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口下手公爵の幸せなひととき 1
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アリスは、適度な速度で、歩いている。
蹄の音が響く中、外は天気もいい。
空は晴れていた。
あれから半年。
季節は冬から春を過ぎ、そして、もう少しで夏が来る。
背中に乗っているのは、シェルニティだけだ。
彼は、お留守番。
朝の早い時間に、シェルニティは、森の家を出ている。
ずいぶんと、遠くまで来ていた。
途中、木陰で昼休憩を取り、食事をすませている。
「王子様と幸せになったお姫様と美しいと言われたかった魔女、王子様と婚姻した隣の国のお姫様と泡になった人魚、つばめの王子様と花の国に行ったお姫様と婚姻してもらえなかったもぐら。ねえ、わかる?」
シェルニティが、アリスのたてがみを撫でながら訊いてきた。
当然だが、アリスは答えられない。
馬は、言葉を話さないからだ。
代わりに、ちらっと振り向いてみた。
シェルニティは感情にのみこまれ、しばらくの間、立ち直れずにいた。
食事もあまりせず、笑うこともなくなり、日がな、ぼんやりして過ごしてばかりいたのだ。
彼が一生懸命に世話をしていたけれど、なかなか元気にはならなかった。
彼女にとっての「本物の死」は、心に大きな衝撃を与えたのだ。
(人との距離が近くなれば、ショックを受けることも増えちまうからな)
以前のように森の家で、彼とアリスだけしか知らずにいれば、感情に差し障りはなかっただろう。
所詮は、シェルニティにとって「知らない人」に過ぎないのだから、心を遠くに置いておける。
感情だって、さほど揺らぐことはない。
森の家から出て、人と接する機会が増え、大事なものができて、感情が成長したために、傷つくことも増えたのだ。
(半月以上、ひと言も話さなかったもんな……屋敷にも行けない……てゆーか、家から出らんなかったし……あン時は、マジで恨んだぜ、キット)
ベッドから出られなかったシェルニティは、なにも映していないような瞳から、時々、思い出したように涙をこぼしていた。
ほとんど食事もとらず、彼が治癒を施していたくらいなのだ。
それでも、彼は食事を用意し続け、声をかけ続けていたけれども。
彼だって心配しただろうが、アリスも心配でたまらなかった。
シェルニティが外に出られずにいたので、烏姿のまま、窓から中を覗くだけ。
今日は話すのではないか、明日は笑うだろうかと、毎日、森の家を訪れた。
シェルニティの心が壊れてしまったのではないかと、本当に心配したのだ。
けれど、ひと月経ち、ふた月経ち、3ヶ月を越えた頃、ようやくシェルニティは「会話」をするようになった。
そして、少しずつ自分で食事をするようになり、ここ最近は、笑ったりもする。
本来、感情というのは、産まれた頃から少しずつ成長していく。
嬉しいとか楽しいとかいった良い感情も、悲しいとかつらいという悪い感情も、段々に心に馴染んでいくものなのだ。
最初は、浜辺にいて、少しずつ海に泳ぎ出していくように。
それがあってはじめて、大きな波にも耐えられる。
波にのまれないための手立てが、自然と身についているからだ。
たとえ、いったんはのまれたとしも、浮き上がろうともがく。
もがいた末であれ、波を越えられる。
が、シェルニティの場合、もとより感情を、一気に成長させていた。
そのため、波にのまれないための手立てを身につけてはいなかったのだ。
だから、彼女は、突然に襲ってきた、大きな波に、あっさりとのみこまれた。
もがきかたすら知らずに。
(もう戻って来られないんじゃねーかって、心配だったんだぜ、シェリー)
キサティーロを止められなかったことで、アリスも、ずいぶんと自分を責めた。
だが、アリスよりも、彼のほうが、ずっと自分を責めていたと、知っている。
かいがいしくシェルニティの世話をしつつ、彼は、ほとんど眠っていない。
今もまだ。
「誰も損をしないハッピーエンドなんてないのよ、アリス」
言葉の内容に対し、シェルニティの口調は穏やかだった。
腹を立てているようでも、悲しんでいるようでもない。
「みんなが喜べるような結末だけがあればいいと思うわ。でも、みんなが同じ結末を望んでいるわけじゃない。だから、誰かが損をするの」
彼の家で読んだことのある、おとぎ話をアリスも思い出す。
以前、リンクスは、泡になった人魚の話が嫌いだと言っていた。
海で遭難したところを助けたのが人魚だとは知らず、隣国の姫と婚姻した王子を非難していた。
けれど、それだって見方が違えば、別のものが見えてくる。
王子は単に知らなかっただけだ。
ましてや、隣国の姫は、もっと知らずにいた。
そして、2人は婚姻して「末永く幸せに」暮らしたのだ。
人魚は泡になってしまったけれど、2人の幸せを否定するのも間違っている。
アリスは、そんなふうに思う。
2人には、2人にとっての幸せがあった。
それだけのことなのだ、たぶん。
「それでも、考えずにはいられなかったのよ。誰が誰に損をさせると決めるのか、なぜ誰かが損を押しつけられなきゃならないのかってね」
しばしシェルニティの言ったことを考えてみたが、アリスにはわからなかった。
シェルニティが、またアリスのたてがみを撫でる。
頭を撫でられている感覚が、とても気持ち良かった。
シェルニティの心が落ち着いているのも、伝わってくる。
「考えても、わからなかったわ」
(そっか。オレも、わかんねーな)
自然と、うなずくように、首が上下した。
それを見てなのか、シェルニティが小さく笑う。
その声に、アリスは、心が暖かくなった。
本当に良かった、と思う。
「みんな、いろんな願いを持っていて、それぞれ違うでしょう? 自分にとっての正解も、ある人にとっては間違いになることだってあるのだもの。自分が損をして誰かが望みを叶えて……でも、その人も、誰かの望みのために、どこかで損をしているかもしれないわ。おとぎ話とは違って、人は生きていくものだから」
ハッピーエンドの、その先は?
おとぎ話は、そこで終わっても、人の人生は、そこでは終わらない。
そこから先のほうが長いくらいだ。
いったんは手にいれたものも手放さなければならなくなったり、別の願いが叶えられなかったり。
おとぎ話ほど、人の「生」は単純ではない。
「私が罪を背負うと言ったりしたから、彼は躊躇ったのよ」
言葉に、ハッとなる。
この半年、シェルニティは苦しんで、その答えを出したに違いない。
「彼は、そういう人だもの。私を傷つけまいとする。それだけを考えてくれる」
彼には、命の天秤がない。
シェルニティのことだけが大事なのだ。
彼は、たった1人の愛する者のためだけに存在している。
「いろいろ考えたわ。それでも、私は、彼を愛しているの。だから、彼が躊躇うのなら、私が答えを出すわ。私が選んで、彼に答えを渡すのよ」
シェルニティは、本当にたくさん考え、悩み、苦しんで結論を出したのだろう。
声に、迷いがなかった。
「私は躊躇わない。そう決めたの」
彼女は、冷酷になったのでも、感情を捨てたのでもない。
そうする必要がある、と判断している。
「もう大事な人を失いたくないから。そのために、どうしても誰かに犠牲を強いることになるとしても、私は躊躇わないわ。その罪を引き受ける」
ほとんど飲まず食わずで、話さず笑わず、そんな日々の中、シェルニティが手に入れたもの。
それは、おそらく「覚悟」だ。
「それが、彼と人生をともにする、ということだと、やっとわかったの」
アリスは足を止める。
目的地に着いていた。
まだ花は咲いていない。
夏なれば、ここは辺り一面、赤く染まる。
シェルニティが、彼と初めてピクニックに行った時は、もっとずっと、遠くから眺めていた場所だ。
アリスの背にも、彼女は1人では乗れなかった。
「ねえ、キット。私、1人で、ここまで来られるようになったのよ」
蹄の音が響く中、外は天気もいい。
空は晴れていた。
あれから半年。
季節は冬から春を過ぎ、そして、もう少しで夏が来る。
背中に乗っているのは、シェルニティだけだ。
彼は、お留守番。
朝の早い時間に、シェルニティは、森の家を出ている。
ずいぶんと、遠くまで来ていた。
途中、木陰で昼休憩を取り、食事をすませている。
「王子様と幸せになったお姫様と美しいと言われたかった魔女、王子様と婚姻した隣の国のお姫様と泡になった人魚、つばめの王子様と花の国に行ったお姫様と婚姻してもらえなかったもぐら。ねえ、わかる?」
シェルニティが、アリスのたてがみを撫でながら訊いてきた。
当然だが、アリスは答えられない。
馬は、言葉を話さないからだ。
代わりに、ちらっと振り向いてみた。
シェルニティは感情にのみこまれ、しばらくの間、立ち直れずにいた。
食事もあまりせず、笑うこともなくなり、日がな、ぼんやりして過ごしてばかりいたのだ。
彼が一生懸命に世話をしていたけれど、なかなか元気にはならなかった。
彼女にとっての「本物の死」は、心に大きな衝撃を与えたのだ。
(人との距離が近くなれば、ショックを受けることも増えちまうからな)
以前のように森の家で、彼とアリスだけしか知らずにいれば、感情に差し障りはなかっただろう。
所詮は、シェルニティにとって「知らない人」に過ぎないのだから、心を遠くに置いておける。
感情だって、さほど揺らぐことはない。
森の家から出て、人と接する機会が増え、大事なものができて、感情が成長したために、傷つくことも増えたのだ。
(半月以上、ひと言も話さなかったもんな……屋敷にも行けない……てゆーか、家から出らんなかったし……あン時は、マジで恨んだぜ、キット)
ベッドから出られなかったシェルニティは、なにも映していないような瞳から、時々、思い出したように涙をこぼしていた。
ほとんど食事もとらず、彼が治癒を施していたくらいなのだ。
それでも、彼は食事を用意し続け、声をかけ続けていたけれども。
彼だって心配しただろうが、アリスも心配でたまらなかった。
シェルニティが外に出られずにいたので、烏姿のまま、窓から中を覗くだけ。
今日は話すのではないか、明日は笑うだろうかと、毎日、森の家を訪れた。
シェルニティの心が壊れてしまったのではないかと、本当に心配したのだ。
けれど、ひと月経ち、ふた月経ち、3ヶ月を越えた頃、ようやくシェルニティは「会話」をするようになった。
そして、少しずつ自分で食事をするようになり、ここ最近は、笑ったりもする。
本来、感情というのは、産まれた頃から少しずつ成長していく。
嬉しいとか楽しいとかいった良い感情も、悲しいとかつらいという悪い感情も、段々に心に馴染んでいくものなのだ。
最初は、浜辺にいて、少しずつ海に泳ぎ出していくように。
それがあってはじめて、大きな波にも耐えられる。
波にのまれないための手立てが、自然と身についているからだ。
たとえ、いったんはのまれたとしも、浮き上がろうともがく。
もがいた末であれ、波を越えられる。
が、シェルニティの場合、もとより感情を、一気に成長させていた。
そのため、波にのまれないための手立てを身につけてはいなかったのだ。
だから、彼女は、突然に襲ってきた、大きな波に、あっさりとのみこまれた。
もがきかたすら知らずに。
(もう戻って来られないんじゃねーかって、心配だったんだぜ、シェリー)
キサティーロを止められなかったことで、アリスも、ずいぶんと自分を責めた。
だが、アリスよりも、彼のほうが、ずっと自分を責めていたと、知っている。
かいがいしくシェルニティの世話をしつつ、彼は、ほとんど眠っていない。
今もまだ。
「誰も損をしないハッピーエンドなんてないのよ、アリス」
言葉の内容に対し、シェルニティの口調は穏やかだった。
腹を立てているようでも、悲しんでいるようでもない。
「みんなが喜べるような結末だけがあればいいと思うわ。でも、みんなが同じ結末を望んでいるわけじゃない。だから、誰かが損をするの」
彼の家で読んだことのある、おとぎ話をアリスも思い出す。
以前、リンクスは、泡になった人魚の話が嫌いだと言っていた。
海で遭難したところを助けたのが人魚だとは知らず、隣国の姫と婚姻した王子を非難していた。
けれど、それだって見方が違えば、別のものが見えてくる。
王子は単に知らなかっただけだ。
ましてや、隣国の姫は、もっと知らずにいた。
そして、2人は婚姻して「末永く幸せに」暮らしたのだ。
人魚は泡になってしまったけれど、2人の幸せを否定するのも間違っている。
アリスは、そんなふうに思う。
2人には、2人にとっての幸せがあった。
それだけのことなのだ、たぶん。
「それでも、考えずにはいられなかったのよ。誰が誰に損をさせると決めるのか、なぜ誰かが損を押しつけられなきゃならないのかってね」
しばしシェルニティの言ったことを考えてみたが、アリスにはわからなかった。
シェルニティが、またアリスのたてがみを撫でる。
頭を撫でられている感覚が、とても気持ち良かった。
シェルニティの心が落ち着いているのも、伝わってくる。
「考えても、わからなかったわ」
(そっか。オレも、わかんねーな)
自然と、うなずくように、首が上下した。
それを見てなのか、シェルニティが小さく笑う。
その声に、アリスは、心が暖かくなった。
本当に良かった、と思う。
「みんな、いろんな願いを持っていて、それぞれ違うでしょう? 自分にとっての正解も、ある人にとっては間違いになることだってあるのだもの。自分が損をして誰かが望みを叶えて……でも、その人も、誰かの望みのために、どこかで損をしているかもしれないわ。おとぎ話とは違って、人は生きていくものだから」
ハッピーエンドの、その先は?
おとぎ話は、そこで終わっても、人の人生は、そこでは終わらない。
そこから先のほうが長いくらいだ。
いったんは手にいれたものも手放さなければならなくなったり、別の願いが叶えられなかったり。
おとぎ話ほど、人の「生」は単純ではない。
「私が罪を背負うと言ったりしたから、彼は躊躇ったのよ」
言葉に、ハッとなる。
この半年、シェルニティは苦しんで、その答えを出したに違いない。
「彼は、そういう人だもの。私を傷つけまいとする。それだけを考えてくれる」
彼には、命の天秤がない。
シェルニティのことだけが大事なのだ。
彼は、たった1人の愛する者のためだけに存在している。
「いろいろ考えたわ。それでも、私は、彼を愛しているの。だから、彼が躊躇うのなら、私が答えを出すわ。私が選んで、彼に答えを渡すのよ」
シェルニティは、本当にたくさん考え、悩み、苦しんで結論を出したのだろう。
声に、迷いがなかった。
「私は躊躇わない。そう決めたの」
彼女は、冷酷になったのでも、感情を捨てたのでもない。
そうする必要がある、と判断している。
「もう大事な人を失いたくないから。そのために、どうしても誰かに犠牲を強いることになるとしても、私は躊躇わないわ。その罪を引き受ける」
ほとんど飲まず食わずで、話さず笑わず、そんな日々の中、シェルニティが手に入れたもの。
それは、おそらく「覚悟」だ。
「それが、彼と人生をともにする、ということだと、やっとわかったの」
アリスは足を止める。
目的地に着いていた。
まだ花は咲いていない。
夏なれば、ここは辺り一面、赤く染まる。
シェルニティが、彼と初めてピクニックに行った時は、もっとずっと、遠くから眺めていた場所だ。
アリスの背にも、彼女は1人では乗れなかった。
「ねえ、キット。私、1人で、ここまで来られるようになったのよ」
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