16 / 80
前編
快と不快と 4
しおりを挟む
オリヴィアの言葉に、不安になって伯爵を見上げる。
伯爵が、ファニーに小さく微笑んでくれた。
ファニーは、ぎゅっと薔薇の花を握る。
伯爵の笑みが、胸に痛かった。
自分が口を挟むことではない。
そういう立場ではない。
そんなことは、わかっている。
だが、ファニーの心に、やりきれないような切なさが広がっていた。
スッと息を吸い込み、オリヴィアに向き直る。
前リーストン卿や騎士団に恩はあるが、承服できないものはできない。
「オリヴィア様、私は奴隷を買う気はありません」
「お金なら支援金がある……」
「そういうことじゃないんです!」
ファニーの一家は、帝国法を重んじてきた。
平民であるファニーが、文字の読み書きができるのは、幼い頃から父に教わっていたからだ。
父は祖父母から、祖父母は曽祖父母からといったように、帝国法を学ぶために、文字を習っていた。
「私は奴隷制の可否がわからないので、奴隷を買うことはできません」
「可否もなにもないわよ。帝国では奴隷制が認められているわ」
「でも、帝国法には記載されてませんよね」
「当然でしょう。奴隷制は、帝国法とは別法として定められたのだから。あなたは、そんなことも知らないの? ほかの領地の牧場では、多くの奴隷を使っているわ。元手は多少かかっても、長い目で見れば安くあがるからよ」
オリヴィアの言ったことなら、ファニーも知っている。
多くの牧場が、牛舎の掃除や餌やり、そのほかの肉体労働や単純作業を奴隷にさせているのだ。
奴隷には最低限の衣食住を与えればいいので、帝国民を雇うより安く上がる。
そのため、人手が欲しい牧場や農場で奴隷を労働力とするのは当然と言えるのだろうけれども。
「私は牧童です。牧場主じゃありません」
牧場の管理を任されてはいるが、持ち主はあくまでも伯爵だ。
帝国法の起草の中心となったのも伯爵だ。
ファニーたちが、帝国法を重んじてきた理由は、そこにある。
だが、奴隷制は、伯爵が作ったものではない。
伯爵が姿を見せなくなったあとに作られた別法だった。
つまり、伯爵の賛否が不明なままなのだ。
帝国民として、別法に反対まではしない。
とはいえ、領地民として伯爵の意に沿うか沿わないかわからない別法に従いたくもない。
こればかりは、前リーストン卿に恩があったとしても曲げられなかった。
(……伯爵様がいないところで決めた法には従えない……伯爵様が法の番人だって、帝国法の最初に書いてあるんだから)
なのに、帝国はそれを無視して伯爵抜きで別法を作ったのだ。
法の番人と定められている伯爵の意向も問わずに。
なぜ2百年も伯爵が姿を現わさなかったのかはわからない。
けれど、なにかしら理由はある。
だから、胸が痛むのだ。
帝国のために命を懸け、誰よりも奮戦した伯爵を、その帝国が無視したことに。
今では奴隷制は当たり前になっているが、ファニーにとっては違う。
いたたまれなさや、やりきれなさを感じずにはいられないものだった。
奴隷制のことを知ったら、伯爵が傷つくのではないか。
裏切られたような気持ちになりはしないか。
奴隷についての話を聞くたび、そう思ってきたのだ。
「ベル、あなたは自分の立場が……」
「オリヴィア・リーストン。私は、お前に口を開くことを許したか?」
ひやっとするほど冷たい声が隣から響く。
カーズデン男爵家で話していた時と同じだ。
オリヴィアの顔が、一瞬で蒼褪めた。
青色の瞳に怯えが漂っている。
「ただの1日も命令に従えないとはな」
オリヴィアはなにか言おうとしたのだろうが、すぐに口を閉じた。
口を開くことを許されていないからだ。
(私も勝手に喋っちゃった……あとで叱られるかな……でも、しょうがない。事前に人手を確保できてなかったのが原因だもん)
伯爵に「困ったこと」を訊かれ、つい正直に人手不足だと話してしまった。
そのせいで、オリヴィアは「良い提案」をしようとしたのだろう。
奴隷を使うのが一般的になっている帝国では、身内だけでやりくりしているほうがめずらしいのだ。
(オリヴィア様は好意で教えてくれようとしたんだって言いたいけど……これ以上、勝手に口を挟めないよね……)
オリヴィアに反論せずにもいられなかったが、出しゃばり過ぎたのを悔やんでもいる。
そもそもオリヴィアの頼みを自分が上手く躱せていれば、話がややこしくなることもなかったのだ。
「私の羊は、私が守る。それよりも領主を失った男爵領の乱れを抑えるために、お前を向こうに残したのだ。この機に乗じて、罪を犯す者も増えるからな。お前は、そんなこともわからないのか」
男爵領は、伯爵領よりも人が多い。
伯爵の言うように、領主不在では混乱をきたす。
伯爵がオリヴィアと騎士団を男爵領に残した理由を、やっと理解した。
「男爵領は、今のところ私があずかっている。それを踏まえ、騎士団とともに秩序を維持しろ。これが、私の命令だ。わかったら行け」
オリヴィアが黙ってうなずく。
「あまり私を煩わせるな。リーストン卿でいたいならば」
ファニーでさえ首をすくめたくなるほど冷たい声だった。
直接、叱責を受けたオリヴィアは背筋が凍る思いをしたに違いない。
深々と頭を下げ、足早に去って行く。
その姿を見送りつつ、次は自分の番だと覚悟を決めた。
「ファニー……」
「すっ、すみません! 私も伯爵様に許しを請うべきでした!!」
目を閉じ、ガバッと頭を下げる。
まだ口を開いていいとは言われていないことも忘れていた。
「許し? それはどういう……」
「伯爵様のお許しもなく、口を開いてしまいました!」
しーん。
返事がないので、頭は下げっ放し。
体を直角に折り曲げ、目もつむりっ放し。
どんな叱責でも受ける覚悟だ。
「あ……いや……ファニー、あなたは自由に話してくれてかまわないのですよ?」
「え……?」
「ともかく頭を上げてくれませんか?」
ゆっくりと頭を上げ、伯爵を見上げる。
伯爵は困ったように、苦笑いを浮かべていた。
「あなたとリーストン卿とでは立場が違います。ですから、私の許しなど必要ありません。気兼ねなく話をしてもらうほうが、私も嬉しいのです」
「そう、なんですね」
きちんと理解できてはいないが、うなずいておく。
おそらく担う役割による責任の重さの違いだろう。
牧童は、領地の秩序を守るような役割は担っていない。
(臣下には厳しく、民には優しいってことかな)
平民であることを不満に思ったことはないが、得をしているような気分になったのも初めてだ。
ファニーは、自分よりも重い責任を担っているオリヴィアを気の毒に思った。
伯爵が、ファニーに小さく微笑んでくれた。
ファニーは、ぎゅっと薔薇の花を握る。
伯爵の笑みが、胸に痛かった。
自分が口を挟むことではない。
そういう立場ではない。
そんなことは、わかっている。
だが、ファニーの心に、やりきれないような切なさが広がっていた。
スッと息を吸い込み、オリヴィアに向き直る。
前リーストン卿や騎士団に恩はあるが、承服できないものはできない。
「オリヴィア様、私は奴隷を買う気はありません」
「お金なら支援金がある……」
「そういうことじゃないんです!」
ファニーの一家は、帝国法を重んじてきた。
平民であるファニーが、文字の読み書きができるのは、幼い頃から父に教わっていたからだ。
父は祖父母から、祖父母は曽祖父母からといったように、帝国法を学ぶために、文字を習っていた。
「私は奴隷制の可否がわからないので、奴隷を買うことはできません」
「可否もなにもないわよ。帝国では奴隷制が認められているわ」
「でも、帝国法には記載されてませんよね」
「当然でしょう。奴隷制は、帝国法とは別法として定められたのだから。あなたは、そんなことも知らないの? ほかの領地の牧場では、多くの奴隷を使っているわ。元手は多少かかっても、長い目で見れば安くあがるからよ」
オリヴィアの言ったことなら、ファニーも知っている。
多くの牧場が、牛舎の掃除や餌やり、そのほかの肉体労働や単純作業を奴隷にさせているのだ。
奴隷には最低限の衣食住を与えればいいので、帝国民を雇うより安く上がる。
そのため、人手が欲しい牧場や農場で奴隷を労働力とするのは当然と言えるのだろうけれども。
「私は牧童です。牧場主じゃありません」
牧場の管理を任されてはいるが、持ち主はあくまでも伯爵だ。
帝国法の起草の中心となったのも伯爵だ。
ファニーたちが、帝国法を重んじてきた理由は、そこにある。
だが、奴隷制は、伯爵が作ったものではない。
伯爵が姿を見せなくなったあとに作られた別法だった。
つまり、伯爵の賛否が不明なままなのだ。
帝国民として、別法に反対まではしない。
とはいえ、領地民として伯爵の意に沿うか沿わないかわからない別法に従いたくもない。
こればかりは、前リーストン卿に恩があったとしても曲げられなかった。
(……伯爵様がいないところで決めた法には従えない……伯爵様が法の番人だって、帝国法の最初に書いてあるんだから)
なのに、帝国はそれを無視して伯爵抜きで別法を作ったのだ。
法の番人と定められている伯爵の意向も問わずに。
なぜ2百年も伯爵が姿を現わさなかったのかはわからない。
けれど、なにかしら理由はある。
だから、胸が痛むのだ。
帝国のために命を懸け、誰よりも奮戦した伯爵を、その帝国が無視したことに。
今では奴隷制は当たり前になっているが、ファニーにとっては違う。
いたたまれなさや、やりきれなさを感じずにはいられないものだった。
奴隷制のことを知ったら、伯爵が傷つくのではないか。
裏切られたような気持ちになりはしないか。
奴隷についての話を聞くたび、そう思ってきたのだ。
「ベル、あなたは自分の立場が……」
「オリヴィア・リーストン。私は、お前に口を開くことを許したか?」
ひやっとするほど冷たい声が隣から響く。
カーズデン男爵家で話していた時と同じだ。
オリヴィアの顔が、一瞬で蒼褪めた。
青色の瞳に怯えが漂っている。
「ただの1日も命令に従えないとはな」
オリヴィアはなにか言おうとしたのだろうが、すぐに口を閉じた。
口を開くことを許されていないからだ。
(私も勝手に喋っちゃった……あとで叱られるかな……でも、しょうがない。事前に人手を確保できてなかったのが原因だもん)
伯爵に「困ったこと」を訊かれ、つい正直に人手不足だと話してしまった。
そのせいで、オリヴィアは「良い提案」をしようとしたのだろう。
奴隷を使うのが一般的になっている帝国では、身内だけでやりくりしているほうがめずらしいのだ。
(オリヴィア様は好意で教えてくれようとしたんだって言いたいけど……これ以上、勝手に口を挟めないよね……)
オリヴィアに反論せずにもいられなかったが、出しゃばり過ぎたのを悔やんでもいる。
そもそもオリヴィアの頼みを自分が上手く躱せていれば、話がややこしくなることもなかったのだ。
「私の羊は、私が守る。それよりも領主を失った男爵領の乱れを抑えるために、お前を向こうに残したのだ。この機に乗じて、罪を犯す者も増えるからな。お前は、そんなこともわからないのか」
男爵領は、伯爵領よりも人が多い。
伯爵の言うように、領主不在では混乱をきたす。
伯爵がオリヴィアと騎士団を男爵領に残した理由を、やっと理解した。
「男爵領は、今のところ私があずかっている。それを踏まえ、騎士団とともに秩序を維持しろ。これが、私の命令だ。わかったら行け」
オリヴィアが黙ってうなずく。
「あまり私を煩わせるな。リーストン卿でいたいならば」
ファニーでさえ首をすくめたくなるほど冷たい声だった。
直接、叱責を受けたオリヴィアは背筋が凍る思いをしたに違いない。
深々と頭を下げ、足早に去って行く。
その姿を見送りつつ、次は自分の番だと覚悟を決めた。
「ファニー……」
「すっ、すみません! 私も伯爵様に許しを請うべきでした!!」
目を閉じ、ガバッと頭を下げる。
まだ口を開いていいとは言われていないことも忘れていた。
「許し? それはどういう……」
「伯爵様のお許しもなく、口を開いてしまいました!」
しーん。
返事がないので、頭は下げっ放し。
体を直角に折り曲げ、目もつむりっ放し。
どんな叱責でも受ける覚悟だ。
「あ……いや……ファニー、あなたは自由に話してくれてかまわないのですよ?」
「え……?」
「ともかく頭を上げてくれませんか?」
ゆっくりと頭を上げ、伯爵を見上げる。
伯爵は困ったように、苦笑いを浮かべていた。
「あなたとリーストン卿とでは立場が違います。ですから、私の許しなど必要ありません。気兼ねなく話をしてもらうほうが、私も嬉しいのです」
「そう、なんですね」
きちんと理解できてはいないが、うなずいておく。
おそらく担う役割による責任の重さの違いだろう。
牧童は、領地の秩序を守るような役割は担っていない。
(臣下には厳しく、民には優しいってことかな)
平民であることを不満に思ったことはないが、得をしているような気分になったのも初めてだ。
ファニーは、自分よりも重い責任を担っているオリヴィアを気の毒に思った。
0
お気に入りに追加
113
あなたにおすすめの小説

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり

王命での結婚がうまくいかなかったので公妾になりました。
しゃーりん
恋愛
婚約解消したばかりのルクレツィアに王命での結婚が舞い込んだ。
相手は10歳年上の公爵ユーグンド。
昔の恋人を探し求める公爵は有名で、国王陛下が公爵家の跡継ぎを危惧して王命を出したのだ。
しかし、公爵はルクレツィアと結婚しても興味の欠片も示さなかった。
それどころか、子供は養子をとる。邪魔をしなければ自由だと言う。
実家の跡継ぎも必要なルクレツィアは子供を産みたかった。
国王陛下に王命の取り消しをお願いすると三年後になると言われた。
無駄な三年を過ごしたくないルクレツィアは国王陛下に提案された公妾になって子供を産み、三年後に離婚するという計画に乗ったお話です。

なんでも報告してくる婚約者様
雀40
恋愛
政略結婚を命じられた貴族の子どもは、婚約中にどういうふうに関係を築いていくかを考えた。
そうしてふたりで話し合って決めたのは「報告すること」。
お互いの感情と情報のすれ違いによるトラブルの防止を目的とした決め事だが、何でもオープンにすることに慣れてしまうと、それはそれで問題に……?
――――――――――――――――――――――――――――――――――
真面目女子✕真面目男子。
双方真面目が過ぎて若干ポンコツ気味なカップルのゆるい話。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

家出したとある辺境夫人の話
あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
恋愛
『突然ではございますが、私はあなたと離縁し、このお屋敷を去ることにいたしました』
これは、一通の置き手紙からはじまった一組の心通わぬ夫婦のお語。
※ちゃんとハッピーエンドです。ただし、主人公にとっては。
※他サイトでも掲載します。

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる