伯爵様のひつじ。

たつみ

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後編

闇に光に 4

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 なにが起きているのか、よくわからない。
 周りは真っ暗だ。
 だが、この闇が伯爵のものだということは、わかる。
 
 『何もかもが嫌になったからです』
 
 ファニーは、その「なにもかも」を知らない。
 それでも、伯爵のかかえているものが、わかるのだ。
 ファニーの体も、半分以上が闇につつまれていた。
 だからなのか、闇の中から感情が伝わってくる。
 
 嘆きや哀しみ、怒りや憎しみ、恨みと諦め。
 
 すべて負の感情だ。
 室内は静かだった。
 なのに、聞こえる。
 
 慟哭。
 
 伯爵の瞳から涙がこぼれていた。
 声もなく、伯爵は立っている。
 その体に、ファニーはしがみついていた。
 
 ただ立っているだけなのに、伯爵は激情に駆られている。
 感じられるほどには、体が勝手に震えるほどの殺気が放たれていた。
 戦場での伯爵は、こんなふうだったに違いない。
 戦場がなくなった今でさえ、伯爵は戦場にいるのだ。
 
 ひとりで。
 たった、独りで。
 
 伯爵がファニーを無視して、手に鍵を持つ。
 真っ黒な鍵だ。
 どこにでも行けるという鍵だと聞いていた。
 詳しくは知らないが、ナタリーが「番人の鍵」と呼んでいたのを思い出す。
 
「伯爵様!! このまま行っちゃ駄目です!」
 
 体を離し、両手で伯爵の腕にしがみついた。
 伯爵がファニーに視線を向ける。
 優しく穏やかな瞳ではない。
 金色の瞳は無感情で、ひどく冷たかった。
 
「どけ」
「駄目です! 駄目ですよ、伯爵様! 帝国法に基づいて……」
「法だと? それがなんになる」
 
 突き放されても、ファニーは退しりぞかない。
 こんな時でさえ、自分は利己的なのだと思う。
 だとしても、伯爵が感情任せで人を殺すのを止めたかった。
 
「わかりません!」
 
 ファニーは帝国法を、これでもかというくらい学んでいる。
 とはいえ、それは伯爵と「会話」するための知識だ。
 法を意識するような暮らしなどしてこなかった。
 わざわざ罪を犯す必要もなかったし。
 
「でも、伯爵様は感情で人を殺しちゃ駄目な人なんです!」
「人が死ぬことに変わりはない。死は死。結果は同じだ」
 
 相手と話せなくなったり、会えなくなったりするのは同じかもしれない。
 けれど、感情にまかせて人の命を奪うのと、法の元でのそれは本質が異なる。
 報復や復讐での人殺しがまかり通るのなら、無秩序な世も認められてしまう。
 
「伯爵様は法の番人でしょう!」
 
 伯爵は、戦時においても正しくあろうとしていた。
 戦後も、そうだ。
 理想は理想で、現実にはならないこともあるけれど、それでも誰もが安心して暮らせる国を目指していた。
 
 そういう伯爵の作った法だから、ファニーは従ってきたのだ。
 伯爵の正しさを信じてきた。
 
「この国に法の番人など不要」
 
 淡々とした冷たい口調に、胸がきゅっとなる。
 伯爵は今、またしても「何もかもが嫌になって」いるのだ。
 
 どんっ!
 
 ファニーの体が、突き飛ばされた。
 床に倒れ、伯爵を見上げる。
 伯爵は、ファニーを見ていない。
 金色の瞳は、まっすぐにドアを見ている。
 いや、おそらく、その先を見ている。
 
(私は……自分勝手だ……こんな時でも、伯爵様には、正しくあってほしいって思ってる。正しくあろうとする人であってほしいって……諦めないでほしいって……)
 
 渦巻く闇に、伯爵の嘆きを感じていた。
 なのに、ファニーは自分の「理想」を伯爵に求めている。
 
 こんなにも悲しくて、苦しくて、せつなくて、悔しいとわかっているのに。
 
 絶望と怨嗟、なぜ?という問い。
 伝わってくるものすべてに、ファニーの胸は、きりきりと痛む。
 もう伯爵の好きにしてもいいのではないかとの考えが頭をよぎった。
 
 自らの理想の実現のためだったとしても、伯爵は確かに他者を救うために戦ってきたのだ。
 だが、法の番人となったがゆえに自分のためだけに戦うことは許されなくなった。
 
「伯爵様っ!」
 
 ファニーは立ち上がり、伯爵の背中に抱きつく。
 伯爵が誰かのためではなく、自分のために戦いたいのなら、止めはしない。
 だから、それならば。
 
「私も連れてってください。この前は、伯爵様が私の我儘をきいてくれたじゃないですか。だから、今度は、私が伯爵様の我儘につきあいますよ」
 
 肩越しに振り向いた伯爵様の瞳を見つめる。
 そして、にっこりした。
 
「私は、いつだって伯爵様の味方だって言いましたよね」
 
 『昔も今も、伯爵様は、お独りなのです』
 
 ナタリーの言葉だ。
 肖像画を眺めながら、父から伯爵のことを聞きながら、帝国法を学びながら、ファニーも、どこかで感じていた思い。
 
 この人は、独りぼっちなのだ、ずっと、ずっと。
 
 もうそんなのは嫌だ、と感じる。
 金色の瞳を優しくゆったりと細めて微笑む伯爵でなくとも一緒にいたい。
 
「だから、伯爵様、私も、連れてってください」
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