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42話
しおりを挟む山姥の拳が振り下ろされる速度が余りにも速く、霧本の目には目の前で起きた現象を理解するのに数秒の時間を要した。拳が水面に触れた瞬間、まるで爆発が起きたと思わせる程の音を轟かせ、氷が空中に四散する。月の光に照らされ、ダイヤモンドダストの様に煌めくも、その下に立つ存在は、美しさとは程遠い脅威。残虐性を持った鬼が、不気味な笑みを浮かべて嬉々として笑い声を上げていた。
「ゆ……雪霧さん……雪霧さんっ!!」
彼女が居るべき場所に姿は見えず、霧本は彼女の元へ駆け寄ろうと一歩進んだ。しかし、それを近くに居た一つ目入道に肩を掴まれる事で止められる。彼を睨むようにして振り返ると、彼の表情は険しく歪み、恨めしそうに山姥を睨んでいた。
こちらに気付いた山姥は、曲げていた体を起こし、彼女諸共砕いた事で自由になった手足の冷たさを解すかのようにゆっくり動かしていき、浮かべていた笑みを一層深めさせた。
「さぁ、次は小僧共……貴様らじゃ」
ぎらつかせた瞳から伝わってくる殺気に、霧本は短い唸りを上げる。
「てめぇ、よくも姐さんを――」
火前坊が歯を剥き出しに叫んだが、最後まで喋る事を山姥は拒んだ。
「吠えるな下郎。すぐにあの小娘の後を追わしてやる」
一歩、また一歩と氷を踏み砕いて近づいてくる山姥に、火前坊は全身から火を灯らせていく。それに倣い、一つ目入道も自身の体を大きくさせていき、両手の骨を何度も鳴らす。
臨戦態勢は整った、と言いたいが、果たして彼らに彼女を倒す事は出来るのだろうか。一度、雪霧に負けている。その事実を知っている今、勝利の二文字を思い描く事が、霧本には出来なかった。
不安に駆られていると、一反木綿がコロを腕に抱えながらゆらゆらと近づいてきた。
「がきんちょ、わいらは逃げるで」
「え、そんな……」
「わいらに勝てる要素なんてある訳ないやろ……。少しでも状況変える為に、ここから離れた方が、こいつらの為や」
目だけで一つ目入道と火前坊を見てから、こちらを見据えてくる。その目は、友を止む無く見捨てる選択をした、怒りと悲しみが入り混じった複雑なものだった。そんな目をした彼を拒絶出来る筈もなく、霧本は涙を流し続けるコロを見下ろし、一度だけ頷いた。
「逃がすと思おうたか、小僧?」
下品に笑う山姥の声を聞き、彼女の方を振り返る。
「もう、わっちを止める奴など居らん。大人しく食われた方が幸せじゃぞ」
友達の命を奪った山姥を許せない。しかし、人間である自分ではどう抗おうと『死』という終着点しか見えない。出会ったばかりの妖怪にも、自分のせいで命の危機に陥っている。それに加え、逃げる手段もほぼ零に近い。どこに逃げようとも、彼女の足には叶わないだろう。
何処にでもいる、むしろ普通よりも地味な存在である自分が不甲斐無い。何から何まで守られ、自分のせいで友達が傷付けられていく。
(僕は役に立たない……)
人間である無力さに怒りを覚え、両手を握り締めて涙を浮かべさせる。
妖怪と友達でありたいと思ったから、この様な状況を引き寄せてしまった。
「ごめんね……」
「がきんちょ、はよう乗れっ。殺されるって!」
一反木綿は霧本の手を引き、無理矢理背中に乗せる。
「僕は、絶対に許さないよ……山姥」
霧本は山姥を睨みつけるが、彼女はわざとらしく肩を竦ませ、あしらうように鼻で笑った。
「どの口がほざく。人間に何が出来る」
そう言い、小さく体を屈ませると氷の上を蹴った。
と、思われたが、彼女の体は一切前に進まず、その場で両膝を着く事となった。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。しかし、山姥の足を、目を凝らして見ると、彼女の足を覆う形で氷が張り付いていたのだ。
「な……に……?」
山姥が張り付く足を引き剥がすものの、氷は獲物を逃がさず、生き物の様にして彼女の足を再び固まらせる。
「なんじゃ、これは……っ!?」
戸惑いを隠せずにいる彼女の前に、一つの突風が起きた。それは霧本の所まで及び、霧本はその冷たい風を、顔を覆う事で防いだ。
『泣くな、馬鹿者』
耳元で、雪霧の声が聴こえた。
「雪霧さんっ!?」
覆っていた腕を外し、辺りを見渡した。傍には彼女の姿は見当たらなかったが、冷たい風が止んだ時、膝を着いている山姥の後ろに女性の姿があった。
「あ、あ、姐さんだ……」
一つ目入道が呆然とした様子で、彼女を呼んだ。
やはり、あの女性は雪霧だ。
雪霧は跪いている山姥を見下ろし、長い後ろ髪を掻き上げた。その際、彼女の髪からは細かく散らばった氷が月夜に照らされ、輝く。その輝きに、霧本達は思わず見惚れてしまい、『やべぇ……』、『どないなってんねん……』などと口々に間の抜けた声を上げる。
「貴様、どこから……っ」
下半身が完全に動きを止められてしまった為、上半身だけで殴りかかろうと腰を回す。しかし、手さえも張り付いてしまい、四つん這いの状態から身動きが取れなくなっていた。
「言っただろう、合う環境に変えたと。ここまでくれば、私の領域だ。何でもできる。例えば――」
再び、冷たい風を辺りに吹き荒れさせた後、雪霧は姿を消す。そして、山姥の目の前に、膝を折った状態で再び姿を現した。
「こういった様にな?」
「あの時も、そうして……」
「己の力を過信し過ぎたな」
山姥の額を突いた後、立ち上がり、こちらを振り返る。
「終わったぞ」
意気揚々とした様子で歩み寄ってくる彼女に、霧本は目を丸くさせた。
勝敗は決している様には見える。しかし、鬼に簡単に背を向けて良い状況ではない筈だ。言いたくはないが、再び氷を砕いて襲い掛かってくるのではないのか。
霧本の意図を察していたのか、雪霧は微笑みかけてくると、目の前で立ち止まって優しく頭を撫でてきた。
「心配するな」
「雪女如きが……わっちに背を向けるなど……」
山姥が体を動かし、氷を砕き始める。それを見て、霧本は雪霧の肩を慌てて叩き、状況を知らせようとした次の瞬間、それも失せる事となった。
雪霧が突いた額から、ゆっくりと凍り始めていくのだ。山姥はその進行を止めようともがくのだが、両手足の自由を奪われた状態ではどうすることも出来ず、声にならない怒号を上げる。
「山姥、お前は私を雪女如きと言ったな? その雪女如きに負ける気持ちはどうだ?」
雪霧は振り返る事もせず、優しさを含めた笑みから嘲るものへと変える。一方で、山姥は『殺してやる……雪女があああああああああああああああああっ!!』と、凍っていく中、絶叫する。
「言ってやろう、雪女を舐めるなよ? 山姥如きが」
それ以降、山姥の絶叫は聞こえてくる事はなかった。ただ、冷たい空気が霧本達の肌を刺激するだけで、髪を靡かせた美しい彼女が目の前で立っている光景以外に、目に入らなかった。
漸く回避出来た脅威に全身の力が抜けてしまい、霧本はその場に座り込んで安堵に深く息を吐いた。
「はあぁぁ……良かった」
「すまない、体を元に戻すのが少し遅れてしまってな」
「いいよ、雪霧さんが無事で良かったよ」
ところで、と氷漬けとなった山姥に向け、首を傾げさせる。
「あれ、どうするの?」
「そのまま放っておいても、また襲ってくるだろう。砕くという方法はあるのだが……」
言いながらこちらに視線を向けると、少し困った表情を浮かべる。
「それは嫌だろう? 敵味方関係なく、殺しは」
勿論だ。たとえ、山姥が自分達に対して、どんな事をしたとしても、命を奪うような事はしたくない。それ以上に、雪霧にそのような行為をして欲しくない。彼女には、この時代で真っ当に生きてほしい。自分の手を血に染めるような生活は断じて許さない。
「うん、絶対駄目だよ」
「あぁ、しないさ。だが、それならばどうしたものか。一反木綿、どこか遠くに捨ててきてくれないか? 勿論、報酬は弾むぞ」
雪霧が一反木綿の方を振り向き、交渉に出るが、彼は山姥を見るなり心底嫌そうに、目を細めさせた。
「その間に溶けたらどうすんねんって話ですわ」
「頼みは聞いてくれないなら、命令はどうだ?」
「理不尽やろ、それはっ!?」
「なら、どっちがいい?」
「いや、だから――」
出口の見つからない口論が延々と繰り返され、霧本はその光景をほぼ無心で眺めていた。あの様子だと、一反木綿が折れない限り、終焉を迎える事はないだろう。それを他の妖怪も理解出来ているようで、憐みの視線を一反木綿へと向けられる。
そんな中、妖怪の内の一体、一つ目入道が何かに気付き、大きな目を細めさせ、何かに向けて指差した。
「なんだぁ、あれ?」
「ん?」
霧本は一つ目入道が差す方を向き、同じように目を細めさせる。
綺麗な円を描く月の少し下。小さく黒い点がゆっくりこちらに向かっているのが見えた。一瞬、鳥か何かが飛来してきていると思ったのだが、翼を羽ばたかせている様子もなく、どこか不自然だ。
生き物じゃない。
その謎の『何か』を観察すること十数秒。『何か』が次第に大きくなっていく。
月夜に照らされたいくつもの鉄屑が輝く中、迫りくる巨大な物体。一部が大きくへこんだ、何度も見たことのある物体。近くを通る度に、他の物より一際存在感がある物体。一度ぶつかれば、対象物は凄まじい形に変形させてしまう物体。
「トラックじゃね?」
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