妖が潜む街

若城

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3章

9話

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 午後七時。
 赤崎宅でいつも通り、彼女に勉強を教えてもらっている途中で、こう言われた。

「私も、雪霧さんに護ってもらった方がいいと思う」

 それは『鬼蜘蛛丸』の二人組に絡まれた際に、烏丸が放った言葉の一つの答えだった。
 霧本は書き込んだノートから顔を上げ、赤崎の方を見る。その顔は冗談を言っている様には見えず、至極真面目な顔つきだった。

「雪霧さん、強いし、そこらの妖怪には負けないじゃない。鬼蜘蛛丸とか言う変な連中に負けるような事はないんじゃない?」

 それは確かにそう思う。環境さえ整えれば、雪女である彼女が負けるイメージは湧かない。現代と数百年前の時代では、生きてきた内容の濃さが歴然だ。多少の負の状況には動じもしないだろう。妖怪の中でも、圧倒的な力を持った『鬼』以外には。

「僕も、心強いと思うよ。けど、まだ本調子じゃないんだ」

 先月、茨木童子との戦いで雪霧は右腕を粉々に砕かれた。腕自体の再生は出来たが、思うように動かす事が出来ていないようで、リハビリ過程にあった。そんな状態の彼女に、数が定かではない集団を全て任せる事は出来ない。最悪の場合、彼女自身、危機に瀕する可能性すら有り得る。

「だから、このことは言えない……かな」
「でも、烏丸と雪霧さん抜きであんたを護ってくれる妖怪って居るの?」
「えっと……あ、もう七時だ。雪霧さんを迎えに行かないとっ」

 ノートと参考書を鞄に捻じ込むなりそのまま立ち上がると、逃げるように部屋から飛び出す。

「今日もありがとうっ!! また明日っ」
「ちょ、ちょっと……ほんとに気を付けなさいよ。酒呑や天華にも声掛けとくから、遠慮とかするんじゃないのよ」
「う、うん。じゃあね」

 霧本は赤崎宅から出ると、駆け足で佐野商店へと向かった。一〇月も後半に差し掛かった事により、七時も過ぎれば全ての街灯が点き、夜空には月が綺麗に照らし出されている。比較的に過ごしやすい気温にもなり、人によっては上に何かを羽織る必要がある程度だ。
 赤崎宅から佐野商店までは歩いて一五分程度。運動が得意ではない霧本でも、走れば一〇分も掛からず辿り着く事が出来た。佐野商店に辿り着くと、ベンチに座り、アイスクリームを頬張っている雪霧が居た。何の他愛の無い光景ではあるが、それがとても絵になっており、写真に収めたい、絵にしたい者が彼女を見たならば、迷いもなく行動に移しているだろう。

「お疲れ、雪霧さん」
「あぁ、店ももう終わりだ。少し待っててくれないか?」
「うん」

 雪霧は空になったカップをゴミ箱に捨てると、腰を上げ、店の中に入っていく。
 ここ一ヶ月、彼女は冷たいものばかり口にしていた。雪女にとって、冷たい物が力の源となっている為、負傷したりすると、それらを食することによって体の修復の糧にするのだという。茨木童子との戦闘で負った傷は予想以上に重く、一ヶ月以上経った今でも思うように腕が動かない様子だった。その証拠に、立ち上がる時にも右腕を一切動かす事もせず、どこにも触れさせない動作をしていた。

「てんちょう、もう閉められますか?」
「ん、閉めるけど、ちょっと時間掛かるから先に帰っていいよぉ」
「ですが」
「ははっ、そこまでしてくれる必要はないよ。怪我もまだ治ってないみたいだし、ゆっくり休みなよ」
「……ありがとうございます」
「うん、俊哉君、また明日ね」

 そう言われ、霧本は店の中を覗くと、佐野が段ボールを抱え、深々と頭を下げている雪霧に向けて苦笑いを浮かべていた。
 雪霧は顔を上げ、佐野に背を向け、こちらに綺麗な笑みを浮かべさせた。

「では、帰ろう」
「うん。おじさん、ばいばい」

 霧本も佐野に挨拶を交わし、佐野商店を後にした。
 静かな道を歩いている中、霧本は沈黙続いていた空気を打ち壊すために、雪霧に声を掛けた。

「雪霧さん、腕は大丈夫?」
「ん、あぁ、以前よりは動くようになった。だが、まだ完治と言えないな。利き腕ということもあって、不便で仕方ない……」
「そういえば、食べにくそうにしてるもんね」
「だが、母上様達にはそのようなところを見せられないから、さらに大変だ」

 小さく笑い、夜空に浮かぶ月を見上げた。

「涼しくなったな。冬まであっという間だ」
「冬になると、雪霧さんの力ってどうなるの?」
「どうなる……か。一言で言えば、私の世界だ」

 広大な表現過ぎて、いまいちイメージが掴めない。ただ、冬の季節は彼女にとって一番輝ける季節なのだと分かる。現在でも凄まじい力を有しているが、更に力を付けるという事は、冬の季節での彼女に敵う敵がぐっと減るという事だ。大天狗や山姥、茨木童子のような脅威から免れられるのは有り難い。しかし、その分、雪霧の負担が増える。戦国の時代を生きてきた彼女には、安寧の日々を少しでも感じてほしい。茨木童子との戦闘で片腕を粉砕され、ひと月経った今でも思うように動かない日々を過ごしている。

「じゃあ、敵なしってやつだね」
「とは言っても、本来の私は誰かと戦うような生き方をしていないし、そのような妖怪ではない。最近の生活が異常だっただけだ」

 不自由な右手を擦り、眉を顰めさせる。

「まだ痛む?」
「少しな」

 右手を開閉させた後、霧本の頭を撫でる。その動作が少しぎこちなく、彼女の言った通り、完全には治っていないのが分かった。

「無理はしないようにね?」
「あぁ、茨木童子以上の敵がもう居るとは思えん。平和に過ごせる筈だ。俊哉も気を張る必要もない。私もてんちょうに言って――しまった」

 不意に両方の袖に手を入れ、何を漁り始める。一頻り漁った後、肩を落とし、深い溜め息を吐いた。その様子に霧本は首を傾げさせ、落胆する雪霧に再度尋ねた。

「どうしたの?」
「私がしたことが、店に忘れ物をしてしまった」
「忘れ物?」

 佐野商店に何か持って行っていた記憶がなく、手ぶらで出かけていた筈だ。佐野に貰った給料のほぼ全額を梨沙の勉強机の引き出しに大切に保管されているため、忘れ物があるとは思えない。

「何を忘れたの? 一緒に戻る?」
「いや、先に帰ってくれて構わない。それと、帰ってから見せたい物がある」
「見せたい物って?」

 そう問いかけると、彼女は気恥ずかしそうに頬を掻き、視線を彷徨わせた後、小さく笑う。

「内緒だ」
「……そっか」

 あまりにも綺麗な笑みに、霧本は数秒置いた後、頷いた。
「では、先に帰っておいてくれ」

 雪霧は霧本の頭を優しく撫でると、駆け足で佐野商店の方へと去っていた。
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