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第2章 黒い風と金のいと

お祖父さまの独り言 4

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 夕食後、彼は早々に席を立つ。
 ここ数日は、屋敷に泊まっていなかった。
 毎日、屋敷を訪れてはいるが、夜は森に戻っている。
 玄関ホールで、いったん足を止めた。
 見送りのためついてきていたレティシアと向き合う。
 
「レティ、明日から2日間ほど、こちらには来られないのだよ」
「そうなの……?」
 
 レティシアの表情からは、2つの感情が読み取れた。
 安堵と落胆。
 どちらが大きいのかは、あえて考えないことにする。
 
「おそらく2日間程度ですむだろうがね」
 
 彼は、レティシアが聞いてきた時のために、いくつかの理由を用意していた。
 が、レティシアは理由を聞かずにいる。
 彼がどうして2日も訪ねて来ないのか、とは。
 
「……わかった。お屋敷のことは、サリーと私でなんとかするね」
「そうかい?」
「うん……大丈夫だから、心配しなくていいよ」
 
 レティシアは、すっかり口数が減ってしまった。
 そして、笑わない。
 グレイが屋敷を出て、十日が経っている。
 まだグレイの不在に慣れていないのだろう。
 食事や睡眠は、彼女の心に関わりなく、体が求めてくるだろうから心配はない。
 魔力の対流が自然とレティシアに空腹を感じさせ、睡眠を必要とさせるからだ。
 この十日間の様子からすれば、魔力が暴走する気配もなかった。
 
 彼は、いつものようにレティシアの頭をゆるく撫でる。
 まだふれられることが、彼にとっての喜びだった。
 気軽にふれられなくなる日も、そう遠くないかもしれない。
 そうなれば、レティシアと過ごす生活もなくなるのだ。
 以前のように、遠くから見守るだけの存在に戻るだけのこと。
 が、その「戻るだけ」は、心に大きな影響を与えるに違いない。
 
 レティシアとの日々で、彼の心には、色彩豊かで見るたびに景色の変わる絵画が飾られるようになった。
 彼女との毎日を失えば、その絵画は真っ白に、いや、真っ黒に塗り潰されていくだろう。
 
「レティ……」
 
 笑わないレティシアの体を引き寄せ、やわらかく抱きしめる。
 背中に回された腕に、胸が暖かくなった。
 彼に対する複雑な心境をかかえつつも、レティシアは彼の想いを受け止めようとしてくれている。
 納得はしていなくても、理解しようとはしている。
 彼女なりに必死で。
 
「私の愛しい孫娘」
 
 それでも、レティシアは真面目で誠実で、損得なく人に親身になる性格だ。
 グレイを気にせずにいることなんて、できるはずがない。
 
 彼は、それを十分に、わかっていた。
 
 体を離して、レティシアの頬に手をあてる。
 ふれることが許されている内にふれ、その感触を覚えておきたかったのだ。
 レティシアは少しだけ彼を見上げてから、うつむき目を伏せた。
 彼女は笑ってはくれない。
 そして。
 
(どうやら、好き、とは言ってもらえないようだ)
 
 『お祖父さまみたいな黒い髪と目が好き』
 『お祖父さま、大好き! もお、私、これじゃどこにも嫁げないよー』
 『お祖父さま、優しいねー! すっごく素敵! 大好き!』
 
 言って、レティシアは、彼に笑顔を向け続けてくれていた。
 そんな彼女が、ここのところ笑顔を見せてくれないのだ。
 レティシアの感情に、変化があったのは察するまでもない。
 彼にとっては、良くないほうの変化だ。
 
「おやすみ、私の愛しい孫娘」
 
 同じ言葉を繰り返し、彼は彼の心と折り合いをつける。
 心の絵画の端に、じわりと黒が滲んでいた。
 こうやって、だんだんに豊かな色彩は黒に塗り潰されていく。
 
「あの……お祖父さま……」
「なんだい?」
 
 レティシアは、しばしの間のあと、首を横に振った。
 グレイのことを聞こうとしたのに違いない。
 彼は、屋敷を出たグレイに魔力分配をせずにいる。
 温存して使ってはいるだろうが、その内、尽きることになるのだ。
 それも、レティシアは気にしている。
 けれど、何も言わず、レティシアがまた目を伏せた。
 
「なんでもない……おやすみなさい、お祖父さま」
「おやすみ、レティ」
 
 彼は体を返し、屋敷を出る。
 転移を使い、すぐに森の山小屋に帰った。
 ここのところの定位置であるベンチに座る。
 見上げると、月は縦長の貝殻のような形になっていた。
 たった十日で、月すら姿を変える。
 人の感情は、たいていは月よりも変化が早い。
 
 彼は、レティシアを失いたくはなかった。
 王太子との掛け値なしなやりとりに、少し妬けたくらいだ。
 人として、という意味であれば、王太子のほうが彼よりもレティシアに近い。
 
 もちろんレティシアが誰かと恋に落ち、その相手を選ぶというのなら、それでもかまわなかった。
 彼女が幸せでありさえすればいいと、彼は思っている。
 それは失うのではなく、手放すということだからだ。
 彼がレティシアを手放した先に、彼女の幸せがあるのなら、喜んでレティシアの手を放すつもりでいた。
 
 だが、今回のこれは違う。
 彼女の幸せのために彼女を手放すのではなく、彼女を、ただ失うだけなのだ。
 この数日間、彼はこのベンチで夜を明かしている。
 いつになく心が穏やかだった。
 レティシアを失う時のため、心が自然と準備をしているのだろう。
 
 彼は、自分の本質が、愚かで冷酷なものからできていると知っている。
 
 初めて「守れた」と思った孫娘ですら、守りきれてはいない。
 だとしても、やるべきことは、はっきりしていた。
 彼に善悪はない。
 己の基準にのみ従って行動をする。
 それが、どんなに愚かだと知っていても。
 
 『お祖父さまと一緒なんて嫌! こんな髪も目も大嫌い! 気持ち悪い!』
 
 言葉が聞こえる。
 今の彼女は、明確に彼を責めはしないかもしれない。
 が、大別すれば同じ範疇に入る感情をいだくのだろう。
 そして、笑顔より、曖昧な表情が増えていく。
 それでも、遠くから見守るとの手立てがあれば、なんとかできるはずだ。
 レティシアが、正妃を選ばないことだけは、確信が持てている。
 彼女を利用しようとする思惑に乗ることはないだろう。
 
「サイラス、きみは本当に、せっかちな男だ」
 
 今回の件では、前回と異なり、サイラスはまったく表に出ていなかった。
 さりとて、関わっていないはずがないのだ。
 セシエヴィル子爵家を巻き込んだところがサイラスらしかった。
 策というものには、その策を練った者の性格が現れる。
 この平和になった国で、私戦という、半ばすたれた手法を実行したがる貴族などいない。
 ラペル公爵の後ろには、サイラスがいるとみるのが妥当だった。
 かといって、今、サイラスに始末をつけても、無意味だとは思う。
 動きだしたものを止めることはできないのだ。
 直接レティシアを狙わない方法に切り替えてきたのが、いやらしくも小賢しい。
 
「そういえば、レティが良く使う言葉に、適切なものがあったね。粘着、というのだったかな」
 
 しつこいを百倍増しにしたくらいしつこい。
 サイラスは何年越しで自分に「粘着」しているのか。
 長きに渡り、あらゆる道筋を考えてきたはずだ。
 
 その中でも、とっておき。
 
 この私戦は、そういう類のものに感じられる。
 彼に痛手を与えようとしているのなら、意味はあった。
 とても大きな意味が。
 
(私自身が、また……レティを傷つけることになるとはね)
 
 今度こそレティシアを守ると誓った。
 たとえ魂が別人でも、彼にとっては愛しい孫娘なのだ。
 けれど、彼自身から彼女を守ることはできない。
 離れて見守るくらいしか、取れる手立てもなかった。
 
(慣れているさ。これまでも、十年、それでやってきたのだから)
 
 少しの間、夢を見た。
 そう思えばいい。
 月が雲に隠され、辺りに闇が広がっていく。
 
「ジーク」
「あいよ」
 
 ジークは変転せず、彼の隣に立っていた。
 が、すぐに烏に姿を変え、飛んで行く。
 ジークが闇に溶けきってから、彼も姿を、消した。
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