番となった燈哉が断ることはないだろう、いくら僕が願ったとしても。
そう言えば何度も何度も燈哉が打診してきていた彼との話し合いは何のためのものだったのだろうか。
燈哉が彼の香りを纏っていたあの日、僕は燈哉にとって僕が絶対的な存在ではないことに気付かされた。それまでは僕が何を言っても、何をしても許されたし、僕を最優先にすることが当たり前のことだと思っていた。
だからこそできていた振る舞い。
それが壊れてしまったあの瞬間はどう表現したらいいのだろう。どう表現したら伝わるのだろう。
崩壊する世界。
変わってしまった僕と燈哉だけの世界。
燈哉が僕以外に触れたことが許せなかったし、僕以外の香りは残り香でも許せなかった。できることなら何をしているのかと詰め寄り、どういうつもりかと問い詰めたかった。
だけど僕にはそれは許されなかった。
詰め寄る僕なんて、問い詰める僕なんて【仲真羽琉】じゃない。傷付いて、弱々しく涙を流し、それでも燈哉を信じて想い続けるのが僕なのだから。
あの時に僕が動くことができていたら。ほんの少しだけ、自分のイメージなんて気にせずに本心を露わにしていたら。
燈哉の言葉に素直に従わず、燈哉の側を離れなければふたりの接触を防げたかもしれない。あの時、彼の前に立つ燈哉を見つけた時に、彼を抱き寄せた燈哉を見た時に何かできることがあったのかもしれない。
考えろと言われて考えることができるのはあの時に動かなかったことに対しての後悔ばかりで、この先のことを考えることができない。
あの日、あの時、あの場所で僕に何ができたのか。あの日、あの時、あの場所で僕はどう動くべきだったのか。
今だって本当は何をするべきかだなんて分かっている。
燈哉の意図は分からないけれど、僕と話す意思を見せた着信の意味を考えるべきなのに、それをしないのはただ逃げているだけ。
消灯時間が近いだなんて自分に言い訳をして、燈哉から告げられる現実を先延ばしにしているだけの無駄な時間。
個室なのをいいことに消灯時間を過ぎてもベッドの中で燈哉からのメッセージを遡ってみる。何か変化がないか、何か打開するためのヒントは無いか。
だけど彼と出会ってから交わしたメッセージはほとんど無いし、あっても事務的なものばかりで何も読み取ることはできない。
できる事はあったはずなのに、やるべき事はあったはずなのに、それなのに相手が動く事を期待して逃げ続けた結果がこれなのだろう。
⌘ 政文 ⌘
《夏休み、羽琉遊べないって》
伊織からのメッセージを見た時に「だろうな、」と呟いたのを伊織に聞かれたら、きっと彼は「何、それ?」と不機嫌な顔を見せただろう。
伊織の物事を自分に良いように受け取るのは悪い癖。あの電話の時だって戸惑う様子の羽琉に気付かず話をしていたけれど、伊織が嬉しそうだから助け舟を出してしまったけれど、きっとこれは叶わない約束なのだろうとは思っていた。
もしも羽琉がその気になったとしても、きっと何か邪魔が入っただろう。伊織が羽琉を守れるほどの強さを持っていれば少しは望みがあっただろうけれど、燈哉のマーキングで近づけなくなるような程度の強さでは無理だ。
〈何があった?〉
何か言葉を待つようなメッセージ。
予定が無くなったら無くなったで何の問題もないけれど、理由を言えば一度で済むはずのメッセージなのにそれが無いという事は何か伝えたい事があるのだろう、きっと。
今日出た課題を進めながらメッセージを待つものの、伊織は荒れているのだろうなと苦笑いが漏れる。俺も羽琉のことが好きだから付き合っているふりをして、羽琉の近くにいられるように、燈哉の目を欺くようにと言ったのは俺だけどそれに乗ってきた伊織は正直馬鹿だと思っている。
羽琉が俺たちと一緒に過ごしているのは俺たちが無害だと思っているから。Ωには興味無いと公言しているからこそ許される関係。
俺たちが本当に付き合っていると思っている奴もいれば、ただのΩ避けだと気付いている奴もいる。それに、燈哉は羽琉に対する伊織の気持ちが友情だけでは無いと気付いているはずだ。
だから、燈哉が欠席する時に羽琉と一緒に過ごして欲しいと言われた時には驚いたというのが本音。
燈哉が席を外す時に一緒に過ごすのと、欠席の時に一緒に過ごすのでは全く意味が違うのに、それを同列に扱ったせいで少しずつ拗れていった羽琉と燈哉の関係。
あの日、燈哉に連れられて挨拶をした羽琉のお目付役は「燈哉さん以外に友達がいたんですね」なんて呑気なことを言っていたけれど、それが良い意味で言われていたとは思ってはいない。羽琉の我儘を叶えるために了承したのは彼がβだからで、もう少しαに対しての理解があれば羽琉と燈哉の仲がここまで拗れたりはしなかったかもしれない。
伊織と俺との友人関係を認めてはいるものの、事あるごとに送られてくる付け届けは一線を引くようにという警告が含まれていると思うのは考えすぎなのだろうか。
《療養の許可、出なかったって》
〈そっか〉
許可が出ないのなら仕方ないと他人事のように考えて短く返信する。そもそもΩの療養先にαがふたりで駆けつけるなんて勘違いしてくれと言っているようなものだから、許可が出なかったのにはその辺も関係しているのではないかと勘繰ってしまう。
羽琉が療養先にどこを選ぶのかで伊織とふたりで過ごす時間を多く取れるのではないかという淡い期待がなかったわけではないけれど、ふたりで過ごす時間は作ろうと思えばなんとでもなるのだろうと頭を切り替える。
そんなことを考えながら課題の続きをやろうとした時に入る着信。相手は当たり前だけど伊織だった。
「はい」
『はいって、何でそんなに落ち着いてるの?メッセージ、ちゃんと見た?』
通話ボタンを押すなり聞こえてきた内容に呆れてしまうけれど、伊織らしいと言えば伊織らしい。普段は落ち着いて見えるのに、羽琉が関係すると途端に馬鹿になるのはどういう心理なのだろう。
今まで一緒に過ごして羽琉の気持ちが伊織に向くことなんて絶対にないと断言できるような関係性なのに、それでも諦めきれないのだろう。
そもそも俺と付き合うふりをすることを受け入れた時点で、羽琉との未来なんて無いとなぜ気付かないのだろう。
俺と付き合っていると言って羽琉に近付いたくせに、羽琉に対しての恋情を向ければその気持ちを、その信頼を裏切っていたことになるのに。
「見たよ。
だって、何か言ったところで許可が出ないならどうしようもないし」
『そうなんだけど…。
せっかく燈哉に自慢したのに』
「………言ったのか?」
『だって、どうせ燈哉だって今居と過ごすだろうし』
「それとこれとは別なんじゃないか?」
『政文、よく燈哉の肩持つけど羽琉のこと心配じゃないの?』
正論のつもりで言った言葉に伊織が見当違いのことを言い出す。燈哉が今居と過ごすからといって俺たちが羽琉と過ごして良いわけじゃないし、燈哉が今居と過ごすことを怒っていいのは羽琉だけだ。
どこまでいっても俺たちは外野なのだから、できる事はせいぜい見守ることくらいだろう。
「心配って、燈哉と今居のことか?」
『そう。
あのふたり、付き合うなら付き合うで羽琉との関係をちゃんと解消するべきだと思わない?』
「何で?」
『だって、二股だし』
「二股って、」
『この前だって廊下でイチャイチャしてたし』
「イチャイチャって、」
その言葉に思わず苦笑いが漏れる。
あの日、確かにふたりは楽しそうに話していたけれど、その関係が友情以上に見えるような事はなかった。燈哉から今居に近づいた理由を聞かされていたせいもあるけれど、今居の香りが移らないよう、燈哉の香りが移らないよう互いの距離を保っているようにすら見えた。
毎日毎日羽琉に気を遣っているのだから、羽琉がいないあの状況でのあのシュチュエーションは、気の置けない友人と話していると思えば適正な距離。
入学式の燈哉の振る舞いのせいで歪んだ関係に見られがちだけど、あのふたりの間に恋愛感情があるとは思えない。燈哉のしてしまった馬鹿な振る舞いと、αとΩであるということで勘違いされたままの関係を正すにはふたりが離れることが1番だけど、無駄に正義感の強い燈哉が今居のことを心配するせいで誤解されたままの関係。
あれは、羽琉に対する歪んだ想いもあるだろう。
自分は全てを羽琉に合わせて、羽琉のことだけを考えて、自分に近付くΩには一切興味を向けず、ただただ羽琉だけを見つめてきた一途な想い。
その想いを先に裏切ったのは羽琉で、それに加担したのは伊織と俺。
幼稚舎の頃から羽琉だけのために、羽琉だけに寄り添ってきたのにあの日の、たった数分の行動でその評価を下げた燈哉のことを気の毒に思わないでもない。その行動の意味を聞かされているだけにちゃんと話をして誤解を解けば良いのにとすら思ってしまう。
許す、許さないは別として、羽琉にはその行動の意味を知る義務があると思うし、燈哉にはその行動の意味を伝える義務があるはずだ。互いの義務を果たした上でその関係をどうするかを決めるのはふたりであって、俺や伊織、ましてや今居がどうこう言えるものではない。
燈哉の馬鹿な振る舞いのせいで羽琉か傷付いているというのが今の認識だけど、それよりも随分前から羽琉が燈哉を傷付け続けていることに気付けば燈哉だけを責める事はできないだろう。
「あれでイチャイチャなんていったら、俺たちなんて公然猥褻って言われるんじゃないのか?」
わざと茶化した言葉に『公然猥褻って、』と伊織が絶句する。
距離を保って話をしているだけでイチャイチャしていたと言われるのなら、身体を密着させたり手を繋いでいる俺たちは人前でイチャイチャ以上のことをしていることになるはずだ。
『だって、僕たちは付き合ってるふりしないとだし』
「あのふたりだって付き合ってるって思われてるけど、実際にふたりで話してるところくらいしか見たことないんじゃないか?」
『確かにそうだけど…』
時折目にする下校時の様子も話をしながら笑顔を見せる事はあるものの、俺の目には適正な距離を保っているように見えるし、身体の一部ですら触れる様子はない。校外で2人で会っているかどうかは知らないけれど、あの日たった1日だけ今居の香りを纏ってきただけで、それ以降は残り香を感じることもほとんど無い。
『でも、ふたりが一緒にいるのを見て羽琉がショックを受けたのは本当だし』
「それだって、羽琉が本気で嫌だと言えば燈哉だって何か考えたんじゃないか?」
『だって、羽琉は優しいから』
優しいんじゃなくて狡いんじゃないのかと言いたかったけれど、その言葉は飲み込んだ。伊織は羽琉を神聖視し過ぎて聖人君子のように思っているから何を言っても否定されるだけだろう。
「優しい羽琉なら無理してでも約束を守るはずだから、それができないって事は俺たちが思う以上に体調が思わしくないんじゃないか」
少しの嫌味を込めた言葉を素直に受け止めた伊織は『そっか、そうだよね』とさっきまでの憤りはどこへいったのか、心配そうな声を出す。その羽琉を想う一途な想いが気に入らないけれど、それを伝えるのは今じゃない。
今はただ伊織に寄り添い、隣に立つ俺を意識するのを待つだけ。
「とりあえず、空いた予定の埋め方でも相談しないか?」
羽琉のことを狡いと思ったけれど、伊織とのこんな関係を作り上げた俺だって充分狡い。
『………どこに行く?
何する?
お土産買ってくれば羽琉に会う口実になるかな』
それでも諦めきれないのか伊織の声は少しだけ期待を孕む。
「隆臣さんに聞いてみたら。
お見舞いは無理でもお土産届けるくらいは許されるかもね」
伊織と俺の予定。
入院した羽琉。
羽琉を諦めきれない燈哉と、燈哉の隣を歩く今居。
きっと、この夏はそれぞれの関係に変化をもたらすのだろう。
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