妖が潜む街

若城

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2章

10話

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「てんちょう、この……らむねってもので良いのですか?」
 
雪霧は店の奥の部屋にて、『段ボール』と呼ばれる箱に収納されている飲み物に首を傾げさせていた。

「そうそれ。箱ごとこっちに持ってきてもらっていいかなぁ?」
「これですね。いま、お持ちします」

 そう言い、ラムネの入った箱を両手で持ち、佐野の下へと戻ろうとした時だ。どうやら、一時間ぶりの客が来たのか、彼の軽い挨拶が耳に届いた。

「あ、いらっしゃぁい……おぉ……っ」

 挨拶の後、何かを見て驚愕する声を上げた事に疑問に覚えるが、常連の誰かが土産でも持って来たのだろう。ここで働くようになり、彼の下に何かと御裾分けを持ってくる者も少なくない。それほどに、彼は客との関係を大切にしているのだ。
 だが、直ぐにその予想が外れているのを分かった。
 鬼の気配だ。
 一瞬、酒呑童子のものだと思ったが、彼とは違い、重い。

「てんちょうっ!!」

 雪霧は段ボール箱を抱えたまま、店頭に戻ると、入口へ睨むように目を向ける。そこには、着物を大きくはだけさせた不格好な佇まいをし、そこから大きな胸を覆ったサラシを覗かせていた。
 大きな胸、感嘆。その二つで佐野が何故、声を上げたのか察しがついた。彼も男だ。目の前にサラシのみで隠された胸に目がいてしまったのだろう。自分には大した反応をしていなかったのに(されでも困るが)。

「てんちょう……」
「え、いや、誤解だよっ!? 誤解……うん、誤解……ごめん……」

 こちらを振り返らず訂正してくるも、最終的には謝罪に変わったあたり、女の胸元を見ていたのは正解だったようだ。

「まぁ、そうかっかしなさんな。こんな恰好してるあたいも悪いんだ」

 カカカッ、と笑う女に目を向ける。
 女は引き戸に凭れ掛かり、手に持った煙管を器用に回しながら笑う。相手に威圧感を与えるような、妙に鋭い芽が真っ直ぐ雪霧へと向けられる。そこには、敵意などは存在せず、うまれつきが故に、そういった印象を与えてしまうのかもしれない。
 悪い鬼も居れば、良い鬼も居る。霧本はそう言っていた。
 彼の言葉を信じようと思っているが、それだけは同意しかねる。何故なら、過去の友が鬼によって後遺症を残す程の負わせたのだからだ。

「ここでは、それを吸うのはお止め頂きたいのですが?」
「点けていないけど、紛らわしかったねぇ。失礼」

 女は煙管をサラシの中に仕舞うと、浮かべていた笑みを深める。

「申し訳ないけど、買い物に来たわけじゃないのだ。聞きたいことがあってね」
「何かな? 近所の事とかなら応えられると思うよ」

 鬼という事に気付いていないのか、佐野は彼女の顔から視線を落とさず、不自然に凝視する。そんな彼に、女も口元を押さえ、小さく笑う。

「それは心強いねぇ。けど、あたいが聞きたい事を知っているのは、あんただと思う」

 女は顎でこちらを差し、首を傾げさせる。

「私、ですか?」
「あぁ、あんた、あいつと会っているかい? 何回も」
「……誰と?」

 一度だけ、佐野の方を見て言ったところを見ると、鬼という言葉を敢えて伏せたのが分かった。彼の反応を見る限りを、鬼の気配に気付けないでいるからだろう。女の正体が鬼であると気付いた場合、慌てふためくかもしれない。その状況に陥った時、話が進まなくなるのを、彼女は知っている。

「……いえ、存知――」
「はぐらかすんじゃないよ。あたいにはわかんだかんね」

 間髪入れずに逃げ道を塞いでくる事に、雪霧は段ボールを地面に置き、舌打ちをする。
 鬼と接触しているのを勘付かれているようだ。自分が会った鬼は二体。酒呑童子と山姥である。
 女の容姿を見る限り、山姥を探してここに来た訳ではなさそうだ。もし、それを求めて来たのであれば、母娘という事になる。しかし、親に対して、あいつ呼ばわりするのは考えにくい。
 そうなれば、考えられるのは、酒呑童子しかいない。

「……彼をお探しですか?」
「分かってんじゃないか。何処に居るんだい?」

 住んでいるのは、おそらく赤崎の家だろう。しかし、彼女の家が何処あるのか知らない為、教える事は出来ない。現時点の居場所を求めているのならば、論外だ。知らないし、興味もない。

「存じ上げませんし、どちらにお住みになっているのも……」
「ふぅん……? ほんとだね?」

 女の言葉が一つ、また一つと重なっていく毎に重く感じてくる。酒呑童子と関わりのある妖怪ならば、それなりに名の知れた鬼なのかもしれない。うかつに抜けた返事をしてしまうと、店が破壊されかねない。
 雪霧が最善策を頭の中で練っているのをつゆ知らず、女性に挟まれる立ち位置に居る佐野は、痴情の縺れを目撃しているようで、隠しきれない高揚を浮き立たせ、興味深そうにこちらと女を何度も見合わせていた。
 ――あなたという妖怪はっ!

「ならいいやぁ。じゃあさ、あいつ見かけたら引き留めてくんない? あたいが探してたって」
「承知いたしました」
「あたいの名前……いや、ちょっと待ちな……」

 女は自身のんを告げようとしたが、人差し指を口の前で立てる事で、自らを制止させる。

「あんた、あいつのどういう関係だい? あいつの気配が濃いみたいだけどさ」
「どうという程では。ただの顔見知りです」
「想い人じゃあないんだね?」
「いいえ、有り得ません」

 雪霧は言葉を強め、否定する。
 彼とそのような関係になるなど、有り得ない。考えるだけでも悍ましい。
 強く否定したのに安心したのか、女は目を閉じ、胸を撫で下ろした。その姿は。男性に対して熱い想いを寄せているひとりの女性だった。
 あんなやつの何処に好いているのか理解しかねるが、彼女のみが知る、彼の魅力に惹かれているのだろう。恋をした事はないが、揺れない気持ちを抱き続けるのには敬意を払える。

「ならいいさ。けど――」

 女は一つ息を吐き、瞑っていた目をゆっくりと開いた。
 その瞬間、全身に今まで感じた事のない悪寒が駆け巡る。初めて酒呑童子と出会った時に感じたものは、全く別の感覚だ。それも一度ではなく、何度も。

「あいつに一回でも色目を使ったら、許さないよ?」

 先程とは変わらない眼をしているが、彼女の眼光から来る、形容し難い圧力が雪霧の体を締め付けていく。傷を負ってもいないのに、全身を切り刻まれたような感覚も追加され、悲鳴を上げたくなった。しかし、それすらも許されず、掠れた息遣いだけが口から洩れる。
 雪女なのに、体の芯から凍る悪寒に驚愕すら覚えた。風邪とは縁のない存在である自分が、寒さに体を震わせてしまう。
 刃が首に添えられ、いつ引き裂こうか待ち侘びているようで、体が硬直する。死との隣り合わせの状況に、吐き気すら催し、十分な呼吸が出来ない。
 このような状況、一般の妖怪である佐野が耐えられるとは思えない。
 雪霧は現時点で自分が持つ、精一杯の力を振り絞り、彼の方へ目を向ける。
 視線の先は。雪霧が思っていたとは全くの逆で、先程と何ら変わりなかった。女から発せられる威圧を何も感じていないようだ。この感覚は、自分にだけ浴びせられている、という事だ。

「その顔、了解と受け取っていいんだね?」

 細められる眼が――怖い。
 早く、この感覚から解放されたい。その一心で、雪霧はゆっくりと頷く。
 それに満足したのか、女は満面の笑みを浮かべると、顔の前で手を合わせ、小首を傾げる。

「あんたとは良い友達になれそうだよ。じゃ、また来る。フフッ」

 女は不敵に笑い、踵を返して何処かへと去って行ってしまった。
 女が居なくなった事で、降りかかっていた感覚が嘘のように無くなり、雪霧はその場に跪く。
 発せられたものが無くなったのにも関わらず、体は小刻み震え、吐き気も未だに引かない。佐野がこちらに駆け寄ってきて、話しかけてきているが、彼に反応する余裕も無かった。
 気付かなかったが、汗によって着物が貼り付き、非常に気持ち悪い。いくら、雪女にとって過ごしにくい季節とはいえ、ここまで流す程でもない。自身の汗で出来た水溜りと見ながら、忌々しく舌打ちをする。
 以前、酒呑童子が自分に大した発したものとは、全く違うのは確信した。彼では、一生発する事のないものだ。それも、恋い焦がれる者が同性に向かって、激しく揺れる感情だ。相手に恐怖心を与える程の感情は層々ないだろうが、彼女の場合は驚異的だった。
 嫉妬。
 それが、女が抱いていた感情だ。
 あそこまでくると、最早、狂気。
 鬼だから脅威なのではない。女性である故の脅威が目の前に存在していた。女の嫉妬は怖い、と教わった事があったが、想像を遥かに上回る者が居るとは思わなかった。
 そうなると、酒呑童子に関わった女性が命の危険に晒されかねない。
 赤崎沙綾香。彼女が一番危険だ。現時点で一番、彼と同じ空間を過ごしていると言っても過言ではないだろう。
 今、女の気配は何処にも無い。だが、気配を消しているだけで、何処かでこちらを監視している可能性も捨てきれない。おそらく、女は赤崎の存在に気付いているだろう。人間で鬼の気配を漂わせているのは、自分達妖怪でも異様に感じてしまうのだ。
 奴が赤崎に手を出す前に、事を終わらせないと面倒な事になる。彼女だけではなく、霧本や他の人間にも被害が及んでしまう。奴の事だから、人間への攻撃など、気にもしない。むしろ、傷付けるのに喜びを抱きかねない。

「……止む得ないのなら」

 殺す、という選択肢も考えておかなければならない。
 霧本にどう思われても構わない。人間を護る為にも、心を鬼にする。殺意には殺意で立ちむかなければ、あの嫉妬の鬼には勝つ事が出来ないのだ。
 雪霧は震える唇で、歯を噛み締めた。
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