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36話
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高い建物が少なっていくのと同時に、見慣れた風景が視界に広がっていく。見慣れたものが一つでも見えると、薄ら抱く不安も解れていくのを感じ、再び安堵の息を吐けた。
未だに老婆の気配を感じず、あの突風によって相当な距離を飛ばされてしまったのだろう。だが、今の自分にとって、それが一番有難い。人間である霧本が傍に居る現状では、勝算が皆無だ。
勝機の有無。それは、霧本の存在と今の季節が大きい。
自分が吐く冷気によって、霧本が死んでしまいかねないのが大きく、二つ目の原因である、夏。凍らせたものを嘲笑うが如く溶かしてしまう、冷気を操る妖怪とって天敵とも呼べる存在。それに加え、現代では気温の高さが目立ち、凍らしたものを一層消し去る速度を速めてしまっており、歯痒い。自分の有利な環境を作るのは出来る。単純に、周りの気温を落とせばいいからだ。しかし、それをしてしまえば、周囲に居る人間や動物が一瞬にして凍りついてしまう。人口が多くなり、人が居ない空間が圧倒的に少なくなった現在では、その行為も出来ない。
――俊哉を家に帰すか? そう考えたが、老婆に彼の居場所を突き止められた時の事を考えると、安易に離れる事が出来ない。そうなると、自分の優位に立てる環境に少しでも近づけられる場所に向かうしかない。
「うー……」
霧本の胸ポケットの中で、コロが不安気な声を上げる。彼女を見下ろすと、体を僅かに震えさせ、こちらを見上げてきていた。そんな彼女に、雪霧は上手く笑えているか分からない笑みを見せ、安心させるように努める。
「大丈夫だ。もう少しだけ、辛抱してくれ」
勝ち目が薄いと言ってしまっている以上、気の強い発言出来ない。それを言ってしまうと、虚栄だと確信され、より一層不安を抱かせてしまう可能性があるからだ。
とうとう、霧本の家を過ぎ、この先は殆ど知らない道となる。細かな彼の指示に従い、地道な方向の調整を行いながら、橋のある川へと向かう。家から家へと飛び移っていく中、雪霧の視界に橋が小さく見えてきた。おそらく、彼が言っていたものなのだろう。
「見えた。あそこだな?」
「そうだよ。もうすこ――」
彼の安堵した声が耳に届いたと思った、その時だ。
右脹脛に何かが抉っていき、激痛が走った。
「ぐあああああっ!?」
鮮血が舞い、着ていた白と薄い青で彩られた着物に濃い赤色が浸食していく。その光景を見た霧本から小さな悲鳴が聴こえてきた気がしたが、激痛に気に留めてもいられなかった。
反射的に傷を庇ってしまう事で体勢を崩してしまい、進行方向が大きくずれる。そして、次に着地するつもりであった家の屋根に体を強く叩きつけ、そのまま道路に投げ出されるようにして落ちた。その際に、抱きかかえていた霧本が腕から離れ、同じように地面を転がっていく。
「いった……」
痛みに唸る霧本が肩を押さえながら上半身を起こし、胸ポケットで目を回すコロの安否を確認する。彼女も、軽く目を回しただけで怪我は無く、撫でられる彼の手を擦って無事であると表現した。
「ゆ、雪霧さんっ! 大丈夫っ!?」
安否を確認してくる彼に、軽く手を振って見せる。しかし、実際のところは激痛に立ち上がる事さえ躊躇ってしまう。妖怪とはいえ、頬の傷以外の大怪我とは無縁な生活を送ってきた自分にとって、思考を大幅に奪ってしまう程の痛みだ。
雪霧は出血する脹脛に目を向けると、血で正確な規模は分からないが、一部の肉が無くなっているのが辛うじて認識できた。
傷が残るかもな、と今はどうでもいい悩みが一瞬だけ頭をよぎる。
軽く舌打ちした後、傷口に手を当てると出血を止める為に凍らしていく。脈打つ感覚が徐々に和らいでいくと同時に、先程よりは痛みが薄らいでいく。だが、それは気休め程度で、すこしでも動かせば太い針を突き刺される痛みに顔を歪ませる。
「ほうほう、雪女も血は赤いんか。てっきり透明だと思ったわ」
聞きたくもない声が背後から聞こえ、雪霧と霧本は声のする方向を振り返る。視線の先には、老婆がコンクリートの破片をお手玉の様に上空へ投げて遊びながら、歩いてくるのが見えた。
「お前……か……」
手だけで後退りながら老婆を睨みつけた。
「わっちから逃げるなど、百年早いわ。どこまでも追って喰らってやる」
目を細めた彼女は、舌なめずりして霧本の事を見据える。それに対し、雪霧は彼を庇う様に手を横に伸ばし、少しでも距離を取らせる為に後ろへと共に追いやっていく。
この状況は非常に不味い。この足では、碌に走ることも出来ない。先程の謎の妖怪による助けも見込めない今、下す手段が限りなく零に近いものとなってしまっている。
――自分が喰われてでも、俊哉を護る。数回深呼吸した後、おぼつかない動きで立ち上がり、精神を研ぎ澄ませていく。そして、後ろを振り返ることはせず、彼に告げる。
「俊哉、私が合図したら全力で走れ。いいな?」
未だに老婆の気配を感じず、あの突風によって相当な距離を飛ばされてしまったのだろう。だが、今の自分にとって、それが一番有難い。人間である霧本が傍に居る現状では、勝算が皆無だ。
勝機の有無。それは、霧本の存在と今の季節が大きい。
自分が吐く冷気によって、霧本が死んでしまいかねないのが大きく、二つ目の原因である、夏。凍らせたものを嘲笑うが如く溶かしてしまう、冷気を操る妖怪とって天敵とも呼べる存在。それに加え、現代では気温の高さが目立ち、凍らしたものを一層消し去る速度を速めてしまっており、歯痒い。自分の有利な環境を作るのは出来る。単純に、周りの気温を落とせばいいからだ。しかし、それをしてしまえば、周囲に居る人間や動物が一瞬にして凍りついてしまう。人口が多くなり、人が居ない空間が圧倒的に少なくなった現在では、その行為も出来ない。
――俊哉を家に帰すか? そう考えたが、老婆に彼の居場所を突き止められた時の事を考えると、安易に離れる事が出来ない。そうなると、自分の優位に立てる環境に少しでも近づけられる場所に向かうしかない。
「うー……」
霧本の胸ポケットの中で、コロが不安気な声を上げる。彼女を見下ろすと、体を僅かに震えさせ、こちらを見上げてきていた。そんな彼女に、雪霧は上手く笑えているか分からない笑みを見せ、安心させるように努める。
「大丈夫だ。もう少しだけ、辛抱してくれ」
勝ち目が薄いと言ってしまっている以上、気の強い発言出来ない。それを言ってしまうと、虚栄だと確信され、より一層不安を抱かせてしまう可能性があるからだ。
とうとう、霧本の家を過ぎ、この先は殆ど知らない道となる。細かな彼の指示に従い、地道な方向の調整を行いながら、橋のある川へと向かう。家から家へと飛び移っていく中、雪霧の視界に橋が小さく見えてきた。おそらく、彼が言っていたものなのだろう。
「見えた。あそこだな?」
「そうだよ。もうすこ――」
彼の安堵した声が耳に届いたと思った、その時だ。
右脹脛に何かが抉っていき、激痛が走った。
「ぐあああああっ!?」
鮮血が舞い、着ていた白と薄い青で彩られた着物に濃い赤色が浸食していく。その光景を見た霧本から小さな悲鳴が聴こえてきた気がしたが、激痛に気に留めてもいられなかった。
反射的に傷を庇ってしまう事で体勢を崩してしまい、進行方向が大きくずれる。そして、次に着地するつもりであった家の屋根に体を強く叩きつけ、そのまま道路に投げ出されるようにして落ちた。その際に、抱きかかえていた霧本が腕から離れ、同じように地面を転がっていく。
「いった……」
痛みに唸る霧本が肩を押さえながら上半身を起こし、胸ポケットで目を回すコロの安否を確認する。彼女も、軽く目を回しただけで怪我は無く、撫でられる彼の手を擦って無事であると表現した。
「ゆ、雪霧さんっ! 大丈夫っ!?」
安否を確認してくる彼に、軽く手を振って見せる。しかし、実際のところは激痛に立ち上がる事さえ躊躇ってしまう。妖怪とはいえ、頬の傷以外の大怪我とは無縁な生活を送ってきた自分にとって、思考を大幅に奪ってしまう程の痛みだ。
雪霧は出血する脹脛に目を向けると、血で正確な規模は分からないが、一部の肉が無くなっているのが辛うじて認識できた。
傷が残るかもな、と今はどうでもいい悩みが一瞬だけ頭をよぎる。
軽く舌打ちした後、傷口に手を当てると出血を止める為に凍らしていく。脈打つ感覚が徐々に和らいでいくと同時に、先程よりは痛みが薄らいでいく。だが、それは気休め程度で、すこしでも動かせば太い針を突き刺される痛みに顔を歪ませる。
「ほうほう、雪女も血は赤いんか。てっきり透明だと思ったわ」
聞きたくもない声が背後から聞こえ、雪霧と霧本は声のする方向を振り返る。視線の先には、老婆がコンクリートの破片をお手玉の様に上空へ投げて遊びながら、歩いてくるのが見えた。
「お前……か……」
手だけで後退りながら老婆を睨みつけた。
「わっちから逃げるなど、百年早いわ。どこまでも追って喰らってやる」
目を細めた彼女は、舌なめずりして霧本の事を見据える。それに対し、雪霧は彼を庇う様に手を横に伸ばし、少しでも距離を取らせる為に後ろへと共に追いやっていく。
この状況は非常に不味い。この足では、碌に走ることも出来ない。先程の謎の妖怪による助けも見込めない今、下す手段が限りなく零に近いものとなってしまっている。
――自分が喰われてでも、俊哉を護る。数回深呼吸した後、おぼつかない動きで立ち上がり、精神を研ぎ澄ませていく。そして、後ろを振り返ることはせず、彼に告げる。
「俊哉、私が合図したら全力で走れ。いいな?」
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