Ωだから仕方ない。

佳乃

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【side:羽琉】Ωだから仕方ない。

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「あっ」

 誰かが小さく声を上げたのは、燈哉がそっと彼を抱きしめた時だった。何が起こっているのか理解したくなかったけれど、目で見た情報は無理やり処理されていく。

 燈哉は僕じゃなくて彼を選んだのだ。

 付き纏う僕を気遣う視線と、収まることのない騒めき。
 
 手足が冷たくなり、震えそうになるのを唇を噛み締めて我慢する。
 聞こえているはずの騒めきが遠退いたのはどうしてだろう。

「羽琉、保健室行く?」

 僕の様子はそう言われるほどにおかしかったのだろう。政文が声をかけてくれるけれど、返事をする事ができない。

「行こうか?」

 僕を気遣うように優しく問われ、やっと小さく頷く。

「僕、隆臣さんに連絡してくるよ」

 僕に付き添うのならより強い方がいいと思ったのか、伊織が席を立ち外に出ていく。もともと今日は下校時間が早いせいで午前中の仕事は無いはずだから、きっとすぐに迎えに来てくれるだろう。

「大丈夫?
 無理そうなら先生呼んでこようか?」
 
 政文がなかなか立ち上がらない僕を心配してくれるけど、この場から立ち去りたくて無理をして立ち上がる。伊織と違い僕に対して一線を引く政文がそこまで心配してくれるのは、僕の顔色がそれほどまでに酷いものになっているからなのかもしれない。

「羽琉、行くよ」

 政文の声に重なって僕を気遣う声や、燈哉を非難する声が聞こえる。中には僕を嘲笑うような声も聞こえるのがリアル過ぎて居た堪れないけれど、全てを無視して保健室に向かうために歩き出す。

「触るなっ‼︎」

 その声が聞こえたのは政文の手が僕の背に触れた時だった。
 周囲の騒めきと迫り来る刺す様な気配。何が起こっているかは分かったけれど、何でそうなるのかが理解できない。

 期待したくないから放っておいて欲しいのに、隠す気のない威圧が僕たちに、政文に向けられる。

「気持ち悪い…」

 弱い威圧は心地良いと思っていたけれど、強すぎる威圧は恐怖でしかない。
 【唯一】に向けていた気持ちが僕に戻ってきた悦びと、向けられる威圧が感情のコントロールを困難にする。
 
 燈哉の元に行きたいと思う気持ちと、この空間から逃れたいと思う相反する気持ち。燈哉に触れて欲しいと思う気持ちと、僕以外のΩを触れた手で触れられたくないという想い。

 そもそも「触るな」と政文を威嚇するけれど、今こうなっている原因は燈哉の行動だというのに声を荒げる理由が分からない。

 触れられたいと思う気持ちよりも拒絶の気持ちが大きくて、自分の中の相反する気持ちを処理する事ができず蹲りそうになり思うように足が動かない。

「大丈夫、行くよ」

 燈哉の威嚇にも動じずに僕の背を押す政文も強い力を持つαだから、向けられる威嚇に動じる事なく僕の背中を守ってくれる。

「政文っ‼︎」

 燈哉の声が、燈哉の威嚇が僕の足を止めようとする。

 僕をもっと求めて欲しい。

 僕のことを呼んで欲しい。

 僕の名を呼んでくれたら政文の手を振り払い、燈哉の元に行けるのに。

 体育館の中は燈哉の威嚇のせいか、シーンと静まり返っている。持ち上がりで入学した生徒が多いのだから何が起こっているかなんて一目瞭然だろう。

 自分が囲っていたΩをαが手放すのはプライドが許さないだけなのか、僕に対してまだ想いが残っているのかは分からない。
 Ωにとって番となるαは唯一だけど、αは頸を噛むだけでΩの事を無限に番にできてしまうから【番候補】だったΩが自分から去っていくのが許せないだけなのかもしれない。

 【唯一】が見つかったのに政文を威嚇するのは、僕のことを自分の所有物だとでも思っているからなのかもしれない。

「政文、羽琉に触るな」

 燈哉の気配が近づいてくるけれど、こんな時でも僕を呼んでくれないことに傷付き無理やり足を動かす。僕の名を呼び、行くなと言われたらこの足は動かすことができなくなるだろう。
 背中に当てられた政文の手が促すから歩くことができるのだけど、燈哉以外に触れられた背中が気持ち悪い。
 【番】になっていなくても、僕の身体は燈哉しか受け入れられないのかもしれない。

 僕を呼んで。

 僕に触れて。

 だけど、声にできない願いは燈哉に届くことはなかった。

「ねぇ、急にどうしたの?
 なんか皆んな、怯えてるよ?」

 燈哉の言葉に被せられた声に「涼夏、ちょっと待ってて」と向けられた優しい声。その声の響きで涼夏と呼ばれたのは燈哉の腕に抱かれていた彼の事だと理解する。

 Ωなのに燈哉の威嚇に動じる事なく声をかける事ができるのは、彼にとっても燈哉が【唯一】だからなのだろうか。
 この威嚇に萎縮することなく燈哉に近づく事ができるだなんて、それだけで僕は負けを認めるしかない。

「政文、気持ち悪い…」

 認めたくない、だけど認めるしかない。どこかで僕の元に戻ってきてくれると期待していたのに負けを認めてしまった途端、どうしようもなくて足が止まってしまう。
 お腹の中をグチャグチャと掻き回されるような感覚に目の前が暗くなって蹲ってしまう。

「羽琉っ」

 燈哉が近づいてくる気配がする。

 さっきまではあんなに呼んで欲しいと思っていたのに、僕以外の名前を優しく呼んだことが許せなくて、その口で呼ばれたことに嫌悪して無意識に拒絶の言葉が出てしまう。

「嫌っ、怖い。
 政文、助けて」

 燈哉だって僕じゃない名前を呼んだのだから、僕が燈哉じゃないαに助けを求めても許されるだろう。

「えっ、羽琉?」
 
 政文の焦った声と「大丈夫、保健医呼んできたから」と告げられる優しい声。聞き覚えのある声は伊織のものだろう。

「政文、許すから羽琉のこと保健室まで連れて行ってあげて」

「わかった」

「先生、政文が連れて行きますから」

 テキパキと指示を出す声が聞こえてふわりと身体が浮く。蹲った僕を政文が抱き上げてくれてのだろう。「止めろ」とか「羽琉に触るな」なんて燈哉の声が聞こえたような気がしたけれど、「煩いっ」と先ほどとは全く違う鋭い伊織の声が聞こえる。

「伊織、ごめん」

 気遣ってくれているのに、僕のことを思っての行動なのに政文に触れられたことで嫌悪感が増す。

「政文の方が力あるしね」

 パートナーに触れたことに対する謝罪だと勘違いした伊織の声が優しくて、僕を気遣ってくれる政文に申し訳なくて、嫌悪しているくせにまだ燈哉を求める自分が惨めで涙を止めることができない。

「隆臣さんに連絡しておいたから大丈夫だからね」

 普段から自分たちのフェロモンが移ることのないよう、僕のフェロモンが自分たちに移らないよう気遣ってくれるふたりだから今の状況を見かねての行動なのに、それなのに触れられたことに嫌悪する気持ちを抑えることができず、心の底では燈哉を求めてしまう自分を浅ましいと思ってしまう。
  
「燈哉は羽琉じゃなくてもいいみたいだし。ほら、そっちの子が不安そうにしてるよ。
 羽琉のことは僕たちに任せてくれたら大丈夫だし、隆臣さんにももう連絡したから」

 突き放すような伊織の言葉は燈哉に向けられたものなのに、その言葉で燈哉が離れていくことが怖くて涙が止まらない。

「羽琉、気にするな」

 政文はそう言うけれど、気にするななんて無理な話だ。

「伊織、羽琉泣いてるから止めとけ。
 燈哉はこっち来るな」

 僕の気持ちを無視して進められる会話。政文の言葉に反論するような声が聞こえたけれど聞き取ることができない。
 自分を守ってくれる手に対する嫌悪感が申し訳なくて、せめて何が起こっているのかを見ておこうと、ちゃんと理解するべきだと思うけれど、それでもまだなお燈哉が僕を奪ってくれることを願ってしまう。

「羽琉っ」

 燈哉の声が聞こえたけれど、僕の元まで来ないのは【唯一】を気にしてのことだろう。
 名前を呼ばれて悦ぶ心と、【唯一】を呼んだ口で僕を呼ぶことで感じる嫌悪。
 自分の気持ちをコントロールすることができない。

「式が始まるから戻りなさい」

「ほら、戻るよ」

 保健医の諭すような声と伊織が誰かを促す声。諭されているのはきっと燈哉だろう。まだ自分が僕を運ぶと抵抗しているのかもしれないけれど保健医に逆らうことはできないし、燈哉には外せない用事もある。
 そもそも声を荒げるだけで僕の側まで来ないことが僕だけに気持ちが向いていない証だろう。燈哉が本気になれば僕の側まで来ることなんて容易なはずだから。

「政文、ごめん」

「気にするな」

 僕を抱えた政文は「燈哉の新入生代表の挨拶なんて興味無いし」と続ける。

「羽琉は隆臣さんが来るまで寝てれば良いから」

 その言葉に無言で頷き目を閉じる。
 嫌悪を悟られないように、浅ましさに気付かれないように。

 頭では何が起こったのか理解しているのに、それを受け入れたくなくて気持ちがついていかない。言葉に出せない想いが体内で渦巻いているようで気持ちが悪い。

「政文君も戻るんだよ?」

 保健医の言葉に「え~?」と異論の声をあげるけど、全て予定調和のやり取り。僕を保健室のベッドまで連れて行けば政文は体育館に戻るのだろう。

 心細いけれど、それでも〈ひとり〉になりたかった。頭の中では自分を宥めるために『Ωだから仕方ない』と言い慣れた言葉を繰り返す。

 Ωだから仕方ない。

 Ωだから【唯一】が現れてしまった相手を諦めるしかない。

 Ωだから【唯一】がいる相手に囲われる事になっても諦めるしかない。

 Ωだからαに選ばれなければ諦めるしかない。

 Ωだから。

 Ωだから。

 Ωだから。

「隆臣さん、きっとすぐ来るから」

 軽々と僕を運びベッドに横たえた政文は、そう言って僕の頭を撫でると「じゃあ、戻ります」と保健室を出る。

 清潔なシーツと消毒の香り。

「熱、測ろうか?」

 穏やかな保健医の声。

 今までなら保健室に運ばれた僕を燈哉が甲斐甲斐しくお世話してくれたのに、今の僕は〈独り〉だ。

 保健医しかいない〈ひとり〉の状態で、誰も僕を顧みない〈独り〉の状態。

「Ωだから仕方ない」

 事ある毎に入院していたあの頃を思い出して呟くように自分に言い聞かせる。

 大切な人が自分以外のΩを選んでも、それが【運命】や【唯一】なら諦めるしかないのだろう。

 ただひとりのαとしか番になることのできないΩは、自分の想う相手に【唯一】が現れても、相手の【唯一】になれなくても噛んでくれると言われればそれを受け入れてしまいたくなる。

 たとえ最愛のαが自分のフェロモンを感じられないとしても。

『Ωだから仕方ない』

 ベッドで横たわり、声に出さずに何度も繰り返す。

『Ωだから仕方ない』

『Ωだから仕方ない』

『Ωだから仕方ない』

 こうして待っていれば直ぐに隆臣が迎えに来てくれる。
 ただ、体調を崩したと連絡をしてくれたはずだからクリニックを予約されたのだろうと思うと憂鬱になる。
 僕の弱さを、僕の狡さを、僕の強かさを全て見透かされているようで、先生に会う時はいつも緊張してしまう。今日もきっと僕のことを気遣うふりをして、僕の言葉に呆れるのだろう。

『Ωだから仕方ない』

 燈哉の【唯一】が僕でなかったことが哀しくて、選ばれなかったことが悔しくて涙を止めることができない。

「燈哉」

 僕から離れていった僕の唯一を想い、Ωだから仕方ないと自分に言い聞かせるけれど、『同じΩなのに』と波立つ心を抑えることができない。

 同じ男性Ωなのに、僕の方が燈哉のことをよく知っているのにと叫び出したくなる。選ばれない僕と選ばれた彼は何が違ったのだろうかと考えるけれど、答えが出るわけもなくただただ泣くことしかできない。

「燈哉………」

 何度呼びかけても『羽琉』と優しく返してくれるはずの声が聞こえることはなかった。

 

 

 


 
 



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