63 / 80
繋いだ手を 3
しおりを挟む
シェルニティは、ずっと眠れずにいた。
が、意を決して、荷造りをしている。
今夜のうちに、この家から去ると決めたのだ。
(とりあえず、ブレインバーグの屋敷に戻ってからね。先のことを考えるのは)
もとより、1度は実家に帰らなければならないと思っていた。
この家以外に、シェルニティには行く「アテ」がない。
実家に帰り、人のいない領地で暮らす許しを得る。
どういうふうに生活していくかは、実家を出てから考えることにした。
(確か、飛び領地として辺境地に近い場所があったはず。管理小屋が壊れていないといいのだけれど)
ブレインバーグの領地のほとんどは、王都に近い場所にある。
ただ、なんらかの理由で元の領主が管理できなくなった土地を、建前上、任されていた。
そういう土地は王都から離れており、ひと続きとなっていないため「飛び領地」と呼ばれる。
屋敷のある「飛び領地」もあるが、ブレインバーグの持つ土地にはなかった。
地図の上では、管理小屋しか記載されていなかったのを覚えている。
住んでいる者はおらず、放置されているので、壊れている可能性がある。
レックスモアの見張り小屋も放置され続け、屋根が崩れ落ちていた。
「その場合は、お父さまに、お願いして直していただくしかないわね」
いくら両親の態度が改められたとはいえ、シェルニティには、親を頼る、という経験がない。
甘えかたも知らないので、ともかく「丁寧にお願いしよう」と考えていた。
両親からの「帰っておいで」との言葉は、頭から抜け落ちている。
まるきり実感がなかったからだ。
荷造りをすませ、部屋の扉を開く。
荷物と言っても、たいしたものはなかった。
民服のスカートについているポケットに、そっと手を当てる。
そこには、彼にもらった銀色の笛を入れてあった。
書き物机の上には、一応、書置きを残している。
彼がくれた民服を持って出ているので、あとから代金を支払うというようなことと、今までのお礼をしたためておいた。
階段を降りつつ、夜会の日のように、彼に見つかった時にどうするかを考える。
さりとて、ブレインバーグの屋敷に帰ると言っても、彼は引き留めないだろうと思ってもいた。
(だって、彼は、私を王太子殿下にあずけたがっていたもの)
庭の散策の前、アーヴィングに任せ、彼は、さっさと席を立っている。
キサティーロに案内されながら、2人で庭を見て回った。
素晴らしい庭だったし、王太子との会話も楽しんでいる。
王太子は礼儀正しく、優しかった。
時折、キサティーロに花のことを訊ねたりしつつも、シェルニティの言葉に耳を傾けてくれている。
今までの暮らしについて訊かれはしたが、とてもさりげなくて、いかにも好奇心からくる詮索といった雰囲気ではなかった。
おかげで、テラスを離れる前にはあった緊張もほどけていたのだ。
王太子とも自然に話せるようになっていた。
そして、帰る間際、王太子に言われている。
『今後、公爵の元を離れるつもりがあるのなら、僕のところに、来てはくれないだろうか。もちろん、きみを囲う、という意味ではないよ? きみに、僕を知ってもらいたいと思ってね』
その言葉に対して、シェルニティは、はっきりと首を横に振った。
彼の元を離れるつもりはある。
けれど、1人で暮らそうと思っていると、そう答えたのだ。
正直、彼女自身、とても不可思議な気分になった。
今まで、言われたら言われたようにするのが「あたり前」だったからだ。
従うのが当然で、断るなんてしたことがない。
なのに、王太子の言葉に、うなずくことができなかった。
「彼、いないみたい」
シェルニティは小さくつぶやいてから、家を出る。
外には、あの日と同じ、アリスがいた。
ホッとして、アリスに駆け寄る。
「アリス、この前と同じ、お願いをするわね」
アリスが、じっとシェルニティを見つめていた。
それから、脚を曲げ、その場に体を伏せる。
「まあ! あなた、すごく賢いわ。私の気持ちをわかってくれているみたい」
アリスが立ったままだと、シェルニティは、アリスに乗ることはできない。
が、伏せた状態のアリスの背は、低い位置にある。
荷物を手に、アリスにまたがってみた。
「初めて、1人で、あなたに乗れたわ」
『それでも、さらに、もう1つ、と考えるくらい、私は欲張りなのさ』
ずきりと胸が痛む。
この先、自分の「初めて」を、彼は、もう受け取ってはくれないのだ。
なにしろ、彼は、王太子とシェルニティの仲立ちをしたのだから。
(いずれ、が来てしまったということよ。わかっていたわ。“ずっと”はないって)
シェルニティは、アリスのたてがみを撫でた。
彼が現れる様子はない。
「いい子ね、アリス。少し遠いのだけれど、私、ブレインバーグの屋敷に帰ろうと思っているの。連れて行ってくれる?」
ぐんっと、視界が高くなる。
アリスが立ち上がったのだ。
首をそらせ、シェルニティを振り返ってくる。
なぜか「本当にいいのか」と、問われている気がした。
「いいの。ここには……もう、いられないみたいだから……」
アリスの首に、ぎゅっと抱き着く。
ひどく胸が苦しかったのだ。
そのシェルニティの頬を、アリスが、ぺろんと舐めた。
感触に、少しだけ笑う。
「大好きよ、アリス。私、あなたには、気に入ってもらえているのね」
アリスは彼の次だ、と、彼は言ったけれど。
(そうだったら良かったわ……でも、違うのでしょう?)
もし、そうであれば、自分を手放そうなどとはしなかったはずだ。
シェルニティは体を起こし、手綱を握った。
なにもしなくても、アリスが歩き出す。
シェルニティに方向はわからないが、アリスはわかっているらしかった。
「頼もしいわ。私の、お気に入り」
アリスの耳が、ぴくぴくっと動く。
夜道に、アリスの蹄の音だけが響いていた。
森の小道を歩いて行く。
「星が、とても綺麗よ」
見上げると、夏の夜空に、多くの小さな星が光っている。
月も出ていたので、その光に隠されて見えない星もあるのだろう。
森の中、しかも、夜なので、外気は涼しく、心地よかった。
「私ね。ここに来るまで、外が暑いってことも、よくわからずにいたの」
シェルニティの住んでいた2つの屋敷には、おかかえ魔術師がいたからか、常に快適な室温が保たれていたのだ。
シェルニティは、部屋から出たことがなかった。
あの日、森に散策に行くまで、庭にすら出ていない。
だから、知らなかったのだ。
「彼、また私の初めてを……手に入れて、いるわ……」
とても気持ちのいい夜だというのに、初めて1人でアリスに乗れたというのに。
なにかが足らないと感じて、胸が締めつけられる。
(きっと……これが、寂しいってことなのだわ……彼が、いないから……)
が、意を決して、荷造りをしている。
今夜のうちに、この家から去ると決めたのだ。
(とりあえず、ブレインバーグの屋敷に戻ってからね。先のことを考えるのは)
もとより、1度は実家に帰らなければならないと思っていた。
この家以外に、シェルニティには行く「アテ」がない。
実家に帰り、人のいない領地で暮らす許しを得る。
どういうふうに生活していくかは、実家を出てから考えることにした。
(確か、飛び領地として辺境地に近い場所があったはず。管理小屋が壊れていないといいのだけれど)
ブレインバーグの領地のほとんどは、王都に近い場所にある。
ただ、なんらかの理由で元の領主が管理できなくなった土地を、建前上、任されていた。
そういう土地は王都から離れており、ひと続きとなっていないため「飛び領地」と呼ばれる。
屋敷のある「飛び領地」もあるが、ブレインバーグの持つ土地にはなかった。
地図の上では、管理小屋しか記載されていなかったのを覚えている。
住んでいる者はおらず、放置されているので、壊れている可能性がある。
レックスモアの見張り小屋も放置され続け、屋根が崩れ落ちていた。
「その場合は、お父さまに、お願いして直していただくしかないわね」
いくら両親の態度が改められたとはいえ、シェルニティには、親を頼る、という経験がない。
甘えかたも知らないので、ともかく「丁寧にお願いしよう」と考えていた。
両親からの「帰っておいで」との言葉は、頭から抜け落ちている。
まるきり実感がなかったからだ。
荷造りをすませ、部屋の扉を開く。
荷物と言っても、たいしたものはなかった。
民服のスカートについているポケットに、そっと手を当てる。
そこには、彼にもらった銀色の笛を入れてあった。
書き物机の上には、一応、書置きを残している。
彼がくれた民服を持って出ているので、あとから代金を支払うというようなことと、今までのお礼をしたためておいた。
階段を降りつつ、夜会の日のように、彼に見つかった時にどうするかを考える。
さりとて、ブレインバーグの屋敷に帰ると言っても、彼は引き留めないだろうと思ってもいた。
(だって、彼は、私を王太子殿下にあずけたがっていたもの)
庭の散策の前、アーヴィングに任せ、彼は、さっさと席を立っている。
キサティーロに案内されながら、2人で庭を見て回った。
素晴らしい庭だったし、王太子との会話も楽しんでいる。
王太子は礼儀正しく、優しかった。
時折、キサティーロに花のことを訊ねたりしつつも、シェルニティの言葉に耳を傾けてくれている。
今までの暮らしについて訊かれはしたが、とてもさりげなくて、いかにも好奇心からくる詮索といった雰囲気ではなかった。
おかげで、テラスを離れる前にはあった緊張もほどけていたのだ。
王太子とも自然に話せるようになっていた。
そして、帰る間際、王太子に言われている。
『今後、公爵の元を離れるつもりがあるのなら、僕のところに、来てはくれないだろうか。もちろん、きみを囲う、という意味ではないよ? きみに、僕を知ってもらいたいと思ってね』
その言葉に対して、シェルニティは、はっきりと首を横に振った。
彼の元を離れるつもりはある。
けれど、1人で暮らそうと思っていると、そう答えたのだ。
正直、彼女自身、とても不可思議な気分になった。
今まで、言われたら言われたようにするのが「あたり前」だったからだ。
従うのが当然で、断るなんてしたことがない。
なのに、王太子の言葉に、うなずくことができなかった。
「彼、いないみたい」
シェルニティは小さくつぶやいてから、家を出る。
外には、あの日と同じ、アリスがいた。
ホッとして、アリスに駆け寄る。
「アリス、この前と同じ、お願いをするわね」
アリスが、じっとシェルニティを見つめていた。
それから、脚を曲げ、その場に体を伏せる。
「まあ! あなた、すごく賢いわ。私の気持ちをわかってくれているみたい」
アリスが立ったままだと、シェルニティは、アリスに乗ることはできない。
が、伏せた状態のアリスの背は、低い位置にある。
荷物を手に、アリスにまたがってみた。
「初めて、1人で、あなたに乗れたわ」
『それでも、さらに、もう1つ、と考えるくらい、私は欲張りなのさ』
ずきりと胸が痛む。
この先、自分の「初めて」を、彼は、もう受け取ってはくれないのだ。
なにしろ、彼は、王太子とシェルニティの仲立ちをしたのだから。
(いずれ、が来てしまったということよ。わかっていたわ。“ずっと”はないって)
シェルニティは、アリスのたてがみを撫でた。
彼が現れる様子はない。
「いい子ね、アリス。少し遠いのだけれど、私、ブレインバーグの屋敷に帰ろうと思っているの。連れて行ってくれる?」
ぐんっと、視界が高くなる。
アリスが立ち上がったのだ。
首をそらせ、シェルニティを振り返ってくる。
なぜか「本当にいいのか」と、問われている気がした。
「いいの。ここには……もう、いられないみたいだから……」
アリスの首に、ぎゅっと抱き着く。
ひどく胸が苦しかったのだ。
そのシェルニティの頬を、アリスが、ぺろんと舐めた。
感触に、少しだけ笑う。
「大好きよ、アリス。私、あなたには、気に入ってもらえているのね」
アリスは彼の次だ、と、彼は言ったけれど。
(そうだったら良かったわ……でも、違うのでしょう?)
もし、そうであれば、自分を手放そうなどとはしなかったはずだ。
シェルニティは体を起こし、手綱を握った。
なにもしなくても、アリスが歩き出す。
シェルニティに方向はわからないが、アリスはわかっているらしかった。
「頼もしいわ。私の、お気に入り」
アリスの耳が、ぴくぴくっと動く。
夜道に、アリスの蹄の音だけが響いていた。
森の小道を歩いて行く。
「星が、とても綺麗よ」
見上げると、夏の夜空に、多くの小さな星が光っている。
月も出ていたので、その光に隠されて見えない星もあるのだろう。
森の中、しかも、夜なので、外気は涼しく、心地よかった。
「私ね。ここに来るまで、外が暑いってことも、よくわからずにいたの」
シェルニティの住んでいた2つの屋敷には、おかかえ魔術師がいたからか、常に快適な室温が保たれていたのだ。
シェルニティは、部屋から出たことがなかった。
あの日、森に散策に行くまで、庭にすら出ていない。
だから、知らなかったのだ。
「彼、また私の初めてを……手に入れて、いるわ……」
とても気持ちのいい夜だというのに、初めて1人でアリスに乗れたというのに。
なにかが足らないと感じて、胸が締めつけられる。
(きっと……これが、寂しいってことなのだわ……彼が、いないから……)
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
587
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる