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25話
しおりを挟む「はぁ……はぁ……、ここまで来りゃあ……」
ある場所の橋の下、盛岡政治は汗に塗れた顔を、衣服で適当に拭い、笑みを浮かべさせる。
彼の手に握られているのは、一つの掛け軸だ。綺麗に丸める暇もなかったため、丸め方が少々荒々しく、所々皺が出来ている。価値はいくらか下がったとしても、それなりの金額になるのであれば、それだけで自分にとって得となる。
この掛け軸は盗品である。自分の住むアパートから少し離れた場所にある、脂ぎった巨漢の実業家が所有していた物だ。特に深く関わった事はなかったが、誰かが彼と顔を合わせる度、自分が所有する、希少価値のある物を自慢してくるどうしようもない男だった。実際、盛岡も彼による生産性のない自慢話を聞かされ、殺意すら覚えた。適当に相槌を打っていた時、『お前にあの価値が分からないだろうなぁ』などと言われたので、『だったら、見せてくださいよ』と間髪入れずに切り返してみるも、拒否されしまった。
『お前みたいな小汚いフリーターに見せられるか、汚れる』
その言葉に盛岡の煮えくり返っていた腸が爆発した。
そこまで言うのであれば、お前の手から心底大事にしている物を奪ってやろう。その醜い顔を一層歪め、絶望の淵に突き落としてやる。
盛岡は彼が外出した隙に、無駄に大きく建てられた家の中へと忍び込んだ。その際、裏庭に設置された窓の一部にガムテープを貼り、肘で叩き割った。そして、割った穴から鍵を開け、中に入り、手当たり次第、部屋を荒らした。いくつかの部屋を開けた時、それはあった。
一見、普通の掛け軸だった。縦三メートルに及ぶ掛け軸に、大きな天狗と所々擦り切れた着物を着、手には刃毀れした包丁が握る老婆。額に角を生やした鬼。
気味の悪い掛け軸がいくつか存在するのは盛岡も知っている。しかし、この掛け軸はどこか異様な雰囲気を醸し出させていた。手を出してはいけない物だと、本能が叫んでいたが、彼の歪んだ顔を見るためにはやらなくてはならない。叫ぶ本能を押し込め、掛け軸を手に、侵入した窓から出た。
そこからは一心不乱に走った。傍から見れば、気が動転した不審人物だっただろう。すれ違う人は決まって、怪訝な面持ちで見送っていくのを背中で感じた。
そして、現在に至る。
「くっそ……」
走った事による汗と緊張による汗が留まる事を知らずに流、衣服を濡らしていく。べとつく汗に忌々しく舌打ちしながら、ズボンに擦りつけていく。
「掛け軸まで……っ。ふざけんなよ……」
手汗によって掛け軸が湿りはじめ、慌てて広げる。案の定、一部が汗に濡れ、描いた人物のサインらしき印が滲んでいた。著名人の物であれば、これだけでこの掛け軸の価値は一気に下がってしまう。よれても絵自体が無事なら価値はあると思ったのだが、全てが水の泡となってしまった。
「ちっ……まぁ、あの豚が惨めになればそれでいいか……」
盛岡はため息を吐き、他の絵が滲んでいないか模様から視線を外す。
そこで気付いた。
掛け軸に描かれていた三体の化け物の絵が無くなっていた。最初からそこに存在していなかったように、滲み一つない黄ばんだ掛け軸のみ。
「んだよこれ……っ。――ぐっ」
突如、頭上から途轍もない重圧を感じた。まるで数十キロの重りが肩に圧し掛かっているかのような、そんな感覚だ。一度、見上げたが最後。この腐りきった命はどこかへと消え去ってしまうのではないのかと考えてしまう。
暑さとは違う汗を額から流れ、呼吸も荒くなっていく。
死ぬ。
「ひぇっひぇっひぇっ……無様だなぁ、人間」
「こやつが儂らを……。気に食わんな」
「まぁ、出られたから良しとしようじゃねぇか」
しゃがれた老婆の笑いの含まれた声と太く威圧的な声、若く威勢の良い声の三つが降ってくる。声だけ聴けば、自分と同じ人の声だ。しかし、今まで感じた事が無かった謎の圧力が、人間には出来ない異質な存在であるというのを証明した。
「何も喋らんのう。気を失ったか?」
「いや、起きてるみたいだぞ。ただ、怖がってる」
若い声が『クククッ』と喉を鳴らし、盛岡の傍へ降り立つ音が聞こえた。
「おいおい、そこまで怯える事はないだろうに。怖くないぞ」
男性は盛岡の肩に腕を回し、親しげに話しかけてくる。
何を馬鹿な事を言っているのだ。そんな態度を取っているのにも関わらず、途轍もない圧力を与えてきている。一つおかしな真似をしようものなら、殺しにかかってくるだろう。
「お前ら……なにもんだ……」
震える声で問いかけ、恐る恐る肩を組んできた男性の方へ目を向ける。
「人間とは違うが、大体似てる。ほら、後ろのやつらはオレ達の同士だ」
鬼が舌を鳴らし、空を見上げるよう促してくる。盛岡は彼の言われた通り、上空を見上げ、そして、絶句した。
この二五年間生きてきて、これほどまでに体を震えた事が無かった。これは現実なのだろうか。目の前には軽く二メートルを超える大柄な男とコンクリートの壁に四つん這いで貼り付き、笑みを浮かべる老婆がこちらを見下ろしていた。
老婆の方は分からないが、男の方は分かる。天狗だ。テレビでも本でもよく見かける、赤い顔に長い鼻。腰には自分よりも一・五倍はあるであろう大きな刀が携えられ、真剣から来る凄まじい威圧感を覚えた。
大天狗。天狗の中で、頂点に立つ大妖怪である。その力は仏教に対して多大な影響をもたらし、国家を揺るがしてしまう程だとされている。また天狗らが扱う神通力も随一のものであり、大天狗に敵う者は皆無である。
山姥。別名、鬼婆、鬼女。山に住み、登ってくる人間、または牛や馬なども食らっていたとされている。山を駆けるとなれば、逃げられる者は居らず、殆ど場合、食べられる運命を田戸事となっている。先住民の末裔や、山の神に仕える巫女が妖怪となったなどの誕生説も述べられているがどれが真実なのかは定かではない。昔話、金太郎の母として登場している。
「よ、妖怪なんて居る訳ねぇ……。あんなの、妄想――」
「居るからお前の目の前に居る。そうだろう?」
鬼がそう言うと、大天狗は長い鼻を鳴らす。
「人間はやはり愚かだ。信じたくないものを目の前にしても、逸らそうとする。だから死んでゆくのだ。儂らは幻想ではない」
彼は羽ばたかせていた翼を畳み、盛岡の前に降り立ち、大きな腕を組んだ。
「これが現実だ」
「まぁまぁ、落ち着けって。せっかく外に出れたんだ。喜ぼう」
鬼は大天狗の太ももを笑いながら叩くと、鋭く尖った歯をこちらに見せ、再び舌を鳴らした。
「人間、オレ達を解放した褒美だ。願いを大体叶えてやる。何でもいい。腹立つ奴を殺しても、何か奪ってもいい。鬼や天狗の特権だからな」
大袈裟に両手を広げさせ、『クククッ』と喉を鳴らす。その光景が冗談の様には見えなかった。腹の底から絶えず湧き出ているような絶対的な自身。それは傍にいる大天狗や山姥からも伝わってきた。彼らがあの掛け軸の中に入れられた期間は、少なくとも二〇〇年。その鬱憤を晴らす事が出来る、邪魔をする者が居ない解放感から来るものだろう。まるで、おもちゃを与えられた子供の様な、無邪気な目をしていた。
願いを叶えてやる
「本当なんだな? 俺の願いを叶えるってのは」
「あぁ、なんだ」
この手に掴めずにいたもの。
「金だ。金を持ってこい」
普通の人間が一生働いても手に入れる事が出来ない程の金だ。この言葉を聞いた者は、卑しい人間だと軽蔑するだろう。しかし、そんなものはどうでもいい。金さえあれば、そんな事をほざく人間を黙らせることが出来る。
「金、か。どれくらいだ? 一〇〇〇両くらいか」
両の単位を言われても、現代通貨でないものには興味などない。
「知るか、五億だ」
盛岡は開いた手を妖怪達に見せ、口元を歪ませる。
「どんなものかはそこらの人間から見て奪ってこい。俺の言う事は聞くんだよな? そんくらい――」
「そんなもんでいいんだな?」
鬼が彼の言葉を遮り、拍子抜けと言わんばかりに鼻を鳴らす。
「そんなもんって五億だぞ……? そこらの人間じゃ一生かかっても稼げねぇ額だぞ」
「金がどんなもんなのかは妖怪にとってどうでもいい。欲しければ、奪えばいいんだからな」
彼は笑みを浮かべ、鋭く尖った歯を覗かせた。
「じゃあ、連れて行けよ。金の場所をよ」
そこまでするのか、妖怪という存在は。
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