伯爵様のひつじ。

たつみ

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前編

散歩と牛歩と 1

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 数日前、不意に胸元からハンカチを取り出したカーリーが、目元をそっと拭っていた。
 のを、見た。
 
 嬉し泣きだというのは、感覚からわかっている。
 だが、カーリーは、そのことについて一切ふれない。
 自らの役目をおろそかにしないカーリーが、何も報告せずにいる。
 
 絶対にファニーのことだ。
 
 簡単に予想はついたが、安易に訊くこともできなかった。
 あの「盗み聞き」発言以来、どうにも具合が悪い。
 自分で自分の首を絞めたようなものだ。
 
 忌々しい。
 
 その思いを、伯爵は噛み締めている。
 悪いのは、察しようとしないカーリーではない。
 カーリーたち枝葉えだはの性質を加味して言葉を選ぶべきだったのだ。
 
 よって、迂闊な発言をした自分が悪い。
 そう、カーリーは少しも悪くない。
 融通が利かないなどと思ってはいけない。
 
「今日は雨だな」
「さようにございますね」
「ファニーは屋内での仕事をするのだろうが、それは葉でもできるだろう」
「可能にございます」
 
 いかにも、今、思いついたと言わんばかりだが、すでに身支度は整えてある。
 次に雨が降ったら、ファニーを誘おうと思っていたのだ。
 ここ最近の仕事ぶりから知ったのだが、雨が上がった日は忙しくなる。
 そんな日に訊ねて行っても、気遣わせるだけで、邪魔になってしまう。
 
「ナタリーに、私が行くことを伝えておけ」
「かしこまりました」
 
 伯爵は、私室の鏡の前で、今一度、服装を確認する。
 暑くなってきたので、フロックコートは着ていない。
 クラヴァットもつけず、白いシャツの襟は開いている。
 シャツの袖は肘まで折り返していた。
 
 薄手で灰色の綿ズボンに黒い革靴。
 靴底がしっかりしているため、雨に濡れても靴の中まで水が入ることはない。
 汚れも簡単に拭き取れる上質な革で出来ている。
 
 だが、貴族としては、寝起きのような格好だと揶揄されそうなほど軽装だ。
 帝国統一直後の首都では、絶対に、こんな服装で出かけることはなかった。
 貴族は特権階級ではなかったが、貴族間での上下は明確にしておかなければならない。
 それは爵位の格付けではなく「意識の差」だ。
 
 どちらが「上」であるかを示す。
 相手の首元を押さえておかなければ、個々が勝手なことをする。
 
 当時は、それを武力という目に見える力で表せた。
 それでも、少しの隙も見せないよう服装にも気を遣う必要があったのだ。
 戦場ならともかく、首都では「品位」が求められた。
 馬鹿馬鹿しいと思ってはいたが、国の安定のため、理想の実現のためにと、一時の我慢を許容した。
 
───まったくつまらないことをしていたものだ。国の安定と理想の実現は同一線上にはなかったというのに。
 
 今のリセリア帝国に、かつての理想は、どこにもない。
 むしろ、統一前の国家観に逆行していると言えた。
 伯爵は、理想を掲げていた過去を自嘲する。
 
 そんなことのために時を費やし、女性の扱いも知らない男になってしまった。
 
「過ぎた時を悔やんでも無駄だな。所詮、人の作る国家は理想からは外れ、最善とはならない。それを知ることができただけで肯とすべきだろう」
「ですが、ファニー様は、伯爵様の肖像画のお姿を好んでおられます」
 
 カーリーの洒落ともつかない言葉に、伯爵は笑う。
 今となっては田舎貴族のような古くさい貴族服であれ、ファニーに好まれるのなら価値がある、と言いたいらしい。
 ゆえに、過去の伯爵も無意味ではないのだ、と。
 
「しかし、シルクハットとロッドは、やり過ぎだな。今後は控えるとしよう。仰々しい格好は、ファニーを恐縮させるばかりだ」
「ごもっともにございます」
「では、行って来る」
 
 カーリーが白手袋をはめた手を胸に当て、会釈する。
 伯爵は、黒鉄の鍵で、ファニーの家に移動した。
 ドアの内側に立つ伯爵を、ナタリーが出迎える。
 
「伯爵様、ファニー様は、今しがた管理小屋に向かわれました。あちらにいる葉に伯爵様がいらしたことを伝えておりますので、じきにファニー様も戻られると存じます」
「管理小屋? 向こうで、何かあったのか?」
「いえ、管理小屋にいる葉たちに、声をかけに行かれただけにございます」
「仕事ぶりに問題があると?」
「いえ、ファニー様のご好意にございます。様子見といったところでしょうか」
 
 ナタリーの答えに、ほんの少し迷った。
 ファニーが管理小屋にいるのなら、自分も、そちらに行こうかと思ったのだ。
 だが、やめておく。
 
───これが、部下の言っていた「女の尻を追いかけ回す」ということか。良い歳をして、みっともないことだ。
 
 昔、部下が、そんなふうに戦友をからかっている姿を見たことがある。
 が、彼らは、皆、若かった。
 十代の若者であれば年相応の振る舞いだと流せても、年長者が若者の真似をすればみっともないと非難される。
 
「では、ファニーが帰るのを待たせてもらおう」
「かしこまりました。こちらにどうぞ、伯爵様」
「いや、ここで待つ。ファニーがいないのに、奥に上がり込むことはできない」
「ですが、伯爵様、それでは戻られたファニー様が恐縮なさるかと存じます」
「しかし、断りもなく奥に上がり、茶など飲んでいたら無作法に思われるだろう」
「ファニー様は、そのように考えるかたではございません。伯爵様を立たせっ放しにしていたことを気にされるでしょう」
 
 伯爵に、ナタリーの感覚が伝わってくる。
 ファニーが気に病むのを心配しているようだ。
 
「お前は、ずいぶんファニーと親しくなったのだな」
「ずっとおそばにおりますので」
 
 きっとナタリーは、ファニーと様々な話をしているに違いない。
 いつもどんな話をしているのかと訊きたくなるが、訊けないのもいる。
 
「正直に言えば、お前が羨ましい」
「恐縮にございます。それでは奥へどうぞ」
 
 カーリーに続き、ナタリーも手強い。
 本音までさらしたのに、何も得られなかった。
 少しくらい「ここだけの話」をしてくれてもいいのにと恨めしくなる。
 とはいえ、やはりナタリーが悪いわけではない。
 
「ああ、わかった」
 
 諦めてうなずき、ナタリーに案内を任せて、食堂に入った。
 ジャスパーの手作りだというイスに座り、ファニーを待つ。
 入って来た場所とは反対の位置に窓があり、雨が降っているのが見えた。
 
「ファニーが濡れていなければいいが。傘は持って出たのだろうな」
「もちろんにございます。ですが、傘がなくともファニー様が濡れるようなことはございませんので、ご安心くださいませ」
 
 ナタリーの淹れたドライフルーツティーを口にしながら、伯爵は微笑む。
 こんなふうに枝葉は、ファニーを見守ってきたのだ。
 自分が眠っている間、ずっと。
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