妖が潜む街

若城

文字の大きさ
上 下
63 / 71
2章

13話

しおりを挟む
 相手は鬼だ。人間など、そこら辺の小動物程度にしか見えていないだろう。つまり、脅威にもならないという事だ。自分が怒りに任せて睨んでも、大した威圧にもならない。それどころか、からかいを助長させてしまう可能性だってある。それでも、怖がって逃げるよりはましだ。

「姉さんに手を出すな」

 無駄な抵抗だと思われていた行為は、予想に反し、女の表情を変えさせた。
 女は不敵な笑みを浮かべていた表情から一変し、曇る。そして、忌々しそうに口を歪ませると、震える声で呟いた。

「あんた……クロバトか……?」

 誰かの名前のようにも聞こえたが、明らかに自分に向けて問いかけてきた。だが、自分はそのような名前ではないし、聞いた事もない。

「クロバ――」

 霧本が名を言う前に、女は彼の襟首を掴み、捩じ上げる。
 女の細い手が霧本の体をまるで、何も入っていない袋のように、意図も容易く宙に浮かせた。
 自分は同年代とは比較的に軽いが、この細い腕で軽々と持ち上げられる事に、驚きを隠せなかった。妖怪の腕力が自身の体に及ぶと、ここまで恐ろしいものなのか。

「あんたの方が危険だねぇ。あたいにも、妖怪にも……」

 襟を捩じられ、思うように息が出来ない。はっきりしていた視界がゆっくりだが、確実にぼやけていく。女の眼は赤崎を完全に見限り、新たな敵を見つけたように、明らかな敵意がそこにあった。

「途絶えてないなら、ここで――」

 女は地面に叩きつけようと、捩じ上げていた手を大きく振り上げる。

「仕留める」

 彼女の視線は目標である地面へと向けられたが、霧本の体を地面と一体化させる事はせず、振り上げた状態で制止した。
 意識が朦朧とする中、死を覚悟した。しかし、女の苛立った舌打ちが聴こえ、殺人行為を何者かによって邪魔されたのを意味していた。
 口から洩れる白く凍った息が宙を彷徨い、行き場を失ったと同時に消え失せる。
 周辺の気温が一桁にまで下がった。それは、この街で唯一の存在がこの場に現れた事を意味していた。

「ゆ、ぎり……さん……」

 何処からか現れた雪霧が、霧本と女の間に割り込む形で、女の振り上げた腕を掴み、関節を凍結させていた。

「やっぱりあんたかい……。道理で小僧からしょぼくさい妖怪の気配がした訳だ」

 片腕を凍らされても痛みに顔を歪めるようなことはせず、怒りによる歪みが女の整った顔を崩していく。

「俊哉に向けた殺意……容赦はしないぞ」
「口先だけだと弱く見えるよ? いや、実際に弱いのかい?」

 女は手首の振りだけで霧本を放り投げるなり、後方へと跳び、雪霧との距離を十分に取った。そして、雪霧越しに満身創痍と化した人間、地面に落ち、悶える霧本と赤崎を見て、笑みを浮かべる。

「人間を護る妖怪なんて、何とも滑稽だねぇ。何の得にもならない事に必死になって……」

「この地で人間を襲う妖怪ほど、目立つものないぞ。身の振り方を考えろ」

 右手を口元に持っていき、白い息を吹きかける。
「俊哉に付いていて良かった。奴に執着しているのなら、狙われるのは沙綾香さんだろう。お前のやっている事はお見通しだ」

 奴、というのはおそらく、酒呑童子の事だろう。しかし、何故。雪霧は女の事を知っているのだろうか。そして、何の前触れもなく、目の前に現れたのが謎だ。人間の肉眼では到底追えない速度で移動する身体能力を有しているのを、山姥との交戦で実感出来た。同じ妖怪ならば、雪霧もその常識はずれな移動も可能なのかもしれない。

「雪霧さん……どうして……」

 顔を歪ませながら、彼女に問いかける。
 雪霧はこちらを振り返らず、返答する。

「先日、やつと会った。酒呑童子の事を追っている時点で嫌な予感がしてな。申し訳ないが、俊哉のそれの内側に札を入れさせてもらった」

 だが、と雪霧は続け、

「頃合いを探すものではなかった……すまない」

 僅かに俯かせた。
 どうやら、赤崎の最悪な状態を見て後悔したようだ。確かに、女が目の前に現れた時点で姿を現せてくれていれば、彼女がこのような状態にはならなかっただろう。しかし、あの人だかりだ。タイミングを計らず、姿を見てしまえば、パニックを起こしかねない。それを懸念して様子を窺っていたのだろう。

「沙綾香さんには、後で土下座をしよう。とにかく、今はここから逃げろ。出来る限り、遠く二だ。奴は私が食い止める」
「はぁ? あんたが鬼であるあたいを止めるって? そりゃ、お笑い種だね」

 女は手を叩き、笑うが、直ぐに彼方へと消え失せた。

「調子に乗るなよ?」
「……早くいけっ!!」

 雪霧の切羽詰った叫びに、霧本は体を振るわせ、項垂れる赤崎を背負うなり路地裏から飛び出した。
 あそこまで焦った雪霧を見たのは、山姥との交戦以来だ。しかし、山姥との戦いに勝利し、退かせる事が出来たのだから、今回も勝ってくれるはずだ、彼女は雪女の中でも、優秀なのだ(彼女しかしらないが)。
 霧本は赤崎を背負いながら、何処へ行くべきか考える。女を雪霧が引き止めてくれているのなら、乗り物に乗る選択が出来る。雪霧が言っていた通り、遠くに逃げるのなら、乗車する選択が最善の策だ。
 路上に身を乗り出す形で手を空に掲げ、大きく振る。すると、近くを走っていたタクシーが霧本の存在に気付き、停車する。霧本は赤崎を先に後部座席に押し込むと、自分も乗り麻績、鞄の中から財布を取り出す。
 財布の中には、千円札二枚と小銭。
 これで何処まで行けるか分からないが、少しでもここから遠く離れなければならない。今月の生活なんてあとから考えよう。

「すみません、二千円で行ける所までお願いします」
「え、それだと――」
「お願いします!」
「あ、あぁ、分かったよ……」

 運転手は渋々従い、車を走らせる。
 霧本はドアに寄りかかり、虚ろな目で外を眺めている赤崎へと目を向ける。
 短い時間で想像を絶す恐怖を二度も体験し、精神的に深刻なダメージを負った。普段の彼女からでは到底想像できないものだ。さいきん、皆生が修復の道を辿り始めていたところなのに、大きな障害が立ちはだかってしまった。

「くそ……」

 すると、先程居た路地裏から何か固い物が弾ける音が響き渡り、体を震わせる。
 後方を振り返ると、コンクリートの破片が路上に散乱し、近くに居た人達がどよめいていた。中には。原因を探ろうと路地裏に入ろうとし、通行人に止められる者も居た。
 雪霧と女の交戦が始まったのだろう。彼女ならきっと勝ってくれるだろう。山姥の時だってそうだ。一時は危機に瀕したものの、自分好みの環境に変えた事によって勝利へと導いてくれた。今回もそのようにして、買ってくれる筈だ。
 今、雪霧だけが出来る事と自分だけが出来る事。それぞれにしか成し得ない事を遂行する事によって、最良の道に辿り着く事が出来る。雪霧も、自分達が遠くへ逃げてくれる事を信じて戦いに赴いてくれたのだ。自分も、彼女が勝ってくれる事を信じて、真っ直ぐ逃げよう。
 霧本は赤崎の冷えた手を握り締め、歯を噛み締めた。
しおりを挟む
1 / 3

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

BUZZER OF YOUTH

青春 / 連載中 24h.ポイント:142pt お気に入り:53

負け組スタート!(転生したけど負け組です。)

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:2

不機嫌な悪役令嬢〜王子は最強の悪役令嬢を溺愛する?〜

恋愛 / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:2,869

八月のツバメ

青春 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

処理中です...