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前編
光明と無慈悲 1
しおりを挟む「あの者は?」
「問題ございません。あれは私にのみ仕えており、ほかの者と話すことはありませんので、ご心配なく」
この屋敷の主ロドネル・シェルズが言う。
ありきたりと言われる茶色の髪に、貴族が好む青色の瞳をした、今年30歳になる侯爵だ。
とはいえ、その爵位は功績により格上げされたもので、領地とは関係ない。
周りの貴族たちは、ロドネルを小さな領地を治める領主の「男爵」として扱う。
いくら首都で侯爵と呼ばれていても、領地に帰れば小領地の男爵に過ぎない。
それは、ロドネルにもわかっているはずだ。
だから、長らく領地に帰らず、親族に任せきりにしている。
もっとも、首都の貴族たちがロドネルをあからさまに見下さずにいるのは、彼がリセリア帝国の宰相補佐だからだ。
けして、心から「侯爵」として尊重しているわけではない。
「あれは奴隷ですかな」
「はい。首都に来て、私が初めて買ったものにございます」
ジュードは、広い客室に集まっている貴族たちの視線に晒される。
赤髪とオレンジ色の瞳はともかく、褐色の肌がリセリア人ではないことを表していた。
リセリアでは、リセリア人以外の民は少ない。
とくに、ゼビロス人やゼビロス人を親に持つ者は、全員が奴隷だ。
西方諸国から流れついた少数の者だけが、まだしも平民でいられる。
リセリアを脅かしていたゼビロスには、その資格すらなかった。
たとえリセリアで生まれたようとも、ゼビロスの血が流れているとの理由により、絶対に奴隷から抜け出すことはできない。
子々孫々の代まで。
ジュードは17歳の時に、22歳で首都に出て来たばかりのロドネルと出会った。
それまでジュードがいた男爵家が金に困り、奴隷を売り払ったのだ。
そのジュードを、当時はまだ男爵だったロドネルが買った。
『私の領地は裕福ではなかったのでね。奴隷を買ったのは初めてだよ』
8年前のロドネルは、そんなふうに、奴隷のジュードに親しげに話しかけている。
どう扱えばいいのかわからないので、普通の使用人のように接するとも言った。
実際、ここよりずっと小さな邸宅暮らしをしている間、ジュードは人間らしい生活ができていたのだ。
もとより才能のあったロドネルは、皇宮での仕事に就くことができた。
小さな功績を積み上げ、そのたびに、少ない使用人やジュードとも祝杯をあげ、笑い合える日々。
そして、大きな目的を持ったことで、ロドネルは、地位を着々と上げていった。
あれから8年。
ロドネルは使用人たちとはもちろん、ジュードと席を同じくすることはない。
ロドネルの地位が上がり、住む場所も変わった。
小さな邸宅から中規模の屋敷に、今は大邸宅と呼べるほどの「お屋敷」だ。
使用人の数も増え、メイドや従僕にも貴族出身の者が増えた。
そのため領地からロドネルが連れて来た使用人は、肩身が狭かったのだろう。
気づけば、いなくなっていた。
領地に帰ったと、ロドネルからは聞かされている。
『ジュード、お前は私が買った、私の奴隷だ。それを忘れるな』
初めて会った時に思った、澄んだ空のような青色の瞳は消えていた。
今のジュードには、冷たいガラス玉のようにしか見えない。
人は変わる。
ジュードは、それを知っていた。
なので、落胆もしていないし、不満もない。
「いいではないか。奴隷のほうが都合の良いこともある」
客室に集まっているのは、8家門の当主たち。
中でも、最も高位なのは、今しがた口を開いたジルベス・ゴドヴィ公爵だ。
前ゴドヴィ公爵の遅くにできた子で、今年25歳になる。
2年前に父親が亡くなり、爵位を継いだ若き当主。
ジュードは、貴族たちとは視線を合わせないようにしていた。
ロドネルも含めて、だ。
なにか少しでも「無礼」があれば、すぐさま殺される。
彼らの気紛れも含め、きっかけはどこにでも転がっていた。
奴隷は「処分」することが許されているのだ。
ゴドヴィ公爵の言葉に、テーブルについていた貴族たちが冷ややかにうなずく。
もちろん「ロドネル」も。
「ジュード、紅茶を淹れ直せ」
ロドネルの「命令」に、ジュードは素直に従う。
黙って、テーブルの上にある紅茶を、すべて淹れ直した。
「シェルズ侯爵、この件、きみはどう思っている?」
屋敷はロドネルのものだが、主導権はゴドヴィ公爵にあるようだ。
この場では、宰相補佐という立場も関係ないらしい。
「率直に申し上げますと、上手くいかないと判断しております」
ゴドヴィ公爵以外の4人の貴族が怒りを露わにする。
この4人は首都の外から来た者ばかりだった。
「私たちは何十年もかかって、この機会を作り上げてきたのだぞ!」
「ヴァルガーを動かせるのは、今をおいてほかにない。現当主は領地の開拓にしか興味を持たず、実権は後妻が握っている」
「あれを潜り込ませるのに、どれだけ資産をつぎ込んだか」
「後妻に、先妻と娘を殺させるのに、ではないのかな。娘のほうは失敗したようだけれど」
ゴドヴィ公爵の指摘が図星だったのか、4人の顔が蒼褪めた。
知られているとは思っていなかったのだろう。
そして、彼らの知らないことは、まだある。
「で、ですが、ヴァルガーをこちら側に引き込めたではありませんか。ヴァルガーの娘もワイズン公爵に嫁がせております」
「彼が私の妹のデヴィーナと親しいのは、周知の事実。婚姻など形だけで、ヴァルガーの娘は放置されている。ワイズン公爵への影響力は皆無だね」
「仰る通り、これで貴族の意思が固まるのも時間の問題かと……」
「どうかな。きみたちが余計な真似をしたせいで計画が台無しになりかけている」
4人の貴族が互いに顔を見合わせ、うつむいた。
ゴドヴィ公爵の言う「余計な真似」をした自覚があるのだろう。
部屋の隅に控え、ジュードは貴族たちの姿を眺めている。
だが、奴隷は「人」として扱われることはなく、ジュードは無視されていた。
「きみたちは境界鍵を活用できていない。そのせいで出遅れているのだよ」
「それは、どういう……」
「元カーズデン男爵領には、すでに新たな領主がいる。遺影の伯爵が爵位と領地を与えたようだ。ついでに言わせてもらえば、ワイズン公爵夫人は公爵家にはいない。ヴァルガーにも帰っていないとなると、噂に信憑性が出てくる」
ゴドヴィ公爵が金色の髪を煩わしそうにかき上げる。
明るい茶色をした瞳は人好きのするものだろうが、ここでは冷淡にしか見えない。
「ワイズン公爵夫人は、先祖の戦友であったキルテス伯爵を頼ったのではないか、という噂だ。仮に、それが事実であるなら、面倒が増えるな」
初めて聞く情報に、4人は狼狽えていた。
額には、一様に汗が浮いている。
「もとより南西部も難色を示しておりましたから、計画の見直しが必要かと」
ロドネルは不愉快そうな表情を浮かべていた。
見直しする計画には、ロドネルの目的も含まれているのだろう。
首都に出て来た2年後、ロドネルは皇宮で第1皇女に出会っている。
あまり表に姿を出さない皇女らしいが、ひと目で恋に落ちたと語っていた。
『皇女殿下に、私がお慕いするお許しはいただけた。もっと高位の立場となれば、皇女殿下と結ばれることもできるかもしれない』
確かに、宰相補佐の立場と侯爵という身分を手に入れたことで頻繁に会えるようになり、ついに半年ほど前、正式に皇女との婚約を許されたのだ。
皇女に対する気持ちだけは変わらなかったのか、そうしたことを語る時にロドネルは昔のロドネルのようになる。
「もちろん計画の見直しは必要だ。大幅な見直しがね」
ゴドヴィ公爵の冷たい声が、室内に響く。
うなずいているロドネルに、ジュードは再び「人は変わるのだ」と思った。
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