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17話
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「おぉ……ここがでぱぁとという所か」
珍しい物を見た子供の様な反応をする雪霧に、霧本は思わず目を逸らした。
霧本と雪霧が訪れたのは家から少し離れた場所に位置する大型デパートだ。休日ということもあって、多くの人が各店に訪れ、目当てである商品を次々とレジかごに放り込んでいく光景があちらこちらで見受けられる。
「雪霧さん、僕達が行く場所は上の階だよ」
霧本達がここに訪れた理由は母からのおつかいだ。母は他に用事があるということで、買ってくる物を記したメモを一方的に渡してきては、『雪霧ちゃんの案内ついでにお願い』という完全な押し付けを申しつけられた。
別に彼女と何処かへ出かけるのは苦ではないが、折角の休日を家で過ごしたいという気持ちは、無くはない。家で彼女から当時の話や他の妖怪について聞くのも有意義な過ごし方だと思う。
「あ、あぁすまない。しかし、本当に大きいな……市場みたいだ」
確かに一階フロアは主に業務スーパーとなっており、野菜や肉類などが何種類も羅列されている。彼女から見れば大規模な市場だというのは強ち間違っていないだろう。
「まぁ近いと思うけど、ここにはまた後で来るからさ。先に上に行こう」
「あぁ。……なんだこれは……っ!?」
雪霧が霧本の向かう先を見やって驚愕の声を洩らす。あまりの驚愕ぶりと美貌も相まって、周囲の視線を必然的に集めてしまい、霧本にとって気恥ずかしい場と化してしまう。
雪霧が驚愕したものは、エスカレーター。自動で上の階へと上昇していく機械は、彼女にとって到底信じられないものだった。呆然と開かれた小さな口はわなわなと震え、恐怖心すら抱いている様子だった。
「勝手に動いている……何なのだ、この奇怪な物は……」
同じ『きかい』でも、全く意味の異なる言葉だ。
「え、エスカレーターっていうんだよ。歩かないで上に上がれる便利なものなんだ」
「えすかれたぁ、だと……このような物を作る人間、恐るべし……」
一つ一つの反応が逆に霧本を驚かせる。数百年封印され、時代の移り変わりを見届けられていないのだから、仕方のないことだ。浦島太郎もこんな様子だったのだろうか。
「ほら、乗って雪霧さん」
霧本は先にエスカレーターに乗り、雪霧を振り返る。しかし、彼女は乗るタイミングが掴めないのか、中々乗ろうとしない。そんな雪霧を不思議そうに見る人が次々とエスカレーターに乗っていき、複数で来た人は『なんだろあの人』等の笑いを含めた会話をしていた。
しまった、一人で乗るのはさすがに無理があったか。
逆走するのは他の人の迷惑となるので、一度昇り切ってから下りのエスカレーターに乗り込む。再び一階に下りると、次々と昇っていく人の様子を窺う雪霧の肩を叩き、小さく頭を下げる。
「ごめん、気が利かなくて……」
「待ってくれと言わなかった私も悪いんだ。気にしないでくれ」
苦笑する雪霧だったが、乗れない事が無念だったのか、目を細めてエスカレーターの方を見つめる。
「階段あるからそっち行く?」
「いや、えすかれたぁに乗る。このまま引き下がるのは癪だ。だが――」
雪霧は恥ずかしそうにこちらに手を差し伸べ、口を歪ませる。
「一緒に乗ってくれ」
「……うん、もちろん」
一瞬、返答するのが遅れてしまった。見かけに寄らず負けず嫌いなのだと、一緒に過ごし初めて一週間経ってようやく気付いた。冷静を装ってみたものの初めての事に少なからずの気おくれがあったのが、彼女の表情から理解出来る。
可愛いな。
決して、この言葉を口には出来ない。しようものなら、あまりの恥ずかしさに顔面から自然発火を起こしてしまうだろう。
霧本は雪霧の雪女特有のひんやりとした細く小さな手を握り、エスカレーターの一段に一歩踏み出す。それに倣って、彼女も跳ぶ形で霧本と同じ段に乗る。無事にエスカレーターに乗る事が出来た自身の足元を見降ろし、安堵の息を洩らした。
「の、乗れた」
「おめでとう。手、離すね」
「待て、降りる時も頼む」
握る力を緩めようとしたところを、彼女が握り締める事でそれも叶わなかった。一瞬だけなら特に恥ずかしい事はなかったのだが、降りるまでの一〇秒程度が人生の中で一番緊張するものへと変貌を遂げる事となった。
エスカレーターが頂上に差し掛かり、彼女の握り締める力が強くなる。
「いち、にのさんでいくよ。いち、にの――」
「さんっ」
最後の三を雪霧が言い、同時にエスカレーターから跳んだ。何とか降りる事が出来た雪霧は、二度目の安堵の息を吐き、こちらに視線を向けてくる。
「ありがとう、助かった」
別に礼を言われるような事はしていないのだが、感謝されるのは気持ちのいいものだ。素直に受け取っておいた方がいいだろう。
「どういたしまして。大丈夫?」
「あぁ。少し、心の臓が早くなっているくらいだ」
自分の胸に手を当て、落ち着かせるように何度も上下に擦る動作を行う。着物で彼女の胸の大きさは正確には判断出来ず、少なくとも大きい部類には入らない。逆に大きいと目のやり場に困ってまとも会話出来ないかもしれない。
思春期とはそういうものだ。
霧本は自分の太ももを抓り、頭を大きく振るう。そして、母から渡されたメモを財布から取り出し、どのような物を買ってくるのか確認する。
「えっと……コップ、お茶碗、お箸――雪霧さんのやつか」
「金は後日ちゃんと返――」
「そういうのはいらないからね。雪霧さんはもう僕らの家族なんだから、その点は心配しなくていいよ。初めてならなおさら」
「しかし……」
申し訳なさそうに眉を顰める雪霧が、何か続けようとするも、その薄い唇を閉じる。
「今日はお金の事は気にしないで。楽しく買い物をしよう」
「あ、あぁそうだな。良い所へ連れて行ってくれ」
「努力します、行こう」
その後、百均へと赴き、雪霧の食器を必要以上に購入していく。理由としては、猫や犬などのキャラクターがプリントされたものが雪霧の目に次々と止まっていったからだ。これも可愛い、あれも可愛いと困惑してしまう始末だったため、必要分+αで買ってあげた。母からは必要最低限の金銭しか渡されていないため、プラス分は自費となる。
(まぁ、嬉しい顔してるならいっか)
彼女の笑顔は金銭ではどうにか出来るようなものではない価値があるものだ。
購入した食器が入った袋を手に、霧本達が次に訪れたのは一件のレストランだ。そこは和食、洋食両方の料理が提供されており、値段も手頃で客からの評判もそこそこ良い。以前、母と来た時に食べたが、美味しかったため、是非とも雪霧にも食べてもらいたいと思って来たのだ。
「どれも美味しそうだな」
雪霧は店員から渡されたメニューを開いて、載っている料理をまじまじと見つめていた。
「うん、ここ美味しいから連れてきたんだ。好きなの選んで」
「あぁ。どれにしようか……。あ、これは何だ? 読めない」
「ん、あぁオムライスだよ」
カタカナに触れる機会が少なかった故に、オムライスを読むことが出来なかったようだ。
彼女は『おむらいす、おむらいすか』、と認識するために念仏のように何度も呟く。
「では、私はこれにしよう」
「うん。じゃあ、僕はスパゲッティにしよっかな」
霧本はテーブルに置いている呼鈴のスイッチを押す。スイッチから軽い音が鳴り、それに驚いたのか、雪霧が目を僅かに見開かせては体を震えさせた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
呼鈴を鳴らしてから一〇秒経つかどうかのタイミングで可愛らしいデザインが施されたウェイトレスが小走りで駆け寄ってきた。
「おぉ、これで呼べるとは便利だな」
興味深そうに呼鈴をまじまじと見つめる雪霧に対して、ウェイトレスは苦笑いする。
霧本は彼女につられて苦笑いすると、気を取り直してメニューを指差す。
「えっと、スパゲッティとオムライスお願いします」
「あ、はい。ご一緒にドリンクバーでも」
「んー、今回はいいです。ありがとうございます」
「いえ、ではご注文を繰り返させていただきます」
ウェイトレスが注文を繰り返した後、『しばらくお待ちくださいませ』と言い残して厨房の方へと去っていく。そんな彼女の後姿を見送っていた雪霧が、こちらに視線を戻すと、小首を傾げさせる。
「どりんくばぁとは何だ?」
「いくらか払えばジュースが一杯飲めるやつだよ。雪霧さん、飲みたかった?」
「あの色の付いた飲み物か。美味しいのだが、あの口の中ではじけるものは無理だ」
はじけるものいうのは、炭酸飲料の事だ。先日、冷蔵庫にあった炭酸飲料を勧め、飲んでくれたのは良いものの、彼女の綺麗な顔が凄まじく歪んでしまい、衝撃を受けた。
「一応、炭酸じゃない物もあるから気が向いたら言ってね」
「あぁ、ありがとう」
それからは注文した料理が運んで来てくれるまで他愛のない雑談をした。自分が通う学校の事、友達の事、雪霧の生きてきた時代の事、山に住んでいた他の妖怪について。聞いたことの無い妖怪について話され、困惑していても丁寧に説明してくれた。
次に雪霧から現在の同い年の女性についての質問を投げかけられるが、異性との恋愛をしたことが無かったため、大した返答も出来なかった。それに関して、彼女は『すまない』と頭を下げられた。悪気がないのだろうが、それが一番傷ついてしまう。
そして、十数分経ち、先程のウェイトレスがオムライスとスパゲティを乗せたトレイを持ってきて、それぞれ並べていく。
「お待たせいただきました、こちらオムライスとスパゲッティでございます。ご注文の方は以上でよろしかったでしょうか?」
「はい、ありがとうございます」
「では、ごゆっくりどうぞ」
ウェイトレスは笑顔で頭を下げると立ち去っていく。
「これが、おむらいす……」
目の前に置かれたオムライスをまじまじと見つめ、食欲に駆られて喉を鳴らす。
「良い匂いして、この黄色いのは……」
スプーンで表面を突き、不思議がる彼女に霧本は小さく笑いながら、表面の正体を告げる。
「鶏の卵だよ。丸くして包んでるんだ」
「おぉ、鶏の……」
雪霧は慣れない手つきでオムライスの一部を掬い、口に運んでいく。そして、味わうようにゆっくりと口を動かすにつれ、『とろける』という表現が似合っている表情へ変わっていく。
「び、美味……っ。からあげといい、これといい……この時代に解かれて良かったかもしれん」
「そこまで?」
「あぁ。昔は米と僅かの野菜くらいだったからな。このように、肉を食べられることなど殆ど無かった」
当時は年貢という制度があり、不作も関係なく一定の量を納めなければならなかったというのは学校の授業で習った。しかし、所詮は文面だけの知識であるため、そこまで関心が湧かなかったが、彼女のその言葉が年貢という存在がどのようなものなのか、少なからず認識出来た。
「まぁ、私は山の果物と少量の米で事足りたがな。人間というものは、儚いものだ」
人の数倍生きる妖怪にとって、人間というのは脆く、弱い存在という認識をしていたのだろう。雪霧自身、人里に下りていたと言っていたが、自分よりも若い人間が年老いていく光景をどう感じていただろうか。
「緑は少なくなったが、人間にとって住みやすい場所にはなっている。だが、妖怪の数は明らかに少ない。これは私にとって大きな問題と思っていたが、てんちょうの様子を見る限り、そこまで気を張るものではないようだ。それに――」
他の客の注文を取っている、先程のウェイトレスに目を向け、笑みを浮かべる。
「他の者も楽しそうだ」
ウェイトレスに向ける視線とその言葉に、霧本はフォークでスパゲッティの麺を巻く動作を止める。
「え、あの人……妖怪なの?」
「あぁ。正体は分からないが、気配を感じる。おそらく、彼女もこちらに気づいている。気付かなかったと思うが、仕切りに口を動かしていたぞ。『妖怪っすか』とな」
「そ、そうなんだ」
「ところで、妖怪っすかの、『すか』とはなんだ」
「えぇっと、簡単な敬語かな……」
「そうか、人間に溶け込んで生きていくのは決して楽な事ではないのかもしれないが、見習わなければならないようだ。時折、聞いておく必要があるな。平和に過ごしていくには、どうした良いのか」
オムライスの味ににやけさせながら、真面目な話を口にしても、真剣さが全く伝わってこない。しかし、美味しいのであれば、仕方のないことだ。
すると、店の入り口の方から短い悲鳴が聞こえてきた。しかし、それは悲痛というものではなく、感嘆のものに近い。突然の事に霧本は体を震わせるが、雪霧は目を細めさせ、あれほど進んでいた手が止まった。
「俊哉、妖怪にとって生きやすい現代なのだろう。しかし、私や烏丸のように封印されていた異質な妖怪も存在する。現代にまだ馴染めていない妖怪が、一番慣れないものは皆無に近い敵意だ。それに平和という概念を根付かせ、落ち着こうと心掛ける。私はそうしている」
女性の小さくはあるが、複数の黄色い歓声がこちらに近づいてくる。どうやら、歓声を浴びている本人が近くの席に促されているのだろう。
「それでも、その心掛けを邪魔する輩が今でも存在する」
オムライスが半分残った皿の上に、雪霧はスプーンを置き、腕を組む。
「お前だ、うつけ」
彼女の鋭い視線が霧本の後方へと向けられる。霧本は彼女の視線を追い、後ろを振り返ると、先日神社で会った男性が、雪霧に向けて笑みを浮かべていた。
「あれ、あの時の」
霧本がそう声を上げると、男性はこちらをみるなり少し驚いた表情を浮かべる。
「おぉ、あんときの少年じゃねぇか。なんだ、デートか?」
「いや、そんなわけじゃ――」
雪霧のような美女とデートが出来ればどれほど幸せの事なのか、想像も出来ない。今回の同行はあくまで買い物が目的だ。どこかに遊びに行くのではない。
「俊哉に話しかけるな、穢れる」
霧本の言葉を被せるように、鋭く、敵意のある言葉を男性に放つ。男性は数回瞬かせた後、わざとらしく肩を竦ませ、笑みを深める。
「そう怒るなって雪霧さん。何も喧嘩しにきたわけじゃ――」
「あんたはまたナンパか、くそぼけっ」
男性の後ろから暴言が聞こえてきたと同時に、男性の体が大きく反り返った。どうやら、彼と同行していた女性が彼に対して蹴りを放ったのだろう。
「今日で何回目よ……こっちの身にもなりなさいよっ」
「……え」
遅れて気付いたが、その女性の声はとても聴き慣れたもので、中学以来優しい言葉を向けられる事が無くなった、あの声だった。
霧本は男性に蹴りを放った女性の名を、呆然と呟く」
「さや姉さん?」
赤崎は、こちらの存在に気付くなり、あからさまに眉を顰めさせる。
「トシ……っ」
珍しい物を見た子供の様な反応をする雪霧に、霧本は思わず目を逸らした。
霧本と雪霧が訪れたのは家から少し離れた場所に位置する大型デパートだ。休日ということもあって、多くの人が各店に訪れ、目当てである商品を次々とレジかごに放り込んでいく光景があちらこちらで見受けられる。
「雪霧さん、僕達が行く場所は上の階だよ」
霧本達がここに訪れた理由は母からのおつかいだ。母は他に用事があるということで、買ってくる物を記したメモを一方的に渡してきては、『雪霧ちゃんの案内ついでにお願い』という完全な押し付けを申しつけられた。
別に彼女と何処かへ出かけるのは苦ではないが、折角の休日を家で過ごしたいという気持ちは、無くはない。家で彼女から当時の話や他の妖怪について聞くのも有意義な過ごし方だと思う。
「あ、あぁすまない。しかし、本当に大きいな……市場みたいだ」
確かに一階フロアは主に業務スーパーとなっており、野菜や肉類などが何種類も羅列されている。彼女から見れば大規模な市場だというのは強ち間違っていないだろう。
「まぁ近いと思うけど、ここにはまた後で来るからさ。先に上に行こう」
「あぁ。……なんだこれは……っ!?」
雪霧が霧本の向かう先を見やって驚愕の声を洩らす。あまりの驚愕ぶりと美貌も相まって、周囲の視線を必然的に集めてしまい、霧本にとって気恥ずかしい場と化してしまう。
雪霧が驚愕したものは、エスカレーター。自動で上の階へと上昇していく機械は、彼女にとって到底信じられないものだった。呆然と開かれた小さな口はわなわなと震え、恐怖心すら抱いている様子だった。
「勝手に動いている……何なのだ、この奇怪な物は……」
同じ『きかい』でも、全く意味の異なる言葉だ。
「え、エスカレーターっていうんだよ。歩かないで上に上がれる便利なものなんだ」
「えすかれたぁ、だと……このような物を作る人間、恐るべし……」
一つ一つの反応が逆に霧本を驚かせる。数百年封印され、時代の移り変わりを見届けられていないのだから、仕方のないことだ。浦島太郎もこんな様子だったのだろうか。
「ほら、乗って雪霧さん」
霧本は先にエスカレーターに乗り、雪霧を振り返る。しかし、彼女は乗るタイミングが掴めないのか、中々乗ろうとしない。そんな雪霧を不思議そうに見る人が次々とエスカレーターに乗っていき、複数で来た人は『なんだろあの人』等の笑いを含めた会話をしていた。
しまった、一人で乗るのはさすがに無理があったか。
逆走するのは他の人の迷惑となるので、一度昇り切ってから下りのエスカレーターに乗り込む。再び一階に下りると、次々と昇っていく人の様子を窺う雪霧の肩を叩き、小さく頭を下げる。
「ごめん、気が利かなくて……」
「待ってくれと言わなかった私も悪いんだ。気にしないでくれ」
苦笑する雪霧だったが、乗れない事が無念だったのか、目を細めてエスカレーターの方を見つめる。
「階段あるからそっち行く?」
「いや、えすかれたぁに乗る。このまま引き下がるのは癪だ。だが――」
雪霧は恥ずかしそうにこちらに手を差し伸べ、口を歪ませる。
「一緒に乗ってくれ」
「……うん、もちろん」
一瞬、返答するのが遅れてしまった。見かけに寄らず負けず嫌いなのだと、一緒に過ごし初めて一週間経ってようやく気付いた。冷静を装ってみたものの初めての事に少なからずの気おくれがあったのが、彼女の表情から理解出来る。
可愛いな。
決して、この言葉を口には出来ない。しようものなら、あまりの恥ずかしさに顔面から自然発火を起こしてしまうだろう。
霧本は雪霧の雪女特有のひんやりとした細く小さな手を握り、エスカレーターの一段に一歩踏み出す。それに倣って、彼女も跳ぶ形で霧本と同じ段に乗る。無事にエスカレーターに乗る事が出来た自身の足元を見降ろし、安堵の息を洩らした。
「の、乗れた」
「おめでとう。手、離すね」
「待て、降りる時も頼む」
握る力を緩めようとしたところを、彼女が握り締める事でそれも叶わなかった。一瞬だけなら特に恥ずかしい事はなかったのだが、降りるまでの一〇秒程度が人生の中で一番緊張するものへと変貌を遂げる事となった。
エスカレーターが頂上に差し掛かり、彼女の握り締める力が強くなる。
「いち、にのさんでいくよ。いち、にの――」
「さんっ」
最後の三を雪霧が言い、同時にエスカレーターから跳んだ。何とか降りる事が出来た雪霧は、二度目の安堵の息を吐き、こちらに視線を向けてくる。
「ありがとう、助かった」
別に礼を言われるような事はしていないのだが、感謝されるのは気持ちのいいものだ。素直に受け取っておいた方がいいだろう。
「どういたしまして。大丈夫?」
「あぁ。少し、心の臓が早くなっているくらいだ」
自分の胸に手を当て、落ち着かせるように何度も上下に擦る動作を行う。着物で彼女の胸の大きさは正確には判断出来ず、少なくとも大きい部類には入らない。逆に大きいと目のやり場に困ってまとも会話出来ないかもしれない。
思春期とはそういうものだ。
霧本は自分の太ももを抓り、頭を大きく振るう。そして、母から渡されたメモを財布から取り出し、どのような物を買ってくるのか確認する。
「えっと……コップ、お茶碗、お箸――雪霧さんのやつか」
「金は後日ちゃんと返――」
「そういうのはいらないからね。雪霧さんはもう僕らの家族なんだから、その点は心配しなくていいよ。初めてならなおさら」
「しかし……」
申し訳なさそうに眉を顰める雪霧が、何か続けようとするも、その薄い唇を閉じる。
「今日はお金の事は気にしないで。楽しく買い物をしよう」
「あ、あぁそうだな。良い所へ連れて行ってくれ」
「努力します、行こう」
その後、百均へと赴き、雪霧の食器を必要以上に購入していく。理由としては、猫や犬などのキャラクターがプリントされたものが雪霧の目に次々と止まっていったからだ。これも可愛い、あれも可愛いと困惑してしまう始末だったため、必要分+αで買ってあげた。母からは必要最低限の金銭しか渡されていないため、プラス分は自費となる。
(まぁ、嬉しい顔してるならいっか)
彼女の笑顔は金銭ではどうにか出来るようなものではない価値があるものだ。
購入した食器が入った袋を手に、霧本達が次に訪れたのは一件のレストランだ。そこは和食、洋食両方の料理が提供されており、値段も手頃で客からの評判もそこそこ良い。以前、母と来た時に食べたが、美味しかったため、是非とも雪霧にも食べてもらいたいと思って来たのだ。
「どれも美味しそうだな」
雪霧は店員から渡されたメニューを開いて、載っている料理をまじまじと見つめていた。
「うん、ここ美味しいから連れてきたんだ。好きなの選んで」
「あぁ。どれにしようか……。あ、これは何だ? 読めない」
「ん、あぁオムライスだよ」
カタカナに触れる機会が少なかった故に、オムライスを読むことが出来なかったようだ。
彼女は『おむらいす、おむらいすか』、と認識するために念仏のように何度も呟く。
「では、私はこれにしよう」
「うん。じゃあ、僕はスパゲッティにしよっかな」
霧本はテーブルに置いている呼鈴のスイッチを押す。スイッチから軽い音が鳴り、それに驚いたのか、雪霧が目を僅かに見開かせては体を震えさせた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
呼鈴を鳴らしてから一〇秒経つかどうかのタイミングで可愛らしいデザインが施されたウェイトレスが小走りで駆け寄ってきた。
「おぉ、これで呼べるとは便利だな」
興味深そうに呼鈴をまじまじと見つめる雪霧に対して、ウェイトレスは苦笑いする。
霧本は彼女につられて苦笑いすると、気を取り直してメニューを指差す。
「えっと、スパゲッティとオムライスお願いします」
「あ、はい。ご一緒にドリンクバーでも」
「んー、今回はいいです。ありがとうございます」
「いえ、ではご注文を繰り返させていただきます」
ウェイトレスが注文を繰り返した後、『しばらくお待ちくださいませ』と言い残して厨房の方へと去っていく。そんな彼女の後姿を見送っていた雪霧が、こちらに視線を戻すと、小首を傾げさせる。
「どりんくばぁとは何だ?」
「いくらか払えばジュースが一杯飲めるやつだよ。雪霧さん、飲みたかった?」
「あの色の付いた飲み物か。美味しいのだが、あの口の中ではじけるものは無理だ」
はじけるものいうのは、炭酸飲料の事だ。先日、冷蔵庫にあった炭酸飲料を勧め、飲んでくれたのは良いものの、彼女の綺麗な顔が凄まじく歪んでしまい、衝撃を受けた。
「一応、炭酸じゃない物もあるから気が向いたら言ってね」
「あぁ、ありがとう」
それからは注文した料理が運んで来てくれるまで他愛のない雑談をした。自分が通う学校の事、友達の事、雪霧の生きてきた時代の事、山に住んでいた他の妖怪について。聞いたことの無い妖怪について話され、困惑していても丁寧に説明してくれた。
次に雪霧から現在の同い年の女性についての質問を投げかけられるが、異性との恋愛をしたことが無かったため、大した返答も出来なかった。それに関して、彼女は『すまない』と頭を下げられた。悪気がないのだろうが、それが一番傷ついてしまう。
そして、十数分経ち、先程のウェイトレスがオムライスとスパゲティを乗せたトレイを持ってきて、それぞれ並べていく。
「お待たせいただきました、こちらオムライスとスパゲッティでございます。ご注文の方は以上でよろしかったでしょうか?」
「はい、ありがとうございます」
「では、ごゆっくりどうぞ」
ウェイトレスは笑顔で頭を下げると立ち去っていく。
「これが、おむらいす……」
目の前に置かれたオムライスをまじまじと見つめ、食欲に駆られて喉を鳴らす。
「良い匂いして、この黄色いのは……」
スプーンで表面を突き、不思議がる彼女に霧本は小さく笑いながら、表面の正体を告げる。
「鶏の卵だよ。丸くして包んでるんだ」
「おぉ、鶏の……」
雪霧は慣れない手つきでオムライスの一部を掬い、口に運んでいく。そして、味わうようにゆっくりと口を動かすにつれ、『とろける』という表現が似合っている表情へ変わっていく。
「び、美味……っ。からあげといい、これといい……この時代に解かれて良かったかもしれん」
「そこまで?」
「あぁ。昔は米と僅かの野菜くらいだったからな。このように、肉を食べられることなど殆ど無かった」
当時は年貢という制度があり、不作も関係なく一定の量を納めなければならなかったというのは学校の授業で習った。しかし、所詮は文面だけの知識であるため、そこまで関心が湧かなかったが、彼女のその言葉が年貢という存在がどのようなものなのか、少なからず認識出来た。
「まぁ、私は山の果物と少量の米で事足りたがな。人間というものは、儚いものだ」
人の数倍生きる妖怪にとって、人間というのは脆く、弱い存在という認識をしていたのだろう。雪霧自身、人里に下りていたと言っていたが、自分よりも若い人間が年老いていく光景をどう感じていただろうか。
「緑は少なくなったが、人間にとって住みやすい場所にはなっている。だが、妖怪の数は明らかに少ない。これは私にとって大きな問題と思っていたが、てんちょうの様子を見る限り、そこまで気を張るものではないようだ。それに――」
他の客の注文を取っている、先程のウェイトレスに目を向け、笑みを浮かべる。
「他の者も楽しそうだ」
ウェイトレスに向ける視線とその言葉に、霧本はフォークでスパゲッティの麺を巻く動作を止める。
「え、あの人……妖怪なの?」
「あぁ。正体は分からないが、気配を感じる。おそらく、彼女もこちらに気づいている。気付かなかったと思うが、仕切りに口を動かしていたぞ。『妖怪っすか』とな」
「そ、そうなんだ」
「ところで、妖怪っすかの、『すか』とはなんだ」
「えぇっと、簡単な敬語かな……」
「そうか、人間に溶け込んで生きていくのは決して楽な事ではないのかもしれないが、見習わなければならないようだ。時折、聞いておく必要があるな。平和に過ごしていくには、どうした良いのか」
オムライスの味ににやけさせながら、真面目な話を口にしても、真剣さが全く伝わってこない。しかし、美味しいのであれば、仕方のないことだ。
すると、店の入り口の方から短い悲鳴が聞こえてきた。しかし、それは悲痛というものではなく、感嘆のものに近い。突然の事に霧本は体を震わせるが、雪霧は目を細めさせ、あれほど進んでいた手が止まった。
「俊哉、妖怪にとって生きやすい現代なのだろう。しかし、私や烏丸のように封印されていた異質な妖怪も存在する。現代にまだ馴染めていない妖怪が、一番慣れないものは皆無に近い敵意だ。それに平和という概念を根付かせ、落ち着こうと心掛ける。私はそうしている」
女性の小さくはあるが、複数の黄色い歓声がこちらに近づいてくる。どうやら、歓声を浴びている本人が近くの席に促されているのだろう。
「それでも、その心掛けを邪魔する輩が今でも存在する」
オムライスが半分残った皿の上に、雪霧はスプーンを置き、腕を組む。
「お前だ、うつけ」
彼女の鋭い視線が霧本の後方へと向けられる。霧本は彼女の視線を追い、後ろを振り返ると、先日神社で会った男性が、雪霧に向けて笑みを浮かべていた。
「あれ、あの時の」
霧本がそう声を上げると、男性はこちらをみるなり少し驚いた表情を浮かべる。
「おぉ、あんときの少年じゃねぇか。なんだ、デートか?」
「いや、そんなわけじゃ――」
雪霧のような美女とデートが出来ればどれほど幸せの事なのか、想像も出来ない。今回の同行はあくまで買い物が目的だ。どこかに遊びに行くのではない。
「俊哉に話しかけるな、穢れる」
霧本の言葉を被せるように、鋭く、敵意のある言葉を男性に放つ。男性は数回瞬かせた後、わざとらしく肩を竦ませ、笑みを深める。
「そう怒るなって雪霧さん。何も喧嘩しにきたわけじゃ――」
「あんたはまたナンパか、くそぼけっ」
男性の後ろから暴言が聞こえてきたと同時に、男性の体が大きく反り返った。どうやら、彼と同行していた女性が彼に対して蹴りを放ったのだろう。
「今日で何回目よ……こっちの身にもなりなさいよっ」
「……え」
遅れて気付いたが、その女性の声はとても聴き慣れたもので、中学以来優しい言葉を向けられる事が無くなった、あの声だった。
霧本は男性に蹴りを放った女性の名を、呆然と呟く」
「さや姉さん?」
赤崎は、こちらの存在に気付くなり、あからさまに眉を顰めさせる。
「トシ……っ」
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