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前編
要件と用件と 4
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白い首元が高い薄手のブラウスの上に、ファニーはオレンジ色のワンピースを着ている。
ナタリーが用意してくれたもので、シンプルだが上質そうだ。
ファニーの持っている「スカート」とは比べるべくもない。
それは、ほとんど履くことのない一張羅ではあるが、かなりくたびれている。
「大丈夫かな?」
「お似合いでございますよ、ファニー様」
「じゃなくて、汚したらどうしようって心配」
「汚れたら洗えばよいですし、洗っても汚れが取れない場合は、別の物に加工して使えばよいのです」
「別の物?」
「さようにございます。クッションにするとか」
なるほど、と気が楽になった。
ファニーは、ナタリーに苦笑いをしてみせる。
「牧童の仕事以外は手抜きばっかりで、そういう発想がなかった」
ナタリーが嫌な顔をせず、逆に楽しげにしてくれるので、いつの間にか同年代の友人と話しているような気持ちになっていた。
もうずっと「友達」とは無縁だったこともあり、気軽に喋れるのが楽しい。
ナタリーにも平語を進めたのだが、丁寧に話すほうが気楽なのだそうだ。
なので、それ以上は強制せずにいた。
お互いに気軽なのがいいと思ったからだ。
「それじゃあ……行く?」
「はい。まいりましょう」
「緊張するなぁ」
うう…と呻くファニーの隣で、ナタリーが面白そうに笑っている。
ナタリーは慣れているのだろうが、ファニーは初めてだった。
手が、ぷるぷると震えている。
「それほど緊張なさらなくても」
「だって、初鍵なんだよ? 緊張するってば!」
銀色の鍵を握る手が汗ばんでいた。
伯爵から渡された物だ。
(どこにでも行ける鍵じゃなくて良かったぁ。そんな貴重な鍵もらってたら、緊張し過ぎて死んでたかも)
最初、伯爵は「どこにでも行ける」鍵を渡そうとしたのだが、ファニーは、それを断っている。
便利だとは思うが、間違って使ったら大変なことになるのは目に見えていた。
間違わない自信もなかったし。
なので、決められた場所にしか繋がらない「境界鍵」にしてもらったのだ。
ファニーが持っている鍵は、伯爵邸とファニーの家、牧場の管理小屋の3つにだけ繋がるらしい。
こくっと喉が上下する。
ドアの鍵穴に鍵をさして言った。
「伯爵様のお屋敷」
「声に出されなくとも繋がるようになっております」
「間違えるのが怖いんだもん」
ふふっと、ナタリーが笑う。
ファニーも笑いながら、鍵を回した。
そして、ドアをガチャリと開く。
「ふあ……」
初めて来た時には、客室に繋がっていた。
その時も驚かなかったわけではないが、今ほどではない。
こんなにも広かったのかと、びっくりし過ぎて動きが止まっていた。
「こちらが玄関ホールにございます」
「う、うん……男爵家より、もっと広いね……」
ぼうっと辺りを見回す。
なにかの彫刻が施されている天井は、客室よりも高くて白い。
長い年月が経っているとは思えない白さだ。
左右にループ状の階段があり、2階へと繋がっている。
その廊下から階段までの手すりや支柱も真っ白。
どこにも汚れがないことに、ちょっぴり怯んだ。
(なんにもさわらないようにしよう……手の跡が残っちゃいそうで怖い)
夜だというのに、壁際にある明かりが反射して、まるで昼のようだった。
六角形で縦に長い照明器具も初めて目にする。
箱型になっているのに、ロウソクよりもずっと明るい。
言葉もなく周囲を見ていて、急にハッとなった。
視線を床に落とす。
足跡をつけてしまったのではないかと、不安になったのだ。
が、床は大理石らしく、足跡をつけることではなく、スッテンしないように気をつけなければ、と思い直した。
「ようこそ、我が屋敷へ」
床に落としていた視線を、サッと上げる。
階段から降りて来る伯爵の姿に、またぼうっとなった。
月のない夜の空みたいなダークブルーの髪が肩で揺れている。
優しく細められた金色の瞳に、微笑みを浮かべている唇。
今夜の伯爵は、一段と魅力的だ。
肖像画の時代に着ていたであろう貴族服に身をつつんでいる。
時流なんかどうでもいい。
伯爵を見ていると、そう思えた。
今風な服装も似合うのだろうが、このほうが「伯爵らしい」と感じるのだ。
無理に時流に合わせなくても、誰だって伯爵に見惚れるに違いない。
その風格に気づかない愚か者以外は、だけれども。
「ほ、本日は、おま、お招き、あり、ありがとうございます!」
「そう堅くならずに。お呼びたてしたのは私なのですから」
くすっと笑われ、思い出す。
今夜は、伯爵に「頼まれ事」をしているのだ。
遊びに来たのではなかったと、苦笑した。
「夕食は……すまされているのですよね?」
「はい、ちゃんと食べて来ました」
「そうですか。では、ディナーは次の機会にしましょう」
ううっと、ファニーは呻きそうになる。
食事はいつもパパッとすませるのが、ファニーの日常だ。
ナタリーが来てから、食卓は「豪華」になったものの、テーブルマナーを学んでいるわけではない。
(ディナー……ディナーかぁ……私の家には、フォークとナイフとスプーンは1組ずつ。デザートや飲み物専用の物があっても使い方がわからないんだよね……)
フォークやナイフやスプーンのセットが「カラトリー」と呼ばれていることさえ、ファニーは知らずにいる。
気に留めたことはなかったし、知る必要もなかったからだ。
つまり、知らないことさえ、知らない。
「そう堅苦しく考えず。あなたは、いつも通りでいいのですよ」
ナタリーも同じようなことを言ってくれる。
だが、まったく気にせずにいられるほど、ファニーの神経は図太くなかった。
自分が恥をかくのはともかく、伯爵や食事を用意してくれた人に失礼なことをするのではないかと思ってしまうのだ。
「この屋敷に住んでいるのは、私です。ただ広いだけで、生活をするという意味において、あなたの家となんら変わりません」
伯爵の言葉に、ファニーは曖昧に笑う。
うなずくのが躊躇われたのだ。
周りを見回し、「変わらなくはないだろう」と。
「えっと、もうお客様は来てるんですか?」
ともあれ、今夜は遊びに来たのではないのだから、屋敷に圧倒されている場合ではない。
話題を変え、本来の目的に集中することにした。
「……予定より少しばかり早く到着しました。さあ、こちらに」
一瞬、伯爵が顔をしかめたように見えたが、気のせいだろう。
にっこり手を差し出す伯爵の手に、ファニーはそっと手を乗せた。
ナタリーが用意してくれたもので、シンプルだが上質そうだ。
ファニーの持っている「スカート」とは比べるべくもない。
それは、ほとんど履くことのない一張羅ではあるが、かなりくたびれている。
「大丈夫かな?」
「お似合いでございますよ、ファニー様」
「じゃなくて、汚したらどうしようって心配」
「汚れたら洗えばよいですし、洗っても汚れが取れない場合は、別の物に加工して使えばよいのです」
「別の物?」
「さようにございます。クッションにするとか」
なるほど、と気が楽になった。
ファニーは、ナタリーに苦笑いをしてみせる。
「牧童の仕事以外は手抜きばっかりで、そういう発想がなかった」
ナタリーが嫌な顔をせず、逆に楽しげにしてくれるので、いつの間にか同年代の友人と話しているような気持ちになっていた。
もうずっと「友達」とは無縁だったこともあり、気軽に喋れるのが楽しい。
ナタリーにも平語を進めたのだが、丁寧に話すほうが気楽なのだそうだ。
なので、それ以上は強制せずにいた。
お互いに気軽なのがいいと思ったからだ。
「それじゃあ……行く?」
「はい。まいりましょう」
「緊張するなぁ」
うう…と呻くファニーの隣で、ナタリーが面白そうに笑っている。
ナタリーは慣れているのだろうが、ファニーは初めてだった。
手が、ぷるぷると震えている。
「それほど緊張なさらなくても」
「だって、初鍵なんだよ? 緊張するってば!」
銀色の鍵を握る手が汗ばんでいた。
伯爵から渡された物だ。
(どこにでも行ける鍵じゃなくて良かったぁ。そんな貴重な鍵もらってたら、緊張し過ぎて死んでたかも)
最初、伯爵は「どこにでも行ける」鍵を渡そうとしたのだが、ファニーは、それを断っている。
便利だとは思うが、間違って使ったら大変なことになるのは目に見えていた。
間違わない自信もなかったし。
なので、決められた場所にしか繋がらない「境界鍵」にしてもらったのだ。
ファニーが持っている鍵は、伯爵邸とファニーの家、牧場の管理小屋の3つにだけ繋がるらしい。
こくっと喉が上下する。
ドアの鍵穴に鍵をさして言った。
「伯爵様のお屋敷」
「声に出されなくとも繋がるようになっております」
「間違えるのが怖いんだもん」
ふふっと、ナタリーが笑う。
ファニーも笑いながら、鍵を回した。
そして、ドアをガチャリと開く。
「ふあ……」
初めて来た時には、客室に繋がっていた。
その時も驚かなかったわけではないが、今ほどではない。
こんなにも広かったのかと、びっくりし過ぎて動きが止まっていた。
「こちらが玄関ホールにございます」
「う、うん……男爵家より、もっと広いね……」
ぼうっと辺りを見回す。
なにかの彫刻が施されている天井は、客室よりも高くて白い。
長い年月が経っているとは思えない白さだ。
左右にループ状の階段があり、2階へと繋がっている。
その廊下から階段までの手すりや支柱も真っ白。
どこにも汚れがないことに、ちょっぴり怯んだ。
(なんにもさわらないようにしよう……手の跡が残っちゃいそうで怖い)
夜だというのに、壁際にある明かりが反射して、まるで昼のようだった。
六角形で縦に長い照明器具も初めて目にする。
箱型になっているのに、ロウソクよりもずっと明るい。
言葉もなく周囲を見ていて、急にハッとなった。
視線を床に落とす。
足跡をつけてしまったのではないかと、不安になったのだ。
が、床は大理石らしく、足跡をつけることではなく、スッテンしないように気をつけなければ、と思い直した。
「ようこそ、我が屋敷へ」
床に落としていた視線を、サッと上げる。
階段から降りて来る伯爵の姿に、またぼうっとなった。
月のない夜の空みたいなダークブルーの髪が肩で揺れている。
優しく細められた金色の瞳に、微笑みを浮かべている唇。
今夜の伯爵は、一段と魅力的だ。
肖像画の時代に着ていたであろう貴族服に身をつつんでいる。
時流なんかどうでもいい。
伯爵を見ていると、そう思えた。
今風な服装も似合うのだろうが、このほうが「伯爵らしい」と感じるのだ。
無理に時流に合わせなくても、誰だって伯爵に見惚れるに違いない。
その風格に気づかない愚か者以外は、だけれども。
「ほ、本日は、おま、お招き、あり、ありがとうございます!」
「そう堅くならずに。お呼びたてしたのは私なのですから」
くすっと笑われ、思い出す。
今夜は、伯爵に「頼まれ事」をしているのだ。
遊びに来たのではなかったと、苦笑した。
「夕食は……すまされているのですよね?」
「はい、ちゃんと食べて来ました」
「そうですか。では、ディナーは次の機会にしましょう」
ううっと、ファニーは呻きそうになる。
食事はいつもパパッとすませるのが、ファニーの日常だ。
ナタリーが来てから、食卓は「豪華」になったものの、テーブルマナーを学んでいるわけではない。
(ディナー……ディナーかぁ……私の家には、フォークとナイフとスプーンは1組ずつ。デザートや飲み物専用の物があっても使い方がわからないんだよね……)
フォークやナイフやスプーンのセットが「カラトリー」と呼ばれていることさえ、ファニーは知らずにいる。
気に留めたことはなかったし、知る必要もなかったからだ。
つまり、知らないことさえ、知らない。
「そう堅苦しく考えず。あなたは、いつも通りでいいのですよ」
ナタリーも同じようなことを言ってくれる。
だが、まったく気にせずにいられるほど、ファニーの神経は図太くなかった。
自分が恥をかくのはともかく、伯爵や食事を用意してくれた人に失礼なことをするのではないかと思ってしまうのだ。
「この屋敷に住んでいるのは、私です。ただ広いだけで、生活をするという意味において、あなたの家となんら変わりません」
伯爵の言葉に、ファニーは曖昧に笑う。
うなずくのが躊躇われたのだ。
周りを見回し、「変わらなくはないだろう」と。
「えっと、もうお客様は来てるんですか?」
ともあれ、今夜は遊びに来たのではないのだから、屋敷に圧倒されている場合ではない。
話題を変え、本来の目的に集中することにした。
「……予定より少しばかり早く到着しました。さあ、こちらに」
一瞬、伯爵が顔をしかめたように見えたが、気のせいだろう。
にっこり手を差し出す伯爵の手に、ファニーはそっと手を乗せた。
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